表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/46

伯太(信太山)

2020年になって、初めての遠出散歩は和泉に行くことにした。

本当はどこかの街道を歩きたいところだったけれど、近場の知っている街道はほぼほぼ歩いて、もう遠くに行かないと歩きたい街道がない。けれど今日のところは近場で手を打っておきたいな、と和泉の信太山あたりに。

伯太神社に久しぶりに行ってみよう。あと、ショパンの羽二重餅デニッシュを久しぶりに食べたい。高石店ですっかりファンになったショパン。信太山に近い北助松駅そばにも支店があるみたい。というわけで、南海本線の北助松駅(泉大津市)へ。

せっかくなので、駅すぐ(北側)の助松神社にも参ることにした。

神社に行くべく踏切を渡ると、すぐ左手に蓮池地蔵。このあたりは紀州街道にも近いとあって、旧家もあり、地蔵もちょくちょくいる。なにしろ今までわたしが見た中で一番大きいかもっておうち(田中本陣)も近い。

その日はえびす祭りで、戎神社もある助松神社は地元の人たちでにぎわっていた。地元のお母さんがたが「ようお参りで」と、なにかの受付をしていた。

福笹的な縁起物が売られていて、2000円から1万円越えまで。神楽の音も聞こえていた。

そしてカラフルな鶏たち。助松神社には常世の長鳴き鳥的な鶏(東天紅)が多数放し飼いにされている。

それから神社を出ると、参道から前方右手に続く道に進んだ。

じぐざぐしながら西に進んでいくと、古くて大きな家が多かった。右手に専稱寺。

道なりに進むと線路(南海本線)沿いに出て、目の前には、緑。電車の中からも見えるこの緑は、前に知ったことには牛滝塚なる田中家の墓地。織田信長の頃に戦死した先祖が弔われているというところ。

このあたりでも大きな旧家が見えた。踏切を渡って南下していった。ここの踏切には「魔除カタカナ地蔵」なる地蔵。

次の信号にショパンがあった。けれどここはとても小さな店舗で、羽二重餅デニッシュどころか、ほとんどのパンが残っていなかった。残念無念。

ここで右折して上條小学校を通り過ぎ、左折。水路沿いを南下していった。もうすっかり住宅地になっていたけれど、たんぼも少し残り、少し前までのどかなところだったのだろうな。

個人のお宅に、椿やロウバイがきれいに咲いていた。椿やロウバイ、それから梅、それから桜。これから季節が移っていくんだな。

南海中央線を横断。このあたりは最近開発されたようだった。犬を散歩させる人もこのあたりだけ多かった。


辻に出て、右手に「森セキの地蔵」や「足神」。そちらに進んでいった先には大きな旧家らしきものも見えていて、気になった。そちらに進んでも曽禰神社だったみたい。

けれどそのまま直進。右手に曽禰神社の案内が現れたところで、案内に従って右折。曽禰神社に向かっていった。

曽禰神社は、物部系の曽根連が祖神(ニギハヤヒ)を祀ったとされる神社。天武天皇が即位して2年後(673年)の創建と伝わるそう。

小さな境内には「二田国津神社」の碑があった。

前にこの界隈にやって来たとき、この海側にある二田ふつた町を通った。二田(ふった・ふただ)物部氏なる大物が住んでいたあたりらしかった。二田城なる城もあったらしい。

二田の神社は廃されてしまって、同じニギハヤヒを祀るここに碑だけが残っているのかな。

新撰姓氏録によると、二田物部氏は、ニギハヤヒの天下りの従者、二田天ふたたのあめの物部の後裔だそうだ。

二田天物部は、後に天香山命に従って高志こし(越国)に。そこ(新潟県柏崎市)には物部神社(二田物部神社)が鎮座していて、10代崇神天皇の頃、二田天物部さんから12代目の人がいたらしい。

天香山命はアメノホアカリの息子。

高魂命ーイクタマー(略)ースエツミミー(略)-剣根命ー(略)-葛城氏・荒田氏

この剣根命と、天香山命の子孫の娘が結ばれて、尾張氏や津守氏となっていった(一説には)。

後の中大兄皇子の頃には物部二田造(詳細は不詳)の官人がいて、蘇我倉山田石川麻呂の首を切っているそうだ。


そして和泉市に入り、神社の向こうが池上曽根遺跡。弥生時代中期の大型の環濠集落の跡で、国の史跡。

紀元前に造られた大型の建物や、くすの木をくりぬいて作った大井戸が中心にあり、祭祀の場だったと思われるそうだ。

その周囲には生産の場があって、王的な人たちの住まいもあった。環濠の外に竪穴式住居や墓場、あと外国人居留区もあったりしたみたい。

その外にも環濠がある二重環濠だったのかな。

今は一部が広い公園になって、「いずみの高殿」や大井戸、工房などが再現されている。けれど修理を要するのか、今は近づけないようになっていた。

見上げるだけだったけれど、高殿は大きかった。掘立柱建物というよりビルディング。高さもあって、上ればどんなに見晴らしがいいかと思われた。弥生時代最大級の建物と思われるそうだ。

そして説明には、恐ろしいことが書かれていた。方位を意識した建物群も見つかっていて、中国の影響が考えられるのだって。高殿も真南に向いて建っていた。

卑弥呼より前の時代の話。

大昔みたいに思うけれど、中国では既に秦が滅びている(紀元前206年)時代。とっくに貨幣は流通し、シルクロードも通じていた。JAPANだってかなり進んでいたのかも。秦の始皇帝の時代、徐福という人が日本にやって来たともいうのだって。

公園からは山がよく見えていた。弥生時代も、きっとここから見える山々に上った人々がいただろうな。そこからは遠くの土地や、人のいる印も見えたのだろうな。


公園を出て、東の池上曽根遺跡前交差点を渡った。

渡ったのは第二阪和で、いきなりここだけは都会だった。池上小学校の西側をJR(阪和線)信太山駅方面に南下。小学校にも「遺跡」の碑があった。池上曾根遺跡は60万㎡。公園になっているのはその一部に過ぎなくて、第二阪和の南にも続くみたい。

信太山駅の西側の踏切を渡った。この先は歩いたことのある道だった。

信太山駅上り交差点を過ぎると、道は上りに。「左 聖神社」の古い石標が懐かしかった。聖神社は675年、天武天皇の勅願で渡来系の信太首に祀らせたと伝わる式内社。

途中、道が2つに分かれるけれど、どちらでもOK。どちらの道でもすぐに伯太神社へ。伯太神社は天武天皇が即位した翌年(673年)の創建。ちなみに往生院(泉南市)が680年。

この更に南にも天武天皇の勅願で創建された往生院があるんだな。


神社の前にはお堂みたいな小さなお寺があって、ここは神宮寺だったのだって。神社と寺の間の道を南下。

右手にも寺があって、左の上り道を少し行くと薬師堂。立派な古いお堂だった。よく見えなかったけれど、鎌倉時代の五輪塔があるらしい。

寺やお堂の多いところだな。

薬師堂の少し南の道を南東に向かって行った。山に向かってのぼって行く感じ。家々が建ち並んでいて、中には古い家もあった。元々、集落があった山なのだろうな。前奈池1号公園にたどり着き、公園から更に上っていった。

その先にかつて伯太陣屋があったらしい。大庭寺おおばじにあった藩がここに越してきて伯太藩と名も変わって、ここに陣屋を構えていたそうだ。

右手(南)には低地で、信号の向こうは自衛隊の駐屯地だった。迷彩服を着た人が一人、門のところに立っていた。

信号を渡り、駐屯地の西側を南下して行った。右(西)にはさらに低地だった。遠い昔には海だった感じのところだった。

ゆるい上り道を進むと、伯太小学校を過ぎ、次には黒鳥小学校を過ぎ、下り道に変わって、信号を左折。

駐屯地沿いを東に進んでいった。

上り道になり、ここも前に歩いたことがあった。この先の黒鳥山公園から下って来たのだったな。たぶん、ここは東の信太山から続く黒鳥山。久しぶりに黒鳥山公園にも行きたくて、この道を進んでいった。

次の信号では前方の高台にたくさんのお墓が見えていた。黒鳥墓地かな?

右手に分岐するまっすぐな道に進むと、すぐ公園だった。坂を上って、高台にある公園へ。

前に来た時は、桜には少し早い、小雨も降った寒い日だった。今回は桜にはかなり早い寒い日。桜の名所らしき公園には、まだ桜の蕾も固く、人の姿もほぼなかった。高台にあって見晴らしがよく、周りの山々がよく見えた。

阪口喜一郎顕彰碑のところ(東口かな?)から出て行って、右折。少し上り道を行き、最初の信号で左折。

またすぐを左折して、ここを下っていった。ここまで南下してきて、信太山、黒鳥山と進んで、Uターン。ここからは来た道の少し東側を北上していく感じ。

この道は、信太山キャンプ場(青少年野外活動センター)の中を通り抜けれるようになっている公道らしかった。ときどき車も通ったけれど、他にはだれもいなくて、快適な下り道だった。キャンプ場は、隅の方は荒れた感じだったけれど、中央部分はきれいに整備されていた。

キャンプ場を抜けて道なりに進んでいくと、鳥居が現れた。

このあたりは前回、新しい道路の造成中で、丸笠神社があるはずだったのだけれど、近づけなかった。

今回は工事も終わって神社に行けるかと思ったのだけれど神社は見当たらず、新しい道路の向こうに丸笠山古墳と思われる緑が見えていた。

古墳にも神社にもどこから行けばいいか分からなくてスルー。丸笠山古墳は4世紀末頃の前方後円墳だそう。

すぐそばには弥生時代後期の高地性集落の跡(惣ヶ池公園)があり、そこから西に山を下って海側に行くと、池上曽根遺跡。東から南にかけては泉北丘陵。北に行くと和泉黄金塚古墳。

和泉黄金塚古墳は一人の女性を中心に、二人の男性が横に埋葬されていたという、4世紀後半頃の前方後円墳で、いろんなお宝が出土している。

おそらくはその頃には信太山で須恵器がつくられはじめているのだって。

渡来人がいっぱいやって来て、新しい工法で土器が焼かれるようになった。新しい工法っていうのは、ろくろでの成形や、登り窯で高温で焼く手法。

間もなくして、大規模に計画的に生産、流通されるようになったそうだ。泉北丘陵一帯で須恵器が焼かれ、和田川などで、大規模な流通センターだったらしき深田に集められ、大園から舟で各地に流通されていたらしい。どなたか敏腕社長的な人がいたのだろうなあ。

その製品は泉北や三島(高槻・茨木あたり)の古墳にも使われた。

道なりに進むと伯太神社にたどり着き、信太山駅からおうちに帰った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ