平野(長吉)
次に向かったのは平野。「近所が面白いシリーズ」みたいになっているな。
1月下旬の頃だった。
住吉大社は古代の港で、遣隋使もここから出港したそうだ。雄略天皇の頃(古墳時代)には、来日した客のために、港から都へ道を新たに通し、今の長居公園通あたりを西に向かっていたと思われるということだった。
今や住宅の密集するコンクリートで覆われた都会で、かつての姿を想像するのは難しかった。けれど前回の散歩で田辺や長居公園あたりを散歩して、やっぱりこのあたりは古代からひらけていた、古い歴史を持つ一帯なんだな、と感じた。
弥生時代の遺跡もあるような、古い歴史を持つ和泉や三島。けれど、大阪湾の住吉大社のある一帯も、負けてはいないのじゃないかという感じがした。
ちょっとまとめてみよう。
山之内(住吉区)・・・ナウマンゾウの足跡の化石が見つかっている。
長原(平野区)・・・ここでもナウマンゾウの足跡の化石が見つかっている。旧石器時代終盤くらいには人が行き来し、縄文時代にも狩猟場であったと思われるそう。
桑津(東住吉区)・・・旧石器時代終わり頃からの遺跡があり、縄文時代には人が住んでいたと思われる。弥生時代には村があり、その後もずっと集落があったよう。
勝山(生野区)・・・縄文時代初期の土器が出土。近江地方と同じものらしい。
森之宮(上町台地北部)・・・縄文時代中期頃から人が住み始める。貝塚や墓地も造られ、各地と交流していたと思われる。
縄文人が住み、香川あたりから農耕する人々(弥生人)が移り住んできたのかな。縄文人と弥生人は共生し、一緒に集落を築くようになっていった。
その中で王的な存在となっていったのが、たぶんイクタマ。
イクタマと手を結んで、いろんな一族がさらに力をつけていったのじゃないかな、と思った。天皇家然り、葛城氏然り(というか葛城氏はイクタマの直系?)、尾張氏、カモ氏なども。
上町台地にある生國魂神社(イクタマさん)は神武天皇(初代天皇)が祀ったことになっている。
大阪湾岸では、イクタマの血を強くひく葛城氏が力をつけていたのかな。
9代天皇は葛城氏の娘を妻の一人にし、子をなして、その子孫はヨサミアビコとして住吉区界隈に住んだ。
10代天皇は大阪(住吉近辺)桑間に宮をおいてヨサミ池をつくった。
14代天皇の妻(神功皇后)は三韓と手を結び、他の皇子を倒して、自分の息子の応神天皇を即位させた。河内に都が、住吉大社あたりに王家の港がおかれた。
15代応神天皇の息子、16代仁徳天皇は葛城氏の娘を皇后に。ヨサミアビコが天皇に、変わった鳥(鷹)を進呈。天皇は百済系渡来人に鷹を飼わせ、鷹狩をするようになった。東住吉区の鷹合は、その関係の地名だという。
15代、16代天皇の頃、海外情勢が不安定で、海外から人がたくさんやって来て帰化している。帰化した人々は大阪を始め、各地の有力者の土地に住んだみたい。
21代雄略天皇の時、有力な豪族たち(葛城氏など)は弱小化させられている。天皇家が十分な兵力をもつようになり、それを行使したのかな。物部氏、大伴氏、大河内氏などを代わって重用。
雄略天皇は港から都への道をつなげた。物部ヨサミ氏という一族もいて、ヨサミ近辺に物部氏も配置したのかな。
29代天皇の頃、ヨサミアビコ一族は百済と交易していて、百済の聖明王から観音像を贈られたのだって。それを祀ったのが住吉区のあびこ観音になった。
皇族とも血縁関係をもったイクタマの血をひく人々が、住吉区近辺を長く本拠地にして、海外と交易も行っていた感じかな?
イクタマの血をひく葛城氏を祀る志紀長吉神社にまずは向かった。
バスで出戸バスターミナルまで行き、ここから出発。
初めての出戸バスターミナル。おばあさんたちが椅子でバスを待ち、道を自転車のおばさんが通っていった。地下鉄谷町線出戸駅すぐのバスターミナルだけれど、ちょっと片田舎の印象だった。
通り(長居公園通)の向こうにはイオンなどが見えていて、都会の様相だった。そのイオンに向かって信号を渡り、イオンの西側の道を南下(今はイオンは閉店して、跡地にはマンションを建設中みたい)。
広い道だけれど通行量はさほどなかった。中央を緑道が走っていて、緑道横には柵があって、その感じから、線路だった跡かな、と思った。
調べてみると、阪和貨物線の廃線跡だった。八尾駅(JR関西本線)と杉本町駅(JR阪和線)をつなぐ貨物線。これまでの散歩でもときどき出会ったことのある廃線跡だった。
この北東、けっこうすぐ(2kmくらい)に八尾駅があり、出戸、瓜破と経由して西の杉本町へ向かっていたみたい。かつては人を乗せる路線にする計画もあって、出戸駅とするために確保していた用地が出戸バスターミナルになったのだって。
道ではおばあさんたちがおしゃべりなどしていて、最近このあたりだけは都会になったけれど、元はのどかな片田舎だったのだろうな、という感じがした。
「長原古墳群」の石碑がたっていた。
長原では地下に古墳が多数みつかっている。石碑の説明当時は100未満だったようだけれど、今では200以上見つかっていて、4世紀終わり頃からの古墳群らしい。
信号まで南下して、ここを右折。そちらに古墳があるらしいので。
しばし行くと左手にこんもりした盛り土があって、これが花塚山古墳だった。長原古墳群ではなく、瓜破古墳群の1つらしい。
このあたり(瓜破)にもいっぱい古墳があったのだけれど、今は瓜破霊園の中に、この花塚山古墳とゴマ堂山古墳、2つだけが残っているのだって。5世紀頃のものらしい。けれどあまり形も残っていなくて、詳細は不明。
せっかく来たわりにはなんでもなかったな、と、信号まで引き返して続きを南下。
交差点には卵の直売所なんかがあった。閉じられていて、今もやっているかどうかは不明だったけれど、少なくとも最近までは売っていた感じだった。
左手に「韓国語の礼拝」と書かれた教会。
長吉長原交差点を過ぎて、人権云々といっぱい書かれた建物を過ぎ、長吉小学校前を右折した。ここからじぐざぐ南下すると、志紀長吉神社。途中には地蔵や、大きな旧家なんかがあった。
このあたりが古くからある集落で、周りはみんな田畑だったのだろうな。
志紀長吉神社は真田幸村が死の前日、道明寺から大阪城に向かう途中で参った神社だ。
前にやって来た時はNHKで「真田丸」が放送されていた頃とあって、それを前面に出していた。真田丸の赤い旗がたくさんはためいていたのじゃなかったかな。
今回は「真田丸」の文字はなく、代わりに前面に出している感じなのは神社カフェ。安全な食材を使った体に優しいランチなどを屋内でいただけるようだった。看板あたりは本当に素敵なカフェみたい。けれどカフェの入り口は、祈祷会場の入り口と変わらない感じ。ちょっと面白そう。境内ではずっと神楽が聞こえていて、これはスピーカーから流されているようだった。
志紀長吉神社は式内社で、昔から長吉と呼ばれていたところなのだろう。今は「ながよし」だけれど、かつての読みは「ながのえ」かな。
祭神は、長江ソツヒコこと葛城ソツヒコ。大きな勢力をもっていたのだろう、仁徳天皇のお舅さん。
志紀長吉神社の「志紀」は、ここが河内国志紀郡だったからかな。志貴県主神社のあるあたりと同じ志紀。
かつて大和川は、柏原で石川と合流したあとは北に流れていて、その石川~大和川の西側の一帯が、長吉から藤井寺の方までみんな志紀郡だった。
となると、長吉長原あたりは国府遺跡のある国府なんかと同じくくりなのかも、と思った。
志貴県主神社近くの、旧石器時代からずっと続く遺跡が見つかっている国府遺跡。旧石器時代のサヌカイト製の石器にはじまり、縄文時代、弥生時代と人が暮らし、古墳時代には古墳がつくられ、飛鳥時代には立派な寺院(衣縫廃寺)も建てられていたあたり。
同じ志紀郡の長原や桑津で、旧石器時代の石器が見つかっているのも当然のことなんだな。
国府には、奈良時代頃には国衙があったと思われ、後に総社になったのが志貴県主神社と考えられている。
近くには、允恭天皇陵と言われる恵我長野北陵がある。古市古墳群の1つね。
古市あたりはかつてエガと呼ばれていて、エガの市も開かれていて、近くを流れるのもエガ川。今の石川だと言われている。
そのエガの中に長野と呼ばれていたところがあって、港だったのが長江(長吉)だったのかもしれない。長江ソツヒコこと葛城ソツヒコ(神功皇后の頃の人)は、そこを港にしていた人だったのかも。
後に雄略天皇(神功皇后の孫の孫)は物部氏に長野の地を与えている(即位13年)。
その前に葛城氏である重臣を焼き殺し、その娘を妻にしている。志貴県主からも権威を奪っている。志貴県主の立派な家を焼こうともして、県主はプレゼントを贈って許されたのだとか。プレゼントというのが白犬だったという話もあるみたい。
志貴県主神社の祭神は、神武天皇の皇后との間の長男。
近くの黒田神社は、カンヤイミミの「隠し廟」ともいわれるというところだった。志貴県主神社の神主がカンヤイミミの末裔である多氏の一族だったらしく、祖であるカンヤイミミを祀ったと思われるそうだ。
最初から多氏が祀っていた、途中で多氏に変わった、どちらのパターンなのかな?
それによって、志貴県主がカンヤイミミの子孫なのか、そうじゃないかも違ってきそう。
多氏の氏神を祀る神社(多神社)があるのが大和の磯城郡。飛鳥川が流れるあたり。シキ(志紀・志貴・磯城)つながりで、いろいろ気になる。
志貴県主から白犬をもらって許したというのも気になった。本当の話だとしたら、犬飼さんが関係しているのかも・・・?




