8ー6 ヘルガが恐れること
「あら、あらあら? そ、それは困るわ」
珍しく、ヘルガが慌てている。……にしてはのんびりしているようにも見えるが、ヘルガ的にはこれは最大級の焦りだった。
……いくらメルヴィンがストーカー気質でとっくにヘルガのアレやコレやをとうに承知済みだとはいえ──それはすべて彼女には知られないように秘密裏に行われたこと。
ヘルガの認識では、マルはヘルガの家のことは詳しくは知らない。互いに身元を明かさない気楽な付き合いだと──思い込んでいる。(まさかメルヴィンが自分が読んだ図書館のすべての書物まで把握しているなんてことも思いもしない)
だからこそ彼女は不安なのだった。自分がマルに会いにいかずしては、もう彼には会えなくなるのではと。
もちろんマルは、ヘルガが彼に会いたくて侯爵から逃げ出したなんて知らないはず。そのあとに、こうして思いがけず誘拐されたなんてことも分かりっこない。
それに何より、誘拐されっぱなしにしろ、両親に助け出されるにしろ。このままではヘルガはマルには会えなくなる可能性が高い。家に戻されれば、きっと両親はヘルガの護衛をこれまで以上に強固にしてしまうはず。それでは今度こそ、ヘルガがマルに会いに行く機会はなくなるのではないか……
そもそも彼とは、ヘルガが王太子の婚約者候補となって以降ずっと会えていないのだ。彼は、ヘルガが選出されたことすら知らないはずだし、きっと、最近顔を見せなくなった彼女を不思議に思っていることだろう。
ヘルガが恐れているのは、そんな彼が何も知らないまま、気楽な読書仲間であるヘルガのことを、会いに来なくなった娘のことを、いずれは忘れてしまうのではないか──と、いうことだった。
(──……)
ヘルガは暗闇の中、愕然とうつむいた。暗闇に閉じ込められているという状況もあいまって、不安に呑み込まれそうになった、が……
その時ふっと、頭の中にマルの顔が思い出された。ヘルガはハッとして顔を上げる。
怯えている場合ではない。
自分はマルに会いたくて、これまであれだけ縛られてきた生家を飛び出したのではないか。
生まれてから、ずっと、ヘルガにとって、父は天であった。
『親の言うことは絶対』であり、『家門のために生きるのが子の勤め』と言われ続けてきた子供にとって、その身に染み付いた呪縛を振り払うのは容易なことではない。それなのに。やっと飛び出したのに。このまま彼に会わずして、父や、悪意のある誰かの利益のための道具になど、なりたくはなかった。いいえ、と、ヘルガ。
(いえ、せめて……家に縛られた父の駒の一つであったとしても、せめてマルさんに、一言だけでも……)
たとえそれが最後の別れの言葉になろうとも。伝えたい気持ちがあるのだ。
「……」
その思いが、ヘルガを奮い立たせた。
ヘルガは深く息を吸い込むと、今度はそれを細く細く吐き出した。ゆっくりと呼吸を続け、自分を落ち着かせようと試みる。冷静にならなければきっと活路はない。
ヘルガは心の中で唱える。
(……わたくしは、わたくしはマルさんに会いに行かなくては……でも……どうすれば、いいのかしら……)
ヘルガは難しい顔をする。自慢ではないが、体力には少し自信がついてきた(※ヘルガ、当社比)が、それが他人より劣っていることはなんとなく分かっている。が、自分が危惧するものを回避するには、やはりここは自力で逃げ出すほかないように思えた。
両親に助け出されては、またそこで軟禁状態の生活が戻ってくる。自分たちの利を一番に考えるあの人たちが、公的な機関にヘルガの救出を依頼するとは思えなかった。おそらく、秘密裏にことを運ぼうとするはず。王太子妃候補である娘が誘拐されたなどと周囲に知られては、外聞が悪すぎる。もし、政敵に『娘は傷物なのではないか』などと触れ回れては……という父たちの考えは、ヘルガにも簡単に予想がついた。
しかし、このまま誰とも分からぬ者たちの手に捕らえられたままではいられない。
「……」
ヘルガは眉間にシワを寄せて考えた。
そうしている間にも、彼女を閉じ込めている箱型のものはガタガタと振動している。何か、荷台か馬車にでも乗せられているのだろう。ヘルガは箱のざらついた壁に耳を当ててみた。時折振動に合わせ、何か物同士の面がぶつかり合うような音がする。どうやら他にも荷物があるようだ。しかし、周囲に人の気配は感じない。
(……ということは、荷馬車……?)
そう思ったヘルガだが、不思議に思うことがあった。耳を澄ませてみても、外からは街中の喧騒のようなものが何も聞こえないのだ。夜という時間帯のせいもあるかもしれないが、それにしては静かすぎる気がした。馬車が通れるような大きな道は、王都では夜でも人がいて、賑やかな場所が多い。それに車輪の音がいつの間にかジャリジャリと土を踏むような音に変わっている。
(道が舗装されていないわ……もしや……眠らされているうちに王都の外へ連れ出された……?)
王都周辺の街道は、ある程度石を敷き、人が歩きやすいよう、馬車などが行き交いやすいように整えられている。地面が砂利道だとすると、それは王都を離れて行っているということではないのか。だとすれば、いったいどこへ連れて行かれているのだろうか。
「……、……とにかく、なんとか逃げなくては……」
ヘルガは暗闇の中でつぶやいた。




