今の君に恋をする
いつもながらの世界観はなんちゃって西洋風?ぐらいのご都合ふわふわ設定。
全てがふわっとしたご都合主義で出来上がったお話です。
「……なぜヘイル様がここにいらっしゃるの?」
そう言ったのは、平民の服を着込んだ婚約者だった。美麗な顔に収まる形の良い眉がつり上がり、きっと睨みつけられる。
治安が良いものの、貴族が訪れるような場所でもない平民向けの安い商品を扱う商店が並ぶ通りにいる相手に、それはこちらの台詞だと言いたくても言えず、人が良さそうと言われる笑みを浮かべて青年は頭を掻いた。
青年の名前はヘイル・ジーン・バークス。一応は伯爵令息だ。
とはいえ三男坊である彼が爵位を継ぐことなどは、兄二人によっぽどのことがない限りはありえないし、そもそもヘイルは貴族向きの性格でもない。
貴族の端くれであることから多少なりとも行儀作法や社交術といったことは学んできたはずなのに、どうにも表情に出やすく、周囲からの呆れ顔が向いていないのだと雄弁に物語っていたし、跡継ぎにはなれない三男坊らしく騎士団に入ってみても出世するような才能は皆無だ。
周囲からは人が良いとは言ってもらえるが、それは争いが苦手なことから怒ることも無く、ただヘラヘラと笑っているからだということはヘイル自身がよく知っている。
そのせいで釣書を送った先からは軒並み断られていた。
だからヘイルの父は娘しかいない男爵家への婿入りを、権力と人脈と金を使ってでも勝ち取ってきたらしい。
晴れて婚約相手となった令嬢はヘイルを圧倒する勝ち気ぶりであったが、まるで伯爵令嬢か侯爵令嬢かのような品の良い出で立ちと将来が楽しみな麗しい姿から、初めて会った時に目を奪われたものだけれど、自分には勿体ない相手だと思っている。
6歳下の少女は精巧な人形のようで、髪は太陽に似た眩しい金、猫を思わせる強い瞳はアメジストを嵌め込んだかのよう。肌は陶磁のようで柔らかな赤は小さな唇を彩る。
対してヘイルの髪はアッシュブラウンというくすんだ色のせいで若々しい印象が薄れており、色彩として添えられるのはこれまた特徴のないコーヒーブラウンの瞳。顔の造形も含め、全てが凡庸だ。
だから、せめて相手に気に入られようと、兄へと嫁いできてくれた義姉からアドバイスをもらって贈り物を贈ってみたりはしたのだが、形式ばったお礼の返事が届くだけで婚約者である少女が喜んでいるのかはわからない。
苦情は書かれていないから大丈夫なはずだ。そう信じたい。
直接会って聞けるのならば話は早いのだろうが、ヘイルは騎士団として働いているので休みが不定期だし、婚約者であるグレイシアはまだ学生なので学業があり、それと並行して爵位を継ぐために当主としての準備に忙しいと聞いている。
婚約して三ヵ月。どうにかグレイシアの婚約者として、良い関係を築きたいと思っているが、互いに余裕がない中で会いたいと手紙を送るのは、大人であるヘイルには憚られて日々だけが過ぎていくばかり。
その婚約者を見かけたのは偶然だった。
騎士団内で勤務時間の変更が起きたことで急な休暇を貰って、何をしようかと考えていたところ、義姉に叩き出されるようにして街へと繰り出すことになったのだ。
勿論、定型文で構成されたお礼状を送ってきた婚約者へ、今度こそ喜んでもらえる贈り物を購入するためである。
勝手に届いた手紙を読んだ義姉の何かに火をつけたらしい。
「絶対に喜んでもらえる物を探していらっしゃいな」と言って、流行りの菓子や装飾品の店のリストを渡してきた義姉の表情が非常に恐ろしかったので、反論することもなくそそくさと伯爵家を飛び出した。
義姉は流行に敏感な人だ。その自負があるゆえにグレイシアの返事が気に食わなかったに違いない。
馬車を拾って街の中心から少し左側に逸れ、平民達の住宅に近い場所にあるのだと教えてもらった店へと向かい、馬車から降りたところで婚約者本人を見かけたのだった。
声をかけようか一瞬迷ったのは、貴族らしからぬ恰好をしていたからで。
平民が着るようなシンプルなワンピースと、僅かなレースのついたエプロン。生地も光沢のない、名前はわからないが安っぽい素材だ。それから結ばれた三つ編み。明らかにおしのび衣装だった。
まさか貴族然としていた彼女がそんなことをしていると思わなかったので、ヘイルは驚きから躓いて転んでしまったのだ。
恐る恐る顔を上げれば、目を丸くして驚いている婚約者の姿。
そして冒頭に至る。
「なんてことかしら」
小走りで近寄ってきた彼女の顔は、不機嫌さを隠すことをしない。
状況も状況なだけに聞きたいことはある。けれど余程ヘイルに知られたくなかったのだろう、婚約を申し込んだ時にも表情を変えることのなかった美しい顔は、眉を顰めてヘイルを睨んでいるようだった。
自然と眉が下がるのを止められない。
とりあえずと体を起こして、ついた砂埃を払う。
「あの、」
と声をかければ、身じろぎした後に嘆息をこぼしてヘイルへと向き直った。
「なんでしょう、ヘイル様」
さっさと切り上げたいのか口調は丁寧だが距離を感じさせる。ヘイルの眉はさらに下がって今や涙目にすらなりそうになる始末。
頑張れ、僕は22歳の成人男性だと自己暗示をかけながら、いい人に見えるだろう笑みを浮かべて言った。
「そ、その、グレイシア嬢はそういった服も可愛らしい、なと」
誤魔化すように笑って頭をかいたヘイルに少女はもう一度嘆息した。
少女の名前はグレイシア・エヴァンス。エヴァンス男爵の一人娘だ。
この国では女性であろうと血縁者であれば爵位を継ぐことは可能である。そんなグレイシアのために父親が連れてきたのが、目の前で困ったように笑うヘイル・ジーン・バークスだった。
爵位を継ぐことのない伯爵家の三男坊は、父親から見てそれなりに優良物件だったらしい。いくつもの釣書の中から彼を選び、素直な青年に育っていると勧められて出会ったのは三か月前。
グレイシアから見た率直な感想は"素朴"であり、貴族らしいとは思わなかった。
容貌については特に問うつもりはない。ただ感情がよく表情に出るのは平民のようだと思ったし、社交術に長けている様子でも無かった。
彼に本で描かれる物語に出てくる役割を与えるとしたら、親切な村民や町民といったところだろう。もしくは主人公の友人や従僕か。なんにしても主人公になれるような人物でもない。
いや、このような考えは婚約者である彼に失礼だと思いながら、怯えた笑顔へと向き直る。
今、自分はどういった表情を浮かべているのだろうか。夜会やお茶会で貴族達に向ける笑顔の仮面では、今更この場を取り繕えない。いや、彼に対してはどうにも貴族の仮面を被ることができないでいる。
せめて不貞腐れた顔になっていなければいいのだけど、と思いながら無言で見上げれば、彼の際限なく下がる眉が困ったといわんばかりになっていた。
「なんてことかしら」
思わず言葉がついて出れば、下がった眉はそのままに笑みが消える。
まるで叱られた子犬のようだった。彼は何も悪く無いのに。
顎に手を当てて考えるような素振りを見せた彼に、グレイシアはどう映っているのか。
年上に敬意を払えない小娘か、はたまた暴虐に振舞う婚約者か。どちらにせよ良い印象は与えないだろう。
そんなつもりはないのに。
「どこに行くつもりだったか聞いても?」
問う声はやや硬い。それでも咎めるような強さは無くて少し息を吐いた。
なんと答えたものかと思案すれば、今度は彼が深い息を吐いた。
「別に咎めているとか、そういうことじゃなくて。
ただ、ここら辺が安全だとしても、女性だけでは危ないから」
本当に彼はお人好しだ。婚約者が平民の格好をしてフラフラしているのに、文句の一つも出さずに心配ばかりしているのだから。
彼の友人がどんな風に言っているのかよく知っている。
「優柔不断」「八方美人」「ヘラヘラした笑顔の奴」。どれも的を射た表現だろう。
けれど、それはヘイルを側面から見た一部であって、全てがそうではないのだ。
優柔不断は優しさとなるし、八方美人であれば周囲の諍いを仲裁するだろう。笑顔だけというが笑みを保ち続けることの大変さは、貴族であれば誰もが知るはずだというのに。
ヘイルが周囲を見渡して目を細めた。
どことなく懐かしんだ様子なのは、彼もここに来たことがあるからだとグレイシアは知っている。
「ここら辺は治安もいいし、僕、いや私も学生の頃はこっそり友人達と平民の格好をして何度か遊びに来たりしていたから」
案の定、来たことがあるのだという告白をして言葉を続ける。
「随分前に遊びに来た時に小さな女の子が迷子になっていて、友人達と一緒に母親の元に届けたことがあって。
くるくると表情の変わる子で、ちょっと猫みたいだったな。今頃は多分、グレイシア嬢と変わらないくらいの年になっているとは思うけど。
そういえばグレイシア嬢も猫のような印象で、」
彼が言葉を止めてグレイシアを見た。
はっきりした顔立ちに強さを感じる瞳は猫のようだと、会ったときに思ったのだが。
「母に会うため、ここに来たのです」
ぽつりと落ちた言葉。
言葉の真意がわからず、戸惑うままに彼女を見れば苦笑を浮かべていた。
「その顔は聞いていなさそうですね。
特に隠してはいないですし伯爵様には前もってお伝えしていたのですが、私、お父様の庶子ですわ」
聞いていない、とは口に出さなかったが納得する。
彼女は男爵夫妻とあまり似ていなかったからだ。男爵夫人と仲が悪くもなさそうだから祖父母に似たのかと思っていたのだが。
「お父様と母は学園で出会ったそうで、割り切った上で期間限定の身分違いの恋人を楽しんでいたそうです。
勿論卒業時には多額の慰謝料を払ってくれて関係を切ったのだそうですが、母に私が宿り、お父様と奥様は子どもにご縁が無かったそうで。
だから私が引き取られることになったと聞いています」
彼女の周囲を見渡す視線はどことなく懐かしさがあって。
「引き取られる前まで、私はこの付近に母と二人で住んでいました」
「つまり、君は」
「失礼ながら、ヘイル様のことは平民の方だと思っていたのです」
そうしてからグレイシアはヘイルから視線を外す。
「だから、どうしても見つけられなくて……」
語尾は消え入りそうな程に小さくなっていく。
「グレイシア嬢は僕を探してくれていたの?」
問えば、小さく頷いてくれた。
「あの日の私はお父様に引き取られることになっていて、迎えの人を振り切って逃げ出したのです。納得できないままに連れて行かれましたから。
母に会いたくてあそこに戻れども、迎えの人に見つかったら連れて行かれる不安で身動きが取れず、ヘイル様の繋いでくれた手だけが縋れる唯一でした」
グレイシアが居住まいを正してから、緊張した面持ちで見上げてくる。
「あの時、無事に母にお別れを告げられたのはヘイル様のお陰です。
ずっと、ずっと貴方を探していました」
無意識か、両手が祈るように胸の前で組まれた。
「私はあの時から、ヘイル様をお慕いしております」
自分は今、いつものただ笑っている顔でいるのか少し自信がない。
ああ、でも笑う必要はないのかもしれない。
彼女がこんなに真面目な顔をしているのだからと、ヘイルは思い出の片隅にいた少女と対面する。
「グレイシア嬢。あのときの君はまだ幼いから、さすがに恋に落ちたりとかしなかったけど」
何年も前に少しだけ一緒だった女の子の記憶なんて、印象程度にしか残っていない。はっきりと覚えているのは、自分よりも少し高い体温の手を繋いだ記憶ぐらい。
泣き出しそうだった子猫のような小さな女の子。
迷子だから連れて行ってあげようというぐらいの気持ちだった。
「でも、今の君は立派な貴族で、ずっと最初からそうだと思っていた。
生まれた時から教育を受けたくせに、僕は全然そんな風になれないのに」
ちっとも貴族らしくないヘイルの方こそ、相応しいのかはわからないくらい素敵になって。
「君はもう、あの時の小さな女の子じゃない。僕の婚約者だ」
二度目ましての君に目を奪われたから。
そっと手を伸ばして強く組まれた指先に触れる。
「探してくれてありがとう。
それなのに思い出せなくて、ごめんね」
彼女は小さくかぶりを振る。
猫のような強い瞳。優美な姿。それでも彼女はひたむきなまでに恋をする可憐な乙女で。
再会したときに目を奪われたのはきっと、
「グレイシア嬢、僕も君に恋をしていいかな?」
「駄目、ではありません」
小さな声は確かに耳朶に触れ、耳の中へと滑り込む。
その音にくすぐったさを感じながら、ゆっくりと力の入ったままの指を解いていく。
彼女はその様を見つめ、そうしてから花が綻ぶような笑顔を見せた。
その瞬間、心臓が跳ね上がったかのような感覚と熱を覚えて、解いたグレイシアの指先を包み込む。
「……その、ごめん。
君に恋をしていいか聞いたけど、駄目じゃないではなくて、いいって言ってほしい」
「ヘイル様?顔が赤くなって、え、」
聡い彼女は何かを察したらしく、みるみると顔を赤くしていく。
まるで熟した林檎みたいと思いながら、多分きっと、同じような顔をしているのだろう。
どうか見知った人間が見かけませんようにと祈りながら、あの時と同じように彼女を送り届けようと、今は変わらない体温となった手を繋いだ。
小さい子って体温高いですよね。
今なら一緒ぐらいかもしれないです。