8ー27 最終話 ヘルガと嘘つきな王太子
久しぶりに図書館を訪れると、彼女からその話を聞いたオーディーは、息を呑むようにして高く「え⁉︎」と、叫んだ。とても信じられないという視線を向けられたヘルガは苦笑する。
「…………あの方、王太子殿下だったんですか⁉︎」
「そうなんです」
ギョッとしたオーディーに、ヘルガは頷く。
「そ、そうだったんですか……いや、いつもヘルガ様をじっと見ていらっしゃるばかりで……全然そんな……」
まさか、あのストーカーみたいな人が、とはもちろんオーディーも言わなかったが。司書青年は困った様子で頭を掻く。
「まいったなぁ、僕、何か失礼したりしなかったかな……」
「大丈夫です。正体を隠していたのはあちらなのですから、多少の無礼はあちらが呑み込むべきです」
ヘルガはきっぱりと言い切るが、それでもオーディーは心配している様子だった。と、青年は気がつく。
「ええと、それで……お二人はご婚約なさったんですね? おめでとうございます」
丁寧に祝いの言葉を贈られて、ヘルガがにっこりする。その薬指には金色の婚約指輪が。
「ありがとうございます」
「王太子殿下もお喜びでしょう?」
あれだけヘルガに執着していたのだから、という言葉をオーディーは呑み込んだ。ところが何故だかヘルガはため息をこぼす。そんな令嬢に、オーディーが不思議そうな顔をした。
「? どうかなさったのですか?」
「実は……」
と、ヘルガが説明しようとすると。そこへ、女が二人やってきた。一人は短い金髪に、気の強そうな顔の侍女。もう一人はたくましい身体付きの女騎士である。二人は何やらやいやいといがみ合いながらヘルガの元へ。
「なんなのよ、これくらい監視されてなくったってちゃんと仕事するわよ、鬱陶しいからついてこないでよ!」
「黙れモナ。貴様罰を受けている身だと言うことを忘れるな!」
「はいはいはい! うるさいな!」
女騎士に叱咤され、モナと呼ばれた娘はやさぐれた顔でヘルガの元へ戻ると、冷たい顔で数冊の本を差し出した。
「ほら、持ってきましたよお嬢様! ふん!」
「お前! 無礼だぞ! 態度を改めろと言っているだろう!」
「⁉︎ ⁉︎」
「あらぁー……」
賑やかな二人にオーディーは驚き、ヘルガは頬に手のひらを当ててため息をついた。
「お二人共? ここは図書館ですよ。もう少しお静かに願います」
「! 申し訳ありませんヘルガ様!」
女騎士、グラントの姉オリビアは、しまったという顔でかしこまって頭を下げる。が、隣の“モナ”は、ツンと横を向いて、いかにも口先だけという謝罪をする。
「はいはい、どうもすみませんでした」
「お前!」
「あらあらあら……」
モナの態度にオリビアはカチンと来たらしく。このままではまた第二ラウンドが始まってしまいそうである。ヘルガは困ったわと苦笑。
──この、ヘルガの新顔侍女モナは、ヘルガに新しい名前を与えられたモニカである。
騒動のあと。ヘルガがモニカにした提案を、はじめはモニカも拒絶した。いったいなにを企んでいるのだと怪しみ、絶対に嫌だと言い張ったが──しかし、現実を見れば、彼女がその話を断った場合に連れていかれるのは監獄である。自由なき堀の中での、罪人たちに囲まれた生活を突きつけられて、モニカは恐ろしくなったのだろう。色々と制約があっても、まだましな生活が送れると判断して、彼女はヘルガの提案を受け入れた。彼女は今、ヘルガの家で一番下っ端の侍女見習いとして働いている。もちろん彼女はまだヘルガに敵愾心を持っている。オリビアが厳しく監視しているがゆえ仕事はするが、『ここにいるのはいつかヘルガに復讐するためだ』と言って憚らないし、実際そのつもりなのかもしれない。
が……現在の侯爵邸ではそれも叶いそうにはなかった。
あのあと。頑として譲らないヘルガを説得することに根をあげたメルヴィンは、ならばと、かなり大袈裟な安全対策を講じてしまう。
婚約者を守るという名目で、騎士のオリビアをヘルガの護衛につけ、さらに息のかかった者たちを大勢ヘルガの傍付きとして侯爵家へ送り込んだ。当然、“王太子妃の父”という立場を喉から手が出るほどに欲しているヘルガの父は、もはやメルヴィンの言いなりである。
おかげで……侯爵邸では、皆がモニカを監視している状態となり、まあ、おかげで彼女が悪さをするような事態も、使用人たちからいじめに遭うような事態も今のところ起こっていない。
しかし、これには、使用人たちの教育し直しを目論んでいたヘルガがとても複雑な顔をした。何故ならば、メルヴィンの内偵で、本当に性根が悪いと判断された侯爵邸の使用人たちは、皆辞めさせられてしまったからだ。改善を促す間もなく切り捨てるようなやり方をヘルガは好まなかったが……しかし。それがモニカを受け入れる条件だと言われれば……それ以上メルヴィンと争いたくはなかったヘルガも少しだけ譲歩するに至った。
ヘルガはやれやれと今日までの紆余曲折を思ってため息をこぼす。
「まあ……それで家はとても過ごしやすくなったのですが……わたくしがこうして初めてできた女友達を引き連れてウロウロするもので……あの方、ひがんでちょっと口喧しくなってしまって……」
「はあ……女友だ、ち……?」
“女友達”というセリフに、オーディーはヘルガの後ろで睨み合っている恐ろしい女たちを見た。とても──そんな楽しげな雰囲気ではないのだが。しかしヘルガの言葉には、オリビアが感じ入ったような顔をする。
「光栄ですヘルガ様!」
と、その向かい側でモナが嫌そうな顔をする。
「私をそこに入れないでくださいます? 私は仕事で仕方なくいるだけですから」
ぶつくさ言うモナをオリビアは睨む、が、ヘルガはどこ吹く風である。もともとそう簡単に彼女と和解できるとも、謝罪の言葉を得られるとも期待していないらしい。しかしモナにあからさまに顔を背けられたヘルガをオーディーが気遣う。
「……大丈夫ですか? ヘルガ様……」
しかし心配そうな青年に、ヘルガはご心配なくと晴れやかに笑った。
「ええ大丈夫ですよ。お二人が来てから、毎日新鮮で、なかなかにスリリングです。──でもわたくしは、いずれはこの国の国母となる予定ですから。王宮の女性たちをまとめる立場になるでしょう? 今はその為に、女性付き合いの仕組みについての勉強中だと思っています」
参考になりますと言う彼女は、これまではぼっち行動が多く、女友達は皆無。つまり、ヘルガは家族以外の女性とはあまり付き合ったことがないということ。しかしこうして改めて家の女性使用人たちに目を向けてみると、その人間関係は複雑で、なかなか興味深いとヘルガは言う。それにとヘルガ。
「モナさんがおっしゃる悪態は、実はもうすでに兄たちから散々言われたことばかりです。というか、兄たちのほうが口が悪いくらいで……わたくし免疫があるのか、そんなに刺さらないんですの」
ふふふと笑われて、オーディーはちょっと気の毒そうな顔となり、オリビアはヘルガの兄たちを思い浮かべて殺気を放った。そしてモナは──……
少し気まずげで苦々しい顔をチラリとヘルガに向けた。彼女はずっと、自分より高位な侯爵家に生まれたヘルガが、自分より優雅で恵まれた生活をしているとばかり思い込んでいた。しかしそんなヘルガの実情が、実は自分よりかなり厳しい家庭環境だったと知り、今はとても複雑な心境のようだった。
と、オリビアは己の胸を手で押さえて身を乗り出す。
「ヘルガ様、わたくしになんでもおっしゃってくださいね。いつでもあの阿呆どもをしばき倒しますからね!」
「あらふふふ、もしかしてその阿呆ってお兄様たちのこと? ふふふ」
モナはともかくとして。どうやらオリビアの方は、この令嬢にすっかり心を奪われている。
ガタイの良いオリビアは、ほっそり華奢で、おっとりうっかりした令嬢が可愛くて仕方がないようだ。庇護欲という沼にハマった女騎士は、今やメルヴィンのストーカー行為にすらうるさい。そしてあれやこれやと甲斐甲斐しく世話を焼き、令嬢が「あら? 眼鏡がないわ?」と言えば、彼女がさっと懐からスペアを取り出して。何かにぶつかりそうになれば紳士さながらに、さっとヘルガをエスコートする。見知らぬ者がヘルガに「王太子様とのご婚約おめでとうございます!」と、ごますりに駆け寄ってきても、番犬さながらに立ち塞がって、絶対に近寄らせない。
おまけにヘルガに向かって虫が飛んでくれば、オリビアは無言のままに拳を唸らせて……どんな虫でもあっという間に打ち飛ばす。そう、どんな虫でも……
こんな彼女にヘルガが尊敬の眼差しを向けないわけがなかった……。
「ああ、ヘルガ様、また手帳にメルヴィン様のお顔の絵をお描きになったのですか? ふふふ、丸ばっかりお描きになって……ふふ、」
「あらよく分かりましたねオリビアさん。わたくしでもあとから手帳を見ても、何を描いたか全然分からなくなるんですよ。ええそうでした。これはマルさんのお顔です。ふふふ。丸ばっかり描かれていて、なんだかシャボン玉みたいですね」
「…………」
ふふふ、うふふ……と……ヘルガとオリビアは楽しそうにほのぼのと微笑み合い。……そんな二人の後ろでは、モナが面倒臭そうな顔で舌打ちをしている。
……その様子をはたから見ていたオーディーは……確かにと密かに危ぶんだ。
(モナは置いておくとしても)令嬢と女騎士のこの仲の良さならば、きっとあの嫉妬深そうな王太子殿下がヤキモチを焼いても仕方がないな──と、うっすら思って──……。
「ひ⁉︎」
オーディーは気がついた。解放された図書館の入り口の影に──何やらどす黒い雰囲気を放つ人影が……
その男は、壁をギリギリと掴み、見事にひがんでいた。
「…………ヘルガ……また私に内緒であの二人を連れて楽しそうにしてる……!」
「……はー……殿下、一緒に図書館に来ているだけじゃないですか……ひがむほどのことですか? ていうか、姉は殿下がヘルガ様にお与えになったんでしょう?」
図書館の扉の影に隠れて歯噛みしている王太子に、グラントが呆れ顔。やれやれと首を振る護衛にメルヴィンは嘆く。
「だけどあんなに仲良くなると思っていなかったんだ! なんなんだあんなにベタベタして……!」
……因みに。本日より図書館通いを再開したヘルガの本の貸出記録は、オリビアが手を回し厳格に管理されることとなった。つまり王太子たるメルヴィンでも勝手な開示はできなくなったのだ。
「ま、令嬢の個人情報ですからね。見れなくて当たり前です」
「くっ……オリビアが優秀すぎる……っ!」
ストーカー行為を阻止され落胆している主君を、グラントは冷たい目で見た。しかし王太子は構わず頭を抱える。
「おまけにここ最近ヘルガはモナに構い倒しで、図書館にも二人を連れてくるようになったから……おかげで私たち二人きりの図書館での時間がなくなってしまったっていうのに!」
「はぁ……そりゃあ殿下……今は殿下が、毎日職務が終わった途端、すぐに侯爵邸に入り浸りに行くからでしょう……? そこで一緒に読書もしていらっしゃるじゃないですか……」
だから別にいいではないかというグラントに、しかしメルヴィンはいいやと激しく首を振る。
「まだある! ヘルガときたら、最近叔父とも頻繁に文通していて楽しそうなんだ!」
「ああ……公爵閣下ですか? ヘルガ様のことを気に入っておいででしたしねぇ……」
適当に相槌を打つグラントの言葉も聞いているのかいないのか……メルヴィンは頭を抱えて訴える。
「叔父はヘルガに自分が育てた花を毎月送ってくるし、ヘルガはそのお返しにモナからお菓子作りを習って叔父に贈っていて……! 何それ私も食べたいんだけど⁉︎」
正直すぎる願望を叫び、メルヴィンは、ガックゥ……ッと、音がしそうな勢いで床に膝をついて項垂れた。
「…………」
相変わらずの偏愛。そんな主人を見ていたグラントは──不意に、ふっと諦観の眼差し。
多分これ、結婚後もしばらく続くんだろうなと思って。まだまだ先は長そうだと騎士が覚悟した瞬間だった。
「…………ま、いいか……どうせヘルガ様が叱ってくださるしな……」
グラントは、未来の王妃にすべてを丸投げすることにした。
昼下がりの侯爵邸。庭園の東家で、本を読むヘルガの膝に頭を乗せ、メルヴィンがゆったりと手足を伸ばし寛いでいる。しかし、その顔はまだ不満げだ。
「……ねえヘルガ、最近あの二人と行動することが多すぎない? もうちょっと私に構ってよ……」
拗ねたように言うメルヴィンに、あらと本から視線を外したヘルガが苦笑する。
「何を言っておいでなのやら……毎日こうしてお会いしているではありませんか」
「それはそうだけど……あの二人は四六時中君の傍にいられるのに、私はこうしてわざわざ城から降りてこないと君に逢えないじゃないか……もういっそ、城に住んで欲しいんだけどな……」
メルヴィンはそう言って、ヘルガの黒髪に手を伸ばし、優しく触れる。
「──ねえヘルガ、今すぐ妃になってくれない?」
「まあマルさんったら。この間婚約式が終わったばかりですよ。まだ公示期間中です」
くすっと笑う令嬢に、メルヴィンは恨めしそうにボヤく。
「婚約公示期間なんて、なんでこんな面倒な仕組みがあるんだ……」
婚約公示期間とは、この国で、男女が婚約を教会に届け出てから、結婚するまでに設けられる期間のこと。その一定の期間の間に、公示された二人の婚約に、何者も異議を唱えなければ、二人は晴れて教会での結婚の儀がとり行える。その期間中は、男女は同じ家には住めないしきたりだ。
まあ……しきたりはさておき。正直な話、今、この国にはメルヴィンに逆らえるような者がいるとは思えないし……最近の王都では、王太子が正式発表された婚約者にかなり入れ上げていると評判だ。侯爵邸にも足繁く通っているという話が広まっていて、その溺愛ぶりは、美貌の王太子に熱を上げていた令嬢たちが呆れ果てるほどだと、皆が驚きを持って噂している。異議など、きっと出はしないだろう。
でもとヘルガが言う。
「それだけではありませんよ? マルさん? わたくしと約束したでしょう?」
ヘルガはちょっと叱る母のような目で青年を見て、メルヴィンは不満げに口を結んだ。
侯爵家の環境を改善する、とはヘルガの今の目標。傲慢で、何かとギリギリ法を犯さぬような真似をたびたびする父の行いを正し、母の社交界入り浸りと散財癖をなんとかする。ヘルガは、自分の膝の上で瞳を閉じている青年の銀髪をそっと撫でる。
「王太子妃となる前に両親の行いを正しておかなければ、いずれ必ずあなたに迷惑がかかってしまうでしょう?」
「……そんなの、私がなんとかするよ」
「まったく……拗ねないでくださいな。わたくしが自分でなんとかしたいのだと分かっておいででしょう?」
自分の両親のことだ。嫁ぐ前に、一度本気で向き合ってみたいのだ。これまでは、ずっと言いなりだったから。
「……殿下?」
「……マルって呼ばないと返事しないよ」
覗き込むと拗ねたように返されて。まったく仕方のないお方ねとヘルガが笑う。
「……マルさん、わたくしの愛しい恋人さん、わたくしを見てくださいな」
「…………」
歌うように呼びかけると静かに瞼が開き、メルヴィンの綺麗な紫色の瞳が彼女を見上げた。その美しさにヘルガがうっとり見入りながら、もう一度ふわふわと彼の髪を撫でる。心から幸せそうな表情に、青年が一瞬眩しげに瞳を細めた。
「……君が……私と同じくらい私に夢中になったらいいのに……」
つぶやかれた言葉にヘルガがキョトンとする。
「なんで、私ばかりこんなにジタバタしなくちゃいけないの? 不公平だ……」
悔しそうな青年に、ヘルガは笑う。
「……ではどうすれば満足ですか、マルさん?」
「……いつものやつ」
「まったく……」
ヘルガは、そう言ってそそくさと自分の膝の上から身を起こした青年を笑った。そして、その唇に、そっとキスをした。
「……ご満足ですか? 殿下」
尋ねると、ヘルガに顔を寄せたままメルヴィンが言う。
「まだ」
こんなんじゃ。まだまだ。全然。
顔を離すたび幸せそうな顔を見せているくせに、彼はヘルガに大いに呆れられるまでその言葉を繰り返した。
しかし、それも両手の指の数以上の回数となると、さすがのヘルガも辟易して、いつものように氷の瞳で塩っ辛く彼を見る。
「……まったく、この嘘つき殿下ったら……」
少し膨れたヘルガに、すっかり機嫌の直った王太子はケロりとした顔で返す。
「結婚したあとは自制するよ。──初めは無理だと思うけど」
「…………」
やれやれとヘルガ。──まあ、それでもこんなメルヴィンを可愛いと思ってしまっているのだから、仕方ないわね、と令嬢は小さく微笑むのだった。
お読みいただきありがとうございます。
これにて、ヘルガとメルヴィンの物語は終幕です。
これからもヘルガはどんどんたくましくなって、いずれ立派な王妃となってくれることだと思います。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございましたm(_ _)m
最後に評価やご感想を残していただけると大変光栄です!( ´ ▽ ` )




