伯太(玉手山)
そして次には柏原に向かった。
和泉(信太山)の伯太神社に行ったからには、柏原(玉手山)の伯太彦・伯太姫神社にも行っておこうかな、と思って。
JR(大和路線)高井田駅へ。大和路線(関西本線)は高井田駅手前から急に田舎になる。天王寺を出発して八尾、柏原と住宅密集地を進んだ後、高井田のあたりから大和川と山とにはさまれた狭いところを走っていく。
緑いっぱいの中、高井田駅に停車した電車を降りると、南にはすぐ大和川で、北にはすぐ山。
北に向かうと、すぐのところに史跡高井田横穴公園がある。古墳時代後期、渡来系の人々の墓地だったらしく、山の斜面みたいなところにいっぱい横穴の墓が造られていて、その口が木々の根元の下なんかに並んでいる。石に描かれた絵が残されていたりもし、それが船に乗っている人々や馬の絵だったりする。
柏原では他にも安福寺などでも見られ、なかなか忘れられないような奇観。
史跡高井田横穴公園には行ったことがあったけれど、傍らにある歴史資料館はそばを通っただけだった。ついでに行ってみる、とおかあさん。
公園は、前にやって来た時はほうぼう歩き回って広く感じた。竹林があり、イノシシの足跡も見つけたし、駅近でありながら探検気分だった。
今回は通行止めになっているところもあったりで、直に資料館を目指したから、こじんまりした印象だった。
資料館は犬はNGだろうから、おかあさんだけ少しだけ。そして出てきたおかあさんが言うことには、印象深かったのは、安堂遺跡の「弥生時代の紡錘車」(機織り用品ね)、古墳時代の「ミニチュア炊飯具セット」(ままごとセットみたいに、ミニチュアでつくられているんだって)、大県遺跡の「フイゴの羽口」(鍛冶に使うグッズ。いくつもごろごろと置かれていたって)、有名な古代寺院の瓦たちだったって。
あと、円筒埴輪が可愛かったらしい。トーテムポール的なものを感じたそうだ。こんなものを作った人々は、平和なかわいい人たちだったに違いないって思わされたそう。
資料館によると、この界隈には石器時代から人が往来し、縄文時代には集落があったのだって。すぐそばの国府遺跡(藤井寺市)でも、二上山のサヌカイトでつくった旧石器時代の石器なども見つかっているものな。
高井田駅方面に戻って踏切を渡ると、白坂神社があって、大和川。
大和川を少し西の国豊橋で渡って南西の玉手山に行くべく、白坂神社を過ぎて右折。
ここが、天湯川田ナの親を祀るという白坂神社(宿奈川田神社)。もう少し西の高台に天湯川田神社がある。
前に行った淀川では、石清水八幡と離宮八幡とが淀川の両岸に鎮座していた。山と山の間の狭くなったあたりに。それと同じ感じで、山と山の間の狭くなったところを大和川が流れるあたりに、天湯川田神社と片山神社(八幡を祀る)とが両岸に鎮座しているんだな。
国豊橋から見る東の青谷や堅上方面は、とても長閑だった。大和路線でそこを通ったり、竜田越奈良街道歩きで歩いたりしても、とっても長閑な一帯だものな。
橋の南詰の下の河川敷は、以前来たときには工事中だった気がする。とても素敵になっていた。ちょっとした芝生広場みたいになっていて、近所の老夫婦だろう人が歩いていた。
国豊橋を渡ってしばらく進むと西町地蔵がいて、ここで交差するのは、前に長尾街道歩きや竜田道(竜田越奈良街道)歩きで東に向かって歩いた道。
そのまま南下すると、河内国分駅(近鉄大阪線)につながる複雑な歩道橋があって、歩道橋で道の西側に。
もう少し南の国分南交差点で右折すると駅の下を西に抜けるトンネルがあり、ここを通って駅の西側へ。ここから西に、坂を上っていくと玉手山。
せっかくだから河内国分駅の西口にあるパン屋さん(ぱんのいえ)に寄った。初めて塩ぱんにであったお店。この年は台湾ドーナツが売り出されていた。
それから玉手山への道を上っていった。左手に水路が現れて、南に向かって桜並木になっていた。それから川。駅近の住宅街にしては素敵な川で、これは原川。南の方から流れてきて、大和川に注ぐ。玉手山は原川と、もう少し西を流れる石川(その対岸が国府遺跡の見つかった国府)の間の丘陵なんだな。
けっこうきつい坂道を上っていった。坂道でも、家々が建ち並んでいた。
右手には更に高台で、この上にはなにがあるのだろうと思っていると、「玉手山1~3号墳」の案内がでていた。3号墳は玉手山古墳群の中でも最古級の3世紀末の前方後円墳で、1号墳、2号墳は4世紀初めの前方後円墳と思われるのだって。
左手に玉手山公園の案内が現れて、そちらに向かって行った。
排水施設の貯水槽のようなものが現れて、ここを左に行くと玉手山公園(東入口)。そちらには行かず、ここを直進して、安福寺を通って伯太彦神社へ。
安福寺は史跡高井田横穴公園と同じく横穴墓がいっぱいある。こんなところにこんな鄙びたお寺が、とちょっと驚くようなところ。今では住宅に埋め尽くされているけれど、かつては古墳と寺くらいしかない山だったのだろうな。
境内は今でも広いけれど、かつてはもっと広く、明治時代に一部が玉手山遊園地に。今は廃止されて、そこが玉手山公園になっている。
安福寺は行基が開いたと伝わり、所蔵していた古墳時代末期の乾漆棺が話題になったことがあるらしい。乾漆棺って、当時、位の高い人に使われた棺で、重ねた布を漆で固めた感じのもの。手が込んでいて、そこに納められる人はただでさえ高位の人だろうのに、ここに保管されていた棺は布がシルクで、どれだけの貴人だ、聖徳太子の棺かも?と言われていたそうだ。
それを聞いた時には突飛に思えたけれど、聖徳太子の墓のある叡福寺はここから南に数キロのところだし、同じ安宿郡(近つ飛鳥)だったところ。ありえない話でもない。
安福寺を奥に進んでいくと、伯太彦神社。安福寺の境内の横の高台に鎮座している。
立派な石に彫られた説明をじっくり読んでみた。
「近つ飛鳥の安宿郡資母郷にあたる柏原市玉手山の安福寺に隣接した天王臺と称する丘陵に伯太彦神社がある。古くは躑躅尾社とも牛頭天王とも称せられる。創建年代は不詳である・・・(略)
御祭神である伯太彦命は古書伝承によれば伯孫、百尊とも称される。伯太彦命は田邊史の祖で、崇神天皇の皇子の豊域入彦命の四世大荒田別命の子孫の努賀君の子とされる。百尊の孫の斯羅が皇極の御代に田邊史一族として安宿郡の資母郷に居を構えたとの伝承がある」
あとは、かいつまんで書くとこんな感じ。
「白鳳から奈良時代にかけて栄えた藤原氏に仕えた田辺史(藤原不比等に仕えた田辺史大隅が有名)一族が当地にいて、48代称徳天皇(聖武天皇と光明皇后の娘)が由義(弓削)宮に行幸した際には、博多川(現在の石川)で宴遊した」
豊域入彦は豊城入彦のこと。
その4世孫という大荒田別命は神功皇后の時、新羅征討に派遣された武将。応神天皇の時には百済に派遣されて、王仁を連れて帰っているそうだ。
新撰姓氏録には田辺史として、皇族、渡来系の両系統の記載があるらしい。
1つは崇神天皇の皇子、トヨキイリヒコの4世孫、大荒田別命の子孫。
努賀君-百尊-徳尊-斯羅と続いて、この斯羅が35代皇極天皇(天智天皇の母)の時、田辺史となったのだって。
もう1つは渡来系(漢王の子孫?)。
トヨキイリヒコの5世孫、タカハセの子孫を名乗る渡来系の人々が、仁徳天皇の時に日本に帰化した、とも伝わるのだって。けれどそう自称していただけだろうってことになっている。
応神天皇のとき、百済に派遣されたという大荒田別命の息子、タカハセ(竹葉瀬)も仁徳天皇のとき、新羅に派遣されているらしくて、朝鮮半島で子をなして、その子孫がまだ仁徳天皇の時(治世は80年以上)に帰化したってことも無い話でもなさそうだけどな。
百済とかはいろんな国の人々の寄せ集めで、日本人も多く住んでいたそうだし。
田辺史は皇極天皇のとき、「山下」に土地をもらったそうだ。それが玉手山の下だったのかな?
そこに7世紀の終わりごろ寺を建てたと思われ、それが田辺廃寺。跡地に鎮座する春日神社に前に行ったことがある。
大津京に遷都した際に(天智天皇のとき)田辺史は山科に移り、藤原不比等を養育したと思われるそうだ。
田辺廃寺が7世紀の終わり頃に建てられたってことは、天武天皇(~686年)も亡き後くらいで、またここに戻ってきていたのかな? それとも氏族の一部だけが山科に移っていたのかな。
説明にある「伯太彦命は伯孫、百尊とも称される」というのは腑に落ちなかった。
百尊という人がトヨキイリヒコの子孫にいて、その人の子孫が田辺史になったというのは分かる。
伯孫は「田辺史伯孫」として、日本書紀に雄略天皇の時代の話として書かれている昔話に出てくる人だ。同じハクソンだから百尊と同一人物とするのもまあ分かる。
でも伯太彦がそれと同一人物という根拠は示されていないような・・・。
「伯」がどちらともに付くこと、伯孫(百尊)を祖とする田辺史のいた土地に伯太彦神社が鎮座していること、それだけを根拠に同一人物みたいに言われているのでは・・・?
ここの説明ではトヨキイリヒコの子孫ということだけれど、田辺史伯孫は百済からの渡来人であるってことがまことしやかによく語られていて、その根拠は何なのかな。
玉手山や信太山みたいな、弥生時代にも人がいたような、古墳もあるような古いところに祀られる伯太彦が応神天皇の頃の百済系渡来人ってことがあるのかな。
安福寺の表門から出て、玉手山公園の中央入口に向かった。
途中、伯太彦神社への階段があって、ここからでも神社に行けたみたい。
玉手山公園は、公園だけれど開園時間が設けられていて、犬はNG。この近辺は犬NGの公園が多い。
おかあさんはわたしをバッグに入れて、園内に。玉手山とあって上り道だらけ(しかもなかなかきつい)で、おかあさんははあはあぜいぜいわたしを運んでいった。
「歴史の丘」ってところは高台で見晴らしもよく、ここが山頂あたりなのかな? 「後藤又兵衛のしだれ桜」があり、後藤又兵衛の碑の横には吉村武右衛門の碑もあった。
大阪夏の陣で後藤又兵衛は軍を率い、大阪城から平野、平野から道明寺へ。真田幸村らも道明寺を目指していたけれど、まだまだ到着しない中、又兵衛は小松山(玉手山)に陣をおき、戦うも戦死。
馬に乗っての戦いの途中、玉手山の下あたりで切られ、深手を負っていたために家臣に首をはねさせたのだって。その家臣として伝えられているのが吉村武右衛門。5月6日のこと(今の暦では6月2日)。
又兵衛の死を聞き、嘆いた幸村も、翌日に天王寺で戦死。
道明寺の戦いね。道明寺はここから西にすぐ、石川を渡ったところ。
玉手山公園を南口から出て行った。
公道に出ると、その向こうは団地の群れだった。道路を左右どちらかに進んで、団地の横を南下していく。左右どちらでもよかったけれど、左手(東側)を南下。
バス停があって、このあたりは最近きれいになったのかもしれない。前に伯太姫神社を探しながらうろうろしたとき、通ったところのように思うのだけれど、そのときはもっと鬱蒼とした山の感じが右手にあったように思う。
バス停を過ぎて最初の四つ辻を右折。信号に出たら、一本右側の道を東に引き返すと、そこに伯太姫神社がある。
伯太彦神社と対になっているのだろう神社で、伯太彦神社と同じく、ここも渡来系の田辺史が祖を祀ったのだろうとかまことしやかに言われている。
伯太姫神社は、なんだろう、普通の神社だった。普通の神社になっていた。
割拝殿の向こう、階段を上っていけて、その奥の本殿まで阻むものもなく、近づいていけた。それはあまりないオープンさで珍しいけれども、前に来た時に感じた、ただものでなさは消えていた。鬱蒼とした森の気配と一緒に。
このあたりの地名は円明町。円明にも古代寺院(円明廃寺)があったそうだ。
柏原あたりは古代には大都会で、聖武天皇などもやって来たところ。難波と都をつなぐ官道なども通っていて、氏寺などが建ち並び、そこの智識寺にあった大仏を見て聖武天皇は感銘を受け、奈良の大仏をつくることを決めたそうだ。
聖武天皇が訪れたことで有名な河内六寺(大県郡の智識寺、山下寺、大里寺、三宅寺、家原寺、鳥坂寺)のほか、近くには田辺廃寺、円明廃寺などもあったんだな。
ここは安宿郡尾張郷だったところで、尾張郷には円明廃寺のほか、片山廃寺、五十村廃寺があったとされているのだって。田辺廃寺は下資郷。安宿郡全体では大県郡より多くの寺が建っていたらしい。
尾張郷は、尾張連(アメノホアカリとイクタマの血を継ぐ一族)が住んでいたところ。
大阪夏の陣で、狭い場所を通るしかない柏原で大阪勢が徳川勢を倒そうとした(道明寺の戦い)みたいに、古代にもここは肝心要の土地で、そこにいろんな有力者を配し、守りを固めていたのかな。
それが尾張氏であり、道明寺あたりの土師氏(アメノホヒ一族)であり、ツヌコリ一族(天湯川田ナの子孫たち)であったのかも。
お寺の建築ラッシュは7世紀後半頃かな。天武天皇の治世(673~686年)の頃。
701年、県犬養美千代は藤原不比等との間に娘を産んでいて、その名が安宿姫(後の光明皇后)。
安宿には県犬養美千代の孫(藤原不比等の孫でもある)、藤原永手の墓もあるし、田辺廃寺や伯太彦神社を建てた氏族として田辺史だけじゃなく田辺宿禰のことも候補に挙げて欲しいなあ。
伯太姫神社を出ると、石川に近づきつつ、北上して行った。
あとは柏原駅から帰ろうと思って。石川を北上すると大和川に合流して、大和川を渡ると柏原駅が近い。
円明町には、至田さんや居村さんが多かった。古そうな集落で、旧家はたいていが至田さんだった。
途中、水路にかかった橋のそばに石像(地蔵菩薩立像)のいる小さなお堂があった。覗いてみると、彫りの深い顔立ちのお地蔵さん。
すぐが石川で、玉手橋で石川を渡った。玉手橋は国の登録文化財。とてもレトロで、かつてはハイカラだった感じがする。
玉手山遊園地があった昭和の初め、道明寺駅と遊園地をつなぐのに造られた橋らしい。歩行者と自転車専用で、「バイクはおりて渡りましょう」と書かれていたけれど、バイクも走行していった。
橋を渡ると藤井寺市。すぐのところに道明寺駅(近鉄南大阪線)。そこから商店街が西に延びていて、道明寺(寺)や道明寺天満宮がある。そして古市古墳群も。
道明寺(寺)は菅原道真の別名の道明からきている。元は土師寺といい、一帯に住む土師氏(アメノホヒの子孫)の氏寺だった。一族の出の菅原道真の叔母がここの住職で、後に道明寺と改められた。
石川の河川敷を北上して行った。
のどかだった。歩くと結構距離はあった。
左手の土手道を見上げれば、信号待ちをする車の列。けっこう通行量は多くて、隅の狭いところを人が歩いていた。
河川敷は別世界で、緑でいっぱいで、空も広かった。
そのうち右手に工場音。前に歩いた片山だった。意外に古くて驚かされた、けれど川岸はすっかり工場地帯になった町。かつてはここにも古代寺院(片山廃寺)が建っていた。
石川が大和川に合流してもしばし河川敷を歩き、上に大和川を渡る橋が見えたところで河川敷から上がっていった。
ここは東高野街道歩きなどでおなじみの場所だった。土手の歩行者専用道路から、歩行者専用の橋で大和川の向こう(北側)へ。
このあたりも古代寺院(船橋廃寺)が建っていたところ。今は大和川が流れるようになって、その川の底になってしまっている。船橋廃寺の礎石は史跡高井田横穴公園に保存されている。
ここ(船橋遺跡)ではほかにもいろんなものが見つかっていて、寺は7世紀初頭に創建されたと思われるそう。まだ聖徳太子が生きていた飛鳥時代かな。
川を渡ると、北東に太平寺の方に進んでいって、柏原駅から帰る前におかあさんはカタシモワイナリーのワインをゲット。お店には、大阪で前の年にG20が開かれた時、各国首脳に出されたというワインも数種あったって。けれどお高かったので、もっとお手頃なのをおかあさんは買って出てきた。この頃分かってきたことには、どうやらおかあさんはショミンテキ。
すっかりおなじみになった柏原駅からおうちに帰った。わたしとワインを抱えたおかあさんと。




