2ー2
怪訝そうなメルヴィンに、ヘルガは澄ました顔であくまでも優雅に指を持ち上げてこめかみの辺りの何かを持ち上げるような素振りを見せた。メルヴィンは思った。
(……、……ヘルガ、今、君眼鏡してないんだよ……)
どうやらかけているつもりの眼鏡を押し上げたつもりらしいヘルガは、見事にスカッと空振る己の指にも気が付かず。説明をはじめる。
「……(……可愛い)」
「ほら、わたくし王太子殿下を誘惑するために、たくさん恋愛小説を読んだでしょう? あのですね、マルさんご存じ? 恋愛小説ではよくヒロインがヒーローにぶつかるんですの。定番ケースでは曲がり角でパンをかじっています。ヒロインがですよ?」
信じられます? と、真面目に問われたメルヴィンは言った。
「……ヘルガ……君、随分古典な恋愛小説を読んだんだね……」
「あれはずいぶん無茶な手法です。でも、わたくし、ああなるほど、つまりマルさんがおっしゃっていた“当たって砕ける”とは、このようなことなのだと。物語ではそれをきっかけに、ヒロインとヒーローは距離を縮めて、紆余曲折、愛し合うようになるのですね」
「……へ、ヘルガ……?」
「だからわたくしも愛されるために殿下にぶつからなければと思って。──でもね、パンはくわえられないでしょう? だって、そんなはしたない……パンは小さく千切って口に運ぶものですし……ただ反面、はしたないゆえに、あのパンにはとても大切な役割があるとわたくしには分かったのです。あのようなはしたないアイテムを口にしていることによって、ヒーローにはヒロインが強く印象づけられるわけです。しかもパンって、なんだか親しみやすいイメージがないこともないでしょう? おいしそうで、形も可愛らしいし。どうやらその効果で愛が生まれるのだと、わたくしは理解しました」
「…………」
淡々とした顔ながらヘルガはどこか満足げである。──どうやら、苦手な“恋愛”という分野を多少は理解できたと嬉しいらしい。その少しだけ誇らしげに上がった綺麗な顎のラインをポカンと見ながら……メルヴィンは。つまり──ヘルガは一生懸命考えたんだな……と思った。
「…………」
彼は無言のままに己の顔を両手で覆った。顔が熱すぎて。己の顔が真っ赤であることが容易に想像できた。
「(やばい……ヘルガが可愛すぎて震える……)」
澄ました顔をしながらも、無邪気さのうかがえるヘルガのドヤ顔は、どうやらメルヴィンのツボだったらしい。
しかしそんな青年の細かな挙動は、裸眼のヘルガには見えなかった。ヘルガは一転、苦悩した顔でため息をつく。
「けれどもです。それが分かったとしても、やはりその作戦はわたくしにはハードルが高いのです。パンをくわえて走るのはちょっと──両親の名も貶めてしまうかもしれませんし……ですからとりあえず。わたくし、殿下に抱きつくことにしたんです」
「…………」
何やら真面目すぎて、斜め上感がすごい。“パンをくわえる”からの、“抱きつく”に至るまでの連結部分の思考がまったく理解できなかったが。メルヴィンはとにかくと、ヘルガの手を取った。
「……あのね……とにかく、君が頑張ったのは分かった。でも、やっぱりあれは危ない。ね? ヘルガ、いきなり出てきて、跳び付こうとするのはダメ。君そんなに運動神経よくないんだから……」
「? わたくし運動神経良くなったんですよ? だってもう一メートルも遊戯用の球を投げられるようになったんですもの」
「そ、そう」
それってほぼ下に落ちてるんじゃないかと思ったが。メルヴィンはとりあえず黙っておいた。
まあとにかく。
すんとした顔で「わたくしって運動できるんです」と主張する令嬢は、つい先ほど。その“当たって砕けろ”作戦を計画通り決行しようと王太子に突進していったのだが……
直後、王太子の隣にいたモニカ嬢がヘルガを見て驚いて盛大な悲鳴をあげた。そんな令嬢をとっさに気の毒に思ったらしいヘルガ。
『あらごめんなさいご機嫌ようモニカさ──』
と、律儀に声をかけようとして気が逸れた瞬間に。令嬢は、うっかりつまずいて転び。運悪くそこが庭園の池の傍であった、と、いうことだった。
──幸い、王太子の手前で護衛をしていたグラントが、池に飛び込みそうだったヘルガを救ったが。彼女の眼鏡は見事に飛んでいき、池のどこかへ落ちていってしまったという次第である。
「困りました」
ヘルガは背筋を伸ばし、腕を組んで言う。
「王宮庭園をわたくしの遺失物で汚すわけには……どうやって回収いたしましょうか」
そう言って、傍の池の底に眠るだろう己の眼鏡を、物体ですら怯えて砕け散りそうな冷たい視線で睨むヘルガ。に、メルヴィンが突っ込む。
「そういう問題じゃないよ!?」
そもそもそんなことは庭園管理の者たちに任せればいいこと。いやその前に、なんとかヘルガの頭から“当たって砕けろ”作戦を忘れさせなければとメルヴィンは焦るが……
と、そんな彼の言葉に、ヘルガが真顔でハッとする。
「あらそうですね! そういえばわたくし助けてくださった方にお礼を言うのをすっかり忘れていましたわ!」
違う、そこでもないんだよ……! と、メルヴィンが説明に苦慮しているうちに、ヘルガは立ち上がってその場を立ち去ろうとする。
「ま、待ってヘルガ!」
「ご機嫌ようマルさん。わたくしちょっと行って参ります。また図書館で!」
メルヴィンは引き留めるが、ヘルガはスカートの裾をつかみ華麗に走り出して行った。どうやら走るのだけはそんなに遅くないようだ。
その後ろ姿に手を伸ばしながら……メルヴィンは呻く。
「へ、ヘルガ……、君……っ、…………グラントなら……さっきからここにいるじゃないか……っ」
「…………殿下……」
地面に膝をついてヘルガに寄り添っていたメルヴィンの後ろ。ずっとそこに控えていたメルヴィンの護衛、グラントは低い声で言う。
「……私、ずっとここに居ましたが……すごいですね。この距離でもお気づきではなかったのですか」
特に気配を消したつもりもなかったのですがとグラント。いっそ回り回って感心しますと言う配下の言葉にメルヴィンが嘆いている。
「……ヘルガ……っ」
おかげで今日も、呼び出したモニカ嬢に婚約解消の意を伝えられなかった。そのモニカ嬢は──すでに空気を読んだグラントによって家に帰されている。王太子との逢瀬のつもりで来ていたモニカは、再び逢瀬をヘルガに邪魔されたことに顔を真っ赤にして怒っていたらしい。
しかしモニカ嬢どころではないらしいメルヴィンは頭を抱えて苦悩している。
「そもそも……私は今、変装もしていないのに……!?」
「……眼鏡をお渡しする暇もございませんでしたしねぇ……心中お察しします」
「くっ……」
グラントに気の毒そうに見られたメルヴィンが唸る。
──現在、メルヴィンは、いつも“マル”として彼女の前に出て行く時にかける眼鏡をしていない。ヘルガが池に落ちそうになった直後である。彼自身、咄嗟にヘルガに向かって地を蹴っていた。慌てた彼にわざわざ眼鏡をかけるなんて、そんな余裕があろうはずもない。
しかしそれでも。ヘルガは彼が王太子であるとは気がつかなかった。
「どうしてなのヘルガ!? もしや本当は私に興味がないの!? 先に誘惑したい相手をもっと下調べしようよ!?」
「…………殿下、Sっ気の強いお顔が覗いておられますよ、おやめください」
そしてつまり──そんなヘルガが、助けてくれた恩人グラントを探し出せなかったことは言うまでもない。
“恩人”を探し王宮庭園を閉園ギリギリまで彷徨って。
それを執務のために止められなかったメルヴィン。仕方なくグラントにヘルガのもとへ行くように命じたが。“恩人”を必死に探すヘルガは、ことごとく話しかけようとするグラントをスルーしたらしい。
グラントは苦悶に満ちた表情でメルヴィンに訴えた。
「……申し訳ありません殿下……っ! ヘルガ嬢のスルースキルに太刀打ち出来ませんでした! どうやらヘルガ嬢は、何故か“恩人”が女性だったと思い込んでおいでのようで……!」
がくぅっと、苦悩した様子で床に膝を突くグラントに──メルヴィンは言った。
「…………なんで?」
──結局。ヘルガは庭園を彷徨きすぎで保護者呼び出し。家の使用人に迎えにこられたヘルガは。その後屋敷で侯爵にとても叱られたらしい。
──後日、侯爵は王太子の陰謀で商権を一つ取り上げられた。
お読みいただきありがとうございます。
…まあ、色々ツッコミどころはありますが、コメディなので許してください!!\(( °ω° ))/笑
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