8ー9 誘拐犯の正体
突然冷たいものを浴びせられ、ハッと意識が浮上する。顔に流れ落ちていくものを感じ、何事かと身を強張らせてそれを振り払おうと頭を振った。が、
「っ……」
その瞬間、頭の後ろがズキリとひどく痛んだ。ヘルガが一瞬つらそうな顔をする。
首の付け根の奥に響く、疼くような痛みだった。
「え……怪我……? なぜ……?」
咄嗟には背後から殴られたせいだとは思い出せなかったらしいヘルガ。患部を探そうと腕を持ち上げようとするのだが──
「──あら?」
ふと、己の両腕が後ろ手に拘束されていることに気がついた。
途端、ヘルガの瞳がパチクリと見開かれる。
「あ……ら、あらまぁ……」
驚いたヘルガの口からは、なんとものんきな声が漏れる。
縛られているし、首は痛いしで後ろは見えないが……察するに、とヘルガ。両手は胴体の後ろできつく固定されている。交差させられた手首を何かでぐるぐる巻きにされている感触。引き抜こうとするも、その結び目は固くびくともしなかった。ヘルガは思わず自分の胴の胸のあたりに渡らせてある縄を思わずしげしげと見下ろした。一瞬フリーズしたあと──……
その口が、謎に言う。「──……なるほど」──と。
いやに真面目な声音が暗闇に珍妙に響く。しかしヘルガは大真面目で。
「…………」
黙り込み、目を細め、眉間を強張らせて長考モードに移行した。御令嬢は縛られるなど、初めての経験だった。──こうなると……興味が猛烈に先走り、頭の中が騒がしくなってしまうのが思考魔のヘルガである。顔には出ないが、脳内は興奮しきっていた。思考を高速で流すことにのみ全神経が注ぎ込まれすぎた令嬢の真顔が怖い。
(……こういう場面を本の中で見たことがあるわ……! 非日常……日常ではなかなかお目にかかれないシーンじゃなくて⁉︎)
……攫われた時点で既にもう日常ではないが、まあそれはさておき。
(あらまあよく見ておかなくては。ああ……後ろからも見てみたいわ。どうやって縛ってあるのかしら。結び目が前だったらよかった(?)のに……解くにはどうしたら? あら? わたくしもしや二重巻にしかされていないの? なぜ? なんだか物足りないような……いえ……これはおそらく、わたくしがよほど非力と思われているせいね……二重にしかされていないなんて、ちょっと不名誉な気がするけれど逃亡には都合が良さそうよ……それに──……)
ヘルガの行先不明の思案は延々続く。……呆れるくらい、ヘルガはヘルガであった。
もうすっかり、冒頭の冷たい何かのことも、頭の痛みのことも忘れているようである。
──と。そんな……食い入るように縄を見つめたまま動かなくなったヘルガに向かって、誰かが傍の暗がりで苛立たしげなため息を吐いた。ごく間近で漏らされたその音にも気がつかない娘を見て、そのため息の主は、呆れの滲む声で怒鳴る。
「…………ちょっと! いつまで私を無視するの……?」
「え?」
なんて図太い女かしらと吐き捨てられて。そこでやっとヘルガは傍に誰かが立っていることに気がついた。
夢から覚めたような顔でポカンと顔を上げると……
「……? あら?」
床に座ったヘルガの、ちょうど大人の歩幅程度離れた距離に、誰かがバケツを持って立っている。なぜバケツ──と、思って。ハッとする。そういえば先ほどからいやに寒いと思ったら、服がいつの間にか濡れているのだ。どうやら……はじめに感じた冷たさは、この人物に水をかけられたせいだったらしい。
(あ、つまりわたくし叩き起こされたのね? ──ということは……この方も誘拐犯の一味……?)
ようするに、自分はまた捕まってしまったのだと理解して。のんきで通してきたヘルガも流石にとても落胆した。せっかくここがどこかの修道院だということが分かったのに、逃げ出す前に再び囚われるとは。色々考えていないで早く逃げればよかったと後悔する。
が、こんな時にクヨクヨしていても仕方がない。ヘルガはせめて自分を誘拐してきた者の正体をしっかり見定めようと、その人物を凝視した、が──そこでなぜかヘルガの顔に、ふっと残念そうな哀愁が漂う。
(…………眼鏡がないから……全然お顔が見えないわ……)
……やれやれである。声から察するに、相手は女のようだが……室内は暗く、灯りは彼女の後ろの足元に一つだけ。どうやら手でぶら下げる角灯らしいが……逆光もあって、裸眼のヘルガでは相手の色彩とシルエットしか見えなかった。困ったヘルガがつい彼女が持っているバケツに目を留めていると、女は小馬鹿にしたような声で言う。
「ああこれ? あんたの顔が血まみれで、あまりにも狂気じみてたから洗ってあげたの。感謝してよね」
「……」※あ、そういえば鼻血を出したなと思っているヘルガ。
女は言いながら次第におかしくなってきたのか、肩を揺すりながら笑う。
「鼻血は出てるし髪はボサボサ。服も化粧も血と水と汚れでボロボロ。こんな侯爵令嬢なんて初めて見たわ!」
ヒステリックな声で笑い続けながら、女はバケツを持つのとは反対側の手で、背後に置いてあったランプ持つと、その光でヘルガの顔を照らした。
「っ」
急に明かりを顔に近づけられたヘルガが眩しそうに顔を背ける。ガラスの内側に燃える炎の熱が、白い頬を炙るが、そんなことにはお構いなしで。女は灯りの向こうで嘲笑う。
「さすがはヘルガ・アウフレヒト……鼻血ごときで使用人たちに自分は吸血鬼だと信じ込ませるなんて……ばっかじゃないの? やることが突拍子もなくて、ホント意味が分からないわ!」
「……? 吸血鬼?」
彼女の言いようにはまったく心当たりがなかったが、ヘルガは反論はしなかった。それよりも、この攻撃的な物言いをする女性が一体誰なのか、それが気になっていた。
(この方……今わたくしの名を……それにこの声……どこかで……)
聞き覚えがあるような気がしたが、でも困ったわとヘルガ。
(こんなにジロジロ見ておいて……今更『どちら様ですか?』とは聞きづらいし……もし知り合いだとしたらこの方を刺激してしまうかも……)
女は明らかにヘルガに敵意がある。それくらいは分かって。困惑しつつじっと女の言葉に聞き入っていると、女はくるりと身を返し、ランプを手に、ゆっくりとどこか楽しげに室内を歩く。
「そうねぇ……ね、いっそ、その格好のまま王太子様の前に放り出してあげましょうか? この汚らしいあんたの有様を殿下や国王陛下や王妃様、国の高官や大臣たちにもご覧いただくの!」
「王太子様……?」
ヘルガが首を傾げる。振り返った女がいかにもいい考えだと言いたげなのがなんとなく分かった。嬉しそうに、くすくすと笑う声を、ヘルガはどこかで耳にした覚えがある気がして黙り込む。
「…………」
「王宮で大勢の嘲笑を受けなさいよ。そしたら殿下も流石に目が覚めるのではなくて?」
「……目が覚める……?」
女が何を言いたいのかが分からず、ヘルガの眉間には怪訝そうなシワがよった。すると裸眼で見えない瞳は細められ、相手を仰ぎ見ているものだから、自然相手を下から睨んでいるような顔になった。と、その顔を見て女が声を低める。
「あんた……この状況でよくそんな目をできるわね……。ちょっとくらい怯えてくれれば可愛げもあるのに。相変わらずいい度胸だわ……」
「…………(※聞いてない。脳内の記憶と女とを照会中)」
ヘルガはじっと女を見た。食い入るように、必死で目を凝らし、彼女の特徴を捉えようと懸命に。しかし、裸眼のヘルガでは、目を凝らしても相手が短い金髪の女性で、黒っぽい飾り気のないワンピースを着ているということしか分からない。
(? わたくしの知り合いに、金の短い髪の女性は……いらっしゃったかしら……)
ヘルガは内心で首を傾げる。数人思い当たる人物がいたが、体格や声が違う。黙り込んで考える。──と、そんなヘルガの様子に、女の方でもふと違和感を感じたらしい。はぁ? と、不満そうな声がする。
「何……? もしかして……私のことなど忘れてしまった⁉︎ あっきれた……。……ふん……まあそうよね、蹴落とした女の顔なんて、私だってもう碌に覚えていないもの」
そう言いながらも、女の声にはだんだん怒りが滲み始めているようだった。彼女は腹立ち紛れなのか、手に持っていたバケツを床に叩きつける。バケツはヘルガのすぐ傍で跳ね、割れるような音に驚いた彼女が身をすくませると──そのヘルガの髪を、女が鷲掴みにした。
「っあ……!」
ぐっと髪を引かれ、ヘルガが息を呑む。乱暴に引かれると、やはり後頭部が痛かった。つらそうに顔を歪めたヘルガの鼻先に、女は顔をグッと近づける。
「この顔をよく見なさい! 覚えがあるでしょう⁉︎」
「え……?」
低く、恨みのこもった声音だった。息のかかる距離に迫る、怒りが燃えるような瞳に、ヘルガが唖然とアイスブルーの瞳を見開いた。
「あんたが……私を覚えてないなんて許さないわ! あんたのせいで何もかも台無しになった私のことを、あんたが忘れるなんて! 絶対に!」
喚く女の顔を、ヘルガは間近で凝視する。
短く切られた金の髪、少し荒れた肌。平素なら、さぞぱっちりと美しいであろう二重の瞳は……今はひどく充血し、爛々とした憎しみの色に染まっている。……ふと、その長いまつ毛に彩られた形が、ヘルガの記憶の中の、ふんわりと、しとやかで、甘やかなイメージの誰かと重なった。
「………………もしや……」
そう言って、もう一度相手の顔をまじまじと見てから──ヘルガは呆然とつぶやいた。
「……モ……ニカ、さん……?」




