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西国街道を水無瀬から

年末が近づいて、西国街道の続きを歩きに行った。

西国街道は西には長田まで、東には島本町まで歩いていた。長田も島本町も散歩には遠すぎるなあ、と、続きはそのままになっていた。

前回歩いた京街道(の続き)は、京都は墨染(伏見区)まで行っちゃって、続きを歩くと山科とかまでになりそうだった。おうちに帰るのも遠いなあ・・・。

それならばとりあえず西国街道の続きを歩きに行こうと思った。山科に比べたら、島本町なんて近いものかも。

阪急京都線の水無瀬駅から歩くことにした。

梅田を出た電車が淀川を渡るとき、鉄橋を阪急電車が3本同時に北に走っていた。京都線はその一番右側で、ほかは宝塚線と神戸線ね。そして対向列車も同時に2本。

電車だと、鉄橋を渡るのはすぐだけれど、十三大橋とかの淀川を渡る橋は歩くととても長い。その距離の間に5本同時に走るってことはよくあることなのだろうな。


列車の外の景色は、ときどき見覚えがあった。

相川、総持寺、高槻(一部オープンしたらしい安満遺跡公園は、まだまだ手つかずのところのほうが広かった)、梶原(工事中だった道路は完成しているっぽかった)。西国街道歩きでも、いろんなものを見たなあ(「大阪を歩く犬5」参照ください)。

そうして到着した水無瀬駅は、淀川から西に500mくらい。対岸は樟葉。

京街道で歩いて、樟葉台場跡があったところ。幕府の施設だったものの、淀川をはさんだ対岸の高浜砲台が新政府側に寝返り、砲撃したってことだった。その高浜砲台があったあたりかな。

400mくらい西にはJRが走っていて、その向こうは山だった。大阪から京都に入るあたりは、山で囲われた中に細く通り道があって、そこを淀川とJRと阪急電車が走っている。

駅を西側(北口)から出て、左手の幹線道路を北西に向かって行った。

JR島本駅の手前、右手に見覚えのある公園が現れた。前に休憩した桜井駅跡史跡公園。楠木正成親子が「桜井の別れ」をしたといわれる桜井駅家があったとされるところ。

水無瀬駅も元は「桜井ノ駅」駅だったのだって。しかも今は阪急だけれど、かつては京阪だったそうだ。

公園の手前(桜井1丁目交差点)を右折。このシックにカラー舗装された道が西国街道だった。

もしかしたら西国街道はここからはカラー舗装されている道を行くといいだけ?と、期待した。すぐに道が2つに分かれ、左手に行くと踏切だった。ここは右に。地蔵があって、このあたりでカラー舗装は終わってしまった。

バス通りを過ぎて、小さな水路を中堤橋で渡った。

右手に田んぼ。水路と田んぼでいっぱいのところだったのだろうな。左手に阿弥陀院(浄土宗)。


このあたりは「阪急第〇住宅」みたいな住宅が多かったように思う。阪急電車が駅利用者獲得のためもあって開発したのかな。地名は広瀬だった。

左手に小学校があり、小学校を越えてすぐ右手に水無瀬神宮の石碑が現れた。

右折して行ってみた。

賑わっているスーパー(万代)があり、続々人がやって来ていた。駐車場に誘導する警備員さんもいて、地元民はみんなここに買い物に来るのかな、って印象だった。

広い駐車場と、水無瀬神宮。「初詣」の赤いのぼりがあがっていた。

そんなに広い神社ではなくて、いろんなものが密集している感じがあった。人が多くて、なにか正月の準備らしいしつらえもあって、余計にそう感じたのかな。

神社には行列ができていた。10人くらいはいたかな。みんな5リットルくらいかな?ってポリ容器を下げていた。

水が湧いているんだな、と、気にはなりつつ10人はな、とスルー。わたしたちの冬の水筒は350ccだったし。350ccのための50リットル待ちはつらい。

後で知ったことには、水無瀬は名とは違い、地下水が豊富なところなのだって。しかもここの水は「離宮の水」といって、名水百選(by環境庁)にも選ばれているらしかった。大阪府ではここだけなんだそうだ。それでかつて見た中で一番長い行列だったんだな。

「離宮の水」というのは、鎌倉時代の後鳥羽天皇の離宮(水無瀬殿)のあった地だからだそう。その宮跡に水無瀬神宮は建てられたのだって。

後鳥羽天皇は、源平の戦いで幼少で海に沈んだ(といわれる)安徳天皇に代わる天皇として、こちらも幼少で即位した人。


平安時代終わり頃、武士の力が増してきていた。政治を行っていたのは後白河上皇。

天皇は息子の高倉天皇だったけれど、その頃、上皇や法皇が政治の実権を握って院政を行い、わざと幼い子に天皇をさせていた。

高倉天皇は8歳で天皇になり、12歳くらいで平清盛の娘の徳子を妻にし、18歳くらいで長男が誕生。

平清盛は天皇と、そして摂関家の藤原氏とも姻戚となり、どんどん出世して太政大臣に。武士で初めての公卿(上級官僚かな)となったのだって。

皇族や貴族にとって武士は、それまでは、自分たちの持ち駒くらいの感覚だったのかな。清盛さんは持ち駒で終わらず、日宋貿易なども行って、甚大な力をもつに至った。

そんな清盛と反目するようになった後白河さん。清盛を倒す計画をたてるも失敗(1177年鹿ケ谷事件)。

事件の黒幕は後白河上皇で、清盛にもそれは分かっていたし、上皇を討とうとした。けれど長男の平重盛(父も認めるできた人物だったそう)に諌められ、思いとどまった。

けれどその重盛さんが病死。

清盛はクーデターを決行。後白河さんを鳥羽殿に幽閉し、娘の徳子が産んだ高倉天皇の子を、3歳で天皇に。安徳天皇ね。数え年で言うと1歳4か月だったそう。高倉天皇(20歳くらい)が上皇として院政をスタートさせた。けれど、翌年、高倉上皇は病死。

清盛さんも亡くなって(マラリア?)、また後白河さんが院政を行うように。


安徳天皇が即位したころ、後白河さんの息子の以仁王って人が、源氏(源義朝の息子の源頼朝や、甲斐の武田氏、信濃の木曽義仲、土佐の源義朝の弟などなど)に「平家討つべし」と号令をかけた。そして自らも立ち上がり、失敗して自害。

全国の源氏が立ち上がり、木曽義仲(源頼朝の従兄弟)がついに平家を蹴散らしつつ京へ。平清盛はその頃には亡くなっていた。

平家の人々は安徳天皇を連れて京を脱出。

天皇が不在となって、安徳天皇の異母弟が即位。これが後鳥羽天皇(4歳)。

天皇って、三種の神器(草薙の剣、八咫鏡、八尺の勾玉)を継承することで、正統なる王であることを認められてきた。アマテラスがニニギを三種の神器とともに地上に降臨させ、その子孫が初代天皇(神武天皇)となってから、いつしかそういうしきたりになっていた。けれどその三種の神器も持って、平家は京を出て行ってしまったのだって。

後鳥羽天皇は、三種の神器を継承せずに天皇となった、しきたり史上初めての人だったらしい。「三種の神器は持つべき人の所にちゃんともどってくるからだいじょうぶ」なんて言われたみたい。

京では、木曽義仲の評判が悪く、後白河さんは源頼朝に消してもらえないか打診。

源頼朝は鎌倉にいて、弟の義経らを京に向かわせ、義経さんたちは木曽義仲を倒し、平家との戦いにも突入。

平家は劣勢で、ついに壇ノ浦の戦いでは、まだ子どもだった安徳天皇も祖母(平清盛の妻)と共に海へ(実は助けられ、しばらく生存していたという説が濃厚になってきたそうだ。その後、病死したらしい)。そのとき、三種の神器も海へ。

八咫鏡と八尺の勾玉は見つけ出されたか、後鳥羽天皇の元に後に戻ってきたそうだ。けれど草薙の剣はついに見つからなかった。スサノオがヤマタノオロチを倒したとき、ヤマタノオロチの体から出てきたという剣。その後、日本武尊が持ち歩いていた剣。


後白河法皇も亡くなり、後鳥羽天皇は息子に譲位して上皇に。83代(長男)、84代(三男)と続けて院政を行った。

一方の源頼朝は鎌倉で征夷大将軍になり、鎌倉幕府始動。

けれど3代で途絶えてしまった。

85代(孫)の時、後鳥羽上皇は鎌倉幕府を倒そうとして失敗(承久の乱)。北条政子(源頼朝の妻)の有名な演説などあって、北条氏の率いる幕府軍が勝利した。

82代の後鳥羽上皇、83代、84代、みんな流罪に。そして天皇や院の権威は失墜。

隠岐の島に流された後鳥羽上皇は京に戻ることはかなわず、20年近くをそこで過ごして、60歳で死去。

その翌年に水無瀬さん(藤原氏)が後鳥羽さんを離宮跡のここに祀ったのだって。

後鳥羽上皇の母が藤原氏の子孫の坊門家で、水無瀬さんもその親戚筋だったみたい。

後鳥羽上皇は美しい水無瀬を愛していて、死の直前、水無瀬さんに広瀬を任せ、離宮跡地に自分を弔ってくれるようにと遺書を残していたのだって。その遺書は今も神社に現存するそうだ。


境内には「水無瀬駒発祥の地」と碑がたっていた。

駒って馬? それとも将棋の駒のこと?と思いつつ眺めた。これは将棋の駒のことだったみたい。

戦国時代の頃、水無瀬さん(後鳥羽上皇の時の水無瀬さんの子孫)が代々、水無瀬書なる書体で文字を入れて、駒をつくっていたらしい。その駒が水無瀬駒。

水無瀬駒愛好家の武将などもいて、水無瀬駒は水無瀬神宮にも保管されている他、武将の元愛用品としても現存するものがあるのだって。家康さんなども注文していたそうだ。

茶碗と武将たちの話は聞いたことがあるけれど、駒もしかり、だったんだな。

駒にはいろんな書体のものがあって、かつては天皇の許しを得た者だけが文字を入れられたのだって。

そして門のところには「石川五右衛門の手形」もあった。どこに残っているのか、全く分からなかったけれど。

駐車場の向こうには古そうな家が並んでいて、田舎だった感じがすごくしていた。耕運機をおいているおうちとかもあった。

「島本町共栄会」とあり、少しだけ店が残っていて、その商店や美容院がレトロでかわいかった。

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