京街道を御殿山から
枚方市駅から各停で次の駅が、御殿山駅だった。2年ぶりだったけれど、けっこう覚えていた。
ひっそりとした温泉街みたいな感じもする駅の東口に出て左手に、渚商店会がある。
このちょっと情緒のある道を行くと、右手から来る道と合流。この右手の道も素敵。なにか雰囲気があって、右手の高台には広く緑がある。この感じもすごく覚えていた。
あたりには清水さんのお宅が多かった。
高台の緑は神社らしくて、行ってみた。のぼり口が分からなくて、周囲をぐるりと回っていると、鳥居が見えて、参道があった。かなり遠回りしたみたい。御殿山駅から東に向かえばすぐだったのに。
御殿山神社だった。この高台を御殿山というらしく、見晴らしがよかった。
けれど木の伐採中でゆっくりできない雰囲気だった。
そんなに古い神社ではなく、近くの小倉の粟倉神社ってところが八幡を勧請して八幡神社になり、その旅所だったところが江戸時代、西粟倉神社に。その西粟倉神社が後に御殿山に引っ越してきたみたい。
登ってきた山道の下り口あたりが木の伐採中で、しかも素人たち(地元のおじいさんたち風)が作業している感じで危なっかしかったから、別の道で下っていった。こちら側はすっかり新興住宅地になっていた。
鳥居から出ていき、駅まで引き返すのは嫌だなと、途中、御殿山の緑から離れて進んでいってみた。最短距離で京街道(京阪電車の西側の府道13号京都守口線)を目指したつもりだったけれど、全く方向が分からなくなって、渚保育所のところに出た。
なんとなく右折して、坂を上っていった。
このあたりは東が山手になっていた。京街道は淀川の堤だった道で、歩くには淀川の流れる低地に向かえばよかったのだけれど、よく分かっていなくて、とりあえず進んだ。西雲寺があった。江戸時代の創建らしい。
途中で、こっちは違うな、と保育所まで戻ると、保育所の中に「渚院跡」とあるのに気がついた。2年前、やって来た時、御殿山駅近くに「渚院跡」なる史跡があるようで少々探したのだけれど、見つからなかった。ここだったのか。
渚院は平安時代、とある皇族が暮らしていたところらしい。このあたりの「渚元町」とかの地名もその渚院にちなんでいる。
そもそもの始まりは光仁天皇が交野にやって来て、仮宮をおいたことらしい。
光仁天皇は天智天皇の孫で、桓武天皇の父。
壬申の乱で天智天皇の息子(大友皇子)が天武天皇(天智天皇の弟)に敗れてから、天皇は代々、天武天皇の子孫たちの中から選ばれていたのだけれど、思いがけないことに年老いてから天皇をすることになった人。
それまでは少しずつ昇進しながら、ずっと臣下として過ごしていたみたい。称徳天皇に下手に目をつけられないように、酒ばかり飲んで過ごしていたんだって。
称徳天皇は女性(聖武天皇の娘)で、道鏡ってお坊さんをむちゃむちゃ重用し(愛人だったという噂も)、気に食わないことがあると降格させ、変な名前をつけるっていやがらせ(?)をしていたって人。称徳天皇(718年生まれ)が亡くなると、次期天皇にこれぞという人がいなくて、ぱっとしない候補者の中から62歳のこの人(709年生まれ)が選ばれたのだって。
百済系渡来人の家系の妻(父が百済の王の子孫という)がいて、その人(高野新笠)が産んでいたのが後の桓武天皇。父親が天皇になったときには既に30代。
父親が天皇になったといっても、皇太子は別にいたそうだ。天武天皇の孫の孫(称徳天皇の妹、井上内親王)が生んだ男子がいて、その人(他戸親王)が次期天皇になる予定だった。
けれどはめられたか、井上内親王と他戸親王は捕まり、庶民の身に落とされ、幽閉先で同じ日に亡くなったそうだ。
今ならすごいニュースになりそうな事件だな。マイクを向けられて、なんてコメントしただろう。
井上内親王の同母妹が不破内親王(父が聖武天皇、母が県犬養広刀自)。摩湯山古墳そばの淡路神社(岸和田市)で知ったことには、不破内親王とその息子もまた捕まっている。淡路に流され、14年ほど経って和泉に移され、その後の消息は不明。そんなことがいろいろあった時代なんだな。
そんなこんなで、天皇になるはずじゃなかった桓武天皇が即位。
桓武天皇は大和(奈良)から山城に遷都して、最初の10年は長岡が都だったのだって。側近の藤原種継って人の故郷だったらしい。けれど種継さんが暗殺され、桓武天皇の同母弟(早良親王)も捕まった。
また大事件。
そして早良親王は淡路に流される途中、無実を訴えて食を断ち、亡くなったらしい。
その後、凶事が次々と起こり、早良親王の祟りだと噂された。呪われているとさえ言われた長岡京を去り、改めて794年、平安京に遷都。
桓武天皇もたびたび交野に狩りなどにやってきて、渚院を利用したと思われるそうだ。
ここから南に1km少しで百済王神社だった。百済王氏(滅亡した百済の最後の王の息子が日本に帰化し、百済王の姓をもらった)が住んでいたところ。
交野には母の実家があったそうだし、交野や枚方は桓武天皇にも縁のあるところだったのだろうな。
山城の長岡京や平安京は、秦氏が枚方から淀川沿いに開拓を進めていったというところ。
枚方や交野は、古墳時代には物部氏の勢力地だったけれど、物部氏が力を失うと、秦氏や百済王氏の住むところになったのかな。聖徳太子の片腕、秦河勝は枚方に住んでいたというし、百済王氏は奈良時代の終わり頃にか、枚方にやって来た。
そして後には桓武天皇の孫の孫である惟喬親王って人(清和天皇の異母兄。母は紀氏)が渚院を別荘として、当時の書物にもよく渚院が出てくるのかな、それで有名になったみたい。
同じく皇族で20歳くらい年長の在原業平(桓武天皇のひ孫で、プレイボーイとして名をはせた人)がよく供をして、狩りを楽しみ、渚院に泊まっていたらしい。
枚方や交野は渡来人が多く住んでいただけでなく、皇族が狩りを楽しむ場にもなっていて、それで近くに禁野とかの地名がある。南に禁野があって、禁野は皇室専用の狩猟場で、一般人の立ち入りを禁じた野のこと。
渚院は平安時代、長く使われたけれど、やがて荒廃していったのだって。清和天皇や桓武天皇の子孫たちが源平合戦をしていた頃に、かな。
渚院跡は後に観音寺って寺になり、粟倉神社の旅所があったのはここだったそうだ。後に廃寺になり、本尊は西雲寺に移されたそうだ。
保育所(今はないみたい)を過ぎて北上していった。
昭和の時代に住宅地になったところのようで、びっしりと同じようなサイズの家々が建ち並んでいた。
水路(甲斐田川)を渡るとつきあたりで、左へ。
すぐ2つに分かれる道の右手を進むと踏切で、踏切を渡って進んでいった。この日渡った京阪電車はみんな踏切だった。電車はけっこう通るから、すぐには渡れないことが多かった。
踏切には「六助」とか「三栗」とか書かれてあった。三栗って地名のところにある六助踏切って名の踏切だったみたい。
すぐ13号線(三栗南交差点)に出た。13号線がおそらくは本来の京街道で、ここからは13号線を北に進んでいった。
時々、13号線に建ち並んだビルの隙間から西側に見える山々がきれいだった。すぐが淀川で、川の向こうは高槻だった。
次の信号(三栗交差点)をそのまま進んだ左手には、東屋なんかもある素敵な遊歩道があった。水みらいセンターの一部だったのかな。浄水関係の施設は、時々散歩で出会うけれど、素敵な遊歩道がよく設けられている。紅葉、黄葉がきれいで、東屋や広い平野の向こうに山々もきれいに見えていた。
そちらには進まずに三栗交差点を右折して東に。
京阪電車の踏切を渡ると、道はカーブして、北に向かっていった。ここで街道が13号線より東寄りを進むのは、この西側が低湿地で、堤が東寄りに造られたから・・・かな? 渚の院というくらいだから、淀川が流れ込む池とかがあって波打っていたようなところだったのかも。
清伝寺なるお寺があった。
この日歩いたあたりでは、郵便局もちょっとレトロで可愛かった。ポストも細い一本足の上にコンパクトにのっている、可愛い型だった。
このあたりでは「ひがき」さんが多かった。日垣さんとか桧垣さんとか。
地名は黄金野。素敵な地名だったけれど、ただの住宅街。
ここを東に行くと牧野車塚古墳あたりのようだった。知らずにいてスルーしてしまったけれど、国の史跡で、4世紀後半の前方後円墳らしい。
前に行った禁野車塚古墳(3世紀末~4世紀前半)の後の時代ね。
禁野車塚古墳は天野川(淀川の支流)沿いにあった。初期の大和朝廷と深い関りがあったと思われる禁野車塚古墳の勢力が、淀川に進出していったのかな。それはやっぱり肩野物部の人たちだったのかな。
天野川をさかのぼっていくと、まだ行ったことはないのだけれど、近くに森ってところや磐船神社(どちらも交野市)がある。
森には森古墳群があり、かなり早い時期の前方後円墳もあって、交野を本拠地にしていた肩野物部氏に関係するのではといわれている。磐船神社は遠い昔、物部氏の祖、ニギハヤヒが降臨したっていうところ。
初代神武天皇となる人は、北九州から大和に東征してきてナガスネヒコ(トミヒコ)を倒して即位したのだけれど、そのラスボス的なナガスネヒコの妹の夫だったのがニギハヤヒ。
ニギハヤヒとその息子のウマシマジが神武天皇について、ナガスネヒコを倒すことができた。ウマシマジは神武天皇の親衛隊的な人に。
その子孫のイカガシコメは9代天皇の皇后になって、10代崇神天皇を産んだ。同母兄のイカガシコオは天皇の重臣となり、各地に神社を置くような仕事をしていた。屋敷があったというのが枚方の伊加賀。
イカガシコオの息子はタベ宿禰といって、父と同じく交野あたりに住んでいたそうだ。子孫たちも肩野物部を名乗り、交野界隈に住んでいたと思われる。やがて岡山(中山神社あたり)に移ったようなのだけれど。
道なりに進むと、阪今池公園にたどりついた。ここの地名が阪らしい。
公園の横を流れる穂谷川沿いに北に向かった。
このあたりを東に行けばすぐ片埜神社だった。それも知らずにいて、スルー。
野見宿禰(出雲出身)がこの地を賜り、出雲のスサノオを祀って、土師一族の鎮守としたという神社だそうだ。
野見宿禰は11代垂仁天皇の頃の人。イカガシコオの少し後の人かな。
古墳に埴輪を並べることを進言して採用され、土師の名をもらった人。
当麻とか、土師ノ里とか、野見宿禰がもらったという土地が多すぎるけれど、古墳に携わった人といわれているし、古墳を造営するための事務所的な土地としてもらったのかな。