8ー19 ヘルガの爆弾投下
メルヴィンは固く口を結んでヘルガの傷の手当てをしていた。
ヘルガの事情を聞いて。胃はもう破壊されるほどに痛んだが……それも。灯りの下で改めて彼女の負っている怪我の数々を目の当たりにしてしまうと、彼の気持ちはそれどころではなくなってしまった。
ヘルガは今、修道院から借りた服を着て、彼の前にしとやかな様子で座っている。メルヴィンに言われた通り、擦り傷だらけの腕を彼に預けて、自分の傷を丁寧に清めていく青年の作業を興味深げに眺めていた。
彼女の目に苦痛はない。だが、白い頬には痛々しいアザがまだ鮮明に残っている。それがどうやってつけられたのかは、想像に難くなかった。
メルヴィンは、怒りに苛まれる。彼女の身体には、その他にも無数の傷が出来ていた。そこに滲む血や、内出血の青アザ見ると、こんなことをしでかした輩を即刻処刑してやりたくなった。
彼女は彼の宝だ。本当ならば、こうして自分が触れることすら躊躇われるくらいなのに──そんな彼女を、こうも軽々しく傷つけるとは。ヘルガの腕の擦り破れた皮膚を見下ろす青年の目には、酷薄で危うげな色が浮かんでいた。
(……この償いは、必ずさせる……)
彼の怒りは激しかった。胸の中に復讐心がとぐろを巻き、それは冷酷で、暴力的な嵐となって彼自身の心の中を吹き荒ぶ。持てる力を使い、敵にどんな無慈悲な罰を与えてやろうかと考えて──ふと、ヘルガの横顔を見て不安に陥る。
彼女は食い入るように薬瓶や手当ての道具を見ているが、その目の奥はキラキラ輝いていた。興味津々。不意にそんな彼女を見て、メルヴィンは軽やかだなぁと切なく思う。
ヘルガは目的を達成するためになら、躊躇いや恥を颯爽と脱ぎ捨てた。人がやらないだろうことをやりながら、人に笑われ、呆れられながらも──眼差しは真っ直ぐで、その言動の端々には純真さが閃いていた。今はもう、自分がどんな目に遭ったのかも忘れてしまったかのように、自分の興味のあるものに没頭している。──彼はいまだ憤りに駆られているというのに。目の前の男が、自分を手当しながらもどんな残虐なことを考えているのか、そんなことはきっと思いもよらぬことなのだろう。彼女は先程彼のことを『好きなようだ』と言ったが……その気持ちと、自分が彼女に向ける気持ちとでは、やはりまだまだ大きな差があるように感じた。──それにとメルヴィン。
(……ヘルガと私とでは、気性があまりにも違いすぎる……)
メルヴィンはやるせなくなって、ヘルガの腕を取っている己の手を無言で見下ろした。
(……この手を放した瞬間……ここから出た瞬間、私は……)
──きっと、復讐の鬼と化すだろう。
彼女を傷つけた者に対する沸々とした怒りは、とても収めることはできそうになかった。“断罪”、その為に、彼は、自分が剣を取るだろうことが分かっていた。──きっと、彼女はそれを望まぬだろうと知っているのに。
(……こんな私を……ヘルガが知ったら、彼女はどんな顔をするのだろう……)
──想像すると、それは思いがけぬほどに恐ろしかった。そうなれば、彼女の『好き』は、軽蔑に変わるのではないか……だが問題なのは。そうは思っても、今、自分のその苛烈な怒りが止められそうにないことだった。ヘルガを傷つけたモニカに対する膨大な怒りは、どうあっても本人にぶつけなければ気が済まない。メルヴィンの酷薄な顔に、自嘲めいた笑みが浮かぶ。
情けなく、苦しく、悲しかった。冷酷な自分が、最愛の人に相応しくないと突きつけられた気がして。──と……。不意に、暗澹とした彼の耳に、声が届く。
「……マルさん」
「──あ……」
張り詰めていた精神を割るようにして、静かに差し込まれた声にメルヴィンはハッと我に返った。顔を上げると、ヘルガが睨むような顔で自分を見ていた。──分かっている。睨んでいるのではない、裸眼だから見えないのだ。
メルヴィンは気がついて慌てた。いつの間にか消毒していた彼女の手を握りしめていた。
「ご、ごめん、痛かった? つい……」
パッと手を離すと、ヘルガは表情も変えず彼を見て言った。
「いいえ。痛いのではありません。ただ……」
彼女の顔はどこか疑わしげで──片眉を上げる仕草にメルヴィンはドキリとした。自分の考えていたことがバレてしまったような気がして……。戸惑ってヘルガの表情を伺っていると──その時ヘルガがおもむろに動く。
「失礼」
「!」
彼女は立ち上がって、その動きを目で追っていたメルヴィンは、次の瞬間ギョッとした。
ヘルガが、いきなりメルヴィンの両耳辺りに手を当てて、彼の頭を両手で挟み込んだのだ。そして驚くメルヴィンを他所に、まるで骨董品の壺か何かを手に取り、真贋でも確かめようとするかのようにジロジロと眺めて……しかも彼女は今裸眼なもので──その距離は吐息がかかりそうなほどに近い。メルヴィンの心臓が跳ねる。というか……青年はびっくりして声もなかった。──実際のところ、こんな腹に一物ありそうな美貌の、しかも王太子という身分の彼の頭を、こうもためらいなく鷲掴もうという猛者はいない。
──と、その猛者なる令嬢は、間近にしてやっとメルヴィンの表情がはっきり見えたらしく。どこか、詰問する響きの声で言った。
「マルさん? もしやあなた……何やらごちゃごちゃと考えすぎていらっしゃいません?」
「!」
アイスブルーの両目に食い入るように見つめられて。図星を突かれたメルヴィンは思い切り怯んだ。
「ぇ……思考魔の君が言う……?」
「あらぁまったく……」
ヘルガは形良い眉を持ち上げて、子供を叱る母のような顔になった。
「思考するのはいいことですが、負の思考に囚われてはいけません。マルさん今のご自分のお顔をお分かり? 思い詰め過ぎて、今にも破裂しそうというお顔ですよ」
「……う……」
ヘルガが更にグイッと顔を近づけてきて、恥ずかしさのあまり思わず仰け反りそうになって。しかし、ヘルガに頭を掴まれているせいでそれが出来なかった青年は真っ赤な顔で呻く。
「へ、ヘルガ、か、顔が近……」
「お黙りあそばせ」
しかしヘルガは皆まで言わせない。キッパリバッサリ、慌てるメルヴィンの言葉を斬って……どうやら彼女は、自分の手当てをしてくれている青年が、内心で怒り狂っているのを見抜いたらしい。互いの額がつきそうな距離で、がっしりメルヴィンの綺麗な銀髪顔を掴んだまま、令嬢は更に両目に力をこめた。雪の女王さながら、冷たい色の瞳から吹雪が激しく吹き荒びそうな勢いである。メルヴィンが怯んでいる。
「へ、ヘルガ……」
「なんですか、わたくしの傷を見て心配しているのですか。そんなに怒らなくても大丈夫です。わたくしは無事あなたの前にいます。それでよいのです。多少の傷は勲章です。わたくしは頑張りました、あなたの前に馳せ参じるために」
そのための傷ですからと高らかに言われて、メルヴィンは唖然とした。そんな馬鹿な話があるだろうか。ヘルガは今自分を無事だと言ったが、普通に考えて、彼女が怪我をしている時点でこれは無事だとは到底言えない。命があるからそれでいいなどと、そんなことを言うのは、彼には絶対に無理だった。
──が……反論しようとすると、そんなメルヴィンをヘルガの真っ直ぐな眼差しが押し留める。その有無を言わせぬ瞳から目を逸らせなかった。ヘルガは滔々と続ける。
「ごちゃごちゃ考えずとも大丈夫です。今回のことは、わたくしがすべてあなたに会いたくて起こったこと。ならばほら、目的は今、達成されているではありませんか」
「いや、でもヘルガ……」
ことはそんなに単純じゃないと返そうとすると、不意にヘルガの瞳が真摯な色を帯びた。
「……マルさん。わたくしは今、あなたに会えて、無事自分の気持ちを伝えられたので胸がいっぱいなのです。わざわざここまでくるまでの過程を思い出して怖がる気持ちの余裕はないのです」
「…………」
「あなたには、そんな顔をしてほしくないです。今はただ、一緒に再会を喜んでいただけませんか?」
そう切に言われ、その言葉に心を動かされたメルヴィンは、反論する言葉を失った。
しかしそれでも犯人たちへの怒りや、自分たちの関係への不安が消えたわけではなくて……彼が一瞬苦しそうな顔をすると……──そんなメルヴィンの感情を敏感に感じ取ったらしいヘルガは、少し瞳を細めた。彼の頭を掴んだままの令嬢は、言った。──ちょっと拗ねたような声で。
「──あら? まだ色々難しく考えておいでなの? あらまあ……そんなグダグダいうお方にはどう対処したらよいやら……そうねぇ……唇でも塞いでみましょうか?」
「……、……は……?」
お読みいただきありがとうございます。
……はい、怒り狂っているメルヴィンにヘルガは、奇策に打って出ます。笑




