住吉の玉手
そして次には山阪神社と多米神社跡に行った。
どちらも長居公園近辺にあり、そしてどちらもツヌコリ一族の天日鷲命に関係しているかもしれないところ。
田辺(東住吉区)にある山阪神社は田辺宿禰が祀ったとも言われ、田辺宿禰の祖は天日鷲だそうだ。
その近くにあった多米神社は多米連が祀ったと思われ、多米連の祖も天日鷲。
長居公園周辺はもうすっかり市街地になっていて、散歩したからってなにかを得られるわけでもないだろうけれど、せっかく近くだから行ってみようと思って。
改めて思えば、住吉大社近辺は古いいわれのあるところだらけだ。
住吉大社は神功皇后が創建したという神社。それが本当なら、神功皇后は15代応神天皇(仁徳天皇の父)の母だから、そんな昔の古墳時代。住吉大社の北の高くなったところにはオオワタツミを祀る大海神社があって、ここには海彦山彦のお話の「しおみつたま・しおふるたま」のうちの1つをしずめたという井戸があったりする(まあこれはおとぎ話の類かな)。
そこから更に北にすぐ生根神社。住吉大社よりも古くからあったとも言われる、スクナヒコナを祀る神社。
大海神社と生根神社との間を少し東に行くと一運寺。聖徳太子創建とかいうお寺。
聖徳太子創建なんてホラの類だろうと散歩し始めの頃は思っていた。こんなところに聖徳太子って・・・。けれど、あり得ない話でもないと今は思う。
聖徳太子の頃、遣隋使は住吉大社にあったのだろう港から出港していたそうだ。住吉大社はかつて海岸(今より東にあった)からが境内で、入江になった部分に船で入って来ていたと思われるそう。小野妹子が「日出ずる処の天子」云々の国書を運んだときもここから出航したのかな。
その近くに聖徳太子が創建に関わった寺があっても不思議じゃない。聖徳太子はこの北に四天王寺を、南にあびこ観音を創建しているのだし。
葛城氏の本拠地らしき御所(奈良県)に玉手がある。遠つ飛鳥の西あたり。
大阪に河内湖があったように、京都には巨椋池があったように、奈良にもまた奈良湖って大きな湖があったそうだ。御所や飛鳥の北側になるのかな。
西には生駒山地や金剛山地があって、その東側に広い湖面があった。そして生駒山地と金剛山地とのすき間から西側に奈良湖から川が流れていた。それが大和川。
奈良湖から大和川が柏原を通って大阪城方面(上町台地の北端)に流れていたんだな。大和川というか、ほぼほぼ河内湖だったのだろうけれど。
その大和川が流れていただろう南側、柏原に玉手がある。近つ飛鳥の西あたり。
そしてその西には葛城ソツヒコを祀る志紀長吉神社がある(平野区)。その西に住吉大社があって、その近くにも玉手があった(住吉区)。
ソツヒコは他に「長江」「長柄」の異名も持ち、長江はかつては「ながのえ」かな。志紀長吉神社の「長吉」も、今は「ながよし」だけれど、住吉がかつては「すみのえ」と呼ばれていただろうのと同じで、「ながのえ」だったのかもしれないそうだ。
葛城ソツヒコは仁徳天皇の最初の皇后の父親。神功皇后のときは何度も朝鮮半島に渡って交渉などにあたっている。たぶん、イクタマの直系氏族。
崇神天皇の異母兄弟(母は葛城氏)の子孫が、神功皇后以降も「ヨサミアビコ」として今の住吉区に住んでいて、百済とも交流があり、お礼に百済の聖王から仏像を贈られている(それを後に聖徳太子が祀ったあびこ観音)。
3か所の「玉手」からのただのイメージで思ったのだけれど、葛城の玉手、柏原の玉手、住吉の玉手、そこはみんな大阪湾岸のドン・イクタマの血をひく葛城氏が使っていた港(もしくは航路を見張るところ)だったってことはないかな?
玉手は見張り場で、港が長吉だったのかも。港が「ナガの江」なら、大地は「ナガ原」だったかも。
縄文の暮らしを長く続けていたっていう弥生時代の大集落、長原はイクタマの国で、その港を子孫の葛城氏が使っていたのかも?
志紀長吉神社は、葛城ソツヒコの港があったあたりと伝承されているってことだった。
葛城ソツヒコの物語は、ちょっと記紀でかじってみただけだけれど、天皇の重臣というよりは、一有力者として朝鮮半島に渡っている人って感じがした。どちらかというと、その行動に天皇家が振り回されている感じ。
葛城氏は元々海を渡る一族だったのかな。長吉は土砂の堆積で使えなくなったとかで、もっと西の住吉を港として使うようになったのかも。
そんな有力者である葛城氏と手を結ぶことで、天皇家は葛城家の港を使えるようになり、やがて住吉津が国の港となったのかも。
そして港を守っていたのが、神功皇后が住吉大社を祀るために住吉に連れてきたアメノホアカリ系の(イクタマの血もひく)津守氏(住吉大社の社家)であり、雄略天皇の頃からは大伴氏(住吉の玉手あたりに住んでいた)であったのかも。
蘇我氏(with 聖徳太子)が物部氏のトップだった物部守屋を倒したとき、物部氏のものだった土地を多くゲットしている。雄略天皇は当時、葛城氏のトップだっただろう人(ソツヒコの孫の葛城円)を倒している。そのとき、蘇我氏のものだった土地や港をゲットし、大伴氏に与えたのかも・・・。
和泉や三島などに行って、ああ古い歴史のあるところだなあ、と感じてきた。けれど大阪市も負けてはいないのかもしれない。あまりにも市街地になりすぎていて分かりにくいだけで、ナウマンゾウの足跡(山之内)や貝塚(森ノ宮)も見つかっているようなところだものな。長吉や長原もあるのだものな。
生根神社の西側の道を北上すると、チン電(阪堺電車上町線)の踏切を渡って閻魔地蔵尊へ。
小さいけれど立派なお堂に地蔵が祀られていて、当時は近所のおばあさんたちがけっこうつめていた。下校途中の子どもたちが寄ると、小さなお菓子をもらえたりする、下町情緒の残るところだった。
東には高台(上町台地)で、西には低地。粉浜というだけあって、西に行けば海岸だったあたり。
海岸側には紀州街道が、台地側には熊野街道が通っている。思えば、近所にこの2つの街道があったことが、わたしとおかあさんが長い散歩をするようになるきっかけだった。
最初は街道の意味さえも知らなかったけれど、碑や案内などがあったから、たどって散歩してみているうち、その先にも行きたくなった。そうして大阪府を飛び出してまで散歩に行くように。
住吉大社の門前町として栄えたという粉浜村。紀州街道沿いは住吉新地と呼ばれた盛り場で店が建ち並び、坂本龍馬も遊んだってことで有名。今は住吉警察署のあるあたりにあった三文字屋なる料亭旅館で龍馬さんがあぐらをくみ、飲み、笑ったのかな。
もう少し北には土佐藩住吉陣屋があって、表門が紀州街道に面していたそうだ。龍馬さんはそこに立ち寄ったついでに住吉新地へ。紀州街道からは東に急な坂を上って、今は東粉浜小学校のあるあたりが陣屋の中心だったそう。紀州藩は大阪湾の警備を任されていて、ここに藩士が住み暮らしていたんだな。
粉浜村や住吉村だったところは空襲の被害を受けなかったので、かなり古いものが残っている。道も古いままで、くねくね曲がった道がいっぱい。
古い町屋も多いけれど、それはこのところどんどん壊されていっている。住吉街道沿いにあった、住吉ぎゃらりーとして存続していた旧家(元は住吉村の村長だった太田家住宅)もなくなった。そして外国の人が増えてきている。
閻魔地蔵尊の前は「六道の辻」。
地獄、飢餓、畜生、修羅、人間、天上の6つの界への辻なんだそう。閻魔さんの前でどちらに進むか決めるというわけ。
今は辻からの道は7つほどもあり、かつて六道のうちの1つ(北東に進む道)は万代池までつながっていたのじゃないかと思うのだけれど、今ではじぐざぐしていて迷いそうなので、とりあえずここを北上して、いくつめかの四つ辻を右折。
大阪中央福音教会とある、ぱっと目には普通のおうちのある方へ。この坂の上は帝塚山なので、並ぶおうちも大きめが多い。
住吉中学校と住吉小学校の間の細い道を通り抜けて、道が中学校沿いと小学校沿いの2つに分かれるところは右手(小学校側)に。
左手に行けば、帝塚山古墳(かつては玉手塚とも呼ばれていたらしい)や帝塚山駅。歴史の散歩道の舗装がされている。
帝塚山古墳は、大阪市内では貴重な、一部とはいえ現存する前方後円墳。4世紀から5世紀になるくらいの時代のものだそう。
住宅にびっしり周りを囲まれている。かつては傍にもっと大きな前方後円墳もあったけれど、壊されて今は無く、住吉中学校などになっているということだった。
上町台地はかつては古墳だらけだったのだって。ちょっと掘れば古い土器などが出てくるなんてよくある話で、昔は、報告するとややこしいことになるから埋め戻して工事を続行した、なんてことが普通だったらしい。
小学校沿いを進み、南海高野線の踏切を渡った。踏切を渡ったところには道の真ん中に地蔵がいて、車は通れなくなっている。
そのまま直進するとチン電通り。路面電車が車と一緒に走っている。
チン電通りを少し北上すると、右手に万代池公園。熊野街道が通っていて、熊野街道の碑もある。
ここも聖徳太子云々の話の残るところ。池に魔物が出て困っていたので、聖徳太子が人を遣わせて曼荼羅を唱えさせると怪物がでなくなったとかいう。
マンダラが万代になったというけれど、本当かな? 百舌鳥古墳群のある百舌鳥のあたりで知ったことには、古くは「万代」と書いて「もず」とも読んだそうだ。
万代池の周りは2km弱。ウォーキングする人がいつもけっこういる。ランニングするカラフルな人や、散歩する犬も。
池の周りに植えられた桜は、前は固い蕾だったけれど、1月中旬になり、蕾の中に緑色が見えるようになっていた。池にはカモや亀が住んでいて、空が広い。
公園を反対側から出て行って、東へ。すぐにあべの筋に出て、ここを北上。すぐ播磨町交差点で、交差する南港通を東に。
南港通にはマンションやお店が多々あって、昭和な店もあり、おしゃれな美容院もあり。「創業以来65年間がんばってきました、70年目指してがんばります」と手書きされたクリーニング屋さん(「ドライクリーニング」とレトロな文字で入っている)がいい味だしていた。
西田辺駅前交差点で御堂筋を渡り、もう少し東に進んで、左手に現れるカーブする道へ。長池小学校の前の道。
このあたりには大きなシャープがあったけれど、撤退したらしかった(建物はまだあった)。道なりに進むと長池公園が左右にあって、JR阪和線が上を走っていて、その下を通ってもう少し行くと、山阪神社。
その前に長池公園をちょっと散歩した。
冬らしく葦みたいなのが生えていて、なんだか素敵だった。すぐ横をJRが走ってはいるけれど、猫間川の源流の1つだったと言われる長池の、当時の姿を少し想像できるようだった。
長池はこの少し北の桃ヶ池につながり、そこから北に猫間川になって、生野、桃谷、玉造、鴫野と流れていたのだろうな。
その堤を聖徳太子が馬を走らせていたんだとか。それで馬を休ませたから寝駒、猫間川になったとかいう話。ただの作り話かもしれないけれど、その川沿いに太子が父を祀ったという森之宮神社もあるし、ない話でもないのかも。
聖徳太子が馬で行き来したかもしれない堤が、ここ田辺につながっていたんだな。




