平野(喜連)
神社からは、南に参道が続いていて、白っぽく舗装されていた。鳥居まで進んで、右折(左に行くとすぐ地下鉄谷町線長原駅)。次は瓜破遺跡のほうに行ってみよう。
地図で見ると、志紀長吉神社のあたりを川が流れていたのが分かる。かつては南から東除川が流れてきていたのだろうな。
今は大和川に合流しているけれど、狭山池~美原~羽曳野~高鷲~島泉~長吉~喜連と流れて平野川へ注いでいたのだろう。流域は、みんな古いところばかり。
狭山池は行基が改修したことで有名だけれど、11代垂仁天皇の息子、イニシキイリヒコが造ったともされている。わたしが勝手に、ツヌコリ一族の長男と天皇家の長男をとりかえっこした、その天皇家の長男かもと思っている人。大昔、有力な氏族同士で長男をとりかえっこしたりしていたのじゃないかな。一時預ける、とかだったのかも。
製鉄も行っていたツヌコリ一族の長男(天湯川タナ)は、天皇家の土地の柏原あたりで製鉄を行い、天皇家の長男は、代わりにツヌコリ一族の領地に池を造ったのかも・・・。
それで言うと、狭山池あたりもツヌコリの国だったってことかな。そして天皇家は、最初は池造りのノウハウで大きくなっていったのかも。灌漑のノウハウをもっていて、それを売りにして、各地の豪族と手を結んでいったのかも・・・。神武天皇の舅が「三島の溝杭」で、「溝杭」ってなんだか灌漑に強そうな名前だ。その舅から灌漑のノウハウを引き継いだのかも。
ツヌコリ一族の祖神を祀る波太神社の西は淡路島、東は葛城山。葛城山から金剛山地を北に行けば、岩湧山、金剛山、大和葛城山、二上山。
葛城氏はイクタマの血をひくけれど、こんなに近いなら、ツヌコリの血もまたひくのだろうな、と思った。
大阪湾岸の両頭(の感じがする)イクタマとツヌコリ、両方の血をつよく継いだのが葛城氏だったのかな? 最強だったのも道理だ。
狭山なんてわたしの感覚ではちょっと遠くて、天皇家の長男が治水工事をそんなところで・・・と不思議に思っていた。けれど、イクタマ、ツヌコリの血を引くのだろう葛城氏(の祖)の勢力地の範囲内だったのだろうこと、葛城山あたりから鳥瞰できたのだろうことを考えると、納得できた。わたしが思っていたより古代の人々は広範囲の土地を手にしていたのだろうな。山から鳥瞰し、どこに池を造るといいかも分かったのだろう。
仁徳天皇の皇后(葛城ソツヒコの娘)は嫉妬深くて、女好きの天皇に愛想をつかし、山背で暮らしたそうだ。葛城氏は、山背の方にまで勢力をもっていたってことかな?
山背も遠く思えて、そんなところで?と不思議に思っていたのだけれど、淀川をさかのぼれば山背。葛城氏が大阪湾岸のドン、イクタマの血をひくなら、山背だって勢力地なのも当然のことだった。
葛城氏は、大阪湾の東の一帯に勢力をもつ大物だったのかな。葛城ソツヒコは海を渡り、その自由奔放なふるまいに神功皇后もお手上げってイメージだった。それもそのはず、ソツヒコこそが大阪湾の支配者で、天皇家が大阪を手に入れられたのも、ソツヒコと姻戚になったからこそだったのかも。
広い車道に出て、阪和貨物線の廃線跡がここにも続いていた。そこを横断すると、左右に塀があり、その向こうは墓地だった。墓地はずうっと続いているようで、この道は、その巨大な瓜破霊園の中を通る公道らしかった。ときどき車も通っていく。霊園の送迎バスも走っていた。
こんなに広い墓地が大阪市に?と驚いた。昭和15年に市立霊園として設立されたそうだ。
江戸時代には千日前などにあったという墓地が、明治時代、都会化する大阪市から撤去されて、当時はど田舎だったあべの村に移転(阿倍野墓地)。後にあべの村は大阪市に編入されて、今や都会だけれど、広い墓地は残っている。
同じように、昭和15年には瓜破や長吉はまだど田舎で、墓地をつくる場所として選ばれたのだろうな。
都市にほど近い田舎が選ばれるものだったみたい。当時はまだ瓜破や長吉は大阪市に編入されていなかった。
それにしても広かった。
前方にお寺みたいな建物などが見えてきて、手前で道が右手にカーブ。このまま道なりに進んでいくと、左手になぜかスポーツ広場。ベンチのある、冬にはちょっと殺風景な公園だった。
ベンチには年齢不詳のフードをかぶった男の人がスマホを見ていた。時折ひとり声を上げて笑っていて、ちょっと怖かった。他には人の姿はなく、墓地に囲われていた。
霊園の表口らしき門の前を通ると、そこに「瓜破遺跡」の碑があった。けれどそれ以外にはただ霊園が広がっているだけ。
瓜破遺跡は弥生時代の遺跡なのだけれど、ほぼほぼ大和川になってしまっているのだそう。霊園の南端の近くに大和川は流れていて、便宜上、ここに碑をたてたのかな。
瓜破遺跡からはいろんなものが多数見つかっているそうだ。その中には貨泉も。
中国で新(王朝)の王の王莽って人がつくらせた貨幣で、紀元後になって間もない頃のものとされている。吉備で多く見つかっていて、他、九州、淡路島、大阪などでも見つかっているそうだ。弥生時代、中国近辺まで航海していた人々がもち帰ったものなのかな。
霊園を抜け、北上して行った。明治6年創業の石材店なんかがあった。仏前料理の仕出しの店や葬儀屋などもあって、道々、ずっと仏光殿や大阪祭典などの案内の文字が並び、独特だった。
道は緩い下りで、瓜破がちょっとした丘だったのが分かった。
瓜破霊園北交差点に出ると、ここは長居公園通。左折して、1つ西側の信号(喜連住宅前交差点)へ。
ここを北上して行った。
道なりに進むと、郵便局(平野喜連郵便局)あたりに出た。地蔵がいて、まっすぐ北に進む道には神社の鳥居が見えた。一本西側の道には歴史の散歩道の舗装がされていて、古い街道の感じが残っていた。喜連の環濠集落だったあたりだろう。駅近とあって新しい家も多かったけれど、古い旧家もけっこう残っていた。
古い古い旧家だけがきれいに並んだ細い路地道(屋敷小路)があって、壮観だった。この西の鷹合でも、こんな道があったな。
北に鳥居が見えていた神社の西側の鳥居が現れた。楯原神社だった。むかしに、やって来たことのある神社。まだ大阪の歴史もほぼなにも知らなかった頃、突然現れた神社のいわれの古さに驚いたような記憶はある。
今になって再来すると、そのいわれが興味深かった。10代崇神天皇の時、タケミカヅチを祀ったそうだ。
経緯はこんな感じらしい。
遠い昔、オオクニヌシは国譲りに際し、自分の鉾(広矛)を「国平の鉾」と改称してタケミカヅチに託した。当時、国を治めていたのはオオクニヌシで、そこにアマテラスがタケミカヅチを派遣して、自分の子孫に国を譲らせた。そのときの話ね。
タケミカヅチは、オオクニヌシの鉾を、自分の剣といっしょに孫のオオドに譲った。その子孫は代々オオドを名乗り、神武天皇の東征の時には、その剣を活用。神武天皇は無事にナガスネヒコを倒して、オオドを国造に任命。
そして10代崇神天皇の時、オオクニヌシの鉾とタケミカヅチの剣は別々に祀るべきと勅命があり、別々に祀るように。
剣は楯之御前神社に祀られ、鉾は鉾之御前神社に祀られた。
14代仲哀天皇(ヤマトタケルの息子)の時には、仲哀天皇は自分の異母兄弟の息長田別王(母がだれなのかは不明)をオオドの娘に婿入りさせたのだとか。そして杙俣長日子が誕生。
その頃、オオクニヌシの魂のこもる国平の鉾は「ヤマトに返した」そう。そして楯之御前神社は楯原神社と改称。
真偽などは不明だそう。
境内には「息長」とある古い碑があった。「息長真若中女媛」とあるそうだ。このあたりに息長氏の末裔を称する北村氏が住んでいたそうで、その関係でかな?
北村氏による「北村某家記」なる古い書物があって、息長氏だった時代から続く歴史が語られているらしい。そこにもタケミカヅチの子孫がここ(オオド国オオド郷)に住んでいて、ヤマトタケルの息子が婿入りしたと記されているのかな。
その婿というのが息長氏(息長田別王)。ここに住んだタケミカヅチの子孫はオオドを名乗っていて、オオドの娘と息長田別王の間にできた子が杙俣長日子。その娘が息長真若中女媛。この姫が応神天皇に嫁ぎ、産んだ子がワカヌケフタマタ。
ワカヌケフタマタは母である息長真若中女媛の異母妹(近江の人?)を妻にした。そして生まれたのが、オオホド(継体天皇の曽祖父)、忍坂大中姫(允恭天皇の皇后)、衣通姫(姉の忍坂大中姫と同じく允恭天皇に嫁ぎ、愛された美しい姫で、和泉に住んでいた)、田井姫と田宮姫(二人が住んでいたというところが枚方近辺にあった)。
平野に息長?と少し驚いた。平野には杭全があるけれど、それも杙俣長日子の杙俣からきているのかもしれないのだって。
息長さんが住吉大社界隈に関係しているという気はしていた。住吉大社を創建したのは息長氏の出の神功皇后だったけれど、それだけではなく。
住吉大社そばに、住吉大社より前からあったとも言われる生根神社がある。神功皇后は住吉大社を創建するにあたり、生根さんでお酒を醸したんだとか。祭神はスクナヒコナ。
近くの玉出にもここから勧請されたという生根神社がある。スクナヒコナを祀る生根神社がもう1つあって、それが忍坂坐生根神社(奈良県桜井市)。忍坂は息長氏の本拠地の1つだったというところ。
「息」も「生」も「いき」とか「お(おき)」とか読むし、元々は同じだったとしたら、息長さんもまた「イクタマ(生玉)」関係の人だったのじゃないかという気もした。
ワカヌケフタマタの娘たちは、河内(忍坂大中姫)、和泉、枚方に。大阪の当時の三大要所の気がする。
西の鳥居を出るとすぐの道を北上して行った。
北口地蔵がいた。喜連も環濠集落だったそうだから、北の出入口にあたるところにいたお地蔵さんなのだろうな。平野、桑津、遠里小野、玉出、八尾、久宝寺、このあたりは環濠集落だらけだな。
この左右が環濠の北辺になっていて、ここには橋がかかり、北の出入り口になっていたそうだ。ここから出入りする道は中高野街道。
喜連には喜連城もあって、北口地蔵がつくられた頃(16世紀)は、管領の細川氏綱(摂津守護)が城主だったのだって。この人が地蔵堂を寄進したと伝わるそうだ。
細川氏綱は三好長慶が活躍した時代の最後の管領だって。
三好長慶は織田信長の前に、天下をとりかけたという人。元は摂津守護の下の摂津守護代だった。代々細川さんの家臣だったみたい。けれど下克上の時代で、三好さん(摂津守護代)は細川さん(摂津守護)よりも大きな力をもつようになっていた。細川さんの管領という役職もあってないようなものになっていて、氏綱さんの死後には完全になくなったらしい。
喜連って、なかなかにすごいところだなあ。




