伏見と桃山
京橋から北上すると、次の辻に右手にカーブしていく広い道があった。そちらに進むと、右手に小倉山荘。それから左手に寺田屋。
せっかくだから行ってみた。
寺田屋は薩摩藩が定宿にしていた船宿だったそうだ。坂本龍馬も泊まったことがあって、その時、暗殺(捕縛)未遂事件が発生。
龍馬は2階にいて、入浴中の奥さん(おりょう)が異変に気付き、裸のまま知らせに階段を駆け上がったそうだ。慶応2年1月のこと。翌年11月には、龍馬は本当に暗殺されてしまう。数えで33歳だったそうだ。
そして翌年の正月が鳥羽・伏見の戦い。
坂本龍馬は有名だけれど、わたしはまだあまり知らない。幕末の土佐の人で、「いかんぜよ」とかしゃべり、早くに死んでしまったことくらいしか。あと、散歩で知ったのは、住吉大社の近くに土佐藩
の陣屋(住吉陣屋)があって、そこに訪ねてきて近くの住吉新地の高級料亭で遊んだこと、天保山でおりょうさんと九州行きの船に乗ったことくらいかな。
まだわたしには難易度が高すぎる人。
寺田屋の横は生垣のある広場になっていて、龍馬の銅像や、寺田屋にお金を払って入れる入場門があった。
このあたりに寺田屋があったのかな。伏見口の戦いで焼けてしまい、その跡に明治も後半になって建物が建てられたかし、「寺田屋」と名づけられたようだった。
寺田屋が焼けた時、切り盛りしていたのは女将のお登勢さんだったそう。
面倒見のいい人で、おたずね者を保護。龍馬とも縁は深く、おりょうさんのことも龍馬が寺田屋に預けていたそうだ。明治10年、48歳で死去。その目に明治はどんなふうに映ったんだろう。
京街道は歩き終えたし、そのまま東に進んでいってみた。
途中、左手に龍馬通り。赤い提灯(かな?)がずらりと見えて、楽しそうな商店街だった。
古くて面白いところで、一帯を散策していると、宇治川派流に出て、酒蔵があった。お酒を木樽に詰めて、船に載せて運んだのだろうな。
黄桜とか月桂冠とかの文字が目立っていた。
黄桜は大正の創業らしい(案外新しい)。黄桜の元になった酒蔵や月桂冠(1637年創業時は笠置屋)は寛永の創業。寛永は3代将軍の頃。他に北川本家(1657年創業)も古い。
鳥せいの建物が目立っていた。建物は元は酒蔵で、ここが鳥せいの本店なのだって。というか、伏見の酒蔵の山本本家(1677年創業)ってところが、酒蔵の一部を改装して鳥せいを始めたみたい。灘の酒におされたりで、鳥羽で江戸時代を通して酒造をつづけられたところはあまりなかったみたい。
そして鳥せいもまた鳥羽・伏見の戦いで全焼し、再建。
江戸の終わり頃には伏見の酒は衰退していたところに鳥羽・伏見の戦いで、さんざんだったみたい。けれど明治時代からまたがんばり、大正時代に大成長したそうだ。
鳥せいの横で、水をくむ小さな列ができていて(当時)、おかあさんももっていたペットボトルに水をもらってきた。
伊丹の素敵な丘でもこんなことがあったな。寺の楠の目立つ広場の横に無料でくめる酒蔵の水があって、そこに行列ができていた。
ここでいただけたのは伏見の地下水だった。伏見七名水の1つに「白菊水」があり、山本本家で酒造に用いていたそうだ。その地下水が今も湧いているのかな。名水ではなくなっていても、今の時代、そのまま飲めるっていうだけですごいことだと思った。
一帯には商店街も多くて、楽しいところだった。京阪の伏見桃山駅だけじゃなく、近鉄の桃山御陵前駅も近かった模様。
大手筋商店街あたりのパン屋でパンをゲット。
見つけた南部児童公園で休憩した。
ちょっと暗いところだな、と思ったら、大正時代にできた商業高校跡地だった。町の中に小ぢんまりとあったのかな。ちょっとレトロな感じだった。ニシナリで見るようなおじさんがベンチにいたけれど、外国人っぽい風体なのがニシナリと違っていた。
パンをおいしくいただいた。
この公園の西口から出たところ(南部町通)が、なにかの街道のようだった。というか、京街道の続き(東海道)と思って北上したのだけれど、間違っていたみたい。
本当はもう少し東を通るようだったけれど、ここを北上して行った。
いろんな地名があって面白かった。それぞれにいわれがあるのだろうなあ。伯耆町もあった。
区役所(鷹匠町)があり、「区民誇りの木」(2回目)クロガネモチがあり、そこは金札宮なる小さな神社だった。
元は久米村にあり、奈良時代の創建だそうだ。
白菊の翁の伝説があるのだって。白菊を振ると泉が湧いた、とかいう話で、白菊水に関係あるのだろうな。
祭神は白菊大明神ことフトダマ。平安時代の清和天皇の時、橘さん(橘諸兄の子孫)が阿波から勧請したとも伝わるそうだ。
寺もあり、けれどこのあたりは雰囲気は普通の住宅地だった。
幼稚園入り口まで進んで右折。最初の信号で左折して、再び北上(竹中町通)。右手に玄忠寺(浄土宗)。
この道は、左手の幼稚園あたりとは大きな段差があった。左手(西)はいきなりの低地で、右手(東)はなだらかに高台に向かっていた。
このあたりを「伏見桃山」というようだし、左手の高台は、その「桃山」ってやつかな?と思った。
伏見は秀吉さんの建てた伏見城もあったところのようだし、もしかして「安土桃山時代」の「桃山」って、ここのことだったりして・・・。
なんて冗談半分に考えた。わたしは初めて京都にやって来たトイ・プーで、まだなにも知らずにいた。
おうちに帰って調べてみると、本当にそうだったことが分かって驚いた。
桃山は元は木幡山と呼ばれていたそうだ。南には巨椋池があって、そこに秀吉さんは伏見城を建てたそうだ。後に桃がいっぱい育って、桃山と呼ばれるように。
桃山丘陵からは北に、深草丘陵、東山(稲荷山から比叡山までの総称)と丘陵地が続いているそうだ。そして桃山丘陵には伏見城だけでなく、明治天皇の陵墓もあるらしい。明治天皇が暮らしたのは東京だったけれど、遺言で京都に眠っているのだって。
桃山丘陵、もしくは深草丘陵のどこかには桓武天皇も眠っているそう。
冗談半分に「ここが桃山時代の桃山?」と思った場所から東に500mほど行ったところに伏見城があったみたい。一帯は城下町になっていて、武家屋敷も建ち並んでいたのだって。
秀吉さんはそこを本宅みたいにしていたみたい。淀君や息子の秀頼ともそこで暮らし、そこで亡くなったそうだ。
秀吉さんと言えば大阪城なのかと思っていた。大阪城は別宅みたいなものだったのかな。いろんな有力大名たちもまた伏見の城下や大阪の城下などに屋敷をもっていたりしたのかな。
秀吉さん亡き後は、遺言で息子の秀頼は大阪城へ。代わりに重臣だった徳川家康が伏見城に入ったのだって。
家康さんも後に大阪城に移り、多くの大名も大阪の城下に移り、伏見城下はすっかりさびれたそうだ。そして石田三成に攻められて(伏見城の戦い)、関ケ原の戦いがスタート。
小早川英秋が家康側に寝返ったというのは、この伏見城での戦いのときらしい。
伏見城は焼け落ちるも家康さんが豪華に再建。けれど十数年で廃城に。跡地は桃林となったのだって。
最初の信号で右折(丹波橋通)。左手に本成寺。
右手に勝念寺(浄土宗)。織田云々と書かれてあった。織田信長が帰依したというお坊さんの創建で、信長さんが贈ったという地蔵などがあるのだって。
それから2つ目の四つ辻を左折。また北上していった(両替町通)。なだらかに下って行き、ここが桃山丘陵の北の端なのかな?
寺や、裏長屋ってやつだろう名残が多々あった。奥の方にはかなりのボロ家があったりもした。お地蔵さんもいっぱいだった。京都って、町家1つ1つに地蔵があったのか?と思うくらい地蔵が多いんだな。
家康さんがここに伏見銀座を設置。後に移転した(京都の両替町通に)けれど、以降も両替商が多くて、町や通りの名になっているそうだ。
一本右手の道(京町通)がにぎやかで、そちらがメインストリートなのかな?という気がした。
正にそう。京都府道35号大津淀線になっているその道が京街道の続きの東海道。伏見街道でもあり、大津街道でもあったみたい。京町通、師団街道と進んでいくのだって。伏見街道は伏見と京(伏見口・五条口)を結ぶ、竹田街道より古い、歩行者のための道、かな。
わたしが歩いた両替町通は、碁盤の目になった京都の地味な通り。でも「碁盤の目」というのに慣れていなかったから、なかなか新鮮だった。
電車の高架下を通った。雰囲気は田舎なのに、電車は高架なんだな、と思った。
近鉄京都線で、高架の下は水路だった感じがした。桃山丘陵の地下水が枯れてしまわないように高架にしているそうだ。
広い車道(国道24号線)の手前で右折して、すぐの京町通で左折。24号線に出て、信号を渡って、そのまま北上。
狭いのに車通りが多いこの道が、師団街道。日露戦争の頃、軍事拡張の時代、このあたりには軍用の施設がいっぱいあったそうだ。兵器支廠や練兵場など。陸軍第16師団が配属されていて、それでこのあたりでは師団街道というみたい。
というか、このあたり一帯が陸軍第16師団の基地みたいになっていたのかな。
本因坊会館なるレトロな建物があった。囲碁の関係みたい。
本因坊なるお坊さんに由来するらしく、本因坊さんは織田信長、秀吉、家康も対局を見た囲碁の名人だって。テレビの無い時代、力のある人たちは、自分たちの前で面白いことをさせて娯楽にしていたんだな。
それから右手に墨染寺(日蓮宗)。
清和天皇の勅願で建てられ、その後、秀吉さんが、姉の帰依するお坊さんに土地を与えて再建。墨染桜なる桜で有名だそう。冬には小さくて地味な寺だった。
次の信号を右折すると墨染駅(京阪本線)で、伏見街道はここから墨染駅の東側を北上するみたい。東海道(大津街道)はこのあたりで分かれ、もう少し東側を北上。
墨染駅から北に3駅先が伏見稲荷駅だった。
せっかくここまではるばる来たから、電車で伏見稲荷に寄ってから帰ることにした。




