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序章

犬の大事な日課は散歩とごはん。

散歩って地元をうろうろするものだと思っていたのだけれど、わけあって遠出もするようになった。

近所に住吉大社があって、その界隈を散歩していたら熊野街道や紀州街道がそばを通っているのに気がついた。それが何のことかはその頃、てんで分かっていなかったけれど、どうやらそれらの道は北や南に続いているらしくて、ちょっと歩いてみよ、となった。

歩いてみると、知らない道を歩くのは面白かった。知らないことがいっぱいあった。紀州街道を南下していくと、すぐに古い建物も残る安立あんりゅうで、そこは一寸法師が刀の代わりの針を買ったところ、だったりした。

住吉大社の東の台地には帝塚山古墳があって、浦島太郎の墓なんて言われているところだった。

一寸法師が、とか、浦島太郎の、とかいうのはただのお話なのだろう。だけれども、安立が江戸時代には松の生い茂る、海岸に近い村で、そこを殿さまらが通っていたこと、帝塚山古墳が、かつては古墳がいっぱいだったという上町台地にわずかに残る、4世紀後半頃の前方後円墳であることなんかは本当だった。

歩いていると、そういう話がごろごろあった。もう少し先も歩いてみたい、もう少し先も見てみたい、と距離を伸ばしているうち、電車に乗って散歩に行くようになった。


前回歩いたのは枚方の茄子作なすづくりあたり。地元の住吉大社界隈からは電車を乗り継いで行かないといけないのだけれど、電車に乗るのも込みで楽しい。知らない土地に向かう電車に揺られるのはうきうきする。いっぱい歩いて、途中の散歩ではスイーツなど少々(たいていはパン)。それも楽しみ。

茄子作には「本尊掛松」って案内されているところがあった。もう姿はないのだけれど、かつてあった松がそう呼ばれていたらしい。

融通念仏宗を再興した法名上人が、ここで本尊を松にかけたのだそうだ。それで「本尊掛松」。

融通念仏宗って、平安時代の終わりころに良忍(秦氏?)って人が開いた宗派。平野(大阪市平野区)に大本山の大念仏寺がある。

平野は桓武天皇のときの征夷大将軍、坂上田村麻呂(アチノオミの子孫)の息子(坂上広野)に与えられて、その子孫らが住んでいたところで、大念仏寺は坂上広野さんの邸宅跡に設けられた道場に始まるらしい。けれどけっこうすぐに廃絶。本尊などは石清水八幡宮に預けられたのだって。

それから年月が流れて鎌倉時代の終わり、深江(大阪市東成区)の法名上人って人が融通念仏宗を再興。本尊を返してもらうため東高野街道(京の東寺と河内長野を結ぶ道)を北上し、茄子作の松のあたりで受け取ったそうだ。そして喜びの踊りを舞うのに、本尊を松に掛けておいたのだって。喜びを体で表現するタイプだったんだな。

そういうことを知ると、融通念仏宗や八幡のことが気になった。

平野や深江も前に歩いたことがあるけれど、茄子作との関係は知らずにいた。散歩をしていると、前に歩いたどこかとどこかのつながりを新たに知り、いろんなことがつながっていって、点が線になっていく感じがする。線が増えるとだんだん絵に見えてきて、それがなんの絵なのか、すごく気になってくる。


融通念仏宗が再興されたのは後醍醐天皇の頃だった。

後醍醐天皇は室町幕府をひらいた足利尊氏に退位させられ、幽閉されていた京を抜けだし、吉野で自分が天皇だ、と南朝をひらいた人。足利尊氏は後醍醐天皇を幽閉して他の人を天皇にしちゃっていたのだけれど、後醍醐天皇は我こそが天皇だ、と。戦乱の南北朝時代の始まりね。

後醍醐天皇はあらかじめいろいろと策をめぐらしていたはずで、いざというときに京から逃げおおすための道、味方も確保していたのじゃないかな・・・。

京を脱出する前、後醍醐天皇は平野に行っているそうだ。平野の、坂上広野さんの妹(坂上春子)が創建したお寺に。

京を抜けだした後醍醐天皇がどんなルートで吉野に向かったのかはよく知らないのだけれど、融通念仏宗の参詣道とも呼ばれたっていう、融通念仏宗の寺の多い中高野街道(平野と河内長野を結ぶ道)は、住吉大社(大阪市住吉区。南朝の行宮があった)や天野山金剛寺(河内長野市。南朝の行宮があった)や吉野ともつながっていた。

融通念仏宗って、むかし、政治とかなり関わっていたんじゃないかと思った。法明上人の父は後宇多天皇(後醍醐天皇の父)に仕えていたというし。

ただの線が絵に見えているだけかもしれないけれど、後醍醐天皇はあらかじめ京から吉野へ逃げおおすために融通念仏宗を再興し、道々に融通念仏宗の寺を配置させておいたなんてことはないかな・・・。

そして石清水八幡は?

八幡神って、起源はよく分からない古い古い神だそうだ。一番最初の八幡は、応神天皇陵の前に祀られた誉田八幡だともいわれているみたい。15代応神天皇の6世孫くらいにあたる欽明天皇のとき(559年)のこと。

欽明天皇は継体天皇の息子で、推古天皇のお父さん、聖徳太子のおじいさん。この天皇のとき、百済の聖王から仏像などを贈られて、これが日本に仏教が公的に伝わった年だとされている。

けれど間もなく、新羅との戦いで百済の聖王は死去。当時、日本と深い関係だった(日本の支配下にあった、とも)任那も滅ぼされてしまった。欽明天皇は任那の復活を願って、応神天皇陵の前に八幡神を祀ったのだとか。

その後10年くらいして宇佐神宮も八幡を祀るようになり、いろいろ神託を出すようになり(?)、平安時代、空海の弟子が宇佐神宮で神託を受けて、清和天皇の勅命で石清水八幡を創建。

石清水八幡で源氏のヒーロー、源義家が元服したこともあってか、石清水八幡は源氏の氏神に。やがて宇佐神宮にかわり、石清水八幡が国家の鎮守となったのだって。

源義家、源頼朝ら有名な源氏はほぼほぼ清和源氏。清和天皇の血を引く人たちね。

清和天皇ととある娘との間に生まれた貞純親王って人の孫が源満仲(多田源氏の祖)で、そのひ孫が源義家。なのだけれど、その「とある娘」というのが、坂上春子さんのひ孫。坂上田村麻呂の娘の春子さんは桓武天皇の妻になって、子を産んでいて、その子の孫が清和天皇の妻になって貞純親王を産んだんだな。

平野、源氏、八幡、融通念仏宗・・・偶然なのかもしれないけれど、いろいろと気になった。


石清水八幡はまだ行っていなかった。

京街道(大阪と京を結ぶ道)は少しずつ、枚方の御殿山駅(京阪本線)まで歩いていた。2年前のこと。

大阪城あたりから淀川に沿う感じで東へ。元々、豊臣秀吉が淀川に造らせた長さ27kmの堤(文禄堤)が起源の街道らしい。東海道53次は江戸から京までの道だけれど、それに京街道を足して大阪まで、57次(53次+伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿)と言うこともあったそうだ。

大阪から歩いた街道は市街地で、商店街が多かった。森小路商店街、千林商店街などがあって、守口宿。ここは文禄堤が壊されずに残っている唯一のところで、堤の地形のまま街に融合して、お店の並ぶ雰囲気のある高台の通りになっていた。「ちょうちん・傘」の古いお店や、再現された高札場なんかがあった。

それから清滝街道(守口街道)と分かれ、淀川沿いの田舎めいた道に。弥生時代、玉づくりの工房(勾玉とかつくっていたところね)があったってところや、水路が今も町にめぐっている光善寺を通り、枚方宿へ。

磐船街道と交差して、もう少し行くと御殿山駅だった。

道々、蓮如や菅原道真の関係のものが多かった。光善寺や石山本願寺など、京街道沿いには蓮如や、その子孫らが活躍した場が多いから。あと、道真公は大宰府に左遷されていくとき、淀川を下っていったという人で、加えて江戸時代、淀藩主の永井尚政って人が大の道真公びいきで、近辺のあちこちに道真公を祀ったらしいから。

その後、続きを歩かないまま2年が経っていた。

当時、御殿山は遠いところって感じだった。もっと近くに気になるところはいっぱいあったし、わざわざ御殿山まで行くことはなかった。

でも、御殿山の先に石清水八幡があったな、というわけで、京街道歩きの続きを歩く時がきた。

もっと近くの気になるところもだいぶ歩いてしまっていたし、もっと先に足を伸ばして、もう御殿山もそう遠いところとも思わなくなっていた。

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