2ー1 作戦『当たって砕ける』
青年は言った。地面にがっくりと両膝を突き、顔はやや青ざめて。噛んで含めるように、隣で怪訝そうな令嬢に向かって。
「──うん。ヘルガ。とりあえず……“当たって砕ける作戦”はやめとこうか?」
「…………」
言われた娘、令嬢ヘルガはゆっくりと目を細め、横目でじろりと青年を見る。──本日も険しい裸眼の令嬢は……しかし、眼鏡を忘れたわけではない。──今それは、王宮前庭園の池の中に沈んでいる。
「…………?」
令嬢は自分の傍に屈んで話しかけてきた青年を眉間にシワを寄せて見上げた。睨んでいるつもりはなかった。彼女は少し目が悪いのだ。
本日、この王宮の前庭園まで、奇跡的に眼鏡を忘れずにこられたヘルガ。しかし、それはここぞというところで、きれいな放物線を描き、見事に池の中へ──。
そして頼りの眼鏡を失い、裸眼となってしまったヘルガは。自分に話しかけて来た男を誰だろうとよく見ようとした。その結果、悲しいかな、彼女のアイスブルーの瞳は険しさを増し、淑女には相応しくない鋭い目つきとなってしまう。
本人は気がついていないが、普段なら、恐れ慄いた相手がここで逃げ出すことも多い。が、本日話しかけて来た人物はヘルガから逃げようとはしなかった。
(? どなた?)
と、ヘルガは珍しく冴えていたのか。ふとピーンと気がついて「あら?」と言った。薄ぼんやりと銀色の髪が見えて、声で当たりをつけた。
「もしや…………マルさんですか?」
「え……!?」
ヘルガの言葉に隣で青年がギョッとする。
「どうしてここに? いついらっしゃったの?」
「よ……よく分かったね……(ヘルガなのに)……い、や! そんなことより……!」
いつというか、最初からそこにいた“マルさん”こと、王太子メルヴィンは、青ざめた顔で言った。
「あのね、ヘルガ……確かに私は王太子を誘惑するなら“当たって砕けろ”と言ったけど……本当に当たって砕けようとする人がいる!? だめだよ危なかったじゃないか!」
「あら……ご覧になってたの……?」
「ご覧になってたのじゃないの! グラントがいなかったら君どうなってたか……」
あらまあと、地面に座り込んだままのんびり身繕いをしているヘルガを、メルヴィンは叱る。
それはつい今しがた。
ヘルガが二度目の『王太子の誘惑』への挑戦を試みた結果起こった事故だった。
『家門のために王太子をモニカ・デメローから略奪せよ』
その命令をヘルガに言いつけた張本人である父が、昨日帰宅するなり彼女を呼び出つけて。再びある命令を下したのだ。ヘルガがマルに騙されたその日の夜のことだった。
イライラした様子の父は、ヘルガの顔を見るなり怒鳴り散らす。
『明日は王太子殿下がまた婚約者と会うそうだぞ、ヘルガ! お前王太子の誘惑は進んでいるのか!?』
『はぁ、申し訳ありません全然進んでおりません(王太子様……毎日モニカさんをお呼びになっていらっしゃる……。殿下はよほどモニカさんがお好きなのねぇ)』
父にわめかれながら、ヘルガはそんな二人に割って入るなど自分にできるのだろうかと不安に思った。と、父は言った。
『ぐずぐずせず、しっかりと邪魔をしてこい! 少しくらい無茶をしてもいい!』と。
『……承知しました』
正直ヘルガはイヤではあったが。やるとなったらきっかりやるのが生真面目なヘルガである。
自室に戻ったヘルガは机に座って考えた。机の卓上にはおびただしい数の恋愛関連書が積み上げられている。
しかしそれらを読破したものの、ヘルガはいまだ王太子を誘惑する良い方法が思いついてはいなかった。しかしこれだけは分かったとヘルガ。
(…………どうやら恋愛には……色んなパターンがあるようよ……)←まだそこ。※ヘルガの恋愛理解レベル。
ありすぎて混乱するわと、ヘルガ。そして困った彼女は、先ほど父に叩きつけられた『無茶をしろ』という言葉を考える。
侯爵は、どうやらヘルガに『金で人を動かしてもいい』もしくは『色仕掛けでも』という意味で『無茶をしてもいい』と言ったつもりだったようだ。が、しかしそれはそもそも卑怯な手を使うという考えのないヘルガには、かけらも伝わってはいなかった。
『言わずとも察しろ』というものが、ヘルガがもっとも苦手とするものの一つである。はっきり言ってくれなければ、それは思考魔のヘルガによって考え抜かれ、結果、まったく別のものに変化する。
『無茶って……何かしら。大胆に行けということ? あら? それは……もしや……』
考えはじめたヘルガの脳裏に彼女の唯一の読書仲間、マルの顔が思い浮かぶ。彼の助言が耳に蘇った。
──小手先が使えなさそうなら、いっそ当たって砕けてみてはどう──?
薄ぼんやりとしたマルの微笑んだような輪郭(眼鏡がなかったので顔が見えていなかった)を思い出し、ヘルガがハッとした。
『!? これだわ!』
天啓を受けたかのような気持ちになったヘルガは椅子を立つと──早速王太子たちの逢瀬場所であるという王宮の庭園へ乗り込んでいった。ちなみに考え抜いたヘルガは夜通しそれを考えていて、すでに夜が明けていた。
「……──いやだからって──……本当に王太子にタックルする!?」
ヘルガの話を聞いたマル(王太子メルヴィン)は、突っ込まずにはいられなかった。
彼が婚約者モニカと歩いていたついさっき。いきなり彼女が飛び出してきた理由を聞いて──青年は、少し気が遠くなった。
「あ、あのねヘルガ。当たって砕けるって、そういう意味では──そもそも君、私の言うことは信用ならないと思ってたのじゃなかった!?」
先日彼は、ヘルガの恋路(?)を邪魔するために、デタラメな男性攻略法を吹き込んだ。
その失敗により、彼女にも、彼が適当なことを教えたのだともう分かっているはずだが。
しかし、指摘されたヘルガは冷淡な顔で地面に座ったまま、片眉を上げる。すっと伸びた姿勢は正しく毅然とし、表情も冷たそうだが──騙されてはいけない。これは、ヘルガなりの、いわゆる“キョトンとした顔”なのである。
「? ぁあ……忘れていました」
そうでしたねと言われてメルヴィルがガクッと沈む。しかしヘルガは真面目だ。
「うっかりしていました。夜通し王太子殿下の誘惑方法を検討していたもので……考えすぎてそのことは頭から抜け落ちていたようです」
「……ヘルガ……? 駄目だよ!? うっかりしてるところも可愛いけれど、もうちょっと人を疑おうね!? あと徹夜も駄目だよ!?」
ヘルガが心配で胃がキリキリするメルヴィン。と、叱られたことは分かったらしいヘルガがしゅんとする。
「……だって……マルさんはわたくしの唯一のお友達ですし……」
「ぐっ…………」
珍しく悲しそうに目を伏せたヘルガの顔にメルヴィンが複雑なダメージを受けた。その信頼が嬉しいような──その純粋さが不安なような──。
メルヴィンは思った。駄目だ──この子から目を離してはならない。
「こ、これだから君は……」
胃痛を堪えていそうな顔で苦悩しているメルヴィンに、その顔を呆れだと受け取ったヘルガは、表情を心外そうに曇らせて釈明する。
「でも──誤解です。わたくし、王太子様にタックルをしようとなんかしていません。王太子様にタックルなんて。わたくしも流石にそこまで無礼では。わたくしは──殿下に抱きつこうとしただけです」
どこら辺が無礼ではないのかは定かではないが。ヘルガはキッパリと言った。
「え、そ、それは……かなりいきなりなアプローチだね……(大歓迎だけど……)」
密かにドキドキするメルヴィンに、ヘルガは言う。
「それがわたくしにできるギリギリのことでした」
「え、どういうこと?」
ヘルガは真面目な顔で、ことの次第を語りはじめる。
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