8ー10 恨み
ヘルガの髪をつかみ、乱暴に引き寄せた娘は、驚く令嬢に己の額がつきそうなほどに顔を近づけた。ランプひとつしかない暗がりの中、そうされることでやっと彼女の目鼻立ちが見えたヘルガは、その荒みきった、見覚えのある瞳に息を吞んだ。と──娘は鼻を鳴らし、ヘルガを乱暴に突き放す。
「っ!」
手のひらで押され放り出されたヘルガは、しかし拘束されているせいでうまく受け身もとることができなかった。床に肩を打ちつけると、衝撃で彼女の後頭部は再び痛んだが──それどころではなかった。なんとかすぐに上半身を起こし、顔を上げて、すぐそばに立っている娘の顔を見上げた。
ランプの灯りに照らされて、そこで肩を怒らせているのは……やはり……
「モニカさん……なぜここに……」
目をまるくしたヘルガは、それきり絶句した。さすがのヘルガも、ここでモニカが出てきたことにはかなり驚いたらしい。モニカは、そんなヘルガを冷たい眼差しで見ていたが──暗闇にふっと笑うような音が響く。
「ふん、驚いた? それはそうよね……」
鼻を鳴らした娘は、小馬鹿にしたような口調で言いながら、ヘルガのずぶ濡れのドレスをジロジロと軽蔑の眼差しで見下ろす。
「そんなに着飾っちゃって。せっかく貴族連中に自慢して回っていたところだったのにねぇ」
「っ」
言ってモニカは、困惑したままのヘルガに再び顔を近づけて。それに驚いたヘルガが一瞬怯むと、その胸の中心あたりを何度も指で強く突きながら、忌々しげにねめつける。
「いい気なもんよ! 王太子妃になれそうだと! 私の後釜で! このモニカ・デメローを蹴落としてやったんだって! そう吹聴して回ってるんでしょう⁉︎」
「……」
喚くモニカに、ヘルガは唖然と言葉をなくす。間近に見たモニカの瞳は怒りに燃えていた。ひどく苛立った口調は、吐き気がすると言いたげで。再び離れていったモニカを目で追いながら、ヘルガは何と言っていいのか分からなくなった。
当たり前のことだが……ヘルガはモニカが言ったような行為をしていない。が……指摘されたような行動を自分の母はやっている。いや、もちろん母も、単純に喜んで知り合いに自慢しているだけで、『モニカを蹴落とした』だとか、そういった彼女を貶めるような言葉を使っているわけではなかったが……。それでもモニカの立場であれば、不愉快だろうかと考えると言葉に迷う。
モニカ・デメローは元は伯爵家の一人娘。愛らしく、表向きは可憐を絵に描いたような令嬢だった。
が──現在は、王太子の婚約者選定の折、家族ぐるみで不正を働いた廉で地方の修道院に送られた。父である伯爵は爵位を取り上げられたと聞く。ヘルガもモニカがどうしているのはかとても気になってはいたが……
再びまみえたモニカは……王都にいた頃とはかなり様変わりしているようだった。今、目の前に立つ彼女は、以前のような可憐な出立ちではなかった。
服も質素で化粧もしておらず……手入れの行き届いていた肌はすっかり荒れてしまっている。美しかった金髪も短く切り取られていて、パッと見ただけでは──ヘルガも言われなければ同一の人物とはきっと分からなかっただろう。
それに外見ばかりではなく話し方も荒々しく、ヘルガは特にこの点に困惑した。……その実、モニカは以前から案外裏では口の悪い娘であったが……ヘルガはモニカの表向きの顔しか知らない。モニカの本性がどうであれ、ヘルガは彼女に“秀でて可愛らしい女の子”というイメージを持っていた。この変貌ぶりは衝撃である。しかもだ……
あの、まさか……と、ヘルガの瞳がうろたえたように彷徨う。
「まさかとは思うのですが……もしや……貴女がわたくしをここに……? あの男性たちはあなたが手配なさったの……?」
恐る恐る問うと、モニカは一瞬何を今更という顔をしてヘルガを睨む。
「当たり前でしょ! 私が今こんな状態なのはあんたのせいじゃない! ……まさか……私があんたを憎んでいないとでも思った⁉︎」
金切声で図々しいと吐き捨てられて。ヘルガは、一瞬目を瞠って押し黙り──それから細くため息をついて……
重く首を横に振った。
「……、……、……いいえ……」
やはりそうだったかと思った。
以前、マルには『モニカたちは自業自得だから気に病むな』と叱られたものの……ヘルガは、それでもモニカが自分を恨んでいる可能性はあると思っていた。
(確かに……わたくしは、モニカさんと王太子殿下との逢瀬を邪魔いたしました……)
たとえ事が彼女たち自身の自業自得だとしても、そのような時でも人は、我が身に降りかかった災いを何かのせいにしたくなる。
肩を落としたヘルガは、無言でモニカの姿に目を凝らす。
王都にいた頃とは、あまりにも違うその姿。伯爵家の娘として何不自由なく育った彼女が、このような暮らしを強いられれば我慢ができなくても当然だ。さぞ憤りを感じていることだろう。こんなことを言えばまたマルに叱られてしまうだろうが……そのモニカの怒りの矛先が、自分に向くのはある意味仕方のないことだとヘルガは思った。
ヘルガの表情は、グッと神妙なものに変わる。
(……わたくしが、彼女と王太子様との逢瀬を散々邪魔立てしたのは事実ですし……)
……いや、もちろんヘルガは全然二人の邪魔はできていなかったし……そもそもあれは、実は王太子メルヴィンからしてみれば逢瀬でもなんでもなく“婚約破棄の申し入れの為の呼び出し”だったのだが……
それはヘルガも、そしてモニカも知らぬことである。
モニカにしてみれば、あそこで王太子を魅了し自分の虜にしておくことができれば、きっと無事に王太子妃となれたはずという頭があるのだろう。彼女にはその自信があったのだ。王太子さえ納得していれば、自分の不正も不問にされたはずと。
(…………なるほど)
ヘルガにも、やっと自分が何故ここに連れてこられたのかが分かった。
つまりモニカは、ヘルガをとても恨んでいる。こんな、大それた事をするほどに。
「……それだけ王太子様に対する想いが深かったと……」
そう思うとやはり申し訳なく思えて。沈んだ顔のヘルガの口から、思わず考えていたことがぽろりと漏れてしまう。と、その言葉を聞いて、モニカがあからさまに目の色を変えた。彼女はカッとなったような顔で手を振り上げて、思い切りヘルガの頬を打ちつける。
「っ⁉︎」
バシッと激しい音がして、モニカが怒鳴る。
「馬鹿言わないで! あんな男……! こっちから願い下げよ!」
「え……?」
頬を叩かれたヘルガは、痛む頬を押さえながら、目をパチパチとしばたたく。
「モ、ニカさん……?」
逆上したモニカは、目を吊り上げて語気を強める。
「あんな……あんな、私の魅力も見抜けないような……しかも大勢の前で私に恥をかかせるような無礼な男……!」
「……ぇ……?」
モニカの口から出た王太子に対する侮辱の言葉に、ヘルガは大いに戸惑っている。ヘルガはてっきり……モニカは当然、王太子をとても恋い慕っているのだと思い込んでいたのだが……モニカの瞳は激しい怒りに燃えていた。そこには恋情のカケラもない。
それもそのはず。この時、モニカの脳裏にあったのは……王妃のサロンでメルヴィンに面と向かって拒絶された一件のことだった。
モニカは王太子メルヴィンに、大勢の来賓たちの前で、婚約内定を覆された屈辱をけして忘れてはいなかった。
小さな頃から愛らしかったモニカは、それまで男にちやほやされることはあっても、冷たくされたことなど一度もなかった。それなのに。
あの日あのサロンで、王太子に取って貰えなかった自分の差し出した手のことを思い出すと……今でも身を刺すように恥ずかしくて堪らない。王太子が理想以上の相手だっただけに、長年狙っていた相手だっただけに。逃した今となっては、余計に憎たらしかった。
しかしモニカが何より許せないのは──その王太子メルヴィンに選ばれたのが、自分たちが苦労して蹴落としたはずの令嬢ヘルガだったことである。
ヘルガの名が王太子の婚約者候補のリストにあると知った時、そんな馬鹿なと思った。あんな陰気な女がどうしてと。どうせ父親の侯爵という身分のせいに違いない。そう思うと忌々しくて堪らなかった。あんな自分より劣る娘でも、家門さえ立派ならいくらでも栄光をつかみ取れるのだ。──許せないと思った。
だから真っ先にリストから削除させた。そこにはなんの躊躇いもなかった。
不正もモニカからしてみれば、『この国の女性の頂点に立つ』という夢に対する手段の一つに過ぎない。何がいけないのだ。美貌も素養も絶対に他の令嬢たちに負けないはず。それなのに、父の身分が少しばかり他の令嬢たちより低いくらいで、自分が見劣りされるなんて我慢がならなかった。それを自分たちの力で上り詰めようとしただけ。何がいけないのだと。
吐き気がするような媚びへつらいもやった。賄賂も散々ばら撒いた。そこまでして手に掴みかけた望みを、目の前で、しかも大勢の目の前で絶たれたばかりか──それを奪うのが大嫌いなヘルガ・アウフレヒトだなんて。
(……絶対に、許せない……!)
モニカの瞳はさらに暗く尖り、目の前のヘルガに向けられる。──この女に、絶対に仕返ししてやろうと誓ったのである。
モニカにとって幸いだったのは、彼女が送られたのがこのホワイトベル修道院だったこと。
ここは修道院とはいえ、地方にあり中央政権からの目も届きにくく、管理がそこまで厳しくはない。建前では厳しい管理を謳われていて、モニカのように罰として管理される立場の者は高い塀の外には出られないが……しかし、周辺の村民は出入りの業者として自由に出入りするし、修道女たちの中にも袖の下を使えば少々のことには目を瞑ってもらえる。つまり……こっそり金銭さえ渡せば言うことを聞く人間は容易く見つけられるのだ。
入院の際には金銭の持ち込みは許されなかったが、そういう連中をうまく利用すれば、財産を守るために父と別れて実家に帰った母からの送金を受け取ることも十分可能。ヘルガを捕らえさせた男たちは父の元配下で、彼らとの渡りをつけたのも、そういった金で動かした連中である。
この期に及んで……断罪され、修道院などという場所に送られておきながら、まったく嘆かわしい事だが……もともとモニカは悪知恵が働く娘である。普段は大人しくして従順にしておけば、規則正しい生活をする修道女たちの裏をかくことも案外容易かった。モニカと同じように管理される者にも、母から送られてきた菓子類やらの横流しで口止めをしている。そういう者を味方につけておけば、一層動きやすかった。
今も具合が悪いと言って、祈りの時間を抜け出してきている。修道院では日に何度も行われる祈りの時間は結構長い。おまけに田舎にあるこの修道院は敷地が無駄に広く、古くなって使われなくなった人目につかない倉庫などもいくつもあった。モニカがヘルガを閉じ込めているのもそんなうちの一つ。ここで、せいぜいヘルガをいたぶってやるのだとモニカは笑う。──そうしなければ……苛烈な気性の彼女の気は、どうしても収まらないのだ。
モニカはつかつかとヘルガの傍へ寄り、戸惑ったように自分を見上げる顔を侮蔑をこめて見下ろした。
忌々しいほどに色白で整った顔。長い睫毛に縁取られたアイスブルーの瞳は大きく見開かれている。だが、悲壮に下がり切った眉尻がいい気味だった。もっともっと怖がればいいと愉快になって。唇に愉悦を乗せたモニカは、大きく手を振りかぶり──すでに一度平手打ちされて赤くなっているヘルガの頬をもう一度強く打ち払った。
「っ!」
「──ふぅ……」
バシッと小気味いい音を聞いて、モニカが気持ちよさそうに笑う。思い切りやったせいで手が少し痛かったが、ヘルガの唇の端に血が滲んでいるのを見ると気分が爽快だった。
「はあ、少し胸がスッとするわね」
「…………」
歪んだ顔で笑う娘に、ヘルガは唖然としている。その間抜けな顔を鼻で笑いながら、モニカは不平を並べる。
「……なんで私がこんな場所にいなきゃいけないのよ……全部あんたのせいよ! 王太子を横取りされて、こんな辺鄙なところに連れてこられて、髪も切られて、なんの面白みもない惨めな生活を送らなきゃいけない……! 私は王太子妃に……未来の王妃になるはずの女なのに……!」
絶対に、許さないわ、と、モニカは押し殺した声でつぶやいた。
モニカお嬢さん、と誰かが呼んで。憤慨し、すっかり興奮していたモニカは、その不安そうな声に、煩わしそうに振り返った。と、たった今出てきた扉の脇に、町民風の年配の男が所在なさげに立っている。
「何よ」
ようやく憎きヘルガ・アウフレヒトを手中にして、これからどんな仕返しをしてやろうかとあれやこれや考えていたモニカは、思考を遮った男をジロリと睨む。と、男──ここへヘルガを攫ってきたうちの一人は、イラついたモニカの声にたじろぎながら言った。
「い、いえね、最初の計画じゃあ、お嬢さんは、あの令嬢に正体を見せない予定だったでしょう? ほら、指示したのがお嬢さんだと知れると都合が悪いって……傷ものにしてやるだけで婚約者の候補は外されるはずだから、それで十分だって……」
「……ああ……」
言われて、思い出したモニカは渋い顔で舌打ちする。ヘルガを痛ぶることに夢中ですっかり忘れていた。
「……そうだったけど……実際ヘルガの顔を見ちゃうと怒りが沸々と蘇ってきて……我慢ができなかったのよ。私、あの子に散々な目にあわされたのよ⁉︎ 自分の手で引っ叩いてやりたくて……」
モニカは苦々しくため息を吐く。と、男は不安そうに訴える。
「そりゃ、そうかもしれませんがね……どうするんです? 傷物にはしてやるにしても……あの令嬢を帰したら、すぐにお嬢さんは捕まっちまうんじゃないですか⁉︎ そうなったらわしらはお約束の金は貰えなくなっちまうんじゃねぇんですか⁉︎」
……つまり、彼は自分が貰えるはずの金が心配なのだ。モニカは、侮蔑のこもった目で男を見てから、考える素振りを見せた。
「……そうねぇ。困ったわね……この件が露見してこれ以上無様な暮らしをさせられたんじゃ堪らないものね……はあ、そうね、じゃあ……」
そこで言葉を切り、モニカは今出てきた背後の扉へ目をやる。冷たい眼差しの令嬢を、男は傍で固唾を飲んで見守っていた。──と、そんな男に、モニカは晴れやかな笑顔を向ける。
「……ふふ、そうね。それじゃあ、やっぱり──あの子は、片付けさせるしかないってことね」
随分間があいてしまいました( ;∀;)
が、やっと続きが書けそうです!ここが乗り越えられればまたマルも出せそうですし、徐々にヘルガらしいのんきなお話が書けそうな気がしています。またお読みいただけたら嬉しいです。




