8ー17 堂々たる……
モニカは愕然として現れた王太子を見つめた。
怒りをもって自分を捉える王太子の双眸は、冷たい刃のようだった。その顔は、よく見ると顔色も青白く、ひどいクマができている。が──それは王太子の美貌を損ねさせるどころか、鮮やかな紫の瞳を暗く強調する結果となっていて……相対した者を怯えさせると同時に、強く魅了し、無条件にひれ伏させてしまうような──そんな大きな力を持っていた。
──けして誤魔化しは効かないのだと、そう悟らせるような。怒りとあいまった王太子の異様な凄みを目の当たりにしてモニカたちは怯んだ。
しかし、それでも。一時は彼の婚約者候補の筆頭となったモニカは、その異常に気がついてしまう。王太子は、外出用のローブは羽織っているものの、その下はシャツとベストに長いズボンといった軽装。一見何もおかしなことはないようにも思えるが……
「──……っ!」
モニカは拳を握りしめる。
王太子は未来の国王。国民の期待に応え、国の威厳を保つべく、常に誰よりも美しく、品位を持って整えられていて当然の存在である。たとえそれが小さな綻びでも、将来国の核となるべき彼の身なりが適切でなければ、国民は不安を覚え、反感を持つきっかけともなり得るからだ。王室はそういう点においてはかなり厳しい面を持つ。
──それなのに。
今、彼女の前に立つ王太子メルヴィンの出立ちは、王族が民の前に出るに相応しい姿とは言えない。髪は整えられてもおらず──その意味するところに、モニカは頭にカッと血が上った。
「……そんなに……そんなにこの子が大事なのですか! 一国の王太子がそのような姿で民の前にお出ましになるほどに!」
彼がいかに必死でここを探り当てたのか、そして駆けつけたのかを知って。モニカは今更ながらに悔しくてたまらなかった。──その想いを向けられるのが、何故、自分ではないのだ。
しかし、興奮するモニカにメルヴィンは素っ気なくも辛辣。
「それは当然のこと。が、君には私に質問する権利などない。モニカ、今、君に与えられているのは、ヘルガの居場所を今すぐ私に教えることだ」
「? な、にを言って……」
それは不可解な要求だった。だって、とモニカが困惑に眉間にシワを寄せる。“ヘルガ”は今、自分の足元にいるのに……?
モニカの視線が床の上の“ヘルガ”に落ちて。すると、メルヴィンが冷笑する。
「君こそ何を言っているんだ? まさかそこに転がっている者がヘルガだと?」
「……え……?」
モニカは意味が分からず、ぽかんと王太子の顔を見つめた。と、メルヴィンが一言。
「グラント」
「は!」
王太子が呼びかけると、すぐその背後から人影が滑り込むようにして倉庫の中に入り込んできた。
「!」
「──失礼いたします」
人影は驚くモニカたちには構わず、手早くその人物の頭に被せられている麻袋を取り払った。──と、そこから現れたのは──……
「!」
モニカも……王太子の登場に困惑して身動き出来ずにいた配下たちも。皆、そこに現れた顔を見てギョッと目を剥いた。そこで気絶していたのは、ヘルガのドレスを着た──彼らが雇った村人の一人。中でも一番若い男だった。
「なっ……!」
モニカが短く叫ぶ。
気絶した男は口に、何やらシルクのリボンのついた細長いもので猿ぐつわをかまされて、グッタリと目を閉じている。メルヴィンはやっぱりねという顔で肩をすくめた。
「ヘルガはそんな体格じゃありませんよレディ。……おいグラント……今すぐそいつからヘルガのドレスを脱がせろ! 不愉快だ……猿ぐつわにしてある腰用のパットもだぞ!」
「は!」
……まあ……おそらく彼本人がそれを望んで着たのでは絶対ないが……どうやらメルヴィンは、男が、ヘルガが一度でも袖を通したドレスに身を包み、口にパット──ドレスを着た女性の腰の膨らみをふっくらと美しく調整するための装具──を口にしている(※猿ぐつわされている)のが、相当気に食わない様子だった。命じられた騎士はその若い男からテキパキと濃紺のドレスとパットを剥ぎ取っていく。
「まったく、ヘルガときたら……こんなものを猿ぐつわにするなんて──……。こんな野郎の口には土くれでも詰めておけばいいのに……」
苦悩したように額を手で押さえた王太子メルヴィンは、地を這うような声音で言う。
「……あんな奴が一晩中ヘルガの香りの染み付いたものを口に咥えていたのと思うと──……血の気が引くほど憎くなるよね……?」
王太子は……見ている者が薄ら寒くなるような笑顔でそう周囲に同意を求めたが……当然、皆唖然としすぎて頷くものは誰一人としていなかった。案の定、護衛のグラントですら、憎悪の滲む眼差しで男を睨み下ろしている王太子の顔を──呆れ果てたような表情で故意に見ないよう努めている……。
──その光景に、一瞬唖然としていたモニカは──しかしハッとして叫ぶ。
「な、何故この男が……へ、ヘルガ・アウフレヒトは⁉︎」
もはや敬語など使う余裕もないモニカに、メルヴィンが冷たく返す。
「さあてねぇ、これが君たちの馬鹿馬鹿しいおふざけじゃないのなら、ま、私の愛しいヘルガがまた何かトリッキーなことでもしでかしたんだね」
そう言って、彼の令嬢を思い出したらしい王太子メルヴィンは、少しだけ苦笑する。が、その表情はすぐに冷たく改まる。その変わりようはいっそ鮮やかで。モニカを見る瞳にはまるで温度がないが……ヘルガの話をする時は、怒っていても、苦笑していても、その奥には柔らかな光が灯る。……モニカは絶句していた。
と、メルヴィンが言う。
「ま、それはいいとして。君たちはもうお終いだね」
モニカがギクリと後退る。
「メ、メルヴィン様、私はただ……」
「哀れだね、モニカ。君は罪を償う機会を失った。……ここでの暮らしは、不自由だが平穏であったはずなのに。……これから君に課せられる環境に比べればね」
「!」
冷たい台詞にモニカが膝から床に崩れ落ちた。娘の頬には涙がほろほろとこぼれたが──しかし、メルヴィンは身を翻し、もうそれ以上彼女を見ることはなかった。
青年は後ろに控えていた兵たちにモニカらを捕らえるように命じると、倉庫を出て、周辺を見回す。
「──グラント、すぐに敷地内でヘルガを探せ。あの様子では……どうやらなんと、彼女は自力で逃げ出したようだ」
少し泣きそうな顔で複雑そうに笑って。そんなメルヴィンにグラントが息を吐く。
「…………相変わらず、行動が読めませんね……御令嬢は、どこに行かれたのでしょうか?」
「本当に。……しかし私の予想では、流石にあの鈍臭いヘルガではこの高い塀は越えられぬと──」
そう、青年が修道院周辺に巡らされた高い塀を見上げた時……不意に、「──あら?」と、声がした。
「──え?」
その聞き覚えのある声に、メルヴィンが目を瞠った。
「そのわたくしに対する礼儀なき失礼な発言はもしや──マルさん?」
ハキハキとして、どこか怪訝そうなその声に──メルヴィンは弾かれたように振り返る。けれども、そこには周辺領主たちから借り受けた兵たちが大勢並んでいて──彼が探す者の姿は見当たらない。メルヴィンは慌てて声が聞こえたほうへ駆け出した。
「へ、ヘルガ‼︎」
すると、突然突進してきた王太子に、整列していた兵士たちのほうも驚いて。慌てて道を開けようと右往左往する男たちを、メルヴィンは、やっとのことでかき分けた。
「っヘル──…………」
しかしその人垣を抜けた瞬間のことだった。懸命にその名を呼んでいたメルヴィンの声が、何故かかき消えた。王太子は、その先に見たものに一瞬目を奪われて──数秒間の身と思考の凍結を余儀なくされた。──そして、メルヴィン渾身の絶叫。
「へ……ヘルガぁあああああっ⁉︎」
「? うるさいですね。なんなんですか人を見るなり……」
この事態にあって。まったくいつも通りな令嬢は、真っ赤な顔で絶叫したメルヴィンに、厳しい眼差しを向けた。青年の叫びの中に、非難するような響きを聞き取ったらしく。ヘルガは不満そうである。
「わたくし、マルさんに会うために、せっかくあれこれ試行錯誤して逃亡を図ったというのに……」
やれやれです。と、難しい顔で腕を組み、凛と背筋を伸ばす令嬢は。本日も再び眼鏡がないことは予想の範囲内、が──……
グラントが、眉間にシワを寄せた強ばった顔で「なんと……」と、つぶやく。
そう、なんと。その、いかにも正当性があると言わんばかりの威厳のある顔で、メルヴィンを横目で呆れたように睨む娘は……堂々たる、下着姿だった。
「⁉︎」
その姿を目撃した周囲にいた兵たちも、皆唖然として身を強張らせている。
令嬢は、胸元の大きく開いたドレス用の下着に、コルセットという出立ち。ペティコートすらもなく、長い足が太ももまであらわだが……しかし、その表情はまるで、司法官が制服をきっちり身に纏っているかのようなきりりとした顔。その場にいたものは、皆、困惑した。思わぬところで思わぬものを見たメルヴィンも、真っ赤な顔で打ち震え、慌て過ぎて即座には身動きができぬ様子。──が、それでも彼はすぐに周囲に自分以外の男が大勢いることに気がつきハッとして。メルヴィンは、転がるようにヘルガの元へ向かった。
その表情からは──先程彼がモニカたちに見せていた悪魔的な覇気は、すっかり消えてしまっている……
「へ、ヘルガ、き、君、な、なんて格好で──⁉︎」
「?」
だが、駆け寄ってくる男を怪訝に見ていたヘルガが、突然ハッと何かを思い出したような顔をした。
「あ、そうだわ、マルさん」
ヘルガは、自分の傍にやっと駆けつけて、彼女の姿を隠すために、自分のローブを外そうと躍起になっている青年に言った。
「えっ⁉︎ ちょ、ちょっと待っ……」
あのですね、とヘルガはにっこり微笑む。
「わたくしね、どうやら、あなたが好きなようです」
「──え……っ⁉︎」
やっと金具の外れたローブを彼女に向けて広げようとしていたメルヴィンは──……唐突な告白に、ギョッと耳を疑った。
この状況下において──ヘルガ堂々たる愛の告白。メルヴィン同様、周囲の者は皆言葉を失くしたが──ヘルガはそれには構わずしゃべり続ける。
「わたくし、それをあなたに打ち明けに行こうと思っていたのでちょうど良かったです。……あら? でもどうしてここにマルさんが? もしや……わたくしを助けに……? まあ……そうだとしたら感動してしまいますわ……あ、でもだからと言ってもちろん先走りません。わたくしにはちゃんとあなたの気持ちが、友情か、愛情かを確認する用意があります。あなたには拒否権があると、きちんと理解しているのです」
そう両手を胸の前で合わせ、にっこり微笑む娘(※下着姿)に──メルヴィンは言葉を失くし──……手に取ったローブがふわりと地面に落ちた。
「………………え……?」
メルヴィンは掠れる声でやっと返す。
「……あ、の……ヘ、ルガ……今……なんて…………」
──と。呆然としつつ、じわじわと胸に広がりゆく天にも昇る心地に胸を震わせていた王太子は──……
しかし。
次の瞬間再びハッとした。
いや、待て、自分は今、何かとてつもなく重大なことを忘れている……! ヘルガは謎に堂々としているが……その姿は……
そして周囲には、彼女をポカンと見守る大勢の──……
「⁉︎」
その瞬間、顔面蒼白になったメルヴィンは。再び鬼の形相で、地面に落ちたローブを拾い上げ、即座にヘルガにそれを被せた。そして叫ぶ。
「と──とにかく何か服を着てヘルガ‼︎」
すると、ヘルガが「まあ」軽く目を瞠る。
「うっかりしていましたわ」
……うっかりどころじゃねぇ、と、グラントは思ったが。保身の為に黙っておいた。




