西国街道とツヌコリ一族
観音寺(山崎聖天)の下、JRの東側の67号線を北上して行った。
もう少し行くと「東黒門跡」の説明が現れた。このあたり一帯が離宮八幡宮の神域だったところで、その東と西に黒門があったのだって。ここに東門が、島本町に西門があったらしい。
足利義満のとき、自治を認められ(守護を置かないでいい)、15世紀に門がつくられて、1つの小国のようになっていたのだろうな。エゴマ油の専売を許されて、富み栄えていたという時代。大山崎は石清水八幡宮で神事を行う人々の住む集落だったそうだ。
ここで左折して、JRや山に向かって坂を上ると、小さな公園があった。ここでしばし休憩。
周囲は家だらけだったけれど、静かだった。ただ、電車が通ると、かなりうるさい。すぐ横が線路なのだものな。
山の方にも家々が見えていた。そう古そうでもなくて、JRや阪急ができて拓かれた住宅地なのだろうな。
黒門跡まで戻り、続きを北上して行った。
だんだん田舎めいてきたところに、大山崎町公民館とか大山崎町町役場とか。新しいきれいな建物だった。
それからすぐに高速(名神)。高速の高架の向こうは、ゆるい上り道だった。古い集落と見えて、なにか情緒があった。小山さんや小泉さん、小林さんなど、小〇さんが多かった。
小さなバス停は円明寺。地名は茶屋前。
ここを左手(西)に行くと、円明寺(真言宗)があるらしかった。奈良時代の終わり頃に創建された、大きなお寺だったのかな。鎌倉時代初め、一帯を山荘にした公卿(西園寺さん)がいて、九条さん、一条さん(みんな藤原氏)へと渡ったものの、応仁の乱で荒廃してしまったそう。
このあたりから、小倉神社の「小倉開運そば」のポスターをたびたび目にした。神社で大みそかの日、200円で開運そばを食べさせてくれるのだって。
小さな川(久保川)を渡った。この少し東で小泉川(桂川の支流)に注ぐ川みたい。地名は乙訓郡大山崎町。乙訓は元は弟国で、西側に兄国もあったのではないかと思われるのだって。でも古いこと過ぎてよく分かっていないみたい。
久保川を西にさかのぼって行くと円明寺があって、さらに行くと小倉神社だったみたい。
小倉神社は式内社。4世紀末頃の前方後円墳を背後にした神社なのだって。奈良時代(718年)の創建だそう。祭神はタケミカヅチ、フツヌシ、アメノコヤネ、姫神・・・って、春日大社と同じだな。藤原氏の祭る神たち。
アメノコヤネとヒメは藤原氏(中臣氏)の祖神で、タケミカヅチとフツヌシは守護神だとされている。
4人(柱)合わせて春日神。
宇治に小倉(久世郡)というところがあって、そこには巨椋神社があるのだって。
同じく春日神が祀られているそうだ。けれど、元は巨椋連が祖神を祀っていたのかもしれないのだって。
京都には巨大な巨椋池があったそうだし、一帯はオグラと呼ばれたところだったのかな。
宇治は巨椋池の南東あたりで、ここは巨椋池の北西あたりになるのかな?
今は春日神を祀る小倉の巨椋神社が巨椋連の祖を祀るなら、今は春日神を祀る小倉神社もまた巨椋連の祖を祀っていてもおかしくはないような。
巨椋連の祖ってどなただろうと調べてみた。
新撰姓名録(平安時代に編纂された氏族の一覧集)によると、今木連(宇治の今木に住んでいたそうだけれど、今木が宇治のどこかは不明)と同じで、カミムスビの5世孫、アメノセオノミコトの後裔と記されているのだって。
アメノセオノミコトの父がアメノトコタチで、別名アメノ角凝命なんだとか。ツヌコリの孫かなにからしい。
一書によれば、ツヌコリ-イサフタマ(アメノイクタマ)-アメノトコタチ-アメノセオノミコトだって。
でたな、ツヌコリ!
(アメノツヌコリがツヌコリの孫なら、アメノイクタマはイクタマの孫とかでもおかしくないんじゃあ・・・と思った。)
最初にツヌコリ(ツノコリ)を知ったのは、御野縣主神社(八尾市)でだった。祀ったのは美努氏。
祭神は祖神のツヌコリと天湯川田ナ。その子孫が天武天皇から美努連の名をもらったらしい。
鎮座するのは玉串川(大和川支流)の堤だったところ。かつて周囲一帯の広い範囲を三野っていい、子孫はその縣主(県主)だったのかな。
東大阪に英田ってところがかつてあって、ここも「三野県」の「あがた」から変化したと思われるらしくて、範囲は広い。「県」って、大昔、古墳時代とかの国的なのの呼び方かな。
まだ河内湖、もしくはその名残の巨大な池があった頃、そこに浮かぶ島々や、東の岸あたりだったのかもしれない一帯。というか、港であったのかも?
前に行った阿久戸神社(高槻市)は、かつての三島県にある神社だった。三島県主だった一族が後に郡衙を任されそうで、その一族が祀ったのかもしれない阿久戸神社は港だったんじゃないかってところに鎮座していた。
三野でも同じ感じだったのかも?
ツヌコリの子孫(三世孫か四世孫)で、三島県主や美努氏の先祖の天湯川田ナのことは、もっと前から知っていた。
大和川のすぐそば(右岸)、川を見下ろす高台に天湯川田神社(柏原市高井田)があって、そこに祀られていた。
天湯川田ナさんは日本書紀にも出てくる有名人。11代垂仁天皇は、息子の一人がしゃべれないまま大人になって、心配していた。そんなとき息子が鳥を見て声を発し、天皇は喜んで、天湯川田ナに鳥をつかまえてくるように命じた。そして鳥を連れ帰った天湯川田ナに、捕鳥(鳥取)の名を与えた。そういう話。
元々、和泉鳥取(和泉国日根郡鳥取郷)あたりを本拠地にしていた氏族の人らしく、柏原にも土地をもらったとかかな? そこには飛鳥時代には鳥坂寺なる鳥取氏の氏寺も建っていたらしい(河内国大県郡鳥坂郷)。そして近くには天湯川田ナさんの親を祀るともいう宿奈川田神社(白坂神社)があり、そこの祭神がスクナヒコナだった。元々は白坂神社だったけれど、式内社(平安時代の神社目録に記載された神社)にある宿奈川田神社だったんじゃないかってことで改名。
いろいろあやふやで、天湯川田ナさんの親がだからってスクナヒコナ(オオクニヌシの国造りを手助けした人)だ、というのは少々乱暴かもしれないけれど、ありえなくもないんだな。
それから和泉鳥取に近い波太神社(阪南市)に行った。かつて茅渟と呼ばれていたあたりで、そこにはツヌコリが祀られていた。
天湯川田ナの故郷でもあるのだろうここが、ツヌコリの本拠地だったのかな。「コリ」って3世紀頃、国の王的な人につけられた称号だったのでは、といわれている。
近くには縄文時代の墓や、弥生時代の集落なんかの遺跡があり、そしてイニシキイリヒコ(垂仁天皇の息子)が住んでいたというあたりだった。イニシキイリヒコは茅渟で剣を千口つくり、それを石上神宮(奈良県天理市)に納めたのだって(最初は忍坂に納め、石上神宮に移した)。石上神宮は大和朝廷の武器庫的なところだったんじゃないかといわれているみたい。
イニシキイリヒコの茅渟の宮の近くには古墳時代の製鉄を行っていた遺跡も見つかっているらしくて、ここで天皇の息子が、武器庫に納める千の剣をつくったのかもしれない。
同じ時代、ここ茅渟からは天湯川田ナが大県に。大県は古い時代から製鉄が行われていたっぽいところで、6世紀には大規模な鍛冶工房があった。
しゃべらない息子と鳥の話になっているけれど、ツヌコリの一族は製鉄にも秀でていて、一族の天湯川田ナがその腕を買われて大県に行ったのかも・・・とか想像した。
橘諸兄の母の県犬養美千代はツヌコリの子孫で、父は美努(三野)王。
山背の綴喜郡を本拠にしていたらしいけれど、ツヌコリの血をひく者たちが、だいぶ前から京都に進出していたってことかな。巨椋連や今木連として。
それがいつ頃なのかは、まだ京都まで進出してきたばかりのわたしには分からないのだけれど。
京街道歩きで美豆を通ったけれど、そこも綴喜郡だった。ミズは元はミヌだったってことはないかな?とか思った。
古くからの茅渟道だったあたり(和泉街道)を前に歩いたことがある。和泉から菅生、喜志、近つ飛鳥(安宿)へとつながっていた。
近つ飛鳥の近くに二上山がある。二上山はサヌカイトの一大産地。サヌカイトは硬く、石器の材料として世界レベルでいっても超一流らしい。
二上山を西に下った喜志や中野は、サヌカイトの加工や交易を行っていたのだろう土地だった。サヌカイトの加工を専業にしていて、各地に運ばれたのだって。
石は近江の方にも運ばれていて、その中継地が枚方、交野あたり(肩野物部がいたあたり)。古い山根街道が交易道だったのではないかということだった。
茅渟道はそれなら喜志から和泉への交易道だったのかも。
茅渟から東に安宿、安宿から北に交野、交野から綴喜郡はすぐだし、石器をよく使っていた頃(古墳時代半ばから鉄器が増えたか、石器が激減したそう)からつながりはあって、和泉のツヌコリの血をひく者たちが、かなり以前から綴喜にいても、そんなに驚く話でもないのかも。
大阪湾(河内湾)から川や池をさかのぼればすぐだっただろうし。
和泉の小倉山(今は住宅地)には穂椋神社跡の碑があったけれど、なにか関係はないのかな??
ツヌコリ-イサフタマ(アメノイクタマ)-アメノトコタチ-アメノセオノミコト~巨椋連・今木連
で、県犬養さんもこの氏族。
アメノセオノミコト-天日鷲命-倭文神~県犬養氏
あと、田辺宿禰もこの氏族だそう。
アメノセオノミコト-天日鷲命~田辺宿禰
藤原不比等(県犬養美千代の再婚相手)を養育したという田辺史は渡来人だといわれているけれど(たぶん、根拠はあまりない。「史」がつく氏族には渡来系が多いと言われるけれど、そうとも限らなかったみたい)、田辺宿禰はツヌコリの子孫らしい。
同じ田辺さんでも、住んだ土地の名をとって田辺というだけで、その後ろになにがつくか(宿禰、史、連など)で氏族がたいていの場合、違っている。
田辺史は、元は安宿(柏原市)にいて、そこの地名が田辺だったので、田辺さんになったらしい。書物に関わる仕事をしていたので「史」の姓をもらった。
田辺さんが祀ったとされているのが、柏原の伯太彦神社と伯太姫神社。前に行った伯太姫神社はただものじゃない感が半端じゃなかった。近くの集落は円明、鎮座する山は玉手山。
わたしは玉手からタナベに転化したのかな、と思った。
伯太なんて名の、こんなただならぬ神社が、渡来系の田辺史が祀ったものなんてことがあるかな?と感じた。もっともっと古くからのもののような気がした。伯太は出雲や和泉にもある(和泉の伯太には伯太彦・伯太姫神社も鎮座している)地名で、そういう連綿と続く何かを感じさせた。
もしかすると伯太彦神社と伯太姫神社は、ツヌコリの子孫(田辺宿禰)が祀ったのかも?と思った。田辺宿禰も「田辺」というからには同じく田辺に住んでいて、それがここ、安宿の田辺だったのかもしれない。
県犬養美千代が祀ったとされる玉手より祭り来たる酒解神社の玉手と玉手山は、なにか関係はないのかな? ほか、わたしの知っている玉手は、住吉大社近く(玉手島だった。今も玉出の地名が残る)や、行ったことはないけれど御所(葛城氏の本拠地)あたり。
あとは、同族に倭文氏もいるらしい。日本古来の布を古くから織っていた氏族だそう。
アメノセオノミコト-天日鷲命-倭文神~県犬養氏・倭文氏
倭文神を祀る倭文神社は鳥取県などに多く、他にも各地の海岸などに分布することから、船で移動した氏族だと考えられるそう。
ツヌコリ一族は製鉄と織物と海運に秀でた人たちだったのかな。それで巨椋氏は巨椋池のそばに、美努氏は河内湖のそばに住んでいたのかも。
また川(小泉川)を渡った。渡った橋は小泉橋。ずっと小泉さんが多いのと、関係あるのだろうな。




