04 エレミア・パールは治癒院が嫌い
「……ああ、気持ち良い朝」
外出するのは久しぶりだ。いつの間にか空気が柔らかくなっていて、季節の移り変わりを感じる。花開く季節の風は、どこかまろやかで華やか。鼻から息を吸うと、遠くからやってきたような、微かな花の香りがした。
薬草店の周りは、ちょっとした森になっている。人通りの多い街中では、たくさんの人の痛みを受けてしまうから、奥まったこの場所は都合が良い。
扉に「外出中」の札を掛けて、森の中の小道を抜ける。木々の間には、様々な野草が生えている。
普段なら、この辺りにある薬草を摘んで、干したり煎じたりすれば事足りる。保存のできるパンや肉は、数週に一度買いに行けば良い。充分に引きこもれる環境なのだけれど、今日は行きたい場所があるのだ。
「う……」
小道を抜けて暫く歩くと、街の通りに出る。明るくなると、街は活気に溢れている。人通りの中を歩くと、時には頭が痛くなり、時には腰が痛くなる。苦しくて、思わず顔を顰めた。
「おや、お嬢さん。大丈夫かい?」
「大丈夫です!」
露店の売り子に声をかけられ、慌てて笑顔を作る。この体質には困ったものだ。人混みに紛れると、すぐに具合が悪くなってしまう。
私は目的の店へ、真っ直ぐに向かう。具合が悪いのが辛いから、早く帰りたい。早足で歩いていると、ずきん、と腹部が痛んだ。
「え、何……」
お腹だけではない。頭も痛い。左足に激痛が走り、体勢が崩れた。事故が起きた? 原因がわからなくて、周りを見渡す。
「あ……治癒院、だ」
治癒院には、怪我をした人、病に悩む人が集まる。だからいつも遠回りして歩いていたのに、すっかり忘れていた。
ここに、このまま居たらまずい。少しでも遠ざかろうと、痛い左足を引き摺りながら来た道を変える。
吐き気がする。最早、誰かの体調不良なのか、それに影響されて自分が体調不良なのかもよくわからない。口元に手を当て、うずくまるしかなかった。
「大丈夫ですか? 治癒院はすぐそこですから、頑張りましょう」
「や、やめてください、治癒院は……」
誰かに手を引かれる。霞む視界でよくわからないけれど、私は地面に足を踏ん張り、懸命に首を左右に振った。治癒院には行きたくない。もっと具合が悪くなる。
「だ、大丈夫、なので」
「ですが、立ち上がることもできないようでは……」
「向こうに! 連れて行って、くれませんか!」
「俺が運びますよ」
ふわり、と体が浮く。頭の痛みも脚の痛みも消え、吐き気が収まった。ひどい冷や汗をかいた。息を吐くと、動悸が落ち着く。何だか体が重苦しいが、先程までの体調不良の名残だろう。
「ありがとうございます……」
見上げて、驚いた。銀の髪。緑の瞳。朗らかな笑顔。
「レナード、さん……」
「こんにちは、エレミアさん」
最近よく見かける顔が、目の前にあった。
「お、降ります! もう大丈夫です」
「そうはいきません。顔色が悪いですよ」
「それは……」
あなたが近くにいるからです、とはとても言えない。言葉を選んでいるうちに、レナードはそのまま歩き始めてしまった。
「治癒院がお嫌いなのですか?」
「はい。行くと、具合が悪くなるので」
「はは、具合が悪いから、治癒院に行くんじゃありませんか」
相変わらずの朗らかな笑顔である。私を抱え、注目を浴びまくっているというのに。
正直言って、気が気ではなかった。先程から、四方から突き刺さる視線を感じる。
「ランベルク様に抱かれて運ばれるなんて……」
「……絵になるわ」
明らかに私たちのことを指す囁き声も、風に乗って聞こえてくる。居た堪れなすぎて、早く下ろしてほしいのに、その度に「顔色が悪いから駄目です」と言われてしまう。
「そんなに具合が悪いのに、どうして外出されたのですか?」
「ちょっと、取り寄せたい薬草があったのです」
背中に感じる、立派な腕の筋肉。頭を寄せる胸元の屈強さ。何だかいい匂いがするし、顔も近い。美男に抱かれて歩くなんて、くらくらするするようなシチュエーションだがーー相変わらず私は、それどころではなかった。
全身がだるい。そのだるさを顔に出さないよう、笑顔を作るので精一杯だ。
「薬草を取り寄せることもあるのですね」
「ほとんどは家の周りで事足りるのですが、血行を良くするものが欲しくて。山奥に生えるものなので、この辺りにはないんです」
「血行、ですか」
「はい。レナードさんの疲労感を和らげるのに、効果的かなと……」
ゆさゆさ、規則正しく揺れていた体が、不意に止まった。違和感を覚えて見上げると、レナードの瞳が、丸く見開かれている。
「俺の疲労感?」
「あ、いえ、ええと」
「……わざわざ用意してくださろうとしたのですね」
レナードの浮かべた微笑みは、いつものものだった。変には思われなかったらしい。ほっとして、肩の力が抜ける。
「せっかくですから、お茶を一杯頂いて行っても?」
「ええ、もちろん、です」
わざわざカウンター奥の椅子に座らされた私は、レナードの風魔法で目の前まで運ばれたカップに茶を注ぐ。昨日彼に振る舞ったのと同じ、眠りの深くなる薬草を混ぜた薬草茶である。
私も同じ茶を注いで飲む。油断すると取り落としそうになるが、腕のだるさを失念しなければ、カップを落とすことはない。
熱くて、爽やかで、ほんの少し甘いお茶。全身を襲う疲労感が、なんとなく和らぐ気がする。これは気のせいだと思うけれど。
「……ふう、美味しい」
「昨日のものより、少し甘みがありますね」
「わかりますか? 裏庭で育てているベリーを少し混ぜたんです」
「だからですか。昨日のよりも、飲みやすいですね」
甘みがあると言っても、ほんの少しである。レナードは、随分鋭敏な舌をしているらしい。
「落ち着きますねえ」
「……ええ」
陽の差し込む静かな店内に、茶を飲む音だけがする空間。余計なお喋りのないまったりした時間の流れは、確かに落ち着く。
「ここにいると何だか楽なので、つい長居してしまいます。巡回が長引くので、あまり褒められたことではないのですが。エレミアさんのお人柄ですね」
「ありがとう、ございます」
彼が楽になることに、私の性格は関係ない。その疲労感を肩代わりしているから、楽に感じるだけなのだ。
言うつもりはないけれど、何だか騙しているみたいで、罪悪感がある。彼が出て行くなり軽くなる肩を回しながら、今日の会話を反芻していた。
レナードは甘い方が好みらしい。次来た時には、薬草を混ぜたクッキーでも用意しておこうか。あるいは……。
……おや? 何だかまるで、レナードが来るのを楽しみにしているみたいではないか。私は頬をぺちんと叩き、浮わついた心に喝を入れる。今日の街中の視線でも感じたが、レナードは人々の注目を浴びる、憧れの騎士様である。私などが、何かを期待するものではない。
ただ、気にかけてくれる気持ちを素直に受け取り、その恩を多少なりとも返すために、彼の症状を和らげたいだけなのだ。