8ー3 いなくなったヘルガ
その報せを聞いて、メルヴィンは真っ青になった。
「……ヘルガが邸から逃げ出して……行方不明!?」
大きく目を瞠って……しかし。一瞬愕然としたメルヴィンの顔がハッとする。青年は強ばった顔で配下たちに首を振った。
「い、いや……何を言っているんだ……だって……ヘルガだぞ!? 道に青虫一匹転がっていたら怖くてそれ以上先にいけないヘルガだ! あのヘルガが、こんな虫の活動が活発になりそうな時間帯に外になんて──い、いやっ違う!」
どうやら驚きすぎて混乱しているらしいメルヴィンは、頭を振って。どうにか冷静になろうというように胸に手を押し当てながら、続ける。
「彼女には──侯爵がつけた護衛がいたはず……あの者たちがいて、ヘルガが邸から勝手に外に出られるわけが……」
言いながらメルヴィンの目が、自然傍らに立つオリビアに向く。
……何せこのオリビア。彼が侯爵邸に忍び込ませた密偵の一人なのである。彼女がここにヘルガの報告書を持ってきたのはそんなわけだった。そして飛び込んで来たメイド服の娘も同様に、メルヴィンが侯爵邸に送り込んだ者のうちの一人である。
──しかしどうやら娘の報告には、オリビアも驚いているようだった。直立不動で固まった女騎士は、目を点にして配下の言葉を唖然と聞いている。なぜならば、ここ何日もヘルガの護衛として傍にいて、彼女もヘルガのぼんやりさと鈍臭さを身に染みて承知している。
メルヴィンは暴れる鼓動を抑え、オリビアの配下に向かい直る。そんなわけがないと思った。ヘルガが侯爵につけられた護衛たちは全員が女性とはいえ、オリビア同様、皆戦場で腕を鳴らした女傑ばかりなのである。
とてもではないが……ちょっとボールが遠くに投げられた(落ちた?)くらいで、自分の運動神経が改善したと誇らしげにしていたようなヘルガが振り切れるような相手ではない。
だが──彼の配下たちが自分にわざわざ虚偽の報告をするとも思えず……苦しいつぶやきがメルヴィンの口から漏れる。
「……ヘルガ……っ君のポテンシャルが謎すぎるよ!」
いったいどうなっているんだとメルヴィン。とても胃が痛い。──そこで、メルヴィンはハタと我に返る。いや、そもそも彼女はどうして侯爵邸から逃げ出したのだろう。
「……もしや……、……私の婚約者候補になったことが、そんなに嫌だった……?」
途端にメルヴィンが見せた落胆を見て、グラントが慌て、オリビアが眉をひそめる。青ざめたオリビアの配下は、床に平伏して叫んだ。
「申し訳ありません殿下! 我々がついていながら……!」
「……いや……。それがヘルガの意思なら……」
そこで唇を噛んで、メルヴィンは言葉を切った。
ヘルガがそうしたいのならば、メルヴィンは彼女の意思と行動を尊重したい。
しかしと彼は、落胆を振り切るように頭を振った。もしそうだとしても、問題は、今、ヘルガの行方が分からないということだ。
もう外は暗闇に包まれている。メルヴィンは焦った。冷たくも意志の強そうな外見に似合わず……ヘルガの内面は、実に数秒で詐欺師に騙されそうなぼんやり嬢。彼女がこんな夜更けに邸外で一人歩きしているなど……不安でしかない。
「っ」
「っ殿下!?」
メルヴィンはおもむろに駆け出した。こうしてはいられない。ヘルガが“王太子”との婚約を拒絶するならば、それはそれで仕方がない。そんなことよりも、ヘルガの身の安全のほうが大切だった。
早くヘルガを探し出さねばと、青年は慌ててその前室を飛び出そうと──……
──が。
焦った王太子の行動にいち早く気がついた、気も腕力も恐ろしく強いグラントの姉騎士の目が光る。
「っ! 行け! 弟よ!」
オリビアはすぐ隣にいた弟の首根っこを引っ掴み、メルヴィンに向かって──思い切りぶん投げる。
「ひ!? ちょ……っ」
「!?」
ハッとしたメルヴィンが、突然自分に向かって放り投げられたグラントを避けようとする。──だが──咄嗟に姉の意図をさとったらしい不憫な弟グラントは、すれ違い様に、メルヴィンの腕をがっしり握りしめた。
「っ!? グラント!?」
「失礼しますよ殿下!」
と、そんな彼らの後ろでオリビアがガッツポーズ。
「よし! よくやった弟よ! お前はそのまま殿下が暴走しないよう引き止めておけ!」
「な、何!?」
配下たちの反乱に唖然とするメルヴィンだが、オリビアは毅然と彼を見る。
「──殿下。ヘルガ嬢の邸には私が行って参ります。殿下は大切な御身であらせられるのですから、そこで大人しくしておいてください。いいですね? 捜索隊はこちらでしっかり組んでおきますからどうかご冷静に!」
いいですね!? と、強めに釘を刺しながら。オリビアはそのまま颯爽と前室を出て行った。
「ちょ、待てオリビア! わ、私も……」
それを追って行こうとするメルヴィンを、グラントが必死に止める。
「殿下! 落ち着いてください。あちらは姉に任せて……とりあえず殿下は情報を整理してください。おそらく捜索は侯爵家のほうでも血眼でやってますから!」
護衛騎士としては、闇雲に王太子を夜の城下へ行かせるわけにはいかなかった。
それに、侯爵が普段ヘルガに対してとても放任気味とはいえ、今や王太子の婚約者候補となったヘルガを、あの強欲な侯爵が放っておくとは思えない。おそらく今頃大騒ぎで探し回っていることだろう。
「し、しかし……」
メルヴィンの顔が苦しそうに歪む。不安でとてもじっとしていられないらしいが──そんな青年の腕を握りしめたまま、グラントは強く嗜める。
「殿下どうかご冷静に! ヘルガ様が心配でしょうが、ここは無闇に探さずきちんと情報整理したほうが有利です」
グラントは思案しつつ早口で言う。主人がどれだけヘルガを想っているか知っているだけに彼も必死だった。引き止める彼を振り返った主人の瞳は激しく動揺し、揺らいでいる。
「もしですよ? もし侯爵が先にヘルガ様を見つけてしまったら、御令嬢は彼からどんな罰を受けるか分かりません。それは嫌でしょう? それを防ぐためには、まず殿下が冷静にならなければ!」
「……っ」
そう言ってやると、表情はまだ苦悶に歪んでいたがメルヴィンの抵抗が収まる。いくらか平静に戻った主人に内心ほっとしながらグラントは穏やかに言った。
「あのとにかく行動の読めないヘルガ様を、一番よくご存知なのは殿下です。殿下なら、彼女の行方がお分かりになるかもしれない」
配下の言葉にメルヴィンがハッとしたように目を瞠った。その菫色の瞳に冷静さが戻る。
「殿下、情報を下さい。そうすれば我々は殿下の手足となり、お一人で駆け回るよりもずっと、何十倍も大きな殿下の力となります。しっかりしてください!」
「……」
メルヴィンを宥めながらグラントがそばで床に跪いていたオリビアの配下に視線をやると、彼女も一生懸命にうんうんと頷いている。
そんな二人を見たメルヴィンは……
大きく、ため息をついた。
「…………すまない……。お前たち……どうか力を、貸してくれ……」
その絞り出すような懇願に、配下たちは勿論だと頼もしく頷くのだった。




