8ー7 恐怖のハンカチ
夜が開けた頃、とある鉄の門の前で男たちは荷馬車を止めた。男が一人馬車を降りて、門の横に座っていた老人と話すと、老人は門を開き、馬車はその門の中へ車輪を進めていった。
しばらく道なりに進むと、大きな石造りの古い建物が正面に見えた。その建物の他にもいくつかの棟があり、どれも頑丈そうだがとても古びている。装飾も施され、昔はさぞ立派な建物だったのだろうと想像がつくが……今では風雪に晒され見る影もない。
やってきた男たちは、そのうちの一番奥の建物の裏手に回ると、裏口の前に馬車を停めた。すると裏口の扉が開いて中から仲間らしい年配の男が出てくる。男は馬車に乗ってきた男たちに憂鬱そうな挨拶をする。
御者台に座っていた男は、馬車を降りると、まずは馬の世話をはじめる。と、その馬に気がついた年配の男が怪訝そうに御者に問う。
「おい? お前この馬はどうしたんだい? お前のうちのラバはどうした?」
「……途中で怪我をしたんだよ」
男は投げやりな調子で答える。
「こんなにいい馬をよこされても世話に困るってのに……」
男はブツブツと文句を言いながら馬に水をやっている。年配の男は、そんな仲間に少し肩をすくめてから荷台のほうへ足を向けた。と、彼はふと、荷台から降りて来た若い男の顔がやけに青いことに気がついた。
「……おい、どうしたねやけに顔色が悪いが……何かヘマでもしたのか?」
年配の男が尋ねると、若い男はそうではないと言い、怯えたような視線を荷台の奥へ向けた。
そこにあるのは大きな木箱。大人一人くらいなら閉じ込めておけそうな大きさのもの。その箱を見た年配の男は、あああれかという苦い顔をした。
「例の荷物だな? あれがどうした」
問うと、若い男は指先の爪を噛みながら落ち着かぬ様子で答える。
「それが……一晩中、箱の中からブツブツ声が聞こえていて……気味が悪くてさ……」
「声?」
と、御者を務めた男がやってきて若者を笑い飛ばす。
「どうせ空耳だろ。でなけりゃ風の音だ。声なんかしてねぇっていうのに、こいつビクビクしてうるせーんだ。どうせ初めて厄介な仕事に加わったもんでビビってるんだろうさ」
「いや! あんたはずっと御者台に座ってたから聞こえなかっただけだ! 俺は荷台にいたから……」
彼によると、その箱からは一晩中ずっと抑揚のないつぶやき声が聞こえていたという。声はまるで呪詛のようで……彼はたまらず何度も静かにしろと怒鳴ったのだが……それもまったく効果がなかったらしい。怒鳴っても、箱の外側を蹴り飛ばしても効果がなくて……それが夜通し続くうちに、男は次第に恐ろしくなってきてしまったようだった。
「荷の蓋は、中のやつが逃げられないように釘で打ち付けてあるから、つかみ出して脅すわけにもいかねぇし……」
「はぁ、声、ねぇ……」
しかし話を聞いた年配の男は首を傾げる。
「だがそりゃあ変なんじゃないか? やわな貴族のお嬢様が、閉じ込められたうえ、知らねえ男に怒鳴られて平気だとは思えないが……それに目が覚めたのなら、いの一番に叫んで助けを求めるってもんだろ?」
男が御者を振り返ると、御者は「だよな」と肩をすくめて首を振る。
馬を操る御者のいる前方の座台と、荷台との境にはそう分厚い壁があるわけでもない。箱の中の娘が悲鳴でも上げれば、いくら外が騒がしかろうとさすがに御者の耳にも届く。だがそんな声は聞こえなかったと御者は言い切る。
「きっとまだ薬が効いてて眠ってるんだろ」
「で、でも……」
「……やれやれ、しょうがねぇな……」
怯えたような若者の顔を見て、年配の男がぼやきながら荷台に上がる。箱は先ほど若者が言ったように、蓋が厳重に釘で打ち付けてある。中身を確認するためには釘を抜かねばならないが、こんなところで蓋を開けて、中にいる獲物に逃げられては大事である。とりあえずそれは建物内に荷物を運び入れてからと、男はひとまず木箱に耳を当ててみた。──が──中は不気味なほどにシンと静まりかえっている。
「……何も聞こえねぇな……お前さんやっぱり風の音か車輪の音でも聞き間違えたんだろう。初仕事で気が張ってたんじゃないのか?」
苦笑するような男の言葉を聞いて、若い男は一瞬納得のいかなそうな顔をしたが……二人のやりとりをニヤニヤ聞いていた御者が、はいはいと会話に割って入る。
「そろそろ仕事に取り掛かろう、あまり待たせると雇い主がうるさい。あの甲高い声でキンキン怒鳴られたらかなわねぇ、さっさと終わらしちまおうぜ。ほらお前そっちを持て」
「……わかった」
若い男はまだ少し気味が悪そうだったが、急かされると渋々木箱の下に手を差し入れるのだった……。
木箱を建物の中へ運び入れた男たちは、それを一番奥の倉庫の中に押し込んだ。窓もなく暗い部屋だった。床にはあれやこれやといつ使われたのかも分からないような品々が並んでいる。不快なカビの匂いが鼻を突いて、若い男は気分が悪そうだった。
「さて」と御者が言って。彼は腰のベルトに挟んでいた工具を抜き取って、木箱の釘をそれで順に外していく。男は抜き取った釘を床に落とす。
コツ……コツ…………
暗い室内でそれは妙に響いた。その音に、男は薄く笑みを浮かべる。さすがにそろそろ娘の薬は切れる頃だろう。箱の中の娘がこの音を聞いて怯えているかもしれない。──そう想像すると、男は愉快でたまらなかった。
相手は普段彼らが関わることのできないような高貴な身分の娘である。その命を手中にしているようで──男の心には嗜虐的な感情が湧き上がっていた。
「……どれどれ……お綺麗なお嬢様はどうしておいでかな……?」
男は薄ら笑いを浮かべながら最後の釘を抜き取り、床へ落とす。すると木箱のフタが僅かに浮く。男は中で怯えているだろう娘を弄ぶような気持ちで、下卑た顔で木箱の蓋を手で押しやって──……
「──ん……?」
御者はそこで、ふと何か生臭い匂いを鼻に感じた。顔を怪訝そうにしかめながら箱の底へ視線を落とし、薄暗い部屋の中で、中をよく見ようと目を凝らし──……
「!?」
次の瞬間、御者は悲鳴を上げた。
「ぅっわ!? し──死んでる!」
「ひ!?」
驚いた御者の背に押され、隣にいた若い男が床に尻もちをついた。もつれるようにして倒れた二人を見て年配の男が目をまるくした。
「な、んだって……? し、死んでる……?」
床の上に転んだ御者の顔は真っ青だった。御者は肩で息をしながら言った。
「は、箱の底に──女が……カッと目を開いて──血……血だまりが……」
「血……!?」
そう震えながら箱を指さす御者の指先には──赤黒い何かが──……。
「っひ……」
いつの間についたのか、自分の指先を染める液体に気がついて。男は血相を変えて指を拭っている。その怯えた様子を見た二人も、箱の中の惨状を想像して狼狽えた。
「な、なんで……いったい誰が……まさか……自死……!? 舌でも噛んだのか!?」
「そ、そんな……ど、どうしたら……」
慌てる若者に縋りつかれて、年配の男も青くなる。
どうしたらと言われても……攫ってきた娘が途中で死ぬなど、雇い主になんと報告すればいいのだ。責任を取らされるなんてまっぴらごめんだった。
と──その時のことだった──……
「「「!」」」
男たちが再びギョッと息を呑んだ。
薄暗い部屋の中、彼らが見つめる木箱の淵に、突然──ぬっと、何かが音もなく現れた……
男たちが目を瞠っているうちに、それは音もなく──す──……と浮上して
淀みのない動き現れたのは、ゆらゆらと揺れる……深紅の布。
人の顔より少し広いくらいのものだった。縁には赤いレースがあしらわれていて……それが血に染まったハンカチだと気がつくと、その異様さに男たちが唖然とする。
「な……」
と、誰かが声を漏らした瞬間。彼らは再び──ギクリと身をこわばらせる。
皆、その両端をつまむ、箱から伸びる白い指に気がついて──……布の向こうから……青白い顔が自分たちを見ていることに気がついた。その──人形のように無機質な顔を見た瞬間、男たちの喉が恐怖に引き攣れる。
──それは怖気の走る光景だった。
布切れの向こうから彼らを覗き見る女の顔は鮮血に染まっていた。
血は首筋をつたい、胸元を真っ赤に染めて。それを目撃した男たちは、背筋が凍った──
誰かが思った。まるで──……殺人鬼か吸血鬼のようである。
掲げられたハンカチからはぽたぽたと血が滴り落ちて。そのレースの可憐さと、凄惨な光景の異質さが不気味で──……
と……その時唐突に、彼らの背後でバタンと大きな音が鳴った。おそらく風で扉が閉まったのだろうが──瞬間、驚いた若い男が叫び声を上げた。それは男にしては甲高い声で……他の男たちは咄嗟にその悲鳴が、目の前の血塗れの娘があげた奇声だと勘違いする。
その声に驚いた御者──先ほど暗い箱の底で、娘が目を見開き横たわっていたのを目撃した彼は怯えきって──必死の形相で逃げようとしたが──あまりに驚いて腰が抜けてしまったらしい。彼は仲間の身体に縋りつき、縋りつかれた男たちにもその恐怖が伝染する。
三人の男たちは、血の滴るハンカチを掲げた娘を震えながら見上げた。
娘はそんな彼らを目前にしても、表情をピクリとも動かさず──と、不意に、鮮血に染まった唇が動く。
「──ぁら──どぅ……なさった……の?」
「っ」
掠れるような……囁くような声だった。抑揚や発音がデタラメで、まるで機械人形がしゃべっているような歪さが不気味だった。
「ぅ……」
思わず後退る男たちに、娘は──ヘルガは。薄く、口の端だけを持ち上げて微笑んだ。
──眼鏡がなくてよく見えなかったから──多少目つきは悪かった。だが……それが相手を怯えさせるなんて、思いもしなかった。だって──相手は誘拐犯である。まがりなりにも悪党の端くれが、自分のような凡庸(?)な娘に驚くなんてことがあるなんてあるわけない。
ヘルガはひとまず『敵意はない』と表すために微笑んだ。ちょっと都合して欲しいものがあったのだ。
閉じ込められた木箱の中はとても埃っぽくて。喉も痛くて声が掠れてしまって。鼻も鼻炎になってしまったようで、脱出方法を考えながら、ずっとハンカチで鼻を擦っていたら──いつの間にか鼻血が出ていた。だからヘルガはそれを男たちに掲げて見せたのだ。
「ぁの……ハンカチをくださいます……?」
手持ちのハンカチはすでに血塗れになってしまって。もう拭く場所がありませんのよと彼女が恥ずかしそうに続けようとした瞬間──……思いがけず、男たちが跳び上がっていた。
「ひ……っ!!!」
「きゅ、吸血鬼だぁああああ!」
「ぅ、ぅわぁあああ!!!」
「え……?」
蒼白の顔の男たちは、転がるようにして逃げ出して行った。
どうやら──怯えた男たちの耳にはヘルガが、「(ハンカ)血をくださいます……?」と言ったように聞こえたらしかった……。
「?」
一人物置に残されたヘルガは箱の中で、眉間にシワを寄せて立ち尽くしている。血塗れのハンカチを指先で摘んだまま。
「…………吸血鬼?」
あらどこに? と、背後を振り返る彼女の鼻からはぼたぼたと血が滴り続けている。
お読みいただきありがとうございます。
ちょっと長めですが……更新間隔もあきましたし、オチまで公開させていただきます( ´ ▽ ` )
ヘルガ…アレルギー性鼻炎です。(書き手も




