1ー1 アイスブルーの瞳の令嬢
連載版をはじめさせていただきました。
すでに短編をお読みいただいた方は、2−1からお読みいただくとスムーズです。
──令嬢たちが対峙している。
圧倒的に攻勢に見えるのは、黒い髪の令嬢。きっちりと切り揃えられた前髪の下には、見る者を凍てつかせるようなアイスブルーの瞳。
冷たい眼差しに真っ向から刺された令嬢は、彼女の放つ威圧感から身を守ろうとするように、胸の前できつく拳を握りしめ、唇を固く結んだ。
そんな彼女を見据え、氷の瞳の令嬢は、重い声で問う。
「……モニカさん、あなた……王太子殿下の婚約者に内定されたとは真の話ですか……?」
低く探るような、詰問とも取れる声音に令嬢が身をこわばらせた。
彼女の名前はモニカ・デメロー。伯爵家の一人娘。
対するは、侯爵家令嬢ヘルガ・アウフレヒト。
彼女は無口なことで有名で。モニカとは違って社交界にもあまり出てこない令嬢だ。しかし美貌は随一ということも手伝って、他の令嬢たちからは、『愛想が悪い』『お高くとまっている』と嫌われている。
そんな──ほとんど声すら聞いたことのない嫌われ令嬢に話しかけられただけでも驚きだが。その詰問の内容が、昨日知らせを受けたばかりの、自分と王太子との婚約内定の話題であったことが、モニカをさらに緊張させた。
令嬢たちの憧れの的たる王太子との婚約だ。やっかみがあるのは覚悟の上だった。
そうか、彼女も王太子妃の座を狙っていたのか。そう思ったモニカは、しかし毅然と答えた。
「は、はい、そうです……! それがどうかなさいましたかヘルガ様!」
苦労して王妃に気に入られ、やっとのことでこの座を掴んだのだ。文句なんか言わせるものかとヘルガを睨んでみたが──……
「ひっ」
じっと人形のような顔で見つめてくるヘルガの顔の迫力のあること……。ついモニカも弱気になって後退る。
と、ヘルガが瞳を細め、女の冷酷そうな風貌がいっそう際立った。
「──なるほど。そうですか、──残念です」
「……っ」
無感情に唇からこぼされた言葉に薄寒いものを感じたのか。モニカが肩を震わせた。と──ヘルガは怯える令嬢に宣言する。
「それではわたくしは──……あなたから、殿下を略奪しなければなりません」
「!」
その瞬間モニカが息を呑んだ。
どこか厳かにすら聞こえる高らかな宣戦布告に──モニカの頭にカッと血が上る。
冗談じゃないと思った。アンタなんか、社交界でろくに他の貴婦人たちに気も使わず、のうのうとしているくせに──と。モニカは腹が立って。
「馬鹿なこと言わないで……!」
家柄の差も忘れて思わず叫ぶ。が、そんなモニカにヘルガが突然頭を下げた。
「!?」
ギョッとするモニカに、ヘルガは頭を下げたまま言う。
「不埒なわたくしどもをお許しください」
恭しく頭を下げられて。だが、その恭しさが逆に小馬鹿にされているような気がしてしまった。モニカは逆上し──その言葉に滲んでいたヘルガの言葉の真意には気が付かなかった。
「い、いったい、いきなりなんなんですか! まだ正式ではないとはいえ、私は……私が王太子様の婚約者になったんですよ!? 未来の王太子妃に対して無礼な──」
しかしヘルガは一瞬困ったような顔をして。けれども怯まずに言う。
「わたくしも本当に残念です……よりによって、あなたが王太子殿下の婚約者とは。あなたでなければこうはならなかったのですが」
「な、なんですって!? 私が他の候補者よりも見劣りするとでも言いたいんですか!?」
モニカが苛立つと、ヘルガは少しだけ瞳を見開いて不思議そうな顔をする。
「? いいえ、そういうことであろうはずが──……」
「ああ! もういいです! 聞きたくありません!」
ヘルガの言葉が終わる前に、モニカは彼女の言葉を遮る。婚約者を奪うと言って来た彼女が憎くて仕方がなかった。
「そんなことをわざわざ私に宣言しに来るなんて──ゆ、許せない、私だったら殿下を奪うのが簡単だとでも!? 絶対に! そんなことさせませんから!」
「あ……」
怒ったモニカはヘルガを睨み、言い捨てて。そのまま場を走り去った。その後ろ姿を──ヘルガは黙って見送っていた。
「……と──まあ……そんなことがあったんだけど……」
そうこぼしたのは、金髪の伯爵令嬢モニカ。
ティーパーラーのテーブルにつき、友人二人の前で、打ち明け話をする彼女の顔色は青白い。そんな友の様子を、ヘルガ・アウフレヒトへの憤りのせいなのだと思った二人は、口々に悪態をついた。
「まったく、相変わらず非常識な人ね! ちょっと家柄が良いからっていい気になっているんじゃない!?」
「あれよ。多分これまでの仕返しのつもりなのよ。きっとどこからか私たちのしたことを耳に入れたのね……」
「それで? モニカ、それ以降ヘルガに何かされたの? まさか黙ってやられっぱなしだなんてことはないわよね? いつもみたいにこっぴどく困らせてやりなさいよ!」
これまでも。この国の貴族社会の中で、ヘルガと同世代のモニカは、幼少期から彼女には散々嫌がらせをしてきた。理由は単純。子供の頃から、ヘルガが際立って目立っていたからである。
こっそり舞踏会用の衣装を台無しにしたり、外出する馬車に細工させたり。王妃や高官の奥方に、彼女の悪口を吹き込んだり。
ここ数年は、そうした嫌がらせが功を奏したのか、ヘルガはもう久しく舞踏会にも出てきていない。
けれどもモニカらは、ちっとも罪悪感を持っていなかった。だって私たちだけじゃないものと。幼い頃から美貌のヘルガが舞踏会などに出てくると人の視線を集めてしまうもので。彼女を嫌う令嬢や、自分の娘の印象が霞むと腹を立てていた親たちも多かった。
相手は社交界の嫌われ者。誰もヘルガを庇うものはいない。
モニカの友人は言う。
「いいじゃない、これを機にまた懲らしめてやりましょうよ。向かってくるって言うんだったら遠慮することはないわ。で? その後ヘルガは何かしてきたの?」
友人が問うと、何故かモニカがこわばった顔で黙り込んだ。
「? モニカ?」
「…………そ……それが……」
促されたモニカは、げっそりした顔で言う。
彼女の話では、宣戦布告のすぐあと。モニカが王太子に会っている場所に、ヘルガは再び現れた。それを聞いた友人二人は眉間に不快そうなシワを寄せたが──どうにもモニカの様子がおかしい。いつもなら、言いたい放題ライバルの悪口を並べ立てて鼻で笑うのだが。何故だか今日はいやに歯切れが悪い。
友人たちは不思議そうな顔をした。
「モニカ? どうしたの?」
「ヘルガ・アウフレヒトに何かされた?」
「それが……ヘルガは──……」
そう、相変わらずの冷淡そうな無表情でやってきた令嬢は。王宮の庭園の東屋に向かっていたモニカと王太子の前に立ち塞がった。二人に気がつくと、令嬢は目を細め、モニカに鋭い視線を送ってくる。
『へ、ヘルガ・アウフレヒト!?』
モニカがギョッとしていると。その間にヘルガは王太子に丁寧なお辞儀をして。
『お初にお目にかかります王太子殿下。わたくしはヴィンデ侯の娘ヘルガにございます』
それからヘルガはモニカを見て、『先ほどぶりですねモニカさん』と言った。
そんなふてぶてしい態度の令嬢に唖然とするモニカ。しかし、今度は隣に意中の王太子がいるとあって、彼女も怒鳴るわけにもいかなかった。
『で、殿下……』
困って隣を見上げると。銀の髪の美貌の王太子が、美しい瞳を見開いてポカンとしている。
『……ヘルガ……嬢?』
王太子が戸惑いながらもヘルガをじっと見つめていることに慌てたモニカは、急いで彼の前に進み出て、ヘルガの前に立ち塞がった。
『略奪する』と、正面切って宣言してきたような娘を、自分の婚約者に接近させたくはなかった。
『ヘルガ様、お約束もなく王太子殿下に無礼ではありませんか? (※『私と王太子殿下の逢瀬を邪魔しないでよ!』)』
引き攣りそうな頬を堪えてそう言うと、しかしヘルガは動じることもなく、モニカを見た。
『モニカさん。けれどもご挨拶くらいしておきませんと。略奪も誘惑も不可能でしょう?』
『へ、ヘルガ様……っ!』
まったくこの女と来たら、王太子の前でなんという言葉を使うのだろう。モニカは呆れ、しかし、彼女のペースに乗せられてなるものかと譲らなかった。
『あの、王太子様は私にお話があるそうなのです。ちょっとご遠慮いただけませんか!?』
『あらそうですか、お邪魔してすみません。でもせっかくなので、ひとまず一度挑ませてくださいません?』
『はぁ!? あ! ちょっと!』
そう言うと、ヘルガは私が止めるのも聞かず王太子に向かって──……
と、そこまで聞いた友人たちは、興奮したようにモニカに迫る。
「何、何何!? 宣戦布告!? 宣戦布告されたの!?」
「そんな女、殿下に相応しくありません! わたくしをお選びください、て!?」
どこかワクワクした様子で聞いてくる二人に、モニカは苦々しく「違うの!」と、テーブルを手で打った。
「へ、ヘルガはね……っ」
シックなドレスを美しく風にたなびかせて言ったのだ。怖いほどに、真剣な顔だった。
『殿下……わたくしにも機会が欲しいのです。どうかわたくしと──……』
『……甲虫類探しに行きませんこと?』
「………………──て」
「──……え?」
「……は?」
がっくりとテーブルの上で項垂れて、げっそりした顔でモニカが語った内容に──友人たちがポカンとする。
が、どうやら聞き間違いだと思ったらしい。
「え、あ、ご、ごめんねモニカ。ちょっともう一度行ってくれない?」
「コウ……?」
「だから!! 甲虫類よ! 甲虫類! つまり! 虫!」
モニカは苛立ったように投げやりに言って。それ聞いた二人は顔を見合わせて──椅子の上でのけぞった。
「え何何何怖い怖い怖い」
「あ、甲虫類? 昆虫? ……ば、馬鹿ねモニカ……! あなた聞き間違えたのよ! あの気取ったヘルガがそんなこと言う訳ないじゃない、相手は王太子殿下なのよ?」
彼女は侯爵家の令嬢だ。そんな馬鹿なことを王太子に向かって言うわけがないと友人。皆、ヘルガの悪口を楽しむのは好きだったが、それは流石に作りすぎよ誰も信じないわとモニカを笑う。
──だが、モニカは必死な顔をあげて本当だと主張する。
「だって! 言ったの! 確かに言ったんだもの! ヘルガが!」
彼女は身を起こしてテーブルをドンと打つ。モニカは思い出して気味が悪くなったのか、青い顔で続ける。
「ヘルガはそれからカブトムシがどうとかクワガタがどうとか言い出して……それが尋常じゃないくらい詳しくて……それが怖くて……」
しかもとモニカ。
「意味が分からないのは……その意味の分からないヘルガの不気味な台詞をお聞きになった王太子殿下が……変だったことよ!」
「「変?」」
──その時。侯爵令嬢ヘルガに、バーンと『虫探しに行こう』と、誘われて。モニカの隣にいた王太子は、いきなり現れて血迷いごとを言い出したヘルガの言葉を聞き、一瞬ポカンとしていた。まあそれは分かる。モニカだって意味が分からなくて唖然としていた。
だが、王太子は。次の瞬間、何を思ったか──彼は顔を真っ赤にしてしまったのである。
「へ……?」
「顔を……?」
友人は瞳を瞬いて。モニカは悔しそうに再びテーブルを打ち付ける。
「殿下ったら! 顔を真っ赤にして、それから照れたみたいな顔をして口元を手で覆ってヘルガから顔を背けたの! この、私が隣にいるのに、呆然としている私になんか目もくれなかったのよ!?」
信じられない! と、感情的に訴えるモニカに、待って待ってと友人。
「いや、違う、違うわよ。だって、虫よ……?」
「そ、そうよねぇ……だってお相手は高貴なあの──メルヴィン様なのよ?」
王太子メルヴィン。若い娘たちの憧れの、この国の次期国王。
輝きを束ねたような銀の髪に、紫水晶を思わせる美しい瞳。風采もよく、知的で、国内では並び立つ者はおらぬと称されるほどの好青年である。数年前までは同盟国に遊学に出ていて、国外の王族たちとも親交が深い。勉強家で、なかなか女性に目を向けないもので、この度やっと婚約者選びが進み、やっと内定者が決められた。それが、モニカなのだった。
と、友人はまさかと言う。
「え……まさか……それで殿下がヘルガについて行っておしまいに……?」
「虫探しに!?」
二人が恐々と問うと、モニカはハンカチで目尻を抑え、スンスンと鼻を鳴らしながら首を振る。
「……いいえ……それには殿下も『私はそんなものに行くつもりはない』と。キッパリ」
「……は、はあ……」
それを聞いて二人はいくらかホッとした。あの美男子が、そんな子供のような遊びに興じていたらちょっと引く。いや、ヘルガがそれをしようと王太子に持ちかけた時点で、令嬢にはドン引きだが。
しかしモニカはまだ悔しそうである。
「だけど……それでヘルガが悔しがるのかと思ったら、あの女ったら平気な顔して『なるほど。では再考して次こそはお気に召す案をお持ちします』て……。『モニカさんごきげんよう』ですって……なんなのあの女は! 略奪の意味とか分かってるの!?」
「ま、まあまあ……いいじゃないの、王太子殿下もついていかれなかったのなら……」
「そうよ、放っておけば……? だって……まともな貴公子が虫なんて。相手になさるわけがないから大丈夫よ」
ねえ、と、目配せしあった二人は、それから少し含みのある顔でモニカを見た。
「な、なぁに?」
不思議に思ったモニカが問うと、友人たちは言う。
「その……」
「もしかしたら……本当は、ヘルガは本気で王太子様の略奪なんてする気はないんじゃない?」
「……え?」
友人の推測にモニカは瞳を瞬いた。友人は人差し指を立てて見せる。
「ほら、ヘルガの父親はヴィンデ侯でしょう? あの方は権力がお好きだし、あなたの父君とは犬猿の仲じゃない。だから、ヘルガに侯爵がお命じになったのかも。王太子殿下を奪ってものにしろって」
「え……」
「それで、ヘルガ自身はあまり乗り気ではないのじゃない? あの子は本の虫よ。人付き合いは好きじゃないはず。でもアウフレヒト家では侯爵の命令は絶対だと聞くわ……それで困ったヘルガが適当なことをして、父親の目を誤魔化してやり過ごそうとしてるのかも……でなければあんな馬鹿な誘惑の仕方がある?」
「……そ──」
友人の意見を聞いて、少し冷静になったモニカは、ハッと、昨日王太子と対面した時のヘルガのやる気のなさそうな無感情な顔を思い出した。確かにあれは、王太子が好きというふうではなかった。
「そ、そうか……それであんな馬鹿なことを……でも、王太子様のあの反応は? お顔が見たこともないくらい真っ赤で……」
「それは当然あまりにも馬鹿らしくてお怒りだったのよ。貴族の娘が殿下に向かって虫取りだなんて。侮られているとしか思えないじゃない」
「まあでも、ヘルガは侯爵の娘だし。殿下を虫取りに誘ったくらいでは、殿下がいくら怒ったとしても罰しようがない。……ある意味巧妙よね?」
「そ、そうか……そうね、確かに……」
誘惑などと言っておいて、虫取りなんておかしいと思ったのだ。そうだったのかとモニカは納得した。
ならば安心だとホッとしたのか、モニカは、やっと笑顔になった。
やれやれと椅子に座り直し、「まったく人騒がせな女ね!」と鼻を鳴らす。そしてテーブルの上で冷めかかっているお茶に気がつくと、ボーイを呼び、茶を淹れ直させた。温かいお茶が出てくる頃には、彼女たちのテーブルの上は、いつものように侯爵令嬢ヘルガの悪口がぽんぽんと転がり回っていた。
そもそもあんな冷たい顔の女に私が負けるはずがないだとか、馬鹿を演じるにせよもうちょっと賢い手を使えばいいのに案外あの女馬鹿なのね……と、甲高い声で笑い──……
だが──……彼女たちは知らない。
その噂の主ヘルガ・アウフレヒトが、その実、とても本気だったということを。
時は少し巻き戻る。それはヘルガ・アウフレヒトが、王太子とモニカの前から去ったあとのこと。侯爵令嬢ヘルガは、難しい顔をして空を見上げていた。
「……甲虫類はダメなの? じゃあ……バッタ? バッタは低年齢向けだと思ったから遠慮したのに……失敗だったわ」
いや、おそらくそういう問題ではないが。ヘルガはおかしいわと首を捻っている。
確かにあの人は、『男は昆虫が好きだから逢瀬にはぴったりだ』と言っていたのに。いったい何がいけなかったんだろう。
「……何故なの? だって甲虫類は昆虫の花形なのでは? ……違うのかしら……それともアプローチの仕方が悪かった?」
どうやらヘルガからすると……あれはかなり真剣なデートの誘いのつもりだったらしかった……。
帰宅する道すがら、ヘルガは歩きながら没入して考えた。本日の、自分の『誘惑』の反省点について。
そもそもこのヘルガ嬢、男性だけでなく、他人のことがよく分かっていないのである。
彼女は昔から、人付き合いが苦手で。生まれた場所も悪かったと思う。侯爵家の三男四女の四女。兄弟姉妹の中では下から二番目。あまり親にも構われずに育った。
それに真面目すぎる性格のヘルガは見栄と虚構にまみれた貴族社会が理解できない。父はその権化のような男で、ヘルガとは相入れず、父もヘルガをあまり気に入ってはいないようだった。
『どうせヘルガは顔くらいしか取り柄がない』『そのうち高官の家の嫁にでもする』
父はそう言って憚らない。
ヘルガは一人で物事を深く考え込む性質で、口も上手くない。
思案している時間が長すぎて、他者の会話についていけない。これは社交界ではかなりの致命的な弱点だった。
何かを話しかけられても、問いに対し考えて、考えがまとまった時には、他の者たちは、無言のヘルガに呆れてもう別の話題に移ってしまっていることが多々。ズレた発言をするヘルガはおかしな娘だということにされる。そうしてヘルガはいっそう無口になっていき、いっそう他者と話すのが苦手になっていった。
そう。モニカたちの推測通り、ヘルガに無茶な命令をしたのは、父ヴィンデ侯だ。
『政敵の娘から王太子を略奪せよ』
こんなに口下手なヘルガにそれを命じる父も父だが。父からしたら、その横暴とも言える望みを叶えるためには仕方なかったのだろう。すでにヘルガの姉たちは皆嫁いで、アウフレヒト家には、女子がヘルガしか残っていなかった。
ヘルガはため息をつく。
「ああ面倒臭いわ……そもそも略奪なんてどうしたらいいのかしら……」
ヘルガにこのような面倒ごとを押し付けた父は、王族にうまく取り入ることで、地盤を硬め、様々な商権を得て莫大な財を築いた。方々の王族や高官にヘルガの姉たちを嫁がせたのもその一環。まあ、ヘルガもいずれは自分もそうやって嫁ぎ先を勝手に決められるのだろうなとは覚悟していた。
だがまさか、父がこんな厄介ごとを持ってくるとは思わなかった。
『ヘルガ、命令だ。王太子を誘惑し、婚約者の座をデメロー伯の娘から奪いなさい』
その父の言葉を聞いた時、ヘルガは絶句した。
けれども、父は目の前でものすごい顔をしているヘルガをチラリとも見ずに、どんどん一人で話を進めていく。
父の話はこうだった。
この度、この国の王太子の婚約者が内定しそうだと、それがどうやら父の政敵の娘らしいのだと。
モニカの父も商売をやっていて、そのあたりでもよく衝突を繰り返しているらしい。
当然父はモニカと王太子の婚約が面白くない。敵の勢力を勢いづかせてなるものかと、苛立った父がそんな時、ふっと思い出したのが、自分の四女ヘルガだったわけである。
もし、王太子の婚約者に内定したのが、モニカ・デメローでなかったとしたら。きっと父もこんなことは言い出さなかっただろう。だからヘルガはモニカに会った時に言ってしまったのだ。『あなたで残念です』と。けしてあれは、モニカを侮辱するための言葉ではなかった。
モニカ・デメローといえば、可愛らしく、社交界でも指折りの花と謳われる。ヘルガは王太子のことは遠目にしか見たことはないが、麗しいと評判の王太子の婚約者としても、きっとお似合いなことだろう。
そんな令嬢から王太子を奪えとは。他の娘ならまだしも、ヘルガには無理難題にも程がある。
しかしアウフレヒト家では、家長の命令は絶対で。特に娘の意見など聞き入れられたことはない。なんとかしなければならなかった。
途方に暮れたヘルガ。
だが誰かに指南を受けたくても、母は幼い弟を乳母に預けきりで、毎日茶会や夜会三昧で家にはいない。三人いる姉たちも、とうに父に嫁がされて遠方にいる。父に似て損得勘定ばかりしている兄らは、無口で外に出たがらないヘルガを役立たずと疎んでいる。
さてどうしたものかとヘルガ。
「仕方ない……ここはやはり図書館で指南書でも探しましょう……略奪の指南書なんて、自分の貸出証に記録がつくのが憂鬱だけれど……」
悩んだ挙句、他にやりようもなく。ヘルガは王立図書館の英知に頼ることにした。が──
そこで偶然居合わせた“ある男”に相談を持ちかけた結果。ヘルガは、モニカを唖然とさせ、王太子を絶句させたあの『甲虫類への誘い』を捻り出してしまう。
──まさかそこに……その“ある男”の思惑があろうとは。外見に見合わず、意外に素直なヘルガには、思いつきもしなかった。
「………………」
王立図書館の窓際の席で、ヘルガが一人、何やらひたすらつぶやいている。
王太子に『甲虫類への誘い』をしかけて失敗した次の日のこと。
性格なのか、地味な色の服をきっちりと着込んで、姿勢も凛と伸びている。しかし生真面目そうな口元から漏らされるのは、何やらおかしな言葉であった。
「……誘惑誘惑誘惑誘惑……ゆう、わ、く……?」
繰り返しすぎて、途中で自分でも意味が分からなくなったのか、怪訝そうに首を傾げている。そんな娘の念仏のような繰り返しに、通りかかった者たちは皆気味悪そうな顔をしていたが……娘はそれには気が付かなかった。
その場所は、図書館の本館と別館とを繋ぐ通路の端につくられた読書用のスペースで。
外を臨む壁際の窓の前に、壁に沿う形で長いテーブルと椅子が幾つか置いてある。比較的人も少なく、静かな場所であった。
椅子に座った令嬢はひたすらひたすらに考えていた。
本日の議題も昨日に引き続き、“誘惑”と“略奪”について、である。
「…………」
黙り込んで本を読み続けていたヘルガが、うーんと唸った。
令嬢は難しい顔をして本を睨んでいる。そんな彼女の着席する机の上には、おびただしい数の書籍が積まれている。これらはすべて、彼女が、閉館時間までに読まんとする書物たちである。内容はすべてが恋愛小説と恋愛の指南書であった。
残念ながら、王立図書館の蔵書の中には、“誘惑”と“略奪”の指南書はなかった。
そこでとりあえず恋愛小説を片っぱしから引っ張り出してきたのだが、初恋もまだのヘルガには、とにかく内容が難しい。
「……どうしましょう……難解だわ……」
これならば、先日読み込んだ甲虫類の本のほうが、まだ分かりやすかった。
ヘルガは再び途方に暮れた。
「読んでも読んでもよく分からない……向いてないのねぇ……わたくしって本当に駄目ね……」
しみじみと悲嘆に暮れていると、不意に隣の席の椅子が引かれた。
「……あら」
「どうしましたレディ。眉間にシワなんてよせて」
顔を上げると、そこにはさらりと流れる銀の髪。銀ブチの眼鏡の奥に、菫色の瞳を覗かせた青年が一人、ヘルガの顔を愉快そうに見下ろしていた。
青年に気がついたヘルガは、片眉をあげる。
「……あらマルさん……あなた……先日男性を誘うなら、虫取りが一番だとおっしゃいませんでした? わたくし、あなたのおっしゃる通りにしたけれど、ちっともうまく行かなかったわ」
少しだけ恨めしさをこめて手持ちの本を閉じると、青年はくつくつと笑い、ヘルガの隣の席に手にしていた書を置いた。
お読みいただきありがとうございます。
続編のご要望いただきありがとうございました!
書き手の喜びと活力です。評価やブックマークをしていただけると続きも頑張れますので、ぜひよろしくお願いいたします!(人>ω<*)