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1ー2 菫色の瞳の青年


「それは申し訳ない」


 そう言って。青年は椅子を引き、ヘルガの隣に腰掛ける。と、彼はヘルガがたった今閉じた恋愛小説を見て笑った。


「おやおや、これはまた珍しい本を読んでいらっしゃる……」


 笑われたヘルガはばつの悪そうな顔をした。


「仕方ないではありませんか。以前お答えした通り、わたくしは恋愛という分野に明るくないのです」


 ヘルガは生真面目に言い、それからため息をついた。


 ──先日。父に王太子略奪を命じられたヘルガが、同じように図書館で“誘惑”と“略奪”について悩んでいた時。うんうん唸っていたヘルガに声を掛け、ことのしだいを聞き出して珍妙な助言をしたのは、このマルという青年だった。

 その助言をすっかり信じていたヘルガは少しだけむくれて見せる。と、青年が彼女に聞こえぬような小声でつぶやく。


「やれやれ……まったく、素直な……」


 その口元はどこか嬉しげで、むず痒そうに微笑んでいた。と、笑っている青年に気がついたヘルガが呆れたような声を出す。


「マルさんったら……笑い事ではないのですよ? あなたが当たって砕けるのが一番というから私は意を決して……初めて王太子殿下に話しかけられたと言うのに。きっと呆れられてしまったわ。父の命令だとはいえ、射止めなければならないお方に嫌われては元も子もありません……」


 いつもはあまり表情の変化しないヘルガの瞳が、わずかにしょんぼりと伏せられて。青年は苦笑しながら謝罪する。


「いやいや申し訳なかった。だって私は君が誘惑したい相手がまさか王太子だとは思わなかったからね」


 しかしそれでもやはり青年は笑っていて。ヘルガは少し呆れてしまった。


 このマルという青年は、ヘルガの読書仲間とでも言おうか。この王立図書館に通ううちに、頻繁に顔を合わせるようになり、それから些細なやりとりで──隣の席は空いているかと尋ねたり、ヘルガの手の届かない高さにある本を偶然居合わせた彼が取ってくれたりと。そのような程度のやり取りから、少しずつ話をするようになった。

 ヘルガは彼の“マル”という名以外、家名も知らないし、どこに住んでいる者なのかも知らない。彼もヘルガにそれを尋ねてこなかった。

 あえて踏み込むこともない気楽な読書友達。

 それが彼、マルだった。

 貴族か町人か、それすらも知らないが、知らないからこそ後腐れなく相談事もできる。それがとても気楽で、彼女は時折こうして彼に胸の内を打ち明ける。唯一の話し相手と言ってもいい。


 しかし、本日のヘルガは、今はあなたに構っている暇はありませんとマルから顔を背け、書物に視線を戻した。


「わたくし忙しいんですの、もっと勉強しなくては。王太子様のお心をつかむまで」


 気合の入った顔で書物に向かうヘルガの横顔を見て、マルは、クスリと笑い、机の上に肘をつきながら彼女の顔を覗き込んだ。


「貴族のお嬢様というものは面倒なものですね。こうしてよく知りもしない相手を射止めようと、必死にならねばならぬとは」

「あら、そういうものでしてよ。誰だってそうなのではなくて? 生きる場所の枠組みは誰にでもあるものですもの。貴族の枠組み、町民の枠組み、商人の枠組み。その中で精一杯生きるのみです」


 ヘルガは視線もよこさずにそう言う。マルはなおも問う。


「それが父親の命令に従って、もう婚約者の内定した王太子を射止めること? 君の意思は? そんなふうに将来を決めてしまって後悔しないの?」


 少し皮肉るような口調で言われ。しかしヘルガは、平然と返す。


「そう、これは父に従うという私の意思です。後悔など。どんな時でも多少はあるものなのでは? 逆らってなんになります? 父の怒りを買い実家を追い出され、修道院にでも送られる? それとも路頭に迷うか……まあ、わたくしならどこでも家庭教師の職につけるでしょうが、父に逆らいたくない方たちには嫌厭されますわよね。そうなると、外国に渡るか……」

「っ、それは駄目!」


 ぶつぶつと思考に耽りはじめたヘルガを、マルは慌てて止める。


「? なんです?」

「い、や……せっかくの読書仲間がいなくなるのは、ほら、寂しいから……」


 ヘルガに怪訝そうに視線を送られると、マルは気まずそうに視線を泳がせた。


「はあ……まあ、それで。どちらにせよ、あの命令を下された以上、わたくしの未来には波乱しか見えないのです。ですから。どうせなら一度王太子殿下に挑んでみようかしらと。修道院に入っても、海外に渡ってしまっても。どちらにせよ、そうなるともうこの……王立図書館にも、そうおいそれとは来られなくなってしまいますからね……」


 ヘルガは不意に寂しそうに図書館の天井を見上げた。屋敷には居場所がなく。他人が苦手なヘルガが唯一息がつける場所。それがここ、王立図書館だった。ここでは知識と物語に没頭できる。それが楽しかった。

 ──と、しみじみと図書館の中を見渡していたヘルガが、それにと、マルの顔に視線を落とした。


「っ?」


 にっこり微笑みかけられた青年が、少し驚いたような顔をしている。


「そう、せっかくの読書仲間もここにいることですしね。国外に出るのはわたくしも寂しいです」

「──……っ」


 思いがけずヘルガに笑顔を見せられた青年は、思わず言葉を失くす。

 しかしヘルガはすぐに青年から視線を外してしまった。表情も、すぐさま真顔に戻る。


「──と、いうわけで。わたくしは王太子殿下を射止めるために忙しいのです。さ、マルさんもよきアイディアがないのでしたら。どうぞ邪魔をなさらないでくださいな」


 キッパリ言ったきり、ヘルガは再び恋愛小説に没頭しはじめた。

 慣れないものを読んでいるせいで、よほど理解が追いつかないのか、眉間には深い深いシワがくっきりと刻まれている。そんな彼女を黙って見つめていたマルは、眼鏡の奥の瞳をふっと和らげる。微笑ましげな色だった。


「君は相変わらずだねぇ。……こんな本に頼らなくても、私が実地で教えてあげてもいいのに」

「ご冗談を」


 再びキッパリと切り返されて、青年は晴れやかに笑った。




「──ほら、返すよ」


 王立図書館の玄関ホールに出てきたマルが、眼鏡を外す。髪をかき上げて、やれやれとため息をついた。彼に眼鏡を手渡された男は、堅い表情で彼を見る。


「殿下……困ります。これがないとろくに護衛ができません」


 渋い顔で眼鏡をかけながら苦情を申し立てる男に、マルは口の端を持ち上げる。


「悪かったよ。昨日から心が浮ついていたし、今日は早くヘルガの顔が見たくて慌てていて変装用の眼鏡を持ってくるのを忘れたんだ。だって何せ……いやまさか……彼女が言っていた誘惑したい男が──私だったとは」


 そう言って。眼鏡の下から現れた美しい顔を破顔させた青年マルこと、王太子メルヴィン・ヒリヤードはむず痒そうな口元に長い指を添えた。



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