1ー3 嫉妬と王太子
いかにも、嬉しくて堪らないといいたげな顔に、護衛の男は呆れたように片眉を持ち上げる。
そんなことにはお構いなしで、メルヴィンは王立図書館を振り返り、たった今別れてきた読書仲間ヘルガを想った。
ヘルガが知るマルという名は、彼のごく身近な者たちが彼を呼ぶ時に使う愛称である。だが、ヘルガは未だ、それがこの国の王太子の愛称なのだということには気がついていない。寡黙そうな護衛が問う。
「相変わらず、ヘルガ嬢は殿下にお気づきになられなかったのですか? 本日は、“王太子”としての殿下に、これまでで一番間近に接近しておいででしたのに……」
護衛のグラントは眉間にシワを寄せている。と、メルヴィンがおやという顔をする。
「ん? ああ、なんだグラントお前気がついてなかったのか。ヘルガは少し目が悪いんだよ。まったく見えない程でもないらしいが、よく目を細めているだろう? あれは何も睨んでいるわけではないんだよ」
「え……? ではなぜ眼鏡を……」
侯爵家の令嬢が眼鏡くらいを用意できないとは思えない。と、メルヴィンが笑う。
「いつも考え事ばかりしていて、うっかり家に忘れるそうだ」
「………………」
「まあそれに。ヘルガはあまり男に興味がないみたいだから仕方ない。鋭そうに見えて、あれで結構ぼんやりしてるからね。道を歩いている時も、ずっと色々考え事をしているから人の顔もあんまり見ていないらしいよ。忘れ物も多いし、よく物も落として大変らしい」
「はあ……左様ですか……」
どうやら、社交界での嫌われ令嬢ヘルガは、見た目とは大いに中身の違う人物らしいなと、グラントは思った。
と、そんな護衛の前で、歩いていたメルヴィンが悔やむような声を出す。
「ああ、それにしても……! そうだと分かっていたら、ヘルガにあんな変なこと教え込まなかったんだけどな……!」
しまったなと、しかしそれでもくすぐったそうな顔で笑いを噛み殺す王太子は、どうやらよほど嬉しかったらしい。──つまりメルヴィンは、ずっとヘルガのことが好きだった。
そもそも彼は、彼女に会うために、こうして城下にある王立図書館にまでお忍びで通い詰めているのだ。本を読みたいだけならば、王宮にもっと立派な図書室があるのである。
ことの始まりは一昨日。
母である王妃が強引に彼の婚約者選考を進めてしまい、彼がとても憂鬱だった時のことだ。癒しを求めるように、図書館にいる彼女に会いに行くと、彼女は何かに悩んでいる様子で。言葉巧みに聞き出してみれば、ヘルガはなんと、『事情があって、ある男性を誘惑しなければなくなった』などと言い出した。それを聞いた彼は絶句。
当然、彼は焦って。焦った挙句、ひとまずヘルガが男に気に入られないように、『男を誘いたいなら昆虫採集』などという、幼稚でおかしな情報を教え込むに至った。その間に相手の男を調べ上げて邪魔をする。そのつもりで。
──だが……まさか、それが自分のことだったとは。王太子は後悔を滲ませる。
「こんなことなら普通に誘惑の方法を教えておけばよかった……!」
「……殿下……」
グラントが盛大に呆れているが、メルヴィンのにやけ切った顔は元に戻らなかった。
せっかくの美形の顔をしまらない表情で台無しにしている主人を見ながら、グラントはため息混じりに問う。
「しかし……モニカ嬢との婚約はどうなさるのです? あちらは王妃様がかなり乗り気で、内定してしまいましたし……覆すのはなかなか大事ですよ」
「……ああ」
すると途端にメルヴィンの表情が急に冷え込む。──笑ってはいるが、冷えた瞳は狡猾そうな輝きを見せる。美貌の彼がこういう顔をすると、非常に凄みが出るもので、護衛騎士はいい顔をしなかった。
「殿下……そのお顔おやめください、マフィアの親玉のように見えますよ……」
グラントの忠言にも、メルヴィンの表情は剃刀のように鋭い。青年はふんと鼻を鳴らす。
「まったく……本当ならば、昨日モニカ嬢に断りを入れるはずだったのに……」
苦々しげに言いながら、しかし次の瞬間には瞳の険が取れる。
「思いがけずヘルガが出てくるから! びっくりして、それどころではなくなってしまった!」
「ああ……モニカ嬢に断りをお入れになるおつもりだったのですか」
護衛は呆れ半分。驚き半分といった顔をする。──もちろん呆れは、悪のボスのような顔をしておきながら、ヘルガの名前が出てくると途端にそれが崩れる主人の分かり易さに向けたものだ。
メルヴィンは当たり前だと憤慨している。
「母上があまりにもゴリ押しでちっとも私の意見を聞こうとしない。こうなったら本人に直接断りを入れるしかないだろう」
「しかしそれはモニカ嬢を傷つけてしまうのでは……」
グラントが懸念を示すと、メルヴィンの眼光は鋭く尖り、彼は知ったことかと吐き捨てた。
「そもそも婚約者候補のリストの一番上にはヘルガの名前があったんだぞ! それなのに……デメロー親子が大臣や高官に賄賂を贈ってそれを削除させたんだ! ──あちらがその気なら、こちらが容赦してやる必要がどこに?」
恨みのこもった低い声で王太子が言うと、グラントがおやめくださいという。
「殿下、お顔が物凄いことになっております……」
「(無視)そもそもモニカ嬢の傍若無人な性格は下では有名な話だろう。城下の茶房では、常々高慢に振る舞っては、ライバルたちの悪評をあることないこと流して愉快にやっているらしい。私は──ヘルガの悪口を言うやつをけして許しはしない。たとえ相手が女でも」
「…………(もう何をいっても無駄だな……)しかし殿下、ということは、そろそろヘルガ嬢に正体を明かされるので?」
事情がどうあれ、ヘルガが王太子を狙っているのは確かで、彼もそれを望んでいる以上もはや隠す必要もあるまい。
そうグラントが問うと、しかしメルヴィンは沈黙する。
「………………もうちょっと……黙っておこうかな……」
「は? 何故ですか?」
グラントが怪訝な顔をすると、メルヴィンは思案顔で腕を組む。
「だってヘルガはまだ王太子である私のことも、読書仲間である“マル(私)”のことも、好きなわけではないだろう……? もうちょっと身近な存在としてそばにいたほうが良くないか? 私が急に王太子として現れたらヘルガだって身構えるだろうし……」
「しかしですね殿下……」
「いや、それに! ヘルガは私のためにあんなに恋愛小説を読んでくれているんだぞ!? いつもはああいう類は絶対に読まない真面目なヘルガが!」
──と、言う王太子は、これまでヘルガが王立図書館で読んだすべての書物を把握している。グラントはそんな王太子を相変わらず気持ち悪いなぁと思いつつ、その確かな記憶力をもっと国のためにも生かしてほしいと切に思った。
「やれやれ……これで殿下がお仕事をきっちりこなしていなかったら私は殿下に目を覚ましていただくべく張り倒しているところですよ……」
「黙れグラント。いいから聞けよ。ヘルガが、ああやって一生懸命恋愛小説を読んで、その成果をもって、私のところへ来るんだぞ? 今後どんな方法で誘惑しにくるつもりなのか──ものすごく興味がありすぎるじゃないか! ……いや、やっぱり駄目だな。もうしばらくは様子を見る」
「…………」
そうキッパリと決断する王太子の顔は麗しくキマりきっていて。それが逆に彼の残念さを加速させる。
ため息をこぼすグラントの隣で、王太子メルヴィンは宣言する。
「まあとりあえず、ヘルガをリストから外した奴らも、私が遊学中にヘルガを貶めた奴らも。そしてヘルガを冷遇してきたヴィンデ候も。私が王となった暁にはまとめて国外追放してやろう」
「……そういえば、どうしてヘルガ嬢の虫取りのお誘いをお断りになったので?」
そんなに好きならば行けばよかったのでは、と、いうグラントに。親の仇を睨むような顔をしていた王太子がパッと相好を崩した。その変わりように、グラントが引く。
「いや、だって。ヘルガは虫が苦手だから。本当は図鑑の挿絵も触れないし、道に芋虫が転がっていたら、それだけでその道を通れないくらいで……つまりっ、彼女は私のために頑張って昆虫について調べてくれたんだ! いじらしくないか!? 私のために、頑張って虫取りにも行ってくれる気だったんだぞ? ふふふ……なんて可愛いんだろうなヘルガは」
「……」
にやけっぱなしの主人に、これはもうつける薬はないないとグラントは諦めた。
ヘルガ嬢のためなら、彼女を陥れた者どころか、昆虫すべて国外追放とか言い出しそうである。