平野(平野郷)
ゆるい上り道を進んでいくと、広めの道に出た。交差点では左も右も下りになっていて、このあたりもちょっとした丘だったのかな。
そのまま北上して行った。流町に入って行って、このあたりも何度か歩いたことがあった。この北が平野郷の環濠集落だったあたり。
平野郷には何度かやって来たけれど、まだ行ったことのない永福寺に行くつもり。
平野は坂上田村麻呂(桓武天皇の時の征夷大将軍で、渡来人のアチノオミの子孫を自称)の息子、坂上広野さんの「広野」からきているといわれていて、広野さんが土地を与えられて住んだところ。
坂上田村麻呂の娘の春子さんもまた、夫だった桓武天皇が亡くなると、兄を頼って平野にやって来て、長宝寺を建ててそこに住み、そこで亡くなったそうだ。
わたしの頭の中で、なぜだか長宝寺が永福寺に置き換わってしまっていて、坂上家の菩提寺だったという永福寺(本当は長宝寺)に行ってみたい、と思った。
春子さんは桓武天皇の子を産んでいて、その一人が葛井親王。この坂上田村麻呂の孫娘は清和天皇に嫁いで、源氏の有名人たちはほぼほぼこの子孫からでているらしい。
南港通りに出て、右手は下り坂になっていた。そちらに平野川が流れている。
北上を続けると地蔵がいて、ここが環濠集落だった平野の南の出入口だったところ。
右手に全興寺。地獄堂とかあって、面白いお寺。けれど今回はスルー。
野中山全興寺というらしいのだけれど、同じく聖徳太子が建てたといわれている野中寺(羽曳野市)とは関係ないのかな・・・?
寺伝によると、聖徳太子が薬師堂を建立したことに始まるそうだ。このあたりは野原だったけれど、薬師堂を中心にして人が住み始め、集落になっていったのだって。
喜連での話を信じるなら、喜連のオオド一族から継体天皇が出ていて、継体天皇のひ孫が聖徳太子だから、ここに聖徳太子が薬師堂を建てていたってそう不思議じゃない。聖徳太子は近くの住吉区にはあびこ観音を創建しているのだし。
聖徳太子(蘇我氏の血を強くひく)は、蘇我氏が物部守屋を倒した後、物部氏の土地だったところにお寺を建てていった感じだから、このあたりも物部氏の勢力地だったのかも。すぐ北東には東大阪や八尾で、物部氏の本拠地だったあたり。
商店街を過ぎ、もう少し先を西に行けば長宝寺だった。けれど勘違いしていて永福寺を目指し、そのまま北上。
けっこうすぐに25号線へ。ずっと前、奈良街道歩きなどで歩いた25号線。その向こうは杭全神社だった。
このあたりは杭全荘と呼ばれ、坂上田村麻呂の息子の広野に荘園として与えられたところ。
その息子が祇園社を創建。それが今の杭全神社の元になったらしい。
坂上家はその後もずっと平野に住み、分家した人々もそれを支え、平野七家と呼ばれて、平野の発展をになってきたそうだ。道頓堀を開削したことで有名な安井道頓もまた平野七家の人だったのだって。
何度か行ったことのある杭全神社はなかなか素敵なところだったけれど、今回はスルー。25号線の1つ手前で左折し、西に向かって行った。
末吉家住宅があった。都会でありながら古さも残している。ただ、築300年らしいのだけれど、改装されているのか、そこまでの古さは分からなかった。末吉家もまた平野七家の1つだそう。
右手に大念仏寺が現れて、左手に永福寺。小さくて近代的なお寺だった。大きなお坊さんの像があったけれど、他には特になにもなく・・・。
坂上家の菩提寺だったけれど、もう名残は何もなくなったのかな・・・なんて思いつつ退出(ただの思い違い)。
バスで帰ることも考えたけれど、結局、歩いて帰ることにした。
中野に続いていたという出入口から、環濠集落だった平野郷を出ていった。そしててくてく歩いて少々疲労困憊。バスで帰ればよかったかも・・・と思った。
適当にじぐざぐ歩いているうち、東住吉税務署の北側の道を歩いていて、そのまま西に向かうと、左手に百済公園があって、百済大橋で今川を渡った。
このあたりはなにか、古い歴史がある雰囲気があった。鷹合や中野あたりは一時期、南百済村だったことがあって、それで公園に百済の名が残っていたりする。平野にはかつて走っていたチン電の百済駅跡もあった。
天智天皇の頃(白村江の戦いの頃)、百済王善光さん(滅亡した百済の最後の王の息子)が難波あたり(細工谷あたり)に住んでいて、他にも多くの百済移民が移住してきた。このあたり一帯に彼らは住み、地名が百済に。失った祖国をここで再生したのね。
後に(聖武天皇の頃)、百済王さん一族は枚方に移っていった(百済王神社あたり)。けれど多くの百済移民たちは残り、そんなこんなで明治時代には中野あたりは南百済村、桑津あたりは北百済村に。
そういうことを根拠にして、大阪は渡来人がつくったようなものだ、なんていっているのも聞く。駒川も高麗川からきていて、西成、東成というのも古代朝鮮語からきていて・・・云々。けれど、わたしはそうは思わない。
大阪あたりにはイクタマの末裔たちが古い古い時代から住んでいた。そこにいろんな氏族がやって来て、交わり合って、多くの有力者たちが共存していたのだと思う。
後に渡来人がやって来て、一部が「百済村」になっていたこともあったけれど、大阪が「渡来人がつくった」ぽっと出のニュータウンというのではなかったと思う。
桑津から中野あたり、今川や駒川の流れるあたりは、縄文時代前期からの遺跡もあって、弥生時代には集落が築かれ、古墳時代には古墳がいっぱいあって・・・というところだもの。
このあたりの、いりくんだ住宅街の中に「中井神社」の文字が見えて、行ってみた。
前にもやって来たことのある神社だった。周囲は住宅だらけ。かつては一帯が神域だったのだろうけれど、どんどん住宅にとりこまれていったのだろうな。
ここに息長川のことが書かれていた。
このあたりに息長川が流れていたと思われるのだって。そんなわけはないという意見もあるみたいだけれど。
「あった」という人たちは、今川(喜連川)がかつての息長川だとか、平野川がそうだとか、西除川がこのあたりで息長川となって平野川に注いでいたのだとかいう説を唱えているみたい。
このあたりを流れていた川が息長川と呼ばれていたのだっても、おかしな話ではないと思う。今回知ったことが本当なら、この近くには息長さんが住んでいた。粉浜(ここから西、海側に行ったところ)と忍坂(息長氏の重要な地の1つ?)、両方にスクナヒコナを祀る生根神社があるのも、納得できる話になってくる。
昔のことは分からな過ぎて、けっこう好き勝手に持論を述べてもいいみたい。わたしも述べてみるならば、こうだ。
イクタマの末裔と、葛城氏(この人たちもイクタマの末裔)の末裔がいて、結びついて名前もつなげて「息(←生)長」に。イクタマと葛城氏、どちらも大阪に古くからいた有力氏族で、息長川が大阪を流れていても全くおかしくないのであーる。他には「長曽根」も「ナガ」と「ソネ」をつなげて「長曽根」になったのであーる。
まだ西に進むと、駒川商店街へ。ここでコロッケをゲット。二度目だった。
このあたりでは住民らしい外国の人も多かった。今もこのあたりは国際的な町なのだろうな。商店街は物価が安いし、かなりにぎわっている。
すぐ西の駒川を渡った。今ではただの細い水路みたいになっている駒川。
駒川は高麗川からきている、とか聞くけれど、もしかすると「桑間川」からきているのかも、と思う。10代崇神天皇がヨサミ近くにおいていたという桑間宮の桑間ね。
前にも歩いた長池公園あたりにたどり着き、まだまだ帰途は続いた。おうちにたどり着いた時にはほとほと疲れ果てていて、爆睡。
この後で知ったことには、住吉大社には、太鼓橋を渡って本宮に至る直前、左右にタケミカヅチを祀る楯御前社と、フツヌシを祀る鉾御前社があり、楯原神社となにか関係があるかもしれないそうだ。
おかあさんが確認しに行ったところ、両脇から本宮を守っているみたいに鎮座していたそうだ。
その日は節分で、厄除ぜんざい授与があったのでいただいてきたらしい。久しぶりに日本人で賑わっていて、むかしの住吉大社みたいだったって。このところ海外からのバスツアー客が急増していたけれど、それが皆無になっていたそう。
新型肺炎のせいかな。




