8ー4 ヘルガ、悪役令嬢デビュー?
どうしてもマルに会いたくなって。気がつくと立ち上がっていたヘルガ。
しかしそのまま突っ走ることはできなかった。──物理的に。
侯爵の厳しい監視下に置かれている彼女の周りには、父のつけた護衛がいる。立ち上がると、周りにいた護衛が一斉に彼女を振り返り、彼女がこれからどう動くつもりなのかとじっと見つめてくる。
皆ヘルガと同じ女性だが、背も高く、身から溢れ出る気迫がやはり常人とは違う。見上げるとずぉおおお……と、覇気が上から降り注いでくるようで……これでは例えば、今ヘルガがダッシュでここから逃げようとしたところで、きっと秒で捕まる。
(…………どうしましょう)
ヘルガは困った。もし自分がこの彼女たちを出し抜こうと思えば、相当な無茶をしなければ無理だろう。ついつい焦りを感じてしまうが──
ありがたいことに、それがすぐ顔に出るほど素直な表情筋ではない令嬢は、スッと冷たい顔で邸のほうへ足を向ける。当然そのあとを護衛たちもついてくる。ヘルガは歩きながら考えた。
屈強そうな女性戦士たちは常時四、五名は傍にいて。おまけに最近は、父に命じられたのかメイドも四六時中張り付くようになった。ヘルガは、自分が、彼女たちを撒けるほどには機敏ではない(※しかしそこまでのろまだとも思っていない)とわかっている。
でも、どうしてもマルに一目会いたかった。このまま父と母に従ったままでは、きっと後悔する気がして。どうにか彼女たちを出し抜く手立てを考えなければと思った。
まずヘルガは護衛たちが一番油断する時はいつだろうかと考え──が……
(……というより、すでに彼女たちはわたくしを侮っていらっしゃるわよね……)
配属されてきた当初、護衛たちは必ず誰か一人はヘルガのことを視界に入れていた。しかし、今ではほとんどの護衛たちが、外敵のみを警戒するように周囲ばかり見てあまりヘルガを見てはいない。
理由はわかる。ヘルガは両親にとても従順だ。現在彼女は、母親である侯爵夫人のわがままに従い、まるで着せ替え人形のような状態で方々へ連れまわされている。母親にいいようにされ、自慢の道具にされても文句の一つも言わない彼女を見れば誰でも『この娘が両親の言いつけに背くことはなさそうだ』と油断しても仕方ない。
おまけに最近彼女はマルに会いたい気持ちもあって、ずっとぼんやりしている。勉強の時間に思わずマルの似顔絵を描こうとしてしまったり(※オリビアが『えんえんと円を描いていて不気味だった……』と証言したあれ)、空を見上げて思いを馳せてみたり……
まあ、客観的に考えれば、このような娘はきっと警戒に値しないに違いない。
だがしかし、それはつまりヘルガには都合が良かった。
逃げ出そうという意思が固まった以上は、ありがたくその隙を突かせてもらおうとヘルガ。
彼女は少し考えて──……
まずは気分が悪くなったと言って、父が邸に召し上げている薬師のところに行くことにした。
そして『先生と大事な話があるので』と言って護衛は部屋の外で待機してもらった。貴族社会に身を置くものは、他人に自分の弱点となり得る持病などの情報は晒さないことが普通で、護衛たちもそれを心得ていた。
だが、それでも父のつけた侍女は室内について来た。彼女に話を聞かれれば、きっと父に筒抜けだろうが、まあそれは構わなかった。
父が薬師に与えた部屋の中は物がたくさん置かれていて雑然としていた。
来訪者に気がつき、その奥から顔を出した薬師は、相変わらず顔色が悪く、いかにも悪党という顔つき。薬師はヘルガがやって来たのを見ると、しゃがれた声で彼女に笑いかける。
『おやおや……これはこれは……ここにお嬢様がいらっしゃるとはお珍しい』
どこか皮肉るような響きだが、ヘルガはピクリとも表情を変えない。
『ご機嫌よう、先生』
この男は表向きただの薬師だが、その実、侯爵の悪巧みには随分手を貸しているようだ。その内容は聞きたくもないし知りたくもないが、ヘルガにもだいたいの想像はつく。普段彼女はこの薄暗い部屋には(怖くて)近寄らない。それを薬師のほうでは、『お高く止まった侯爵の娘は下賤な者がお嫌いらしい』と、受け止めていることも知っている。
ヘルガは冷たい目で乱雑に物が置かれた散らかった室内を見渡して、それから彼に言った。
『王太子殿下の他の婚約者候補たちに嫌がらせをしたいの。何か薬をくれない?』
もちろん心にもないことだが、平然と言ってのけると薬師がぶはっと噴き出した。
『いやいや、さすがは侯爵のお嬢様ですなぁ! どういったものをお求めですかな? 毒薬ですか?』
『そんなものはいりません』
ヘルガが嫌そうに眉間にシワを寄せると、男は愉快そうに、『では腹を下させますか? 喋れなくいたしますか? それとももっとひどいものをご所望で?』と、暗い顔で笑う。チラリと後ろを見るとメイドが目を細めて彼女たちの会話を聞いている。綺麗な顔をしても、やはりこいつも姑息な侯爵の血が流れているのだなと侮るような目つきだった。が──ヘルガは気にしなかった。そう思ってもらったほうが都合がいい。彼女はここであったことをそのまま父に報告するだろう。だが、それは父をきっと喜ばせるだけだ。
ヘルガは薬師に視線を戻し、そうねぇと精一杯冷たい顔を作って言った。まあ、他人から見たらいつも通りのヘルガの顔なわけだが。ここはせいぜい周囲が自分にイメージしているらしい、悪役令嬢というものになりきってやろうと思った。そういう類の知識ならば、最近大量に読んだ恋愛小説の中に、たくさん悪役として出てきていたのだ。
ヘルガは高慢な顔を作り、顎を少し上げて薬師に言う。
『……あまり大ごとになりすぎるような面倒な薬は結構。バレないようにやりたいの。痺れ薬か、一瞬ぼうっとさせるような薬はない? その隙に出し抜いてやりたいのよ』
……もちろん本当はそんなつもりは毛頭ないが、有難いことに(?)ヘルガが真顔で言うと本気のようにしか見えない。根から性悪な薬師は、悪巧みは好物と言わんばかりの顔であっさりと頷く。
『ふぇっふぇ、もちろんございますとも』
薬師は実に愉快そうに薬棚のほうへ行き、ずらりと並んだ引き出しのうちの一つを引き出して、中からいくつかの薬の包みを出してそのあたりにあった小さな容器にそれを入れる。容易く渡される容器を見て、ヘルガは思った。こんなところで自分の冷たい造形の顔が役に立つとは思わなかった。
(わたくしって……もしかしたら悪の巣窟への潜入捜査に向いているのかも知れないわね……)
己の思わぬ資質について、しみじみ感慨深かげにそう考えている姿も、どうやらかなり悪どく見えるようで。薬師は一つも疑いを持っているようではなかった。
『これはごく効果の短い睡眠薬です』
『……効果はどれくらいなの?』
『ま、せいぜい数分眠くなるだけです。効果はたかが知れていますがねぇ、お嬢様はまだ薬での悪事に慣れておられない。足がつかぬためにはこの程度からはじめられるのがいいでしょう』
薬師は薬を盛るのならやはり粉が扱いやすいでしょうな、とか。液体ですと入れ物の処分に困りますからねぇ。粉ですと火にくべてしまえば痕跡が残りませんし、だとかつらつらと言った。同じ穴のムジナが嬉しいのか、雇い主の娘に悪人教育でもするような気でいるのか……教師のような口振りに内心呆れながらも、ヘルガは分かったわと頷いた。
『そう、ありがとう。うまく出し抜いて見せるわ』
ヘルガも薬師と同じように笑ってやると彼はとても満足そうで。
──まさかその出し抜く相手が、彼の雇い主である侯爵だなどとは、かけらも思っていない様子だった。
そうしてヘルガは。
母と出かけた先で、宴の会場となった客亭のメイドを一人お小遣いで買収した。ヘルガにとってそれは初めての買収だったが……これまで実家で何度も両親や兄たちが誰かを買収する様子を見てきたもので、やり方はわかっていた。本当に、思わぬところで思わぬ知識が役に立つものである。
メイドの彼女にやってもらったのは、自分たちの宴中に、護衛たちが待機場で振舞われる茶の中にその薬を入れてもらうことだ。護衛の彼女たちには少し申し訳ないような気もしたが──ヘルガは事前に、少々無謀ではあるが、薬師から譲り受けた薬を一服自分で試し、その薬が確かに数分の眠気に襲われる程度のものと確認している。
そして頃合いを見計らって、母が機嫌良さそうにご婦人たちと談笑しているうちに、彼女はまんまとその会場を抜け出すことに成功したのである。
会場外の冷たい夜の空気を吸ったヘルガは嬉しかった。これでマルに会いに行ける。どれくらいぶりだろう。もう何日も彼の顔を見ていなかった。
(──マルさん)
ただ、飛び出してみたものの、ヘルガは彼がどこに住んでいるのかも知らなかった。
だが、護衛たちに飲ませた眠り薬の効果はほんの短時間。ひとまずいつも二人が会う王立図書館へ行って、そこで彼を待ってみようと。ヘルガは、急いで夜道へ駆け出して──
……──が。
会場を抜け出した直後。ヘルガは思いがけない者たちにそれを邪魔されることとなる。
会場を出て、少し走った街の路地に飛び込んだ瞬間のことだった。
目の前に、道を塞ぐように見知らぬ男が立っていた。男はじっとヘルガを見ていて。不審に思ったヘルガが思わずきた道を戻ろうとすると、背後にも男が二人。
彼らは明らかに、彼女に狙いをつけていた。
もしやとヘルガは思い当たる。もしかして、護衛とは別に、父が他にも見張りをつけていたのだろうか。
(あらまぁ……我が父ながら、なんと抜け目のない……)
そう思った彼女は呆れて。一番最初に目に入った男をまっすぐに見た。
『あなたたちは父の──?』
と、行手を阻む男たちに尋ねようとした、その時。
『!』
急に視界が真っ暗になった。──どうやら──背後にいた男がヘルガに飛びかかり、頭から何かを被せてきたらしかった。頭に被せられた何か──袋状のそのものの中には、何やらきつい香りが充満していた。それを吸った途端、ヘルガの意識がクラリと朧げに揺らぐ。
『──っ、マルさん……』
意識の途切れる寸前に、そうつぶやいた気がしたが……すぐに何もわからなくなった。
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