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西国街道を山崎から

離宮八幡宮を去る前に、人気のない一角にちょっとだけ立寄ると、「油祖像」なんかがあった。

平安時代の終わり頃、離宮八幡宮の神官が油搾り器を考え出したそうだ。そしてエゴマ油を生産するように。エゴマ油は当時、主に灯りに利用されていたそう。あとは傘の防水塗料とかに。

夕刻になるころ、京に売りに行っていたのだって。

室町時代になると幕府から油の専売特許をもらい、離宮八幡宮は大いに栄えたそうだ。けれど室町幕府が滅びると特許を失い、戦禍にもあって衰退。

明治9年には境内を多く失い、そこに山﨑駅がつくられたのだって。かつては山﨑駅(奈良時代頃の駅家)だったところが、山崎駅(JR京都線)に変わったんだな。

離宮八幡宮を過ぎると、そこからは住宅だらけだった。

左手にJR山崎駅が見え、このあたりのパン屋でパンをゲットするつもりが、お休みだった。仕方ないから駅前のコンビニでゲット。

駅の横には妙喜庵なる寺があった。

室町時代に開かれ、日本最古の茶室があって、国宝になっているらしかった。どこかから利休が建てた茶室を移してきたものなのだって。このあたりにあったらしき利休の家からか、秀吉が山崎合戦で陣をおき、茶室をしつらえさせたという宝積寺からか・・・。


駅の付近では、ハイキング姿の中高年の姿をけっこう見た。駅の向こうは天王山で、山崎合戦の地だけれど、今ではハイキングコースになっているらしい。

駅の北側には、大念寺(浄土宗)や、元は個人の邸宅だったらしいアサヒビール大山崎山荘美術館、宝積寺などがあったみたい。

大山崎山荘は昭和初期の実業家、加賀さんが自ら設計した山荘だったそうだ。取り壊されてマンションになる予定が、美術館として残されたのだって。

加賀さんは山崎蒸溜所をたちあげ、そこで数年働いた竹鶴さんが北海道に蒸溜所をつくるのを手助けした人でもあるらしい。

宝積寺は奈良時代(724年)、聖武天皇の勅願で行基がひらいたと伝わるそうだ。

聖武天皇(724年即位)は藤原不比等の孫であり、天武天皇のひ孫でもある。天武天皇は壬申の乱で、大伴氏や県犬養氏、紀氏、坂上氏らを味方にして勝利したそうだ。

藤原不比等の父、中臣鎌足は生まれたのが藤原(橿原市)だったので藤原の名を賜ったというけれど、それなら天武天皇のとき造られ始めた藤原京は、中臣鎌足つながりで選ばれた土地だったのかな。

行基は淀川のこのあたりで橋(山崎橋・河陽橋)をかけたりもしている(731年)。それで対岸側は、橋のたもとってことで橋本の地名になったということだった。

ほか、山崎に院(山崎院)を建てたり(731年)、橋本に久修園院を建てたり(725年)、島本町に西観音寺を建てたり。

山崎院の後身が宝積寺ともいわれるそうだ。西観音寺もなのかも。

山﨑には南河内の豪族が創建したと伝わるお寺があって、それを行基が改修したのだとか。山﨑橋も、改修したのか、流されたので新たにつけたのか、行基以前にもあったそうだ。行基の師の道昭もまた山崎に橋をかけたことがあったらしいし。

道昭(629~700)は百済系渡来人(船氏)の出のお坊さん。遣唐使として唐に渡り、三蔵法師から教えを受けた。

天武天皇(673年即位)の勅願で泉南市(和泉鳥取あたり)に往生院を建てている。

天武天皇が泉南市に?と、前に熊野街道歩きの途中に現れた往生院で驚いた、というか、は?って感じだったのを覚えている。熊野街道をはるばる南下していったそこで、突然に道昭や天武天皇の名を見て戸惑った。

けれどそこから熊野街道を2kmほど大阪側に行くと海会寺跡(ここも泉南市)。天武天皇の頃、壮大な官寺が建てられたと思われ、そこは南海道の南端あたりってことだった。天武天皇を味方した大きな勢力がこのあたりにいて、それで南海道を通せたってことなのかも?

その南海道の南端においた官寺が海会寺で、その勢力にお礼に建てたのが往生院とか?

そして南海道の北端にあった寺を創建した南河内の豪族って一体・・・。


もう少し行くと阪急京都線の高架下だった。すぐ横が大山崎駅。

高架下にパンパオを発見。水無瀬駅でも見たパン屋だった。せっかくだから追加でゲット。

高架を過ぎてそのまま進むと、今度は新幹線の高架で、高架沿い(京都府道67号西京高槻線)をしばし進んだ。

右手には淀川の堤が見えていた。ここから淀川はしばし東に進み、西国街道と離れていく。少し東は、京街道で歩いた背割堤あたりのようだった。

道なりに進んでいくと、新幹線の高架を離れ、JR京都線に近づいていった(この手前でJRと阪急が交差して入れ替わり、西国街道の西にJR、そのすぐ西隣に阪急)。

左手に安養院への矢印が現れた。常夜燈もあり、そこには「聖天宮」とあった。鳥居には「観音寺」と扁額がかけられていた。

JRと阪急の向こう、右折すると安養院、直進すると観音寺(山崎聖天)だったみたい。

観音寺は平安時代、宇多天皇の勅願で創建したと伝わり、それを後に勝尾寺の僧が再興。その時、本尊を千手観音としたのだって。聖徳太子が彫ったと言われる像だそうだ。

ここのところ「本尊は千手観音」ばかりだな。勝尾寺の本尊も千手観音だそうだ。

聖天堂には歓喜天像があり、江戸時代に商人たち(住友家や鴻池家など)から信仰されて栄えたのだって。江戸時代、関西では歓喜天が商売繁盛の神様として流行していたのだそうだ。

けれど禁門の変で焼失し、明治時代に再建されたのだって。


禁門の変ってなんだろうと調べてみた。

江戸時代、ずっと鎖国をしていた日本に黒船がやって来た。島国で、鎖国していてもOKだったのだけれど、蒸気船の登場で世界が狭くなり、開国を迫られた幕府はYESと言った。

それを許せぬ!と声を大にして言ったのが、長州藩だったのかな。尊王攘夷(幕府には退いてもらって天皇中心の政治に戻し、鎖国は続ける)の志士たちは京で暗殺とかもしかけていった。

京都の治安を乱しているってことで、八月十八日の政変(1863年)が起き、過激な攘夷派たちが追放されることに。追放した側は京都守護職についた(1862年)会津藩や新選組(会津藩関係)、薩摩藩などかな。

しめだされた長州藩士たちは、会津藩主らを排して京都を奪回すべく挙兵。京の町が戦場になったのだって。禁門(蛤御門)が一番の激戦地だったから「禁門(蛤御門)の変」と呼ぶそうだ。

宇治川派流の京橋近くに伏見長州藩邸跡があったけれど、当時そこにあった藩邸からも進軍。

ここ山﨑には長州藩屯所(兵の詰所)があって、ここからも進軍。

ここ山崎から進軍したのは、天王山に布陣していた久坂玄瑞ら。吉田松陰の愛弟子で、妻も吉田松陰の妹という人だったそうだ。

医者の息子で、15にして家族をみんな失い、家を継いで医者に。松陰が獄死した後には、尊王攘夷派として長州藩の中心人物となったのだって。

久坂さんは、長州藩が京からしめだされた後も、朝廷に嘆願書を出そうとしていただけだったそう。けれど、進軍すべし!!の藩士らを止められず、出陣。

長州藩は一時はいいところまでいっていたそうだ。けれど会津藩に薩摩藩(西郷隆盛ら)が加勢し、長州藩は大敗。久坂さんも京で戦死。享年25。


生き延びた長州藩士らは、京から逃げていった。火を放ちながら逃げたり、戦いがあったりで、京都は火の海になったのだって。観音寺のほか、多くの商家もこの時、燃えてしまったそうだ。

山崎まで撤退した時、しんがりをつとめたのは17人。仲間を逃し、ここで追っ手(新選組ら)を迎え撃った。そして最後は天王山で自決。

宝積寺に葬られ、今は少し移ったところに17烈士の墓があるそうだ。

久坂さんの妻だった松陰さんの妹は、大正時代まで生きて、亡くなったそう。大正時代は、江戸生まれの人がごろごろいた時代だったんだな。明治維新を生きた人が、昭和の時代にもまだけっこう生きていたんだろうなあ。

平成、令和は、江戸生まれの人が皆無になった時代。そうやって時代は移っていくんだな。

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