8ー11 ヘルガ始動
手下らしき男がそろそろ修道女たちの祈りの時間が終わると告げに来て。舌打ちしたモニカはヘルガを苛立った目で一瞥し、男たちに怒鳴った。
「今度こそちゃんと閉じ込めておきなさい! 持ち物は全部取り上げるのよ⁉︎ 分かったわね!」
──と。モニカは扉を叩きつけるようにして足早に暗い部屋を出ていった。それを見送ると……叩きつけられた戸の激しい音と、モニカの金切り声に身を竦ませていた男たちが、やれやれと苦い顔で大きなため息をついた。
彼らは、部屋の奥にいるヘルガを気にしながら顔を寄せ合い、コソコソと小声で会話する。
「……あの嬢ちゃんは相変わらずの癇癪持ちだな……可愛い顔しててもアレじゃあなぁ……」
するともう一人の男がモニカが乱暴に閉めていった扉を指さす。
「……なあ、おい見ろよ、その扉……」
「ん?」
「さっきの“吸血鬼”騒動の時さ、慌てた誰かがぶつかったみたいで……ドアノブが鍵ごと外れかかってたんだけどよ……今のお嬢さんの叩きつけでどうやら完全に壊れちまったみたいだ……」
「はぁ? 嘘だろ……」
指摘に慌てた男が手持ちのランプで扉を照らすと、確かに扉の鍵は壊れている。
「やばいな……」
小声でぼやく男に、もう一人が困り顔で問う。
「お嬢さんに言っとくべきか……?」
「や、やめとけやめとけ! さっきの形相見ただろう? またあの金切声で怒鳴られたらたまんねぇぞ……」
うんざりした顔になった男は、部屋の奥に項垂れたまま佇むヘルガをチラリと見た。彼女は、髪も着ているドレスもずぶ濡れ。部屋の奥で、モニカに叩かれた時の姿勢のまま、項垂れて茫然自失としているように見えた。彼らが話していることにすら気がついているふうではない。それに、俯いた前髪の隙間に覗く白い頬や、ほっそりとした首筋はいかにも頼りなさげで……男は大丈夫だと相方に視線を戻し首を振る。
「……どう見たって温室で育てられたひ弱なお嬢様じゃねーか。構いやしねぇ、縛ってあるし、見張りさえつけとけば逃げられっこねぇよ。さっきの吸血鬼の件は……俺らもこういう仕事は初めてで、ちょっとビビって驚きすぎた。二度は同じ手にはひっかからねぇし……お嬢さんには黙っとけ。明日、明るくなってからこっそり修理してしまおう」
「まあ……そうだな……」
男たちがそう囁き声で話している間も、その令嬢はしんと静まりかえって微動だにしない。令嬢は散々痛ぶられていた。水を頭からかけられ、頬を引っ叩かれて。おまけにこれから再び、この窓もなく暗い部屋の中に閉じ込められるのだ。この状況下では、たとえ彼女が令嬢でなく普通の町民女性でも、気が参っていてもおかしくなかった。逃げる気力などきっとないはずだ。……と、男たちは判断した。
「持ち物……は、まあないだろ。そもそも身一つで連れてきたんだろ?」
「ああ。……でも念のため……」
片方の男が灯りを頼りにヘルガの背中側で縄に固定されている両手を目視する。そこには何も握られていない。男たちは頷き合い、あとは彼女を一瞥することもなくそそくさと部屋を出た。……そうではないと頭では分かっていても……先ほど見た血塗れの令嬢の姿はとても心臓に悪かった。今もしんと静まり返った姿が少々不気味で……
扉の外で、それを後ろ手に閉めてやっと、男たちはホッとしたような顔をした。と、若い男にもう一人が顎をしゃくる。
「じゃあお前は先に行って休んでこい。俺が見張りをしておくから、あとで交代に来いよ」
「ああ、分かった」
「………………」
静かになった室内。男たちが部屋の外へ出ていくと、俯いていたヘルガの肩がピクリと動く。
だが、娘はまだ頭を上げず、そのままの姿勢で暗闇の中へ耳を澄ます。モニカも男たちも、ここに灯りは置いていってはくれなかった。おかげで辺りは真っ暗で。暗闇の気配を慎重に探り、確かに室内には自分以外は誰もいないことを確かめてからやっと、ヘルガはゆっくりと顔を上げた。
「……、……ふう」
妙に姿勢の良い格好で息を吐く。背筋を伸ばし、首筋を伸ばすように頭を左右に傾けて。まだ少し気絶させられた時に殴られた場所が痛かった。それに暗闇では分かりづらいが……顔を上げたヘルガの頬は赤く腫れ上がっている。
しかし彼女にはそれを気にした様子はなかった。ただ、伏せた瞳には憂いが滲んでいた。モニカの言葉を思い出し、ヘルガはため息をこぼして気落ちした様子でつぶやく。
「……そうですか……そうだったのですか……」
モニカの自分に向けられる怒りが、こんなことをするまで強いのだとは思わなかった。昔から人に忌諱されることには慣れてはいるが、それでも面と向かって突きつけられると悲しかった。しかし。
「……だからといって、大人しくここに滞在するわけにも」
ヘルガはそう諦めたような口振りで言って、もう一度息を吐く。今度のため息は、気持ちを切り替えるためのものだった。どんなに彼女に恨まれていようとも、ここでいいようにされることが最善とは思えなかった。先程のように暴力を受ければモニカの気は晴れるのかもしれないが、それが何になるのだろう。彼女は罪を重ねるばかりで、ヘルガのほうはマルに会えない。
「……わたくしは、マルさんの元に行かなくては」
ヘルガはつぶやいて、目を前に向けた。その眼差しは悲しそうではあったが、強かった。
このようなことになって、今はいっそう彼に会いたかった。助けてほしいと願ったわけではない。ただ、無性に会いたいのだ。
「……っ」
そう思うと目頭が熱くなって瞳には涙が浮かんだ。しかしヘルガは泣かなかった。表情を堅くして、奥歯を噛む。
彼に会うために父に反旗を翻し、思い切って家出に踏み切ったのである。このままここで諦めることはできなかった。もし、そうでなければ、ヘルガはただここでモニカに悪いことしてしまったと落胆し、身動きできなかったかもしれない。でも、と、ヘルガは鼻を啜り、顔を上げる。
「……とりあえず、ここを出ましょうか」
できれば、もう一度モニカとは話したい。が……でもそれはまた、脱出し身の安全を確保してからでも叶うことである。攻撃的だった先程の彼女の様子を考えると、きっと今モニカとの対話に臨んでも、彼女は冷静に自分の話を聞いてはくれないだろう。そのことに虚しさを感じつつも、ヘルガは無言で扉のほうを見る。
先程の男たちは──どうやらヘルガには会話の内容が聞こえぬよう小声を使っていたらしいが……
ヘルガはつぶやく。
「……わたくし……実は耳がいいんですのよ……」
視力が悪いせいだろうか。実はヘルガは聴力には優れている。が──ただし……これはヘルガがその音にきちんと集中すればこそ発揮されるもの。彼女は往々にして自分の思考に囚われぼんやりし、外部の事柄には注意を向けてはおらず、あまりその能力が発揮されたことはない。が……今回のように、静かな環境でしっかり聞き入れば、少し離れた場所で行われるコソコソ話程度ならよく拾える耳を持っていた。ゆえに、ヘルガには先程の男たちの会話は全て筒抜けだったわけだ。もちろん──扉の鍵が壊れているという話も、自分が彼らにかなり舐められているのだという空気も。
「……なるほど……いえ、侮られるのは好都合ですよ。……それにしても……」
男たちの会話を思い出したヘルガが不意に、謎にふふふと微笑む。
「わたくし……身一つ……でも、ないのですけれどね……」
ヘルガはチラリと、己の縄で縛られた身体を見下ろした。
現在のヘルガの装備は──外出用の上品な濃紺のドレス(ずぶ濡れ)にイヤリング。ストッキングに、そこまでヒールの高くない靴──と、ざっと言ってこのような感じである。
一見すると……カバンなどの荷もなく、脱出に使用できそうな持ち物があるようには思えないが……
ヘルガにしてみれば、案外多くの物を所持していると思えた。令嬢は首を傾げる。
「不思議ねぇ、先程の方たちが男性だからお分かりにならなかったのかしら……? それとも町民の方でいらっしゃるから?」
母と共に、知り合い貴族の茶会に参加するために着ていたこの外出用ドレス。……実はここにはかなり多くのものが装着されている。……とは言っても、それは武器のようなものではないのだが。
まず分かりやすいのはスカートの下に忍ばせるように装着されたポケット。ぱっと見分かりにくいが、スカートには横に縦穴が左右それぞれに一つずつ開いている。その下にはペチコート。これにも左右に穴があり、さらにその下に紐で腰に巻いている左右二つの袋状のもの──つまりポケットに手が届く仕組みになっていた。ふんわりしたスカートの下で、案外その容量は大きく、ヘルガはそこにハンカチ(※すでに血塗れのあれ)や、香り袋やら扇やらの細々としたものを入れている。(※なのに、何故かヘルガはそこに予備の眼鏡を入れておくという頭がない謎)
さて、次にドレスだが、これはフリルやらで華やかな上衣のジャケットとスカートに分割される作りである。その下に来たブラウスは幅広のリボンで首元を締めてある。さらに腰の後ろにはスカートの形をよく見せるための細長いパットを紐でウエストに装着しているし……コルセットにはしなやかで張りのある鯨の髭のボーンが入っている。締め上げに使う紐も案外丈夫なはずで。
さらにジャケットの裾には見えない部分に、歩く時に長いスカートが邪魔にならぬよう持ち上げた裾を引っ掛けるための赤子の手のひらほどの丈夫で硬い金具もついている。
……そういえば被っていたはずの帽子はすでにどこかに行ってしまったが……それを止めていたピンも頭には残っているようだ。
(……ふむ……さて……では、どういたしましょうか……)
武器の類ではないとはいえ、まさか令嬢の装いの下に、これだけのものが取り付けられているなどとは……貴族文化にも明るくなく、ドレスの着付け経験もないはずの男たちにはきっと想像もつかなかっただろう。だが、ヘルガにしてみれば、ポケットの存在くらいには気がついてもよさそうなものだと思った。が……それはまあ、すでに初めに気絶していた時点でもう検められて、『害なし』と判断されたのかもしれない。実際、ヘルガの持ち物には、令嬢の手回り品以上のものは──ある例外を除いては、ないのだから。
「……、……、……」
ヘルガはそれらの装備品を一つ一つ思い出しながら、じっと考えた。この際手段を選ぶつもりなどない。使えるものを使いここを脱出するつもりだ。
「…………さて」
ヘルガは一見冷たくも見える決意の顔で、立ち上がる。
まずはこの身体を縛り、手を後ろに固定させられている縄をどうにかしなければ。……まあそれも、よほど侮られていたとみえて……かなり緩めにしか縛り上げていないわけだ。……いや、もしかしたら……あの吸血鬼騒動があったせいで、ヘルガを縛る男の手が震えていたのかもしれない。──怖くて。
ヘルガはしみじみと天に感謝した。
「ありがたきことです。まあ……どうにかこうにかやってみましょうか……わたくしの人生がかかっていますからね」




