西国街道を長岡天神まで
小泉川を越えたら長岡京市のようで、このあたりからは普通のひらけた住宅地だった。大山崎町との合併促進ポスターが貼られていた。
川沿いをしばらく進んでいった。田んぼばかりだったところなのだろうな。すっかり住宅地だったけれど、空が広かった。
川は左手にカーブし、遊歩道で川横を歩けるようだった。けれど西国街道は直進していった。
まもなく高速の下の広い道に。高速は京都縦貫自動車道だって。北から舞鶴、綾部、京丹波、八木、亀岡、それからこのあたりを通って大山崎ジャンクションへ。そこで名神高速、京滋バイパスとつながっているらしい。日本って小さな島国だと聞くけれど、わたしからしたらすごい広いなあ。まだまだ知らないとこばっかりだ。
高速の下は広場のようになっていて、ミニ公園のような一角には水道に「馬ノ池の水」とあった。
飲用のためだけに使ってください、保存はできないのですぐ飲んでくださいと注意書きがされていた。他には誰もいなかった。
広場は「馬ノ池公園」で、馬の像がたっていた。かつては街道を行き来する馬ののどを潤す池があったのかな? というか、今も地下に残っていて、そこから水をひいているとか?
一説には、小倉神社のお祭りで子どもを乗せる馬のお清めをしていた池だったので馬ノ池だって。
広場の横は車が行きかう交差点で、「調子八角」の碑があった。交差点も調子八角。広い交差点で、道がいくつも交差していた。京からやってきた西国街道から丹波街道が分岐していくのが、ここ調子八角だって。
西国街道についての説明板もあって、秀吉の朝鮮出兵のときに整備されたので唐街道とも呼ばれるということだった。
「調子八角」の碑の向かい、「うなぎ」とある料理屋の左手の道へ。すぐ左手には「友岡の道標」があった。
西国街道と丹波街道を示す道標だけれど、西国街道のことは「愛宕道」と書かれていた。
西国街道は愛宕道でもあったんだな。それで島本町あたりでも、道々「あたご」の文字を見たのかな。
道は地味にカラー舗装されていた。このあたりからずっとカラー舗装されているのが西国街道だった。時々は西国街道の新しい碑も現れて、迷うこともなくて楽だった。
地名は左手は友岡で、右手は調子。その間のゆるい上り道だった。
昔の面影のある情緒のある道で、そこを今どきの高校生がおしゃべりしながら下校していっていた。
古い町並みと、地元民ではなさそうな学生のとりあわせって、散歩しているとありがちだった。
大きな私学が田舎にやってきて、そこにある古い街道を、それとは知らずに学生たちが登下校していく、というパターンね。
右手に中野家住宅。国の登録有形文化財だって。18世紀半ばの町屋で、このあたりは茶屋通りだったことから、この住宅も茶屋だったと思われるそう。〇〇家住宅って時々あるけれど、中野家って多い気がする。
中野家住宅を過ぎてしばらくすると、ゆるい下りに変わった。
このあたりも古い感じだった。右手に公園が現れて、道が2つに分かれたら、左手の道へ。右手に進むとすぐが立命館高校だったみたい。
このあたりからはしばらく普通の下町だった。
左手に「与市兵衛の墓」。義理の息子を忠臣蔵に入れたい与市兵衛が、娘を売って得たお金をもって帰る途中、切り殺されたあたりなんだとか。
けれどそれは「仮名手本忠臣蔵」での話。「仮名手本忠臣蔵」って、忠臣蔵をベースにした創作で、人間浄瑠璃や歌舞伎で演じられた半ばコメディーらしい。ここで切り殺されるって場面も、コントみたいなタッチなのだって。
義理の息子は早野勘平といい、モデルは萱野三平だそうだ。前に行った箕面に実家が残っていた萱野さんね。
けれど全くの創作話で、話の中で与市兵衛が切り殺されたのがこのあたりということになっているので、それらしい古い石碑が「墓」とされただけらしい。
そんなことは露知らず、ススキ野原みたいなところが左手に見えていたから、かつては人家もまばらな暗い夜道で、そこで襲われたんだな、とか、売られた娘が可哀そうすぎる・・・とか思いつつ歩いた。
もう少し行くと広い車道に合流し、片泓交差点へ。
道が2つに分かれるのだけれど、右手の道へ。しばらく行くと左手に神足商店街が現れた。商店街を北上。
神足神社の石標や愛宕の常夜燈なんかがあった。旧石田家住宅(国の有形文化財)も。
JR神足駅の駅名標が突然あった。それで神足を「こうたり」と読むことが分かった。最近までJR長岡京駅は神足駅だったのだって。そこで使われていたものらしい。
このあたりは神足といい、式内社の神足神社があるそうだ。
桓武天皇が長岡京に遷都したとき、一緒に京に移り、京の南の鎮守として神社を創建した人がいたらしい。地名から神足を名乗り、代々神社を守ったのだって。その神社が神足神社。
その人というのは、天武天皇の皇子(長皇子)の子(栗栖王)の子(光丸)だったのだとか。天武天皇のひ孫ね。桓武天皇は天智天皇のひ孫。
後には子孫は豪族として神足城(山城)を構えたりしたそうだ。
商店街には「ガラシャゆかりの地」というのぼりがたっていた。
近くにはガラシャ通りもあるらしかった。どうしてガラシャ?と思った。なにも知らなかったので。
片泓交差点から少し東に勝竜寺城公園があって、そこにかつてあった勝竜寺城がガラシャゆかりの城だったみたい。神足城も取り込んで城としていたのだって。
一時は三好三人衆がゲット。
織田信長が奪い取り、細川さんを配したのだって。信長さんはその後、南下して古市あたりの高屋城まで攻め、三好三人衆を畿内から追い出した。
古市あたりを歩いていると、信長の高屋城攻めで焼失、という文言をよく目にするのは、このときのこと。
前に東高野街道を歩いた時、高屋城の裏門跡や安閑天皇陵、高屋城跡の碑、高屋神社(物部氏族の高屋氏の氏神)なんかが古市(羽曳野市)にあった。高屋城は安閑天皇陵を本丸にしてしまっていたお城。
ニギハヤヒの10世孫が高屋氏の祖というから、ニギハヤヒから2、300年して、ここに子孫が住み着いたのかな? 高屋神社は安閑天皇の次代、弟が天皇(28代)のときの創建だそう。
そして勝竜寺城には細川さんが入った。その息子が忠興。細川忠興さんは明智光秀の娘、玉子(後のガラシャ)と勝竜寺城で結婚式を挙げ、ここで新婚生活を送ったと思われるのだって。
その後、細川さんは他に移り、本能寺の変で明智光秀が勝竜寺城を奪取。
それから秀吉との山崎合戦。光秀は山崎から勝竜寺城へ、さらに坂本城へと逃げる途中で死亡したそうだ。
JR長岡京駅が現れて、ここを左折。
天神通りだった。西にまっすぐ向かうと、長岡天神(長岡天満宮)。
西国街道はこのまま北に向かうようだけれど、ここまでとして、長岡天神に寄り道して、阪急の長岡天神駅から帰ろうと思う。
広い通りの右手に塚本古墳跡。なにも残っていないけれど、古墳時代後期の古墳があったそうだ。小さな古墳だったけれど、大量に出土した埴輪などから見て、大物の墓だったと思われるのだって。
さざんかさざんか咲いた道♪の曲(「たき火」)が流れて、灯油売りだろう、「来年もよろしくお願いします」と巡回するスピーカーの声が聞こえていた。
阪急(京都線)の踏切を渡った。右手に長岡天神駅。
右手に木の橋がいっぱいかけられた池があり、大きなフナが泳いでいた。大きな神社のようで、お堀のある城跡に似た感じ。
山の裾に鎮座する感じで、少し上って行ったところに本殿があった。広い境内には、もう「明けましておめでとうございます」と書かれていた。「ここからは4列でお進みください」とか、「ここでおみくじをひき、授与所で番号を伝えてください」とか、すでに用意され、はりだされていた。
まだ人もまばらで、4列で進まないといけなくなる日とは別のところみたい。地元の住吉大社だってそうだから、ここが人だらけになるところも想像できた。
この日は、少し高いところにある休憩所も独り占め。
窓から外を眺めた。紅葉庭園などもあり、秋にはきれいなのだろうけれど、寒々とした景色で、それはそれで素敵だった。
隣は長岡公園になっていた。ハイキング姿の人もいて、天王山から下りてきた人たちなのかな。
神社を去っていくとき、高台の内側から鳥居だけが見えるところがあった。その向こうは低地になっていて視界の外で見えないから、ちょっと不思議な光景だった。
去りながら途中振り返って見ると、森と神社が一体になっていた。
ここは菅原道真(845生まれ)の所領だったところだそう。在原業平(825生まれ)とともにプチ旅行に来たりもしているそうだ。そして道真さんは左遷されて、太宰府に向かう途中にもここに立ち寄って、名残を惜しんだのだって。
その後、その地に、道真さん手彫りの木像を一族の中小路さんなる人が祀ったのが長岡天神の始まらしい。
その後、荒廃していたけれど、明治時代に中小路さんにより再興されたんだそうだ。
長岡天神駅から帰った。中書島駅から西に数キロのところだったみたい。




