宇治(木幡)
京阪電車に乗って、宇治駅から三室戸、黄檗駅と北上。
黄檗駅から北の木幡まで歩いて、木幡から帰るつもりだった。木幡は菟道稚郎子の母が住んでいたところで、せっかく遠くまで来たからには行ってみたかった。
応神天皇が近江に行く途中、木幡で見初め、妻にしたそうだ。ワニ家(一説に物部家)の娘で、この人が産んだのが菟道稚郎子と八田皇女。
八田皇女は、仁徳天皇のあの嫉妬深い皇后(葛城ソツヒコの娘、葛城磐之姫)が山背で亡くなった後、天皇が新たに皇后とした女性。仁徳天皇も応神天皇の子だから、異母兄妹なんだけど。
黄檗駅を降りると、西へ向かった。南北に走る車道に出て、その向こうは陸上自衛隊の敷地(宇治駐屯所)で、高い塀が続いていた。
ここを南に行くと、人気のパン屋、たま木亭らしかった。少々迷ったのだけれど、たま木亭のお父さん的なモグモグベーカリー(旧ベーカリータマキ)で食パンをゲットしていたし、駿河屋の水無月も提げていたし、今回は見送ることに。
木幡を目指して北へ。ここは黄檗宗総本山の寺があることから、駅名も黄檗というらしかった。駅を東に行ってすぐのところにある萬福寺がそうだったみたい。
徳川義綱の時代、明の高名な隠元って高僧を日本に呼んだのだって。数年して隠元は国に帰る予定だったけれど、幕府に請われて宇治に寺をひらき、日本に留まり、日本で亡くなったらしい。その寺が黄檗山萬福寺。後に黄檗宗となったのだって。
拝観は有料。犬NGだろうけれど、知っていたらちらとでも見に行ったのだけれどな。
北上していくと踏切(京阪宇治線)を渡って、最初の四辻で左折。245号線を西に向かって行った。
そちらに許波多神社があるようで、許波多神社は木幡に関係あるに違いなかった。許波多神社は木幡に2つあって、まずはそのうちの1つへ。
右手に西導寺。245号線は一見、味気のない車道だった。ほぼまっすぐに西に向かっていた。けれど、都会の面白くない車道とは、違っているんだなあ。
車通りは少なくて、家々が建ち並んでいた。そしてちょっとしたところに、素敵な古さを垣間見せていた。古い寺、道の向こうの素敵な風景(ただの空き地なんだけど)など。左手の素気ない集合住宅には「寺界道遺跡」とあった。
ここ野添周辺で、縄文時代から奈良時代にかけての集落の遺跡が見つかっているそうだ。もう少し西に行くと、宇治郡の郡衙跡推定地だって。
この頃、わたしはまだ京都は比較的新しいところだというイメージをもっていた。「平安京は秦氏が開拓したところ」という文言を聞きすぎていたし、京都=平安京と思っていたし。
けれど、やっぱり京都も縄文時代から人がいて、弥生時代には集落があって、古墳時代には豪族がいた、そんな古いところだったんだな。
古事記に出てくるような有力者が住んでいたところって、これまで歩いた中では、そんなところばっかりだ。弥生時代には稲作を行い、邑の長も生まれ、やがて豪族となって古墳を築いたのだろうな。それで記紀にも登場するんだろうな。
このあたりはちょっとだけ丘になっているようだった。
左手になにか素敵な空間が見えて、ゆるい下り道を進んでいくと、茶畑があり、住宅があり、子どもたちの遊ぶ広場があった。その向こうに金網フェンスと木々。自衛隊の敷地かな?
西には宇治川が流れていて、このあたりはかつて巨椋池のほとりだったあたりなのかもしれない。そんな空気感だった。
もう少し西に行くと右手に神社が現れた。小さめの神社で、元は柳山の黄檗公園あたりにあったのを移してきたらしい。黄檗公園は京阪の黄檗駅の東、萬福寺の南あたりのようだった。明治時代、陸軍の施設がそこに建設されることになり、ここに移転したのだって。
式内社で、伝わることには645年、孝徳天皇の勅願で建てられたそうだ。蘇我倉山田石川麻呂が提案して、中臣鎌足が任に当たったんだとか。
蘇我倉山田石川麻呂は蘇我入鹿の従兄弟(どちらも馬子の孫)だけれど、入鹿を倒すクーデター(645年)の実行者の一人となった人。後には謀反の疑いをかけられて自害。
ここには後には大海人皇子(後の天武天皇)も戦勝祈願(壬申の乱のだろうな)にやって来たそうだ。この近くにあったらしき郡衙にいた人が大海人皇子側についていたのかも。
祭神はアメノオシホミミ。皇室の祖ということでアメノオシホミミ(アマテラスの息子で、ニニギのお父さん)が祀られたのだって。
平安京より古くから、京都は皇室に関係の深いところだったんだな。
仁徳天皇の奥さん(葛城ソツヒコの娘)が、天皇の浮気にうんざりして移り住んだのが山背だったし、淀川や宇治川には仁徳天皇が・・・って話が残っているし、仁徳天皇の弟(ウジノワキイラツコ)が住んでいたのも宇治。
思えば、聖徳太子の息子は名を山背大兄王というのだった。聖徳太子の何人かいた妻の一人が、蘇我馬子と物部氏の娘(守屋の妹?)との間の子で、その人が産んだ息子。奈良時代に橘諸兄が住んだのも山背の井手だった。
神社の東は小学校で、この小学校の東側の道を北上していった。右手に公園があり、ここは二子塚古墳公園。古墳が公園になっているらしかった。
すぐの階段を上ると池があって、その向こうに見えるのが古墳らしい。
住宅に囲まれながらも、狭い周遊部を歩けるようになっていた。けれど、犬NG!と書かれてた。退散し、元の道を北上。
二子塚古墳は6世紀初め頃の前方後円墳で、宇治で最大のものと思われるのだって(112m)。それまでも宇治川沿いなどに古墳はつくられていた(宇治古墳群)。けれど大型のものとしては二子塚古墳くらいで、同時期に造られた今城塚古墳ととっても似ていて、なんらかの関係があると考えられるそうだ。
今城塚古墳は真の継体天皇陵と言われている古墳。けれど継体天皇陵には他の古墳が比定されていて、今城塚古墳は天皇陵ではないことになっているから、発掘し放題。天皇陵は明治の初めとかに比定したから、半分以上がどうも間違っているようなのだけれど、もう訂正とかはしないのだ。
今城塚古墳には何度か行って、度肝をぬかれた。その発掘された品々が物語る、古代日本のすごさ、海を渡って世界をまたにかける人々に。
そんな継体天皇(聖徳太子のひいおじいちゃん)と関係があったかもしれない人が、ここにいたんだな。
近くに祀られた許波多神社の祭神はアメノオシホミミ。
けれど皇室の祖ということでアメノオシホミミが祀られたって、なんだか変だな、と思った。皇室の祖というなら、たいていはアマテラスを祀ったりしているけれど、アメノオシホミミなんだな。
今までアメノオシホミミが祀られていた神社ってそんなになかったと思う。和泉の池田あたりにかつてあった穂椋神社や、伊丹(宝塚との境)の天王寺川沿いの天日神社(中山寺の南で、近くには安倉)。
アメノオシホミミはアメノホアカリの父でもあるのだって。アメノホアカリって船の民、船で海を渡っていた一族ってイメージだから、アメノオシホミミが船の民との間にもうけたのがアメノホアカリだったのかも??
今城塚古墳のある摂津国三島郡に祀られる式内社(新屋坐天照御魂神社)の祭神がアメノホアカリだった。
そしてこのあたりにはかつて巨椋池があった。「穂椋」「安倉」「巨椋」、なんだか似ている・・・。
カミムスビ~ツヌコリ(和泉の波太神社に祀られている)-イサフタマ-アメノトコタチ-アメノセオノミコト-天日鷲-倭文神
という系図があった。
アメノセオノミコトの子孫に巨椋連がいて、倭文神の子孫に県犬養氏がいた。
わたしは「ハタ」はツヌコリ一族に関わる名だと思っている。宇治はかつて「許の国」と呼ばれていたという話もあった。ただの連想ゲーム的な発想に過ぎないけれど、許波多って、許のハタで許波多、そこから木幡になったのかも・・・??
巨椋連は巨椋池あたりを、県犬養氏の出の橘諸兄は木津川あたりを本拠地にしているし、一帯はツヌコリの子孫たちのいたところで、そこにアメノホアカリの子孫も関わっていたのかも・・・。
北上してつきあたり、右折。
京阪の踏切を渡り、またつきあたって、左折。京阪電車(宇治線)とJR(奈良線)の間を北上。住宅密集地で、道は狭いけれど、車や人がいっぱいだった。
そのうちちょっと古い感じの四辻にいた。大正とかの時代の都会の四つ角のようで、けれど通る人や車は令和という不思議な空間。
左には京阪の木幡駅、右にはJRの木幡駅、前方には願行寺。
中世、禅宗には9つの流派があって、そのうちの1つ、鎮西派、その更に分かれた流派に木幡派があったのだって。木幡の尊勝寺って寺にはじまったらしくて木幡派。その尊勝寺の後身が願行寺と言われているそうだ。すっかり市街地になり、四角く切り取られて、行儀よく町にとけこんでいた。
東への上り道を進んでいった。こちらにもうひとつの許波多神社がある。
JRの踏切を渡らずに手前で北上すると、遊歩道のような道に入り、ここを進むと左手に許波多神社。
駅近なのに人はあまりいなかった。JRの駅の東側が開けているようで、こちらは静かな住宅地なのかな。かつては自然豊かな素敵な広い神社だったのだろうな、その一部を今も残しているような神社だった。
もう1つの許波多神社(五ヶ庄)と同じく式内社許波多神社を名乗っている。
戦国時代の争乱で、なにもかも焼失し、いろんなことが分からなくなっているみたい。五ヶ庄の許波多神社は、645年に孝徳天皇に蘇我倉山田石川麻呂が奏上して中臣鎌足が任に当たり創建・・・という話だった。ここ(木幡)の許波多神社では、孝徳天皇ではなく、その前の皇極天皇になっていて、蘇我倉山田石川麻呂はでてこない。
中臣鎌足が関わっているというのはどちらも共通していて、後に天武天皇が壬申の乱の前にやって来ているという話があるのも同じ。祭神はどちらもアメノオシホミミ。
知らずに通り過ぎたけれど、JR木幡駅の南東には宇治陵があるらしかった。山をまたいで点在する古墳群で、古墳時代(5~6世紀)の墓と平安時代(9~12世紀)の墓からなるそうだ。1号墳から37号墳まで。
平安時代のものは藤原氏に関わるもので、皇后や皇子のものもあるらしい。菟道稚郎子墓では「天皇の墓ではないので『陵』とはつかない」ってことだったけれど、ここは「陵」をつけてしまうのね。
宇治は平安時代、貴族の別荘地になっていたという話だったから、宇治に藤原氏の墓が多々あってもおかしくはない。けれどもっと以前から藤原氏と宇治は関係があったのかもしれない。中臣鎌足(藤原氏の祖)がここに関係しているのなら。
神社からは西の鳥居から出ていって、西に住宅街を行けば、すぐ駅(京阪)だった。電車に乗って、おうちに帰った。




