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宇治

平等院の入口のへんまで戻って左折。

雰囲気のある路地道を西に向かうと車道(あがた通り)に出た。ここはバス通りのよう。けれど狭い。

あがた通りを北上すると、すぐに橋姫神社。一般のお宅のようなところに鎮座していた。元は宇治橋を守る神様で、橋の管理をするお寺の元で祀られていたらしい。

そして宇治橋は、伝承によるとつくられたのは646年。行基やその師の道昭よりも少し前のお坊さんが最初にかけたとされているのだって。お坊さんが橋を作り、寺がそれを管理するって体系が、行基以前からあったんだな。お坊さんは道登といい、詳細は不明。

もう少し北上して信号に。ここを右に行くと、さっきの平等院への参道、左折して狭い車道(宇治橋通り)を行ったところにあるパン屋さんをとりあえず目指した。

スーパー(アプロ)があって、もう少し行くと左手にモグモグベーカリー。ここでパンをゲット。荷物になるけれど、パン・ド・ミー1斤もお土産にゲット。

それから、あがた通りに戻るべく小径を進んだ。ちょっとした道が素敵だった。路地があって、主張していないけれどなんだかほっこりする古めの家々が並んでいて、雰囲気のある一角が、普通にどこにでもある。なるほど、京都って素敵なところだな。


あがた通りに戻って南下。つきあたりの信号まで行くと、縣神社だった。

区画整理された感じの、あまり古さを感じさせない神社だった。詳細は不詳ながら、あがた制度があった時代からの神社と思われるそうだ。国造くにのみやつことかより前の時代。

祭神はコノハナサクヤヒメ。

後にここに平等院を建立した藤原頼道が鎮守としたのだって。

藤原頼道はかの有名な藤原道長の息子。「この世をば」と歌った藤原道長も晩年はいまいちで、頼道の頃に藤原氏の栄華も終わったようなのだけれど、まだ十分に財力も権力もあった頃だろうな。

宇治は、平安時代になると貴族たちの別荘地になったのだって。平安時代初期、源融が各地にもっていた別荘の1つがここにあったらしい。時代が移って平安時代中頃には藤原道長の手に。それを頼道が寺として、平等院を建立。

源融って、大阪から尼崎あたりまで歩いた時に知った人だ。源氏物語の光源氏のモデルとも言わる人。尼崎の琴浦神社に祀られていて、大阪の太融寺も源融縁の寺ってことだった。父の嵯峨天皇(桓武天皇の子)の勅願で建てられた寺を立派に建て替えたのが源融で、寺の名も太融寺に。

光仁天皇の勅願で建てられた(770年)という三室戸寺も近いけれど、源融はその光仁天皇のひ孫。


縣神社の南側は上り坂になっていた。

源融の頃、ここはどんなところだったのかな。このあたりから北は中書島のほうまで、西にはずうっと巨椋池が広がり、南には山。要所でありながら風光明媚なところだったから、貴族たちはここを別荘地にしたのかな。

左(東)に向かうと、道の左側に緑が塀みたいに続いていて、なにかと思いつつ近づいていった。

修学旅行生らしき行列とすれ違った。バスガイドさんが旗をもっていた。右手にバス停留場があり、大型バスが見えた。2階建ての喫茶店みたいなところから制服姿の女の子たちが駆け足で楽しそうに出てきた。先生らしきおじさんも。

新型肺炎が拡がり始めていたせいか、そんなに人はいなくて、外国の人もほぼ皆無だったから忘れていたけれど、ここは観光地なのだった。

左手の緑の塀は、平等院の御簾みすだった。こちらは平等院の南側で、緑の塀の間に南入口。そこから中には近代的な建物だけが見え、そこに受付があった。南側も、お金を払わない限りは一切姿を見せないつもりみたい。

そのまま進むと信号があって、左手には橋。橋へのほんの短い距離が観光地っぽくなっていて、団体客はバスの時間までここで過ごすのが定番なのかな。食堂や旅館も並んでいた。


橋(喜撰橋)の手前、左手にぼろぼろで味のある小屋みたいな建物が見えて、行ってみた。

宇治川観光遊覧船の料金所で、船の乗り場でもあるみたい。ここだけ時代が違うみたいだった。

喜撰橋は、宇治川の小さな島に渡る橋だった。喜撰橋を渡ると、すぐのところが岸に並行に長細い小さな島で、そこから左手に行くと、さらに橋を渡ってもう1つの小さな島へ。そこから宇治川を橋で渡って対岸へ。

縮尺率がな。大阪の中之島みたいなのを想像していたのだけれど、島は小さくて、一望できるサイズだった。そこを人が散策していた。

喜撰橋を渡ったところには十三重石塔。渡った宇治川の分流は「塔の川」、島は「塔の島」というのだって。

ここにベンチがいくつかあって、座ってモグモグベーカリーのパンをいただいた。早朝まで雨が降っていたので、地べたは少々冷たかった。

国の重要文化財の十三重石塔のそばのベンチで、宇治のパンをいただくって、なかなかだなあ。

鎌倉時代末期、叡尊が宇治橋を改修。その時、橋の安全祈願と、とられる魚の供養に人工島をつくり、十三重石塔をたてたのだって。その後、石塔は川の氾濫で沈んでいたのを、明治時代に見つけ出して再び建てたそうだ。

素敵なところだった。川が遠い対岸にごうごうと流れこんでいるのが見えて(そちらに宇治発電所)、川上を見ると、自然豊かな山々の間を流れてくる大河。

そちらには天ヶ瀬吊橋、天ヶ瀬ダム、槇尾山なんかのウォーキングコースがあるようだった。こんなに素敵なら、歩いてみたかったなあ。また来ようと、思った。


それから、塔の島から隣の橘島につながる橋(橘橋)へ。

橋に近づいていくと鳥舎があり、ウミウが飼われていた。黒い鳥で、水かきのある足が大きかった。せまいところにいっぱいいた。自由に空も川も地も行き来する鳥なのに、こんなところに閉じ込められているのを見るのは不憫で、早々に去った。

平安時代の頃には宇治川で鵜飼いが行われていたそうだ。けれど叡尊が政府に働きかけ、宇治川での殺生が禁止に。鵜飼いも廃止に。けれど大正時代の頃、観光の一環で鵜飼いが再開されたのだって。

茨城の海岸で捕まえられたウミウたちなんだとか・・・。

とてもきれいなところだった。けれどお金を払わないと一切を見せてくれない平等院、観光のために閉じ込められたウミウたち・・・胸が痛む話もあるなあ。

橘島にはトイレやベンチなどがあった。近所に住んでいたら、休みの一日を、ここで読書して過ごすなんて素敵だろうなあ。

観光客らしい人も少しはいたけれど、時間はゆっくり流れていた。一人歩きの人や老夫婦、老グループとかが多かった。

更に橋(朝霧橋)を渡って対岸に。


朝霧橋を渡るとすぐ左手に鳥居があった。その向こうは丘になっていて、参道が続いているらしかった。観光客が、ここは少々多かった。

宇治川沿いにも道があり、右手の天ヶ瀬方面に向かう道が素敵だった。ちょっとだけ歩いて行ってみた。東屋などもあり、雰囲気のある道だった。朝霧通りというみたい。

雰囲気のある道に、朝日焼窯芸美術館(慶長の時代に窯ができたのだって)、龍神総宮跡とある門(新興宗教の龍神総宮社があったところ?)、宇治発電所。

発電所は雰囲気があって、ここが発電所?って感じだった。広そうな敷地は自然であふれているようだった。今は閉じられているけれど、小川沿いに素敵な遊歩道が続いていて、シーズンによっては鮎釣りに開放されるらしかった。

水力発電所なのが犬にでも分かった。琵琶湖の水を利用する水力発電所で、明治の終わりから大正の初めあたりにできたのだって。

泰初庵、恵心院、興聖寺などが山側にあった。もっと山側にあるとみえて、見えるのは門ばかりだったけれど。

興聖寺まで行ってUターン。朝霧橋のところまで戻って、さっきの鳥居をくぐって、参道を進んでいった。

すぐが宇治神社だった。山のふもとにある感じの神社で、祭神は菟道稚郎子うじのわきいらつこ。式内社。

神社の裏手、右手の方から出ていけた。右折すると恵心院だった。左手に行くと神社横の坂道で、この上り道(さわらびの道)を進んでいった。

道が左手にカーブを描いて、左には駐車場、右には神社。

車も入って来られるように近代的な道につくりかえられてはいたけれど、素敵な感じが残っていた。神社は宇治上神社。宇治神社と対になる神社で、祭神は同じく菟道稚郎子。

ここに菟道稚郎子が住んでいた(桐原日桁宮)とされているのだって。犬OKだと聞いていたんだけれど、しっかり「犬NG」と書かれていた。わたしは外で待ち、おかあさんは少し中に。平等院とは違って、門の外からでも多少は姿が見えた。立派なケヤキの木があった。

拝殿は鎌倉時代の初めのもので、本殿は平安時代の終わり頃のものなのだって。日本最古(というか世界最古)の木造建築物と言われるのは法隆寺(607年)だけれど、神社の中ではこの本殿が日本最古のものらしい。

国宝で、平等院と同じく世界文化遺産である「古都京都の文化財」に登録された17ヶ所のうちの1つ。

犬はNGでも、平等院とは違って人は自由に入れるのがいい。そう言えば有料のところってお寺ばかりで、神社っていつもフリーだな。このあたりは日本人観光客が多かった。


続きの道を進んでいった。紅葉の似合いそうな素敵な道だった。ところどころに東屋などもあり、山ごと庭園として街にとりこんでいるような雰囲気が宇治にはあった。

この先にはハイキング姿の人が多く、右手の山にじぐざぐに上りの道があり、大吉山公園とあった。

気になりつつスルーしたのだけれど、この宇治川の右岸すぐの山は大吉山(仏徳山)といい、短い登山道が整備されていて、上ると宇治全体も平等院も見られたみたい。そこから山道を天ケ瀬ダムに行くこともできる。標高は131.5mで、それくらいなら大吉山公園まで往復すればよかったなあ。

続きを進むと、新興住宅地なども現れた。左手に源氏物語ミュージアム。このあたりも少しだけ日本人観光客がいた。

宇治は源氏物語に関係の深いところらしい。わたしは名前しか知らない源氏物語なんだけれど、主人公の光源氏が亡き後も物語は続き、孫の恋物語も描かれているのだって。そこに宇治十帖と呼ばれるパートがあり、源氏物語54帖のうちの10帖を占めているらしい。浮舟もそこで登場する女性。

ミュージアムの庭園も素敵だった。

ここでさわらびの道は終わり、つきあたって左折。坂を下っていった。いきなり住宅密集地だった。広い車道(京都府道7号京都宇治線)に出て、ここを左に行くと、すぐ宇治橋。

7号線の向こうには鳥居が見えていて、行ってみた。

彼方おちかた神社だって。背後は崖下みたいになっていて、そこにとっても小さく切り取られた感じに鎮座していた。けれど式内社らしい。詳細は不明。地名が乙方おつかたなのも、神社にちなむのかな。付近では遺跡(乙方遺跡)も見つかっていて、弥生時代半ば頃の集落跡とからしい。

すぐの宇治駅(京阪)そばの駿河屋で、土産に水無月3色セットと茶団子をゲット。水無月は白と薄茶色のニッキ、緑の宇治茶。帰っていただくと、やっぱり緑が美味しかった。

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