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山阪神社

山阪神社には、隣の山阪公園から行った。

最初にやって来た時は大きな神社に思えたけれど、あれは表参道から入ったときの、大きく見せるマジックだったのかな。公園から入ると、小さく感じた。街中の神社だものな。

山阪神社は創建などは不詳。平安時代には既にあったということしか分かっていないみたい。祭神はアメノホヒで、土師氏(の同族)が祖神であるアメノホヒを祀ったんだとか。

神功皇后の三韓征伐のときには一族の人が、16人の弓部を率いてお供したそう。そして同族で配下の田辺さんとともに、山阪神社の祭事を行っていたのだって。

あれ? 天日鷲命の子孫の田辺宿禰はどうなった?

田辺宿禰、もしくは田辺史と関係があるのでは、と一部では推測されているだけ・・・なのかな? 神社の説明ではアメノホヒの一族の田辺さんってことになっていた。

山阪神社が鎮座するのは前方後円墳の上とも思われるそう。

古墳群のそばにはよくアメノホヒの子孫(土師氏)が土地をもらっている。上町台地には古墳がいっぱいあったそうだし、古墳をつくるにあたり、古墳造成に携わる土師氏が集められ、住んでいたのかも?

その同族に田辺さんがいたっていうのは、土師氏一族の中で田辺(柏原市)に住んでいた人が田辺と名乗ったからかな? 道明寺(土師氏の氏寺の道明寺があり、そばには「土師ノ里」もある)の、石川をはさんですぐのところが田辺だから、田辺に住んだ土師氏一族だっていただろうし。そこから田辺宿禰と共にここに引っ越してきたとか?

それとも田辺宿禰がここに住むようになり、その古墳を造成するために土師氏が呼ばれ、田辺宿禰からとってここも「田辺」、そこに住む土師氏も「田辺」になったとか?


山阪神社を東の表参道から出ると、右折。長居公園を目指して南下して行った。

南港通を歩道橋で渡り、長居公園直前にあるパン屋でパンをゲットしようと思いきや、臨時休業。そのまま長居公園に入り、道なりに進み続けた。

右手に臨南寺。公園と一体になっているけれど、17世紀、江戸時代の創建だそうだ。そこに昭和初期に公園ができて、最初は臨南寺公園といったそう。戦後には市営の競馬場や競輪場もあったのだって。

その当時からここは長居村。

東に行くと長原や長吉もある。中井神社のある中野もあるし、「ナガ」「ナカ」は古くからのこの一帯の呼び名だったのかも、と思った。

そのまま進んで長居公園西口交差点から出て、西へ。長居商店街あたりでパン屋を見つけて、ここでパンをゲット。長居公園に引き返して休憩。くもりがちで、寒くて、ちょっと小雨にも遭った日だったけれど、休憩中は陽が差して、暖かくてありがたかった。

休憩の後、再び長居公園西口交差点を通って西へ。JR阪和線の高架下を過ぎ、このまま西に進めば神スムヂ神社で、右折して北には多米神社跡。

とりあえず右折。すぐに四つ辻の角、玉垣に囲まれた小さな一角に鳥居と祠があり、木が育っていた。

ずっと前に来たことがあるのを思い出した。ほぼ素通りした気がするここが多米神社跡。

田辺宿禰と同族の多米連が祀ったと思われ、後には「タネカシ」と呼ばれていたのだって。「多米」で「タネカシ」なら、稲の種貸をしていたとかかな。

住吉大社に種貸社があって、一寸法師も住吉大社にお参りして授かった子だという話つながりで、子宝や安産メインの神さまになっている。けれど、元はこの多米神社タネカシが火事で焼けて移転したものらしい。

それ以外何も分からなかったけれど、神スムヂ神社に極めて近いってことは、なにか関係があるように思う。というわけで、すぐそばの神スムヂ神社へ。

公園があって、神スムヂ神社がある。ここも来たことはあり、記憶にあるより立派な神社だった。祭神はカミムスビ、天日鷲、スクナヒコナ・・・かな。

多米神社と同じく、神スムヂ神社は式内社として記録にはあったけれど、もうどこにあるのかも分からなくなっていたみたい。江戸時代、それではいかんと探し出し、当時「三宮」と呼ばれていたこの神社を、元は神スムヂ神社だったということにしたそうだ。名も改めて、祭神は・・・どうなんだろう。

三宮は医薬と酒造りの神さまだったそうだから、スクナヒコナ(医薬と酒造の神様とされている)を祀っていたのかな。神スムヂ神社ってことになって、多米神社が近いから多米連の祖の天日鷲と、その祖神のカミムスビも祀った、って感じかな・・・?


この界隈にはかつてスムヂ神社が3つあり(元は4つだったとも)、それが神スムヂ神社、中臣スムヂ神社、スムヂ曽根神社。

このあたりには港(住吉津)から都に向かうシハツ道が通っていたらしく、海外からやってきた使者をまずは酒で迎える儀式などしていたのが、スムヂ神社だったのじゃないかとされている。

スムヂは須牟地、住道とも書いたのだって。

長居公園の南の長居公園通あたりを、シハツ道は通っていたと思われるのだって(本居宣長の説)。雄略天皇の頃にはあったとされている。雄略天皇(神功皇后の孫の孫)の時、「呉客のための道を作ってシハツ道とつなげ、呉坂と名づけた」そうだ。

既にあったシハツ道は住吉津とはつながっていなかったから、道を増設して津とつないだってことかな。そしてその増設した部分は坂になっていたのかな。後には行基が呉坂院を建てていて、それが「摂津国住吉郡御津」の地だったらしい。

上町台地は今や住宅で埋め尽くされたただの台地だけれど、かつては山あり谷ありだったのだとか(それで細工谷とか桃谷とかの地名がある)。山や古墳を削って、その土で谷を埋め、ほぼ平らな大地にしちゃったそうだ。今とは地形もいろいろ違っていたのだろうな。

海外からの船が瀬戸内を通って住吉津へ。住吉大社の横に入り江になっていたっていう港まで入ってきていたのかな。そして呉人は上陸し、呉坂を通り、スムヂ神社で酒を口にし、シハツ(四極)道を通って、都へ?

雄略天皇の都は泊瀬はつせ朝倉宮。奈良の桜井市と考えられるそうだ(一説には柏原)。遠いー!と思うけど、大阪を抜けちゃえば後は奈良湖をボートで行けば桜井だ。奈良湖の南東あたりかな。


3つのスムヂ神社については、最初に神スムヂ神社があって、訪日客が増えるとかでさばききれなくなって他の2つも置かれた、とかかな?と思ったことがある。

増設に当たっては、有力者だった中臣氏と曽根氏に任せられ、それぞれが中臣スムヂ神社とスムヂ曽根神社を設置したとか? 最初の神スムヂ神社はもしかするとツヌコリ一族に任されていたのかも? 天日鷲の子孫の田辺宿禰かだれかが任され、訪日客を迎えるお酒をつくるための田んぼに多米神社たねかしから稲が渡されていたのかも。国際都市で、外国語にも長けている人の多くいる田辺(柏原)の長だった田辺宿禰が、その任にぴったりだったとかで(妄想)。

和泉には和田さんが2系統いて、楠木正成の親戚筋の和田わださんと、大中臣家(中臣氏)の和田にぎたさんとだそうだ。

和田にぎたさんは平安時代に東住吉区あたりから和泉にやって来たのだって。それ以前、大阪市にも中臣氏がいたってことだな。

何度か通った和泉には中臣系っていう神社がいっぱいだった。大鳥神社やトノキ神社、ミタミ神社など。

元は中臣系の土地ではなかったのに、そこに中臣系がやって来て、中臣系とされていったのだろうなあ、という印象だった。

住吉あたりから移っていった中臣系もいたんだな。中臣氏の祖、大小橋命(13代天皇の頃の生まれ)って、天王寺生まれだったものな。

東住吉区の住道矢田スンジヤタには住道廃寺があったのだって。藤原不比等の創建で、玄昉の開祖らしい。中臣鎌足の息子の藤原不比等が創建したなんて、それだけ中臣氏にとって大事な土地だったのかな。

楠木さんの親戚筋の和田さんは住吉界隈に関係ないようにも思えるけれど、住吉東駅そばの東福寺は楠木正成縁の寺で、ここに正成が参って正行を授かったとか言われていた。そして近く(住吉区遠里小野)の極楽寺は、正成の父が参って正成を授かったというところ。

楠木正成の加勢した南朝が住吉大社と関係があったという、そのもっと前から住吉は和田にぎたさんとも関わりがあったのかな?

それとも住吉あたりは当時、みんなが行くべき都会で、交通の要所で、いろんな人々が行き来していたってことかな。


楠木正成は橘諸兄の子孫を自称していたそうだ。

住道廃寺の開祖という玄昉は、阿刀氏で、橘諸兄などに重用された人らしい。吉備真備と共に権勢をふるい、諸兄が勢力を失うと左遷されたのだとか。

聖武天皇の時代、亡くなった不比等に代わり、息子たち(藤原四兄弟)が政権を握るようになっていたけれど、疫病でみんなばたばたと亡くなってしまった。代わって政治を行ったのが橘諸兄。

母の県犬養美千代は不比等の後妻になっていて、不比等との間には聖武天皇の皇后になった光明皇后を産んでいた。橘諸兄は不比等の義理の息子であり、皇后の異父であったのね。おまけに妻も、不比等の娘。

諸兄が重用した玄昉と吉備真備を排除するために、不比等の孫(四兄弟のうち三男の長男)が起こしたのが藤原広嗣の乱。失敗して広嗣は処刑。

その後、諸兄が辞任して、台頭したのが不比等の孫(四兄弟のうち長男の次男)の藤原仲麻呂。

これに対して反乱を起こしたのが、諸兄の息子の橘奈良麻呂。奈良麻呂は獄死(橘奈良麻呂の乱)。

聖武天皇も光明皇后も亡くなると、二人の娘である上皇が道鏡に夢中になった(噂によると)とかで、道鏡(弓削氏)が台頭。

これを排除しようと今度は藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱が起き、仲麻呂は斬首されたのだって。

すごい世の中だな。

散歩していて橘諸兄や光明子(光明皇后)、道鏡などなどはお馴染みのキャラになってきていて親しみを感じるので、その子孫たちの運命もなんだか胸にくる。


神スムジ神社からは、てくてく適当におうちに帰った。

途中、住吉霊園を通った。右手に霊園、左手は南万領公園で、生根神社旅所とあった。奇妙に静かな一帯だった。神スムジ神社と生根神社との間あたり。

かつては神スムジ神社と生根神社とは一本道で通じていたのだろうな。

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