8ー15 モニカの憎悪
昼下がり。修道院の日当たりのいい畑。そこで午後の労働をこなしながら、モニカはなんとも言えない気分だった。
真夏の砂漠の真ん中で、ジリジリと太陽に身を焦がされ続けているような耐えがたさと、高揚に急かされる苛立ち。
視線はたびたびある方向へ向けられる。その先、建物や林に阻まれた向こうには、やっと手中にしたモニカの報復相手。ヘルガ・アウフレヒトがいる。
早くあの憎たらしい顔を苦痛に歪ませて、泣きながら自分に向かって謝らせてやりたいと思うのに──修道院に管理されている立場のモニカには、昼間は多くの“聖務”が課せられていた。
「っ!」
しゃがみこんでいたモニカは、地面からむしり取った雑草を睨んでそばのカゴに叩き入れる。なんで自分がこんなことをと心底思う。
日々修道院で繰り返される労働は、農作業や菓子作りやら奉仕活動やら……早朝からの聖務日課は祈りや読書など。どちらも高尚な内容ばかりで、ちっとも面白みがなくモニカは苦痛しか感じなかった。
ふと、見下ろすと、草刈り鎌を持つ自分の指が泥だらけなことに気がついてモニカは泣きたくなった。手のひらは潤いもなく、ガサガサ。土いじりをすれば爪の中にまで土が入り込む。……以前は本当に傷一つない手だったのだ。今では見る影もない。そんな己の手を見ていると、呪わしい気持ちが胸に広がった。
(……こんなことになったのも……全部ヘルガ・アウフレヒトのせいよ!)
心の中にあるのはあの日のことばかり。モニカが、王太子とヘルガ・アウフレヒトに屈辱を味わわされたあの日。
あの日以降、彼女の心の中は、ずっとずっとヘルガを呪う気持ちに占められている。
残念なことに……こうして日々修道院で行われる“聖務”も、モニカを更生には導かなかった。そもそも、モニカは自分たちが悪いことをしたとは思っていないから、気持ちが償いに向かないのも当然である。
それでも彼女がここで従順なフリをして過ごしているのは、もちろん来るべき日のため。どんなことをしてでも、ヘルガ・アウフレヒトに復讐してやる、きっと返り咲いてやるという欲求が、現在のモニカの原動力だった。
悔い改め、許しを乞うような気はさらさらない。
なぜ伯爵令嬢である自分が、華やかな生活を奪われ、綺麗な服も着られず、化粧すらできず。こんなところで土に塗れていなければならないのだ。
それまでのモニカの暮らしは上々。家はそこそこの名門で、財産だってあった。蝶よ花よと育てられ、愛らしい顔立ちも手伝って、モニカに冷たくするような男は一人だっていなかった。言い寄ってくる男だって大勢いた。男に無碍にされたことなど一度もなかったのだ。──あの日までは。
その日のことを思い出すと、今でもはらわたが煮え繰り返る。彼女の手を取らなかった王太子、自分を見捨てた王妃、衛兵に連行されていく自分を、まるで汚らわしいものでも見るような目で嘲笑った貴婦人たち。その顔は、今でも時々夢にまで出てきては、モニカを屈辱感で苦しめる。
王都で仲良くしていたはずの友人たちも、今では便り一つよこさない。モニカには分かっていた。どうせ彼女たちは、今はモニカの悪口で楽しくやっているのだ。モニカがこうして農婦のような生活に耐えている、今、この時も。
──実際に友人たちがそうであったのかは分からない。すべてはモニカの勝手な想像だ。しかし、モニカ自身はそう思い込んでいた。
私は悪くないのに、皆がそうやって自分を蔑み、悪態をついているのだと。悪いのは全部ヘルガなのに、どうして私がこんな目に遭わなくてはいけないのだと。
(……こんなの……間違ってる!)
そう思うと悔しくて。腹立ち紛れに農具を地面に叩きつけると古い柄が割れ、それを傍で作業していた修道女に見咎められてしまった。クドクドとした説教を聞かされたモニカは、心が余計にささくれ立った。あんたなんかどうせ平民出の癖に、と、修道女を心の中で罵った。
──こうした鬱屈とした日々が、どんどんモニカの心を荒ませていた。もちろん、鬱屈としていたのはモニカ自身が反省もせず、いつまでも贅沢な暮らしに執着し、恨みを捨てられなかったせいではある。彼女の心には、聖なる祈りなど入り込む隙間がなかった。贖罪を強要されればされるほどに、モニカの恨みは募っていくのだ。
その後の時間。モニカは大切な道具を乱雑に扱った罰として、一人で農具を洗う仕事を言いつけられた。水は冷たく、土の匂いが不快だった。そこここに飛んでいる汚らわしい虫が嫌で嫌で堪らない。辛かった。また涙が滲み出て、顔を拭おうとして、己の手にうっと顔を歪める。こんな汚らしい手で、顔になど触れない。と──
「……あの、これお使いになります?」
「!」
誰かが後ろから、彼女に向かってハンカチを差し出してきた。──花の刺繍のついたハンカチだった。何故か、少しだけ鉄のような匂いがする。相手は申し訳なさそうに言う。
「洗い立てでまだ湿っているのですが……」
修道女の誰かだろうか。気遣うような言葉が憐れみに聞こえたモニカは、かぶっていた麦わら帽子に泣き顔を隠すようにして。その者の顔も見もせず、「いらないわ! 余計なお世話よ」と、冷たく撥ね付けた。相手はしばし無言でモニカの背後に立っていたが、頑ななモニカに呆れたのか、そのうちいなくなったようだった。
(……ふん)
モニカは、誰だか知らないが、私はあんたみたいな下賤な者に憐れみをかけられるような存在じゃないわと鼻を鳴らした。
と、そんなモニカの顔にふっと嗜虐的な愉悦が浮かぶ。
(……ああ……早くヘルガのところへ行きたい……)
それは、モニカのこの鬱屈した思いをすべてぶつけられる相手だった。
夜になれば自室を抜け出して、あの大嫌いな顔が歪むほどに引っ叩いてやるのだ。きっとスカッとするに違いない。やっと、やっとだとモニカの胸に喜びが広がる。自分の人生を台無しにし、こんな生活に堕とした女に、やっと恨みを晴らせる。そう思うと、つい口元が緩む。
さてどうしてやろうか。自分を無碍にした王太子。あの男が『射止める』と豪語したらしい女をズタボロにして王宮に送りつけてやったらさぞ痛快だろう。高慢で体裁を重んじる王妃は絶対に、そんな娘を息子の妃にすることを許しはしないはず。ヘルガも王太子も、みんな苦しめばいいんだわ、と笑って。しかしその顔はすぐに曇る。
「──ああ、でもダメなんだったわ……」
モニカは残念そうにつぶやく。
ヘルガに正体を晒さずにおけばそれも可能だったのだが……すでに昨晩、モニカはヘルガに正体を明かしてしまった。ヘルガの顔を見た途端、彼女はその衝動に抗えなかった。──どうしても、あの女を自分の手で絶望に叩き落としてやりたくて堪らなくなってしまったのだ。
己が誰によって地獄に叩き落とされるのか……それを思い知らせてやりたいという欲求はとても堪えられるものではなかった。
だから現状で、もしヘルガを生きて王都に返せば、モニカはすぐに捕まってしまう。今でも屈辱的なこの修道院生活を、これ以上に惨めなものに堕とされるのはごめんだ。どうにかならないか──と、あれこれ考えて、しばらくしてモニカが苛立ちのこもったため気を吐く。
(ああ、もう面倒だわ……喉を潰してやっても筆談があるし、手を使えなくしてやっても結局何かの手段で告発されるかもしれない……そんなことにいちいちビクビクしていたくないわ……)
今はまだ、配下たちも、父の国外逃亡の準備に忙しくてあまりモニカのほうには手を回せない。が……いずれは自分も絶対に、父に続きここから逃げ出して、海外にでも渡り、どこかでまた輝かしい人生を取り戻してやるのだ。──そんな自分の未来に、いつか捕まってしまうかもという怯えは相応しくない。
それにどうせと、モニカの顔に高慢な色が浮かぶ。自分の代わりに手を汚してくれる者など、いくらでもいる。
(……もう、あの女は王都には返せない……)
そうしてモニカは言い訳するように独り言つ。
「でも……これは悪いことなんかじゃないわ。だって仕方ないのよ。だって、嫌なんだもの。だから、仕方ない……全部ヘルガが悪いんだもの。あの子がすべての元凶、自業自得なんだわ……」
仕方ないの、そうよ仕方ないのとモニカは、一人で何度も繰り返した。
そうしてやっとその日の聖務から解放されると、他の者たちは皆さっさと寝床に帰って行った。しかし、まだ子供が眠りにつくような時間である。モニカは、『独房のようだ』と嫌悪する自室の中からそっと抜け出した。
夜間の見回りをする当番の者には媚びて媚びて、とうに手を回してある。それもこの時の為、と、モニカは足取り軽く、ヘルガを捕えさせてある倉庫に急いだ。
敷地の外れにあるその倉庫は、敷地の広いホワイトベル修道院の中ではもうだいぶん昔から持て余されているもののようだった。建物はガタがきていて、納めてある物もガラクタばかり。修道女たちもほとんど近寄らない。
闇に紛れるようにして夜道を進んだモニカは、倉庫の前にいくつもの人影を見つけて歩く速度を早めた。
「来たのね」
「──お嬢様」
声をかけると応じる声。
この男たちは、モニカの父の元配下──とはいっても。彼女の母の実家から報酬を払っているのだから、今もモニカたちの配下同然ではあるが。
皆、長年伯爵の汚れ仕事を担った、とても腕が立つ者たちだった。高い塀があろうとも、修道院に忍びこむことなど雑作もない。
彼らを呼び寄せたのは、もちろんヘルガを痛めつける手伝いをさせるためである。先日ここにヘルガを運び入れさせるのに、彼らではなく村人たちを使ったのは、犯行にモニカが関わっていると知られないよう用心の為だった。
──だが、これより先は、平々凡々と田舎暮らしをしているような村人たちには頼めない仕事である。彼らなら口も固く、後ろ暗い仕事にも慣れている。おまけにモニカに吹き込まれ、デメロー家を落ちぶれさせ、彼らに職を失わせた張本人と信じるヘルガを、彼ら自身も恨んでいた。
辺りを警戒している男たちのなかで、一番年長のものが口を開いた。
「それで──どうなさるおつもりなのですか? お父上は、もうそんな小娘など始末して侯爵家に送り付けてやれと怒り狂っておいでですが……」
「もちろんそうするわ」
モニカは躊躇なく答えて、こう付け加えた。
「──でも、十分に痛めつけてからね」
その冷酷な答えに、男たちも承知しましたと特に感情を動かされた様子もない。
モニカは吐き捨てる。
「王太子妃に……ひいては王妃になるはずだった私の尊い人生を、侯爵家の娘ごときが、こんなにも惨めにした償いをしてもらわなくちゃ……」
王妃になればヘルガなど。侯爵家の娘も、公爵家の鼻持ちならない娘たちも、あの日モニカを嘲笑った者たちすべて傅かせてやれたはずだった。
その恨みは、さらにこの望まぬ“聖なる”暮らしで鬱屈し、モニカでももうどうしようもないくらいに肥大化している。恨めしい気持ちが止められないのだ。──しかし、きっと、この憎しみの業火で身を焼かれるような苦しさも、ヘルガを亡きものにすればきっと晴れ晴れと流れ落ちていってくれるはずと……モニカはそう縋るような思いで固く信じた。もう、こんな屈辱的な生活からは解放されたいのだ。そして、自分は新しい人生をやり直す。その時モニカはあるひらめきに顔を輝かせた。
(そうよ、あの女は……神に対する供物だわ……!)
昔から、神に生贄とはよくある話。先人も、自分たちが救われるために神に供物を捧げて祈ったではないか。モニカはその気づきに気を良くした。
(神よ、あの女を捧げます。だからどうか、私をもうここから解放してください。私に幸せな未来を約束してください!)
モニカは──ここに来て初めて心から神に祈った。
……彼女はそれを身勝手だとは呼ばない。すべては……幸せになるべき自分が人生を取り戻すためである。
お読みいただきありがとうございます。もうすぐ決着です。




