8ー25 本当の名でも、偽りの名でも
「……」
「……」
夕食時。メルヴィンのあまりの落ち込みようを見かねたグラントたちの懸命な懇願により、公爵はメルヴィンとヘルガに二人きりの夕食の場を用意した。(「閣下っ!」「ええい分かったから泣くな! 鬱陶しい!」)
もちろん、公爵は先にヘルガに「それでもいいか?」と尋ねてくれて。ヘルガの了承によりその夕食の席は実現することとなった。
けれども食事が並べられても、向かい合って座った二人はテーブルを挟んで互いにずっと黙りこくっている。ヘルガは貝のように口を閉じて、メルヴィンは言いたいことはあるが、言いあぐねているという様子だ。
「だ、大丈夫でしょうか……」
「……おいグラント、覗くな。二人にしてやりなさい」
柱の影にかじりついて二人の様子を見ていたグラントは、こちらもやはり心配で様子を見にきたらしい公爵に無理やり引っ立てられていった。そうして給仕の者たちも出ていき、食堂の立派な二枚扉が閉じられると、室内はしんと静かになった。二人の会話を邪魔せぬようにと、すでに配膳は終わり、料理はすべて並べられているが……それも、二人がほとんど手をつけないもので、次第に温もりを失っていく。
メルヴィンは、消えていく湯気を見つめながら……ヘルガになんと声をかけたものかと困苦していた。彼の向かい側で、彼女は硬い表情のまま、ずっとテーブルの上に視線を落として微動だにしない。メルヴィンはそれがとてもつらかった。昨日はあんなに愛らしく微笑んでいた彼女に、今、あんな顔をさせているのは自分なのだ。
「──ヘルガ、ごめん」
出し抜けに、メルヴィンが深々と頭を下げると、ヘルガの瞳がやっと彼に向いた。その顔には、細い銀の縁に紫色の細かな装飾のついた眼鏡がかけられている。レンズの奥に覗く美しいアイスブルーの瞳をしっかりとメルヴィンに向けて、ヘルガは静かに口を開く。
「……殿下、頭をお下げにならないでください」
「!」
その丁寧な口調にメルヴィンが傷ついたような顔をした。ヘルガに他の者たちと同じように“殿下”と呼ばれると、突き放されたような気がして、とても胸が痛んだ。青年は、その痛みに耐えながら、もう一度謝る。
「──ごめん。騙されて気分が悪かったよね……」
絞り出すように言うと、不意にヘルガがため息をつく。そうしてヘルガは居住まいを正して。まずはとメルヴィンに頭を下げる。
「殿下、眼鏡を届けてくださり、ありがとうございました」
ヘルガが礼を述べるのは、彼女が今かけているその銀眼鏡について。それは、本日の昼、メルヴィンが公爵領の城下町で、急ぎ作らせたものである。と、ヘルガはちょっと表情を曇らせて、斜め下へ視線を落とす。
「──正直……殿下がわたくしの眼鏡の度数までご存知なことには引きましたが……でも。……視界がはっきりとして、とても快適です。ありがとうございます」
「う、うん……ごめん、えっと、君のことはなんでも知りたくて、えっと……ごめん、もうしない」
複雑そうに礼を言われたメルヴィンは、しどろもどろに瞳を泳がせている。と、そんな青年に、一瞬逡巡する様子を見せたヘルガが、尋ねる。
「……殿下、何故……あのような嘘をおつきになさったのか、伺っても?」
「!」
静かに問われたメルヴィンは、一瞬小さく息を呑み。──ただ、彼女が彼との会話に応じてくれたことには安堵しながら、一度深呼吸をして。そして、彼はやっと彼女にこれまでの事情を話しはじめた。……こんなにもたつきながら、不安に駆られながら誰かに話をするのは初めてだと思った。
──昔、王太子である自分を見事に覚えていなかったヘルガに興味を持ったこと。ヘルガがあまりにもうっかり者すぎて、見ていると不安で、ついつい気になってしまったということ。そして共に過ごすうちに、ヘルガの純粋で優しいところをとても好きになっていたこと。ヘルガが王太子を誘惑したいと言ってきた時は、ヘルガがその対象が誰かは言わなかったゆえ、まさか自分のことだとは思っていなかったということ、等々……
「……嫉妬からつまらない邪魔立てをしてしまった。でも、正直君が誘惑したいのが自分だと知って、申し訳ないが、とても嬉しかった」
気恥ずかしそうに白状する、が……その彼を見る無言のヘルガの目は氷のように冷たい。メルヴィンは、思わず「う……」と、声を漏らし。消え入るような声ですまないと繰り返した。
「そ、それで……王太子という身分に関係のないところで親しくなりたかったというのもあって……。今思えば安心したかったのかもしれない。君が、王太子という私の身分ではなく、私自身を確かに見ていてくれているのだと確信できるまで……」
王太子だと分かれば誰もが彼を敬った。だが、そこに見え隠れする彼らの下心はメルヴィンももちろん分かっている。政務ではそれらをうまくコントロールしてこそだと心得ているが……ヘルガとの間には、そういったものを挟み込みたくはなかった。
「……さっきみたいに、“殿下”と呼ばれ、距離を取られるのも嫌だった。……ごめん」
メルヴィンは俯いた。王太子であると知られれば、ヘルガとの間に見えない一線が引かれてしまいそうで、心が離れてしまいそうで嫌だったのだと吐露すると……それまでは、黙って彼の話を聞いていたヘルガが、口を開く。
「……何をおっしゃってますの……」
「え……?」
厳しい声に顔を上げると、透明なレンズの向こうから、ヘルガが自分を睨んでいる。その険しさに、思わず愛想をつかされたかと恐怖した、──が。
「わたくし! もともと口調はいつもこうです!」
「⁉︎」
スパァンッと言い切られ。立ち上がってテーブルを叩かれて。メルヴィンはギョッと顔をこわばらせる。ヘルガはメルヴィンを睨み続けている。
「わたくし、どなたにでもこうです。口調を変えたことはありません」
「は、はぁ……あ──」
言われて彼は気がついた。──そういえば、ヘルガは相手が公爵であろうが、使用人であろうがいつも口調は敬語である。……カラスや虫に対してですら、それは丁寧で……嫌われることに怯えるがあまり、すっかりそんなことも失念していたらしい。ヘルガはぷりぷり憤慨している。
「あなたは本当に! どうしていつもそう悪い方へ考えすぎるのです?」
「ええと、あの……」
「わたくしは怒っていると言いますか……死ぬほど恥ずかしいのです! 当初のわたくしを覚えておいでですか? あなたを射止めるためにどれだけ必死で恋愛指南書を読み漁ったことか……しかも、あなたご自身の、目の前で!」
「あ、ご、ごめんなさい……」
「わたくし! 本当は!」
怒りながら、ヘルガは強調するように言う。テーブルの端に乗せられた拳がギュッと握られていて、プルプルしているところを見ると……かなりのご立腹状態らしい。
「そんなことを、愛するあなたの前でしてしまっていたと気がついて、とても、気に病んでいたのです!」
「!」
キレ気味に言われたメルヴィンがびっくりした顔をする。ヘルガは続けて訴えた。
「わたくしったら……あなたの前で、別の男性を射止めようだなんて……相談されたあなたはどんな目でわたくしを見ておいでだったのかと……どんな気持ちだったのかしらと申し訳なくて……それなのに!」
と、言って。珍しいことにヘルガは頭を抱えて苦悩するように「ああぁ!」と叫んだ。
「ああそうです! このことに関してはわたくし怒ってもいいはずです! まったく! わたくしがあなたを射止めようと奮闘していたのを、あなたは面白おかしくご覧になっていたんですわよね⁉︎」
ギロリ、とヘルガがメルヴィンを睨む。冷たい冷気の吹き荒ぶような氷の瞳で睨まれて、メルヴィンは怯んだ。
「す、すみません……」
「わたくしが恋愛初心者だからって……」
ヘルガはそう悔しげに言って。かと思えば……すがっていたテーブルから身を引いて、椅子に行儀よく座り直し、ふふふと笑った。……いささか青ざめた表情で。
「わたくし、人生で初めてです。きっとずっと根に持ち続けていようと思ったのは……」
「⁉︎」
そう美しく微笑んだ令嬢の顔は、やはり静かな怒りに満ちていて……怖かった。背筋を凍らせて、ほとほと困った様子でひたすらうなだれる王太子を……ヘルガがにっこりと笑って呼ぶ。
「…………マルさん? という訳なのですが──わたくしに、許して欲しいですか?」
「も、もちろん」
その、含みのある問いに、しかしメルヴィンは飛びつくように頷く。許してくれるならなんでもすると、まさに全面降伏状態の青年に、ヘルガはそうですかと満足げに微笑む。
「……ならば条件が二つあります」
「じょ、条件?」
「一つ目は、今すぐわたくしと婚約すること」
その提示にメルヴィンが目を丸くして息を呑んだ。
「──え……、……い、いいの?」
そんなの願ったり叶ったりだがと、戸惑って。しかしすぐさま厳しい口調が返ってくる。
「いいのじゃありません。これは強制ですよ」
「……はい、ごめんなさい」
ピシャリと言われた青年はすぐさま反省の意を見せる。が、困惑しながらも、彼の胸にはじわじわと胸に喜びが広がっていく。と、そんな彼に、ヘルガは真っ直ぐな視線で言った。
「マルさん、人はなにかと偽るものですが……でも、わたくしはあなたとだけは、偽りの上に関係を築きたくはありません」
だからとヘルガ。
「もしわたくしへのあなたの気持ちが本当ならば、わたくしに、あなたの本当の名前できちんと婚約を申し入れてください。それが、一つ目の条件です」
「……」
真剣に言われたメルヴィンは──……
素早く席を立ち、ヘルガの傍へテーブルを回り込んだ。そして、この世の多くの男たちがしてきたように、愛する人の前に跪く。
「ヘルガ」
細く白い手をそっと取って。アイスブルーの瞳と視線を合わせる。
「私の名は……メルヴィン・ヒリヤード。メルヴィンであっても、マルであっても──もうとっくに君に射止められている男だ」
「……」
メルヴィンは、じっと自分の言葉に耳を傾けているヘルガに静かに乞う。
「……今回のこと、ずっと根に持っていて」
苦笑するように、でもどこか晴れやかなその囁きに、ヘルガが少し驚いたように目を瞠った。
「ずっと償うよ。君がそれを許してくれるなら、ずっと、君の傍で」
「…………」
「ヘルガ──我が愛する人。メルヴィン・ヒリヤードの唯一の妻となり、私にその機会をくれますか……?」
メルヴィンは、ヘルガの瞳をしっかり見て、心からそう求めた。少しの緊張と、真摯で暖かな眼差しに見つめられ……ヘルガが、熱い吐息を漏らした。ほんのりと目元が赤く、一瞬照れたように俯いたが。彼女はすぐに顔を上げて、小首を傾けて微笑んだ。
「──ええ、メルヴィン様であり、マルさんであるあなた。わたくしは……きっとずっと、あなた様のお傍におります」
「! ……ありがとうヘルガ!」
喜びが溢れるような笑顔に、メルヴィンも胸がいっぱいだった。すぐに彼女を抱きしめて喜びを分かち合おう、と……した瞬間。
「……あれ?」
しかし、ヘルガはそんなメルヴィンに、手のひらを掲げて待ったをかける。
「お待ちくださいマルさん」
「──え……?」
メルヴィンは、ポカンとした。目の前にはヘルガの白い手のひら。その向こうに見える、余韻皆無のヘルガの顔。彼女はたった今、彼の求婚を受け入れたはずだが……そこにはあるのは、恥じらい顔を、まるで手品のように消してしまった令嬢の真顔だった……。その変わり身の早さにメルヴィンは呆然としている。
「へ……?」
「それで、二つ目の条件ですが」
ヘルガはスン……とした顔で話を戻す。メルヴィンが、ハッとした。
「……あ……ああ…………そ、そうだったね……」
……そういえば……ヘルガは条件は二つだと言っていた。思い出したメルヴィンは、彼女を抱きしめようと広げた腕をぎこちなく戻しながら戸惑った顔で、ええと……と漏らす。
「ふ、二つ目の条件って……?」
もうなんだって婚約祝いに贈るけどとメルヴィン。するとヘルガは薄く微笑む。
「そうですか。ありがとうございます。それならば話は早いです。わたくしの二つ目の条件は、ある方を、わたくしに下さることです」
「ある、方って……?」
いったい誰をよこせというのかとメルヴィンが怪訝な顔をする。自分の配下の者でも誰か気に入って、侍従や侍女にでもしたいということなのだろうか、と、思ったが……ヘルガはどこか含みのある表情。メルヴィンは、とても嫌な予感がした。
「……ヘルガ……? それって、いったい誰のこと……?」
恐る恐る尋ねると、するとヘルガが言った。
「それは──モニカさんです」
お読みいただきありがとうございます。メルヴィンの胃痛は……まだ続きます。
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もうすぐ一区切りつきそうなので、頑張ります!




