6ー1 眉間のシワ
茶房のテーブルの上には“腹ペコのマルさんに”とヘルガが注文した料理がたくさん並んでいる。
そんなテーブルの上で──メルヴィンが彼女に真実の一端を告げると、優雅にお茶を楽しもうとしていた黒髪の令嬢は、切長の目を思い切り見開いて驚いた。
「──え? ……モニカさんが王太子殿下と婚約を解消したのは──わたくしのせいでは──ない……?」
椅子に腰掛けたヘルガは、紅茶を片手に眉間にくっきりと縦ジワを入れている。しかし口はポカンと開いていて。その驚愕の表情がなんともいえなくて。思わずメルヴィンは心の中で笑う。
「ヘルガ……そんなにしかめ面しないで。眉間のシワが癖になっちゃうよ……」
「い、え、そんなことより……本当なんですか? モニカさんが……不正を?」
信じられないと言いたげなヘルガに、メルヴィンはテーブルに頬杖をつきながらため息をつく。この反応を見る限り、やはりヘルガはモニカのタチの悪い性格には気がついていなかったようだ。だからはっきりと言ってやった。
「そうだよ。だから彼女は王太子妃には相応しくないということになったの。──ヘルガが気に病むようなことは一つもない」
付け加えると、ヘルガの目が再びグッと見開かれて。
「そう、……でしたか……」
ヘルガはテーブルの上にカチリとカップを置き、落胆した様子で肩を落とす。どうやら素直なヘルガは、何故そんなことを“マル”が知っているのか? という疑問も持たなかったらしい。
「そうですか……モニカさんは、そうまでして王太子殿下を射止めたかったんですね……そんなに殿下をお好きだったとは……」
そんな彼女の邪魔をするなんてわたくしは──と、また自己嫌悪に陥りかけているヘルガに、メルヴィンは呆れる。
「…………どうしてそうなるかな……」
先程弁当を貰えなかったせいでまだへそを曲げているのか、メルヴィンはやや意地の悪い顔でヘルガを見る。
「……君はあれなの? 誰のことも悪く思えない病か何か?」
「な、なんですかいったい……わたくし病気ではありませんが……」
拗ねたような表情で目の前の料理を不満そうに突きはじめた青年に、ヘルガはちょっとギョッとしている。
「……マルさん?」
困惑した様子のヘルガに、メルヴィンは吐き捨てるように言った。
「……モニカ嬢ねぇ……あの御令嬢がどれだけ王太子を好きだったかなんて知らないけど。少なくとも汚いやり方で人を蹴落としたりするような人間を王太子が喜ぶとは思えないけど? 策略を巡らせるのは、身分ある者としては必要なことだけど、彼女の場合は内容がいただけない」
ヘルガの持ち物を破損させたり、盗んだり。しかもそれはすでにヘルガを候補者から外させた上でのことなのだから、それは策略というより、ただの幼稚ないじめか犯罪である。
しかしいくら内容が幼稚でも、権力や財力を持つ者がそれを行えば、力のない者やヘルガのように相手をまったく疑わない人間にとっては致命的なダメージとなりうる。
それを苦々しく思いながら。しかしメルヴィンは未だヘルガに、彼女に嫌がらせをしてきていた犯人がモニカであるとは伝えかねている。いっそ暴露してやりたいのだが……そうすると、ヘルガが要らぬ悩みを抱えそうな気がしてならなかった。
また、“モニカが悪事を働いたのは自分の何かが悪かったせいではないか”などとヘルガが苦悩しだしては堪らない。
「まったく……お人好しにも程があるよ君は……」
自分を害してきた者になど容赦しない性質のメルヴィンは、少しだけヘルガに苛立ちを滲ませる。
そんな青年の顔を見たヘルガは驚いたように瞬きをし、黙する。
「…………」
ヘルガはそのまま考える素振りを見せた。そしてしばしの沈黙のあと、紅茶の椀に手を添えて、琥珀色の小さな水面に視線を落としながら、静かに言う。
「……批判いたしかねるのです」
「?」
つぶやくとメルヴィンが顔を上げる。その瞳をヘルガは真っ直ぐに見つめた。
「わたくしはモニカさんが不正を働いた理由も事情も知りません。それに──わたくしも、父の命で王太子殿下を略奪する気でした。それは回り回れば、“王太子妃”という座をモニカさんのご実家に与えたくないという父の邪な思惑です。その思惑に加担した者としては、偉そうなことは言えません。……でも、王太子殿下がお気の毒だとは思います」
「……」
「生まれながらに否が応でも人々の利権争いに巻き込まれてしまうお立場です。……殿下は……今回のことで傷ついていらっしゃらないのかしら……」
物憂げな表情で、王太子のことを心配している令嬢の横顔に、メルヴィンは、ああと察する。
この子は、自分のことを善良だなんて一つも思ってはいないのだ。ヘルガは、その“父の邪まな命令”を受けてもなお、自分がどれだけ真正直に行動しているのかも分かっていないらしい。
ただ、公正に物事を見ようとしていて、事情を知らぬモニカのことは悪く言いたくないと考えている。それを悟った瞬間メルヴィンの瞳の棘が抜けた。自分とは違うが、それもヘルガらしく、理解できると思った。
「やれやれ……本当に困った子だなぁ君は……それでも悪態の一つくらい覚えなよ。それだから悪人どもにつけ入られる」
「は?」
まあ一番の悪人は自分かもしれないけれどと密かに思いながら。くつくつと笑い出したメルヴィンにヘルガが怪訝そうな顔をする。
この人はいったい何を唐突に笑いはじめたのだろう、さっきまで機嫌が悪そうだったのにと、不可解そうなヘルガ。が──ふと「あら?」と、何かに気がつく。
「ん?」
「──待ってください。ということは──……わたくしの“王太子殿下略奪作戦”はいったいどうなってしまうのでしょう?」
「え?」
「だって……婚約者の内定が取り消されたのなら……わたくしは王太子様の誘惑を、継続すべきですか? やめるべきですか? 父は……命令を撤回する?」
モニカが裁かれ王太子の婚約者の席はまた空席となった。
では、いったい……と、ヘルガは、目の前のメルヴィンにというより、自分に向けて問うている。
「…………」
腕を組み、ぶつぶつと何事かをつぶやきながら考え込みはじめたヘルガの横顔を黙って見ていたメルヴィンは──……
その険しさに苦笑し、ぽつりと言った。
「……ねえヘルガ……」
サロンのテーブルに肘をついたメルヴィンは、悩んでいるヘルガの顔を下から覗き込むようにして見つめる。
「もういっそ、私にしたら?」
「え? あ、は──は?」
難しい顔で思考に耽っていたヘルガは、不意にそこに割って入ってきた問いかけに一瞬「はい」と答えかけて。しかし甘い声音に気がついて意味をはかりかねたのだろう。それはどういう意味だと言いたげな当惑の表情は、思い切り訝しげ。アイスブルーの瞳には困惑が浮かんでいた。
それでも──やっと“マル”を見た令嬢に満足そうに微笑んで、青年は言った。
「小難しいことばかり考えるのはやめにして、もう私にしなよ」
──そうすれば、もう眉間にシワを寄せなくてすむよと青年は、優しくヘルガに微笑んだ。
お読みいただきありがとうございます。




