6ー3 タイムラグ赤面
カウンターの手前で、突然膝から床に崩れ落ちた令嬢は、そのまま何故か横向きに倒れて行った。
「へ、ヘルガ様──!?」
驚いたオーディーの声が静かな図書館の中に響く。夕方なせいかほとんど来館者がないのが幸いだった。
いや、いつものオーディーなら司書として、館内で叫んだりはしなかった。しかし、目の前でダイナミックに転倒した令嬢は、直前まではいつも通り気位の高いお嬢様然とした表情で、優雅に、綽々と歩いていたものだから──ついギョッとしてしまった。
「だ、大丈夫ですか!?」
オーディーが慌てて駆け寄ると、キョトンとしたアイスブルーの瞳が上を向く。どうやら怪我はないらしい。
ヘルガは床の上で、握りしめた日傘を胸の位置に持ったまま、目を点にして瞬いている。
「頭を打ったりしませんでしたか!?」
「──え? ぁ……ええ、大丈夫です、オーディーさん」
「ほ、本当に? なんだかすごい勢いで崩れ落ちていらっしゃいましたが……いったいどうなさったのですか……?」
オーディーが不安そうな顔で彼女を起こす。と、ヘルガは真顔で言った。
「それが……何故か急に──力が抜けてしまって??」
令嬢は自分でも理由がよく分からないというふうに自分の足を見ていたが、
「お立ちになれますか? お屋敷に使いを出して迎えを呼びましょうか?」
と、オーディーに声をかけられると我に帰ったようで(※家に連絡されて叱られたくない)。ヘルガは差し出された青年の手をサッと取り、キビキビと床から立ち上がった。
「ありがとうございますオーディーさん。わたくし大丈夫です」
ヘルガは寄り添ってくれた青年に頭を下げて感謝して。お騒がせしましたと謝った。しかし、それでも青年は、何故かとても心配そうな眼差しで彼女を見ていた。
「? 何か?」
「い、え……もしかして立ちくらみですか? お加減が悪いのでは……あの、ヘルガ様、お顔が──真っ赤なんですが……」
「──え?」
指摘されてヘルガが瞳をキョトンと見開いた。
「……真っ、赤?」
ヘルガは自らの頬へ手を当てる。彼女自身には見えないが、そこは今、青年が指摘した通り茹だったように赤かった。ヘルガは、ハッとしたような真顔で言う。
「!? ……そういえば何故か顔が非常に熱い気がいたします。まさか発熱? 何故? わたくし別に具合は悪くありませんが?」
「え……い、え……私に聞かれてましても……」
じっと見上げられたオーディーはまごつくが、その真顔のヘルガはやはり明らかに顔が赤い。具合が悪いなら休憩室をお使いになりますかと尋ねられて、ヘルガはやはり不可解そうにして、首を振る。
「お気遣い感謝いたします。でも本当にわたくし具合が悪いわけではないのです。少し考え事をしていただけなんですが……」
「考え事、ですか……」
ヘルガの言葉を聞いて、もしや知恵熱だろうかと考えながらオーディーがつぶやくと、ヘルガの黒髪の頭が縦に振られる。令嬢は眉の形を歪め、どこか困ったような顔をしていた。
「はい。実は──……先程、お友達のマルさんが、わたくしに『もういっそ私にしたら?』なんておっしゃったんです。それで、あれはいったいどういう意味だったのかしらとずっと考えていて──」
「え、マルさんというとあの……」
オーディーの脳裏に、先刻ヘルガの後ろで壮絶に自分を睨んでいた眼鏡の美男子の顔が思い浮かぶ。
「それって──」
察しのいい青年は息を呑む。それがあの青年からヘルガに向けた愛の告白なのだとはすぐに分かった。
しかし──ヘルガは相変わらず淡々としている。淡々と、「あの方時々本当に不可解なんです」などとため息をこぼしている。
(あれ? 違、う……?)
オーディーは困惑した。彼女の顔は明らかに上気しているが、その表情は、とても愛を請われたばかりの乙女のものには思えなかった。一見、発熱しながらも、政治でも論じるふうのヘルガは続ける。
「わたくし、茶房からここまでずっと考えていたんです。はじめは『またマルさんがおかしなことを言い出したわ』『今度はいったいどんな企みがあるのかしら?』くらいに思っていたのです。だってわたくし思い返してみると、何度もマルさんには騙されていて……」
しめやかに言うヘルガの言葉にオーディーがギョッとしている。
「え……その男性……お嬢様のお友達として本当に大丈夫なんですか? 何か──さ、詐欺とか……」
「いえ。概ね害はありません」(※そうでもない)
本当に大丈夫なのだろうかと内心案ずるオーディーに、ヘルガは「でも……」と、ため息をついてみせる。
「よくよくあのマルさんの台詞について考えてみると、何故でしょう──……無性に恥ずかしくなってしまって」
令嬢はここでやっと少し照れたような表情を見せて。オーディーは、おやと思った。
「──いえ、分かっています。わたくし最近恋愛小説を読みすぎで毒されているのです。マルさんのお言葉、ちょっと愛の告白みたいだわ……なんて、ふふ、嫌だわもう」
照れ臭そうに笑ってから。ヘルガは先程倒れてほつれた横髪を耳にかけつつ、少し気まずそうに瞳を伏せている。そうすると、赤らんだ頬からも堅さが取れて、令嬢は非常に可愛らしく見えた。その顔を間近に見たオーディーも、思わずつられて身体がこそばゆくなる──……が、
ふと青年は「ん?」と、怪訝そうな顔をする。
「あれ? え……ということはもしかして……先程お倒れになられたのは……その彼の言葉を考えておられたせいということに……?」
「え?」
尋ねると、令嬢はポカンとオーディーを見上げる。
どうやら──まったく自覚がないようだ。
「えっと、茶房というと大通りの? そこからここまで来て……ここで恥ずかしくなってお倒れになったと……」
「?」
そういえば、このカウンターに現れた時、令嬢はまだはいつも通り、冷静な顔色だった。ということはつまり、令嬢はここまできてやっと、“マルさん”の言葉の可能性に気がつき、衝撃を受け、赤面して身を崩したということだ。
「………………」
オーディーはつい言葉を失くす。
(……それはなんというか……すごい……時間差、だな……)
ちょっとびっくりした。
大通りの茶房からここまでは、歩くと15分くらい。茶房でもそこそこ会話や飲食もしたのだろうから。令嬢が“マルさん”からその言葉を聞いてから現在までは、結構なタイムラグがあったわけだ。それなのに、ここに来てやっと恥ずかしさを感じているらしい令嬢。……鈍い。あまりにも鈍い。
オーディーは、なんだかとても“マルさん”が不憫に思えてきた。しかも、ヘルガは未だそれが愛の言葉だと分かっていないふうである。
(え……これは……俺が『それは思い過ごしじゃありません』『本当に愛の告白ですよ』と……お伝えすべき……? すべきなのか!?)
令嬢から手作り弁当を受け取ったオーディーを、あれだけ悪魔のような顔で睨んでいた青年である。おそらく状況的に見ても間違いがないと思うのだが……
しかし、司書青年の戸惑いに気が付けるほどヘルガが敏いわけがない。ヘルガはふふふと微笑みながら「お恥ずかしいです」と言う。
「マルさんがあまりにも唐突に不可解なことをおっしゃるから。だってわたくし王太子殿下を誘惑しようとしていたでしょう? 婚約者の座をめぐって」
「え、ゆ、誘惑!? へ、ヘルガ様が!?」
そんなの絶対無理だろとオーディーは思った。が、ヘルガは頷く。
「ええ。ですから、それを“自分にしろ”だなんて、もしかして求婚かなと思ってしまって。ふふふ、まあそんなわけありませんわね。だってわたくしたちお互いに素性もよく知りませんし」
「え゛そ、そうなんですか!?」
青年はあれだけ彼女に執着しているふうだったのに、それはいったいどんな状況なのだとオーディーはさらに困惑する。が、ヘルガは平然と、そうなんですと微笑む。
「些細な言葉で振り回されて情けない限りです。まったく……あの方には困ったものですわ、ふふふ」
令嬢はそう笑い。それからオーディーの持っていたバスケットを受け取ると、「ご機嫌よう」とお辞儀をして去って行った。
──その頬はやはりうっすらとした薔薇色で。
「……」
結局、迷って何も言えずに令嬢を見送ったオーディーは──複雑そうな顔をした。
あれでは、きっと例の“マルさん”も、さぞ苦労しているのだろう。
令嬢は彼の素性をよく知らないと言っていたが、多分彼がヘルガを好きなのは間違いがない。……なんとなく……とても気の毒だった。そうか、ご苦労あってのあの魔王のようなお顔なんだな……と、オーディーはなんとなく察した。が──……それにも増して気になったのは……
「………………」
オーディーは、黙り込んで考えた。
(……ヘルガ様…………あんなテンポでこれから先、本当に生きていけるのかな……)
あの調子では、いつかどこかで大変なことになるのではないだろうか。
オーディーは非常に心配になった。
(……、……、そうだな……とりあえずお嬢様が図書館においでの際は、注意深く見守ることにしよう……)
……それは司書青年の密かな決意であった。
しかしまさか──……その決意が、この国の王太子を猛烈にイラつかせる結果になろうとは。彼もまだ想像だにできなかったのである。
お読みいただきありがとうございます。
ヘルガがあまりにも鈍かったです…
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