4−2 琥珀色の悪意
令嬢は、今、茶房の奥で、腕を組み、難しい顔で己のテーブルの上を睨んでいた。
その前では、店の店員が溢れたテーブルの上をせっせとぬぐってくれている。
茶房の白いテーブルの上は、琥珀色の海と化していた。琥珀色の液体の正体は紅茶。その雫が床にまでは落ちなかったのは、テーブルの上で、何かがそのほとんど吸収していたため。
「はぁ……」
思わずため息が溢れる。
ヘルガが今両手に持っている本が、その“何か”であった。
そこへ慌てたように茶房の店主がやって来た。
「お、お客様、お怪我はありませんか? お召し物は……」
「ええ、わたくしは大丈夫です」
と、言ったものの、両手に持った哀れな本のことを考えていたせいか、ヘルガの顔は暗く、険しい。
もちろん、茶房の主人はヘルガが侯爵家の令嬢だと知っていて、ヘルガの血の気の引いた顔に慄いている。
申し訳ありません、申し訳ありませんと、繰り返し謝る店主の声を聞きながら、ヘルガは苦悩する。
自分は無事だが、両手の本は、無事ではない。
切り裂かれ、ひどい悪態の言葉を落書きされて。見るも無惨な姿だった。
ヘルガは大抵の嫌がらせの類には気が付かない性質だ。おそらく八割くらいは気が付いていない。
しかしそんなヘルガでも、流石にこれは嫌がらせだなと分かることもある。
そういった誰かの悪意のことを考えるくらいなら、その辺に落ちている小石がどうしてそこに転がっているのかを考えるほうが興味深いし、雑草の種類について考えを深めるほうが楽しかったが。……しかし、今日は看過できないわねとヘルガ。再びため息をつくと、それを聞いた店員があからさまに身をすくませた。どうやら、ヘルガの困り果てた顔が、冷淡な怒りの形相に見えるらしい。
「…………」
ヘルガは無言で店員たちが慌てて片付けているテーブルの上を見た。その席はつい先程までヘルガが座っていた、この茶房のひと席である。
その卓上には、ヘルガが図書館から借りた本が置いてあったのだが……。
ヘルガが席を離れた隙に、それは無惨な姿となっていた。
それはつい数分前の出来事。
今日も今日とて王太子を誘惑する方法を学ぶべく、ヘルガは王立図書館へ向かった。
数冊の恋愛小説と、ヘルガが恥を忍んで図書館に購入依頼を出していた恋愛の指南書を借りて。たまには気分を変えようと、ここ、城下町の茶房に本を持ち込んだ。
──それがいけなかった。その茶房に、とある先客がいたのだが……相変わらず眼鏡を家に忘れて出掛けて来てしまったヘルガは、それに気が付かなかった。
お茶を注文してから、読書をするならひとまず手を洗ってからと、席を離れた。と──……
席に戻ってくると、すでに本は被害に遭っていたという訳だった。
「まったく……ひどいことをなさる……」
店員たちがすっかり片付けてくれたテーブルにつき、ヘルガは肩を落とす。
テーブルは掃除すればいいが、本はそうはいかない。
ボロボロになった本を見ると、哀れに思えて。ヘルガは新しく淹れ直してもらった紅茶にも手をつける気にはなれなかった。
彼女がため息混じりに見ている本を濡らしているのは、最初にヘルガが頼んでおいた紅茶なのである。
それだけではなく、本はページは破り取られ、表紙や中身には、口汚い罵り言葉まで書き殴られている始末。
読書好きなヘルガには、信じられない凶行だった。
ヘルガは、周囲を見回した。
(……目撃者は……きっといないわよね……)
その席は、何かとすみっこを好むヘルガが自分で選んだために、茶房の端のほう。あまり人目のないことから、おそらくこの凶行を目撃したものはおるまい。
またため息が出た。
「……なんてこと……」
犯人のことも気になったが、それよりも。まずは本の作者や、この本を貸してくれた図書館の人々に悪いなと思った。自分が油断して席を離れなければこんなことにはならなかったに違いない。
とにかく図書館には弁償をせねばと思った。
無惨な姿になった本たちを、ヘルガは大事に抱えて家に帰った。
いくつかの本は、使用人に頼んで本屋に注文してもらうことにした。中には発行年の古いものもあり、頼んだ使用人にはとても嫌そうな顔をされてしまったが仕方がない。
「……それで……これはどうしたものかしら……」
使用人たちに本の注文を頼んだあと、ヘルガは自室で考える。
彼女が見つめる机の上には、切り裂かれたうちの一つの本。例の、ヘルガが図書館に購入依頼をした恋愛の指南書。
タイトルは、
『マーガレット・ラブ著 ゲット! お嬢さま必見☆愛する人を落とす方法♡』……だ。
「………………」
その本をずーんと見下ろし(睨み下ろしているように見える)ヘルガは思った。
他の恋愛小説ならまだしも。これはちょっと、ヘルガをあまり敬わない使用人たちに買って来てくれと頼むのは気が引けた。なんというか、とても恥ずかしい気がしたのだ。
図書館に購入依頼を出した時も、ヘルガからそれを受け取った司書は、依頼書のタイトルを見て驚いたようにヘルガの顔を見上げた。それから彼はまた紙を凝視して……結局、五度それを繰り返していたから……よほど変に思われたらしい。
その時のことを思い出したヘルガは、しゅんとした。
「恥ずかしいのは……嫌だわ……」
他人ならまだしも、使用人たちのような、ずっと家で顔を合わせている人間に、五度見で唖然とされたら、ヘルガは恥ずかしくてきっと落ち込んでしまう。ただでさえ、あの者たちはすぐにヘルガの落ち度を父や兄たちに報告してしまう。これが兄たちに知られたら、目的が家のための王太子略奪だとはいえ、きっと延々からかわれることだろう……。
「……仕方ないわね……」
ヘルガは『ゲット! お嬢さま必見☆愛する人を落とす方法♡』を探すべく、一人城下町へ出かけていくことにした。
その頃。王宮では、王太子メルヴィンが悩ましげなため息をついていた。
今日こそはモニカ嬢に断りを入れようと思ったのだが、それを予見したのか、彼の母、王妃が先にモニカを茶会に誘ってしまった。
メルヴィンもそこへ呼び出されているが、他にも幾人か身内の客が入るようで……。
今回の婚約は公式発表もすんでおらず、まだ内定状態ではあるが、流石にそんな人の集まる場所で婚約破棄を申し出ては、モニカ嬢を傷つけてしまう。……と、グラントを含む、大勢の配下たちに苦言を呈された。
ただでさえ、こちらの都合で婚約内定を取り消すのなら、その後のモニカの実家とは関係悪化が考えられる。ここは誠意を見せなければ、殿下の政治的な地盤にも影響が出ますよ……! と、必死な側近たちに説得されて。やれやれとメルヴィン。
「私はまだるっこいのは嫌いなんだけどな……」
「何を言っていらっしゃるんですか。ヘルガ嬢とのお付き合いでは、あれだけ蛇のように辛抱強くていらっしゃるのに」
「それは相手がヘルガだから…………おいそれ、蛇に例える必要あるか?」
「ああすみません。つい殿下のイメージが……」
「あ゛?」
──と。グラントと言い合いしながら二人が王妃のテラスへ向かっていると──不意に、控えの間の前で令嬢たちの話し声が聞こえた。
「──それで? ヘルガ・アウフレヒトにはやり返してやったの?」
「──」
興味津々という声を耳にして──……メルヴィンの足がぴたりと止まる。
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