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伏見稲荷・入門編

京阪電車を伏見稲荷駅で降りると、人がいっぱいだった。

屋台などがあって、やけに高いフルーツなどが売られていた。かごに盛ったフルーツに中国語の札がたてられていたりして、これは大阪城公園や道頓堀でも見かけるようになっていた光景だった。

そう思えば、海外からも人気の観光スポットだとテレビで言っていたな。コロナの始まる前、日本で一番海外からの観光客に人気、とかだったような。

中国、韓国の人が多くて、少し西洋の人もいた。中国の人たちが幅をきかせている印象で、踏切(JR奈良線)内で写真を撮ったりしているのを避けて歩いた。

今回の散歩のスタートで、京阪電車に中国人旅行者が多くて驚いたのだけれど、こういうことだったのか。


駅から伏見稲荷はすぐで、その道々に店がいっぱいだった。

けれど、こういうところはばか高いのだ。たいやき300円だって。食べ歩きする気も失せ、だだ混みだし、伏見稲荷を楽しむことを既に諦めた。

本殿に向かい、そのそばから始まる有名な赤鳥居の下を歩いた。わたしはバッグに入って。

鳥居はよく写真で見るほど鮮やかな赤じゃなく、オレンジっぽくて、人だらけの中、立ち止まって記念撮影する人が多くて歩きにくかった。

おかあさんは前に上まで上ったことがあるそうだ。その頃は外国の人はほとんどいなかったそうだ。参拝客はいたけれど、すいすい歩ける程度で、面白い異空間だったって。


鳥居はずうっと上の方まで続いている。その日は途中まで上っただけだったけれど、見晴らしはよかった。

伏見稲荷は奈良時代、秦氏が創建・・・ということになっているのかな?

本当のところは、よく分かっていないみたい。なのに「秦氏が創建」って言われすぎている気がするなあ。

秦氏が開拓した山城(長岡京、平安京)に遷都した、みたいな話もよく聞くから、それまでは未開の地だったのかなって感じだったけれど、このあたり(深草)は弥生時代から水稲栽培が行われていたところだそうだ。弥生時代から飛鳥、奈良にかけての大集落の跡も見つかっているのだって。

紀氏、土師氏、久我氏、荷田氏などがいたともいわれ、そこに秦氏が4~6世紀に渡来。秦一族は深草(当時は山城国紀伊郡深草)を本拠地としたのだって。

532年、欽明天皇(聖徳太子の祖父)が深草で秦大津父なる人を探し出し、右腕(大蔵の官)としたそうだ。聖徳太子は秦河勝を右腕に。

秦氏は嵯峨野、京都盆地へと勢力を広げ、後には長岡京、平安京の造営にも協力。

奈良時代の頃には深草稲荷(伏見稲荷)を創建。松尾社、加茂社なども秦氏が建立したのだとか・・・。

けれどみんな古いことで、よく分かっていない。

秦氏が創建したとか、そうではなく、先住していた荷田氏が祖神ウカノミタマを祀ったとか、いや、荷田氏は秦氏から分かれた氏族だ、とか、いろいろ言われているみたい。

伏見稲荷は淳和天皇(桓武天皇の子)のとき、神社として認められ、仁明天皇(桓武天皇の孫)の陵が深草につくられるなど、皇室や藤原氏との関係を密にしていったのだって。

そして今やはるばる海を越えて外国からまで人の押し寄せる観光名所だ。

いやはや、人の波を見に行ったかのような、と疲れて電車で帰った。

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