西国街道と天王山
西国街道にはあちこちで「島本町共栄会」とあった。かつては街道沿いに商店も多かったのかな? ときどきだけカフェなんかもあった。
「愛宕山大権現」とか「愛宕神社」とか書かれた石碑の類もときどき見た。石碑があるだけで、周りは普通の住宅地。
道が上りになって、水無瀬川を水無瀬橋で渡った。川沿いには古い家々も見えた。
川を渡ると地名は東大寺。東大寺の荘園(水無瀬荘)があったことに因むそうだ。聖武天皇の時(奈良時代)に東大寺が造られて、その時、天皇がこの一帯を東大寺の荘園としたらしい。
このあたりで淀川に合流する木津川をさかのぼると、聖武天皇が都を置いた平城京や恭仁京のあたりで、そんなことが関係したのかな?
桓武天皇が遷都した長岡京は重臣の藤原種継の実家があるところだったそうだけれど、恭仁京は橘諸兄の本拠地だったそうだ。今の京都府木津川市だって。
橘諸兄は光明子(聖武天皇の妻)の異父兄で、高官だった人。
聖武天皇のときの都は、最初は平城京だったけれど、異変などが相次ぎ、急遽恭仁京に遷都したのだって。そしてその後も遷都を繰り返し、最終的にはまた平城京に戻ったそうだ。遷都というか、天皇が住まいを転々としたって感じなのかな。
次の四辻はいろいろ見るものがあった。右手には銭湯など、左手には若山神社の案内。「栁谷観世音菩薩道」ともあった。
気になりつつ先に進んだのだけれど、若山神社は北の山に向かって1km強、栁谷観音(楊谷寺)は何キロかいったところだったみたい。
このあたりでは南の淀川と北の山、その間の狭いところをJRと阪急が通っていて、その間を進むのが西国街道。北の山との境には名神高速が走っていて、名神高速の向こうに寺社がいろいろとあるみたい。
若山神社の祭神はスサノオで、行基が勧請したと伝わるそう。
栁谷観音は山の奥にあり、眼の観音様といわれているそうだ。
平安時代、エンチン(延鎮)なるお坊さんがいた。坂上田村麻呂は自分の屋敷にエンチンを招き、エンチンを開山として自宅を清水寺(本尊は千手観音)にしたのだとか。
そのエンチンが清水寺からやって来て、生身の千手観音に出会ったそうだ。その観音様を祀り、楊谷寺としたのだって。
後には空海もやって来て、楊谷寺はさらに株を上げた。
続きの上り道を行くと、左手に「山崎」と大きく書かれた建物が現れた。サントリー山崎蒸溜所だって。
ここに蒸溜所ができたのは大正12年。NHK連続テレビ小説「マッサン」のモデルになった竹鶴さんが所長として招かれたそうだ。竹鶴さんのことは、若い頃に働いていたという摂津酒造の跡地が地元近くにあって知っていた。
このあたりでは、椎尾神社の氏子のシールをよく見た。この北の方に椎尾神社があったみたい。
JRの踏切に近づき、小さな駐車場には英語でなにやら書かれていた。近くには「えんま橋」が残っていた。
ここで踏切を渡って北上すれば椎尾神社だったみたい。
そのまま進むと「西観音寺跡」とあった。かつてこの一帯に西観音寺なる大きな寺があったみたい。
西観音寺は、聖武天皇の勅願で行基が開いたと伝わるそうだ。若山神社もそのときに勧請されたのかな? 後には役行者もやって来ているのだって。本尊は千手観音(また出た)。
閻魔像のいる閻魔堂もあったそうで、えんま橋もそれに因むものだったのかな。
明治時代、廃仏毀釈(神社と寺が一緒くたになってしまっているけれど、神社には神を、寺には仏を、と分けて祀るべきとされ、数もかなり減らされた)のときに廃されて、一部だけが椎尾神社(祭神はスサノオ)として残ったそうだ。そして他のところはサントリーなどになっているのかな?
お寺の敷地とかが日本にはトータルして多すぎて、明治時代、産業発達のためもあってお寺を減らしたって側面もあったのかな?
先を進むと、右手にこちらに背を向けたなにかがあって、チャボでも飼われている小屋かな?と見てみれば、関戸町地蔵だった。たくさんの小さな地蔵がいた。
もう少し行くと、右手の高くなったところに関大明神(関戸大明神)。
祭神はオオナムチ(オオクニヌシの若い頃の名)とアメノコヤネ(中臣氏、藤原氏の祖神)。詳細は不詳。山崎には西国街道の山崎宿と山崎の関があり、関の跡地に関大明神が鎮座したともいわれるそう。
確かに関があった感じだった。道が狭まり、ここでぐっと湾曲している。
すぐ横には立派な石標があって、「従是東 山城國」とあった。ここが府境のようで、かたや「大阪府島本町」、かたや「京都府大山崎町」。
そして石標の横には「天王山 天下分け目の山崎合戦の地 大山崎町」とある看板。これはこの後も見た。
山崎合戦って、織田信長が、突然反逆した明智光秀に死に追いやられた本能寺の変の後の、秀吉(信長の忠臣)VS.明智光秀。
本能寺の変で織田信長を消し、京都を手に入れた明智光秀。ところが11日後、思いのほか早く中国地方から急襲してきた秀吉軍とここで戦うことに。敗北して、あっという間に逃げる身となり、逃げる途中で報奨目当ての農民に刺されたかして亡くなったそうだ。
ここで道が右手にカーブ。コの字型に進んで、また西に向かって行くのだけれど、左手に上る細い道もあって、進んで行ってみた。
すぐそばのJR山崎駅の駐輪場にたどり着き、そこには「山﨑駅跡・河陽離宮跡と離宮八幡宮の池跡」とあった。
平成になって駐輪場を造ることになり、工事前の調査で、9世紀頃の遺構が見つかったそうだ。
ここは山陽道と南海道の起点にあたる交通の要所で、山崎の関や駅家があったところなんだとか。平安時代の話かな? 山陽道は後に西国街道になった道で、ここから西に向かい、南海道は南下して、和泉経由で紀伊に向かう道。
河陽離宮は嵯峨天皇の離宮で、その跡地に建てられたのが離宮八幡宮だって。
淀川の「河」と、「陽」が当たるところってことで河陽と名づけられたって・・・本当かな。
昆陽にも似ていて、なにか関係があるのかも?と思った。昆陽は伊丹市にあった古い地名で、由来には諸説あるってことだった。たとえばアメノ「コヤ」ネからきている、とか。
嵯峨天皇は桓武天皇の息子で、母は藤原氏、妻は橘さん。
聖武天皇が遷都した恭仁京は橘諸兄の本拠地だったってことだった。
そして聖武天皇の皇后は、民間から初めて皇后になった光明皇后。父は藤原不比等(中臣鎌足の息子)、母は県犬養美千代。聖武天皇の母方の祖父も藤原不比等。藤原氏、かつての蘇我氏みたいになってるじゃないか。
藤原不比等には県犬養美千代の他にもおおぜいの妻がいて、その人たちが産んだ男子4人が当時、重職についていた。藤原四兄弟と呼ばれる4人だけれど、相次いで死亡。天然痘が大流行したらしく、それでばたばたと4人とも亡くなってしまった。
そこで代わって重職に就いたのが橘諸兄。県犬養美千代さんも再婚で、前の夫との間にも子どもがいて、それが橘諸兄だった。
橘諸兄は藤原不比等の娘を妻にして、二人の間に生まれたのが橘奈良麻呂。その孫娘(橘嘉智子)が嵯峨天皇の皇后に。
京都に近づくにつれ、橘諸兄の名が出てくるようになって、気になった。
行基の久米田池(岸和田市)築造に尽力したという橘諸兄。前に行った岸和田の箕土路町は、諸兄の母の氏族、県犬養氏の本拠地だったかもしれないってところだった。
京都方面にはどんな関係があって、名が出てくるのかな?
平安時代に京都に橘諸兄関係の人がいても当たり前のことなのだろうとは思う。首都だから、いろんな氏族の人々が住んでいただろう。でも、それだけではないような気もする。
奈良時代、恭仁京(山背国)の地がすでに橘諸兄の本拠地だったというのだし。
橘諸兄についてちょっとだけ調べてみた。
父方の祖父が栗隈王。
百済が滅ぼされ、再建しようとごたごたしていた天智天皇の頃、筑紫を任されていた人だそうだ。
唐や新羅が強く、亡命者が日本にも多くやって来ていた時代の、日本の玄関口。
天智天皇が亡くなると、壬申の乱が起きた。天智天皇の息子(大友皇子)と、弟(大海人皇子)との次期天皇の位を巡る戦いね。
栗隈王は、大海人皇子に仕えたこともあったそうだ。その栗隈王の元に、大友皇子からの出兵要請がきた。使者は、聞き入れなければ殺すようにと言われていたのだって。
栗隈王は、自分の仕事は筑紫で海外からの侵略に備えることだと、出兵を拒否。
二人の息子が太刀をさして脇を固め、使者は手出しできなかったそうだ。その息子の一人が橘諸兄の父。県犬養美千代の最初の夫、美努(みぬ・みの)王。
駐輪場からは神社の境内が見えていた。
西国街道に戻って進むと、神社の表側に出て、そこが離宮八幡宮だった。
冬休み、年末のその日、境内には地元の家族連れらしき人々がいっぱいいて、にぎやかだった。それで、なんとなくスルー。
後で知ったことには、ここも歴史の古い神社だった。
前に行った石清水八幡宮は、空海の弟子(大安寺の行教)が宇佐神宮で神託を受けたことで、清和天皇(桓武天皇の孫の孫)が創建したってことだった。
離宮八幡宮では、清和天皇が京を守るために宇佐神宮から八幡神を勧請することにして行教を派遣。ここに八幡を祀り、ついでに石清水にも八幡を祀ったという話になっていた。
そして後にこの地に離宮がおかれ、名が離宮八幡となったのだって。・・・ちょっと疑わしい話ではあるらしい。
どちらにしても、淀川からの京への入り口あたり、淀川の両岸(石清水と山崎)に八幡神が祀られたってことね。
ここ、離宮八幡宮の地には、元は酒解神社が鎮座していたそうだ。
酒解神社には酒解神(山崎神)が祀られていて、奈良時代の頃に建てられたと思われるのだって。
正式名は自玉手祭来酒解神社。古くは山崎杜と呼ばれたらしい。
天王山の山頂あたりに牛頭天王を祀る天王社(天神八王子社)があって、今はそこが酒解神社となっているのだって。
天王山の名も、この天王社からきているそうだ。
酒解神はよく分からない神らしいけれど、京都市の梅宮大社にも祀られていて、橘氏の氏神とも思われるのだって。
梅宮神社は、社伝によると、橘諸兄の母、県犬養美千代が祀ったことに始まるそうだ。
元は綴喜郡ってところにあったのだって。木津川の支流の玉川の流域にあって、橘諸兄の別荘もあったんだとか。井出というところで、橘諸兄はそこから井出大臣とも呼ばれたのだって。
今でも綴喜郡井手町。南隣が木津川市(恭仁京があったところ)で、西隣が京田辺市。
玉手より祭り来たる酒解神ってことは、酒解神社は玉手ってところから勧請したのかな。
岸和田で知ったような気になっていた橘諸兄だったけれど、知らないことばかりじゃないか。
県犬養美千代が祀ったならどんな氏神だったんだろうとちょっと調べてみたけれど、少し調べたくらいでは全く分からなかった。
カミムスビ(神魂命)-(略)-角凝命(ツノコリ・ツヌコリ)-イサフタマ-(略)-倭文神-(略)-県犬養氏
という系図になるようなのだけれど、酒解神との関係が分からない・・・。
犬養さん(県犬養のほか、阿曇犬養などがいる)って、元は守りの仕事をする人だったそうだから、玉手(守り手のことらしい)との関係はまあ分からないでもないにしても。(いや、ほぼ分からんが・・・。)
県犬養美千代さんの母については不詳だそう。もしかすると、美千代さんの母の氏族の神さまが酒解神だったとかかな。
調べているうち、県犬養美千代の孫に藤原永手がいるのを知って、興味深かった。
前に歩いた竹内街道で、近つ飛鳥あたりに杜本神社があり、そこに藤原永手の墓があって、永手さんのことを知った。
近くの丘には飛鳥戸神社があって、飛鳥戸さんの神社らしかった。飛鳥戸さんは雄略天皇の頃渡来してきた百済王の末裔で、このあたりに住んでいたみたい。
杜本神社にも平安時代には飛鳥戸さんを祀っていたそうだ。藤原冬嗣(永手の甥っ子の息子)の母がこの氏族だったのだって。
大昔にはフツヌシの子孫が住んでいたところで、杜本神社は元々はフツヌシを祀っていたのではないかってことだった。
橘諸兄の同母妹(牟漏女王)が藤原4兄弟の2番目に嫁いで産んだのが藤原永手だって。
藤原永手は県犬養美千代の孫であり、藤原不比等の孫でもあるんだな。二人は夫婦だったけれど、永手さんはそれぞれ別の相手との孫、という複雑な関係。
中臣鎌足の妻は山階(山科駅あたり)に寺を建てていて(その山階寺は遷都に伴い、藤原京、平城京へと移り、名も興福寺と変わったのだって)、山階にかつて鎌足さんと暮らす家があり、近所には田辺史さん(田辺史大隅)が住んでいて、息子の不比等を養育してもらった、ともいうらしい。
田辺さんは渡来系氏族と言われていて、雄略天皇の頃に住んでいたのは安宿。飛鳥戸神社の近く。そして後に京田辺へ。
なんだかなあ。平安時代になるもっと前から、藤原氏や橘氏は山背や山階に勢力を広げていたんじゃないの、と思った。
伏見稲荷が秦氏の創建ということにほぼ決定しているみたいに言われているのと同じで、平安京は秦氏が開拓したって、ほぼ決定しているみたいに言われているけれど、実は確かな話じゃないんじゃあ・・・。




