表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

シナトの風

作者: 和久井志絆

   シナトの風      和久井志絆


 序章


「手をついて謝れ!」

 少女の悲鳴にも似た絶叫がこだまする。静から動へ、空気が一転する。かと思えば、再び水を打ったように静まり返る。周りの大人たちは一様に顔をしかめるが、その胸中は様々だろう。ただ、そのベクトルは全て「負」だ。

「あぁ、ゴホン」

 裁判長が一段盛り上がった場所から少女を諌める。少女も一旦は冷静になり自分のすべきことを考え直す。

ー落ち着け。気持ちはわかるが、落ち着けー

 検察側はただ願う。少女はその胸の奥に悲しみとそこから生まれた憎しみを閉じ込めて、ただ与えられた文面を読み上げる。

 角度によっては彼女の脚が見えた。震えている。わなわなと、震えている。

 被告人はずっと俯いたままだ。垂れた前髪で影になり、その表情は窺えない。反省しているのか。後悔しているのか。どちらでもないのか。

「謝れ・・・謝れ・・・」

 傍聴席の人間は思わず目を背ける。注目度の高い事件だったから、そこには一般の人間もたくさんいる。

「しなちゃんに謝れ! ごめんなさいって言え!」

 その両手は強く柵を握りしめている。事件から数ヶ月、行き場を失っていた感情は今、一人の男に集中し、爆発している。

 ダン!ドオーン!

 机を叩き、床を蹴りつける。もうこの少女をこれ以上この場には置いておけない。

 大人たちが数人がかりで、その震える肩をどおどおと宥めながら退廷させようとする。

 暴れる。

「謝れ! 謝れ! 謝れ!」

 喉が引きちぎれんばかりに、声を枯らし、命を燃やすように、叫ぶ。

「謝れ! 人でなし! 馬鹿野郎! クズ野郎! しなちゃんに謝れ! 手をついて謝れ!」

 被告人は両手で前髪をかき上げた。感情の見えない表情が顕になった。彼は今、何を思うのだろうか。

 いっそ、死刑にしてしまえ。その場にいた誰もが思った。

 それでも、少女の傷は癒えない。

 永遠に消えない。

 何をしても、絶対に、決してー



科戸の風 大辞林第三版

「しなと」は風の吹き起こる所の意〕

罪や汚れを吹き払うという風。 「あまがつにつくともつきじうき事は-ぞ吹きもはらはむ/和泉式部集」



 第一章 別れ


   1


 大阪府は堺市にある図書館の視聴覚ホール。夏真っ盛りとはいえ、少し冷房が効きすぎている気がする。それでも未央はその一曲を無難に歌い切った。

「ありがとうございました。木坂(きざか)未央さんのオリジナル曲『太陽』でした」

 客席から静かに拍手が起こる。ささやかだが、暖かい拍手。

 未央は司会者に促されるままに、再び席に着いた。それから2、3質問を受ける。そのひとつひとつに未央はゆっくりと言葉を選びながら答える。

 夏の間に少し髪が伸びた。そろそろ切ろうと思う。20年の人生の中でロングヘアだった時期は一度もない。

 トークタイムの間、マイクは両手で持つ。自分では気にしていなかったが、それが「可愛い」とファンの一人に指摘されてからは、敢えて意識してそうするようになった。

 現役美人女子大生シンガーソングライターーそれが今の未央の肩書き。「美人」が余計だと思う。私が勘違いしてると思われるではないか、と。

 今日も1時間程度のイベントが無事に終わろうとしている。司会者がまとめを促した。未央は立ち上がる。

「私は天国の品子姉さんが笑っていてくれるように、精一杯生きていきます。皆さんもどうか強く生きてください。そして優しい心、人を愛することの尊さを、どうか忘れないでください。私からのお願いです」

 未央は深く頭を下げた。今日一番の拍手が鳴り止まない。まだ、未央は顔を上げない。涙を見せたくないからだ。

 私からのお願いですーこれは未央が毎回締めの言葉として使っているフレーズだ。

 啓蒙活動を行っていく中で、メディアに扱ってもらいやすいように、何かキャッチフレーズのようなものがあったほうがいいと、スタッフの一人にアドバイスされたのだ。未央もたしかにと思い、みんなで話し合って決めた。マーティン・ルーサー・キングの「アイハブアドリーム(私には夢がある)」を少し意識している。

 本当は今日のイベントは成功させる自信がなかった。それでもなんとか決心してステージに立ってしまったことが良かった。一度お客さんの前に出てしまえば、なんとか気合いで乗り切れるものだ。

「大丈夫ですか?」

「はい、なんとか。あの、少しお水もらえますか?」

 会場となった図書館の職員が優しく声をかけてくれたので、未央は気丈に振る舞えた。未央より少し歳上のその女性は、にっこり笑って、ペットボトルのミネラルウォーターを差し出した。

 5分ほど休憩した後で、未央は再びホールに戻る。話を聴いてくれた人たち一人一人に挨拶して回り、CDを買ってくれた人などにはその場でサインをしたりして感謝の気持ちを伝える。今の未央にとってこっちのほうが大事だ。

 今朝方、三島遥佳のほうから連絡があった。「弟が自殺を諮った」と。

 未央の頭の中で何かが割れるような音がした。

 なんで?どうして?

 5年間、本当にいろんなことがあった。長谷川品子が死んで、空っぽになった未央を救ってくれたのは彼女が残した1本のアコースティックギターだった。

 私にたくさんのものを与えてくれたのに、どうしてあなただけは去って行ったの?私はあなたがいてくれるだけで楽しかったのに。

「未央ちゃぁん、この後、みんなで黒木屋に行くことになったけど一緒に行くぅ?」

 スタッフの五木に声をかけられた。周りの人間は「ダメでしょ」というように口を動かす。ちょっとは人の気持ちを考えなさいと。だが、未央はにっこり笑って答えた。

「やっぱり今日はお先に失礼します。ちょっと行きたいところがあるので」

 未央は足早に会場を去った。まだ夕方。これから新幹線に乗って東京に帰ろう。一刻も早く、事実を確認したかった。

「あぁ、オカア。私やっぱりすぐ帰ることにしたから。今? 大阪駅。うん、ごめんね。今日は泊めて。なんか、一人になりたくないの」

 切符を買って、新幹線に乗り込む。座席に着いて、天を仰いで、目を閉じて、一つ深呼吸。ここも冷房が効きすぎてる。喉によくないんだよ、バカ野郎。

 それから電車が動き出して、未央は目を開ける。スマホを見る。振動に気づかなかったが、オカアから電話があったみたいだった。電車内だよ、オカア。ラインにしてよ。

ー今、新幹線に乗った。そっちはその後どうなってる?ー

 メッセージを送信した。すぐに既読になる。でも、返信はなかなか来ない。20分くらいは窓の外をじっと見ていた。

ー警察の人とかもいろいろ来てたけど帰ってやっと落ち着いたよ。三島さんがちゃんとしてくれてるー

 ちゃんとって何よ、オカア。未央は心で呟く。

 カバンからイヤホンを引っ張り出して、つけた。シャッフル再生は邪道だと考えている。イギリスのベテランのロックバンドの、最高傑作と言われるサードアルバムを頭からかける。

 サイケデリックロックというジャンルを知ったのは、品子たちのバンド「裁鬼(さばき)」に出会ってからだ。

ー薬やってんじゃねぇかってくらいやべぇロックさ。未央ちゃんも病みつきになんぜー

 裁鬼のギタリストでリーダーの楓馬がそう教えてくれた。まだ中学生の未央にとって、彼らのライブは別世界だった。

 ドラッグによる幻覚を音楽で再現。なんで、そんなことするのと未央は思った。

 客席の一番後ろで、壁に寄りかかって、ライブを観ていた。耳を塞ぎたくなるくらいノイジィーで、でも目を逸らせないくらいカッコよくて、でも、でも、目を背けたいくらい悲しかった。

 木坂未央には両親がいなかった。未央がまだ小学生の頃に交通事故で死んだ。

 父母共に一人っ子だったから、引き取り手がなかなか決まらず、結局、母の親友の大原広海の元で、お世話になることになった。

 広海の夫はそこそこ有名な音楽プロデューサーで、お金には一切困っていなかった。広海も結婚前はスタジオミュージシャンとして活躍していて、引退後は「オーシャン」というライブハウスを運営していた。

 長谷川品子はそこでシンガーソングライターを目指していた、未央の2つ歳上の女の子だ。親友だった。

 でも、5年前に、死んだ。

 裁鬼の熱狂的ファンだった男、三島奏太に殺されたのだ。


   2


「日を改めてもらえますか。私もまだ何も知らないんです」

「木坂さん、そこをなんとかってわけにはいきませんかね。ほんの10分、なんだったら大原さんと一緒に。僕はずっと黙って聞いてるだけですから」

「彼の意識が戻るまで、私も軽はずみなことは言えないんですよ。わかってください」

 未央は苛立ちながら、かなりの早足で病院へ向かっていた。東京に戻るなり、駅前で雑誌記者を名乗る男に捕まった。妙に未央の内情に詳しかった。面白半分で取材したいわけではないというアピールのつもりなんだろう。

「5年前、絶大な人気を誇ったロックバンド裁鬼のボーカリスト品斗が狂信的ファンの男に殺される。かなり話題になりましたよねぇ。当時は」

「・・・」

「サイケデリックロックってジャンルが問題視されて、聴いた人の精神をおかしくするとか、裁鬼もキチガイバンドとか散々言われて、でも皮肉にもそれが宣伝効果で、社会現象にまでなりましたよね」

「・・・」

「品斗さんの親友ってことであなたも法廷に立ったんですよね。あれも僕としては衝撃的だったな。あぁ、あの時、僕も傍聴席にいたんですよ」

「・・・」

「今ではあなたもシンガーソングライターとしての才能を開花。音楽を通して犯罪被害者の遺族や大切な人を失った方々のための啓蒙活動を行う。泣かせる話ですよねぇ」

「・・・」

「でも、あなたの御高説の中であの男、三島奏太はいつだってまるで悪魔のように語られた。そりゃ、実名は伏せてとは言えね。ただでさえ警察沙汰起こしたような人間はまともに社会生活なんてできないです。それなのにあなたのせいで奏太は更に肩身の狭い暮らしを強いられた。地獄のような葛藤の中で遂には奏太自身も精神を病んだ」

「・・・あの」

「で、今回の自殺未遂に至った」

「この、私が何も言ってないのによく一人で喋れますね! ベラベラベラベラ!」

「そう解釈していいんですか!?」

 キレた。

「おう!」

 未央の回し蹴りが記者の股間に炸裂した。記者が踞ってる間にダッシュで逃げ出した。遠くから気持ちの悪い高い声が聞こえた。

「僕は諦めませんよぉ!」

 未央は振り返っても男の姿が見えないところまで走ってから、やがてスピードを落とした。病院にたどり着きたくなかった。

 気づくと病院の近くの公園にいた。未央はベンチに腰を下ろした。もう日も暮れている。

 さわさわとささめく木々の音に、カラスの鳴く声が被さるように聞こえてくる。どうしてそんなに悲しい声で鳴くの?カラスの勝手なの?

 帰りたい。どこに?家に?あの頃に?

「木坂さん」

 どれくらいの時間、自分の爪先を見つめていたんだろう。そこに黒い影が現れて、俯く自分のつむじ辺りに視線を感じた。穏やかに低いその声で、誰だかわかった。でも、顔を上げたくなかった。

「奏太がどうにか一命を取りとめました。でも、意識がまだ戻りません」

「・・・なんとかしてよ。お医者さんでしょ。遥佳さん」

「僕は、精神科医ですよ」

 やっと顔を上げた。品子を殺した男、三島奏太の実兄である三島遥佳だった。

「処方されていた睡眠薬を、一度に多量に飲んだようです」

「ヤブ医者、バカ」

「僕の担当では、ありません」

 未央は立ち上がってお尻を払った。人前に立つ時はロングスカートが多いが、私服はパンツスタイルのほうが好きだった。スカートだったらさっきの記者も回し蹴りで撃退することはできなかった。

 品子は普段からミニスカートが多かった。男から嫌らしい目で見られたくないと考える未央には真似できなかった。

「オカアは? 知らない?」

「大原さんなら、まだ気分が悪いと言って病院の待合室で休んでます」

「私も行くわ。あなたは?」

「今日はもう普通に家に帰りますよ。ここには、外からあなたを見かけたので来たんです」

 遥佳はいつもと変わらない、丁寧な口調で話す。未央は軽く会釈して病院のほうに足を向けた。この男から、もう離れたいと思った。

「木坂さん」

「何?」

「どうか、ご自分を責めないで」

 未央は、なぜ自分は涙をこらえているんだろうと思った。泣いてしまえばいいではないか。この優しいお兄さんに甘えてしまえばいいではないか。

 幼い頃に両親を失った自分。恵まれない境遇を背負った人間というのは、そうでない人より、人生というものをシリアスに考える傾向があると思っている。自然と、いろんな社会問題について関心が強くなる。

 日々、繰り返される痛ましい事件や事故。テレビやネットから吐き出される目を覆いたくなるようなニュースの数々。

 神様が創った「人間」とは、そんなに残酷で愚かな生き物なのか、いや、違う。

 全ての生命が生まれながらに備えた優しさや愛という素晴らしい感情。それを今一度思い出してほしい。その尊さを一人一人が真剣に考えてみてほしい。

 そうすればきっとこの世界は変わる。それが未央のメッセージであり、現在行っている啓蒙活動の基本理念だった。

 世界を変えてやりたいと思っているのに、こんなところに立ち止まっていたくはない。

「奏太クンは、悩んでいたのかな」

「あなたの辛さに比べたら、あなたが気に病むほどではないと思ってます」

 フォーギブ・バット・ネバーフォーゲット。

 未央は長い啓蒙活動の中で、丸くなっていく自分に気づいていた。憎むべき奏太のことをクン付けで呼ぶまでに。

ー未央ちゃん、馬鹿なことだけは考えないでねー

 広海に何度も言われた。耳にタコができるまで。何度も何度も。

 馬鹿なこと、それすなわち「復讐」だ。未央の理念に反する。罰を受けるということは、償いではない。

 聞きたかったのは、ただ一つ心からの謝罪だ。

「あの人にただ一言、ごめんなさいって言ってほしかった。それまで、音楽を続けたいの」

「後悔はしていたはずです」

「当たり前です」

 7年前、まだ15歳だった長谷川品子は、当時インディーズシーンでもブレイクし切れずにいた裁鬼と出会った。ギターボーカル楓馬を中心とした4人組だったが、伸び悩んでいた楓馬がボーカリストとして品子をスカウトしたのだ。

ー君の音楽は普通にJポップでは受け入れられない。一緒にロックをやろうー

 楓馬の誘いに、品子は戸惑った。激しい音楽を聴く習慣はなかったし、エレキなサウンドに自分の声を乗せた経験もほとんどなかった。ただ、あまりキュートではないハスキーなローボイスはともかく、生来の陰気な性格から少しアンニュイでメランコリックな曲しか作れない自分の殻を、破ってしまいたい気持ちはあった。

ーあなたたちの音楽と私の歌で、聴く人を心から幸せにすることができるならー

 女の子をボーカルにするとか舐めてんのかと、最初のうちはバッシングも多かった。ただ、裁鬼のサイケデリックサウンドと品子の持つオーラが、強烈な化学反応を起こすまでに、時間はかからなかった。

 歌詞は英語。それもほとんど意味を持たない言葉の羅列。それがかえって良かった。

 陰惨で凄絶。純粋さ故に、敢えて狂うことも厭わない、強い意志を持った、悲痛なほどに雄々しいロック。

 この子は、一体どんな人生を歩んできたのかと、一体前世でどんな徳を積んだのかと、聴く者を、観る者を驚かせた。

 急速に信者を増やし、高校を中退するほどに忙しくなった品子を、未央は素直に受け入れられなかったし、応援することもできなかった。単純に未央とは遊んでくれなくなったし、未央自身の子ども染みた我儘だ。

ーしなちゃん、もうロックなんて止めなよ。しなちゃんらしくないよ。しなちゃんにはもっと優しくてあったかい音楽が似合うよー

ー未央ちゃん、本当の優しさや愛情は、悲しみの上にしか咲かないのよー

 そう言って、気だるげに煙草を吹かす品子を、未央は少しカッコいいと思ってしまった。

 1年が経つ頃にメジャーデビューの話が出てきた。楓馬は迷った。メジャーに行ったらきっといろんな制限がかかる。大人たちの支配も厳しくなる。自分たちの音楽が思うようにはできなくなる。そんなことをメンバーに話したが、それでも品子はすぐに答えた。

ーたくさんの人に聴いてほしい。アングラでマニアックなバンドでは終わりたくないー

 楓馬は了承した。他のメンバーも腹を括った。

 メジャーデビューに合わせて品子は芸名を「品斗」に改めた。単純に「品子」は響きが芋くさいからだ。品子は「男みたいじゃん」と文句言ったが、楓馬は「カッコよければいい」と説得した。

 インディーズシーンで既に有名バンドだったから、メジャーに行ってもすぐに目立った変化はなかった。どんなに売れてもテレビには出なかった。本人たちも出たいと思ってなかったし、局の側が承諾しなかった。テレビに出るには暗すぎる。

 各地のフェスにも出演しなかった。あくまでも孤高を貫く。音楽通からは高い評価を得たが、あまりお茶の間には浸透しなかった。楓馬にとっては好都合だったが、品子はいい顔をしなかった。これではインディーズの頃と、いや、それどころか一人で歌っていた頃とも変わらないではないかと。

 品子はドラマに出演した。メンバーには内緒で。放送されたドラマを見て楓馬は呆気に取られた。そこそこの役で出てる。サイケのイメージとは駆け離れた、清純派として。

 楓馬は品子に問い詰めた。どこのプロデューサーに唆された?どういう意図でのオファーだったんだ?なんで承諾した?どうして一言の相談もなかった?

ー伝えたいことがあるの。音楽は手段にすぎない。あなたとは理想も志向も違うのよー

 一晩中かけて大喧嘩した。しかし、やってしまったことをなかったことにはできなかった。謎の新人美人女優は瞬く間に「芸能界」で知れ渡った。

ーミュージシャンは「芸能人」じゃないんだ。音楽は「ビジネス」じゃないんだー

ーそんなのはあなたのエゴとナルシシズムでしょー

 突如としてバンド内に張りつめた不協和音。それが却って裁鬼という怪物を、更にスリリングでドラスティックな何かに変えた。

ーあなたの音楽は本当に素晴らしいわ。心が真っ直ぐで純粋な人には響く。でも、私が変えてやりたいのは、聴いてほしいのは、そういう人じゃない。もっと低俗で、心の腐った奴らなのよー

 品子はバラエティー番組にまで出始めた。「ドSなお嬢様キャラ、その裏の顔はマニアックなロックシンガー」ーそんな扱いになって、少しずつ大衆受けが良くなり、人気が出始めてしまった。サイケデリックロックは一般のリスナーに大きな誤解と偏見を与えてしまった。

ー何々賞受賞とか肩書きだけで小説がバカ売れして、結局ほとんどの人が読まずに棚にしまってる。そんなようなもんだろ?それでいいのか?お前のにわかファンは裁鬼の音楽になんて興味ないんだぞー

ー黙って。私だってそれくらいわかってるー

 ベーシストとドラマー、サイドギターはそれくらいのタイミングで脱退。以降、流動的にサポートメンバーを入れるスタイルになった。

 それでも品子加入当初からのファンはついてきた。何かに洗脳されたように、まるで過激宗教団体のように。

 爆音、まるで品子と楓馬が殴り合うような、留まることもなく激しさを増す裁鬼のライブは連日続き、そして、ある変化が起きた。

 品子が、不審な気配を感じるようになった。仕事の帰りなど夜道で視線を感じる。誰かに尾けられているように感じる。最初のうちは気のせいかと思うようにしていた。だが、1週間、2週間、1ヶ月経っても気配は消えない。

 大事にはしたくなかった。実際、気味が悪いだけで実害は何もない。ライブ活動は変わりなく続けられた。悲劇は唐突に起きた。

 品子が自宅のドアを開けた時、押し寄せるようにその影は現れた。影としか思えなかった。黒いジャンパーで頭を隠したそれは品子を・・・

 大事になった。加害者は裁鬼のライブにも頻繁に足を運んでいた熱狂的なファンだと判明した。「現代のマーク・チャップマン」などと言われた。ジョン・レノン殺害事件の犯人だ。

 三島奏太は当時17歳。裁判は長きに渡った。その間、ネットも荒れた。

 実際に争点になっていたのは故意の有無だ。しかし、世間が問題視したのは、或いは面白がって騒ぎ立てたのは奏太の刑事責任能力だ。彼の精神状態だ。

 サイケデリックロックを批難する者、奏太の家庭環境に原因を見出だそうとする者、どんな理由があっても人殺しは人殺しだと言う者。未央はどんな意見に対しても「人の不幸を利用して日頃からの持論を吐き出さないでよ」としか思わなかった。

 大変だったのは遥佳も同じだ。「気違いの家族」と呼ばれ精神科医として勤めていた病院でも心無い嫌がらせを受けた。それ以上に、彼自身が良心の呵責に襲われた。10も年の離れた弟だ。共働きの両親の代わりに面倒を見ることも多かった。兄である以上に、立派な保護者、責任を負うべき者だった。

「奏太の意識が戻ったら、真っ先に連絡します」

 病院に向かって歩き出そうと、背中を向けた未央に向かって遥佳は伝えた。未央は振り返らなかった。ただ、右手をぷらぷらと振って答えた。

 広海とはすぐに合流できた。思わず抱きついてしまった。暖かかった。涙はこぼれるのに、思いは声にならなかった。言葉にならなかった。


   3


「人生は長いです。どんなに苦しくても必ず夜は明けると信じて生きてください。私からのお願いです」

 暖かい拍手はいつもと変わらない。むしろ今までよりも心が込もっているように聞こえる。未央はペコペコと頭を下げる。お辞儀は深く一回のほうがスマートだとは思う。でも、なんだか気持ちが揺れている時はこんな風にしまりなくペコペコとになってしまう。

 奏太の自殺未遂はニュースで大きく報じられた。5年前、あれほど騒がれたのだから当然だと思った。ネット上では「自業自得」という言葉が目立った。未央もそれは否定しない。

 ただ、正直に言って、ネット上の匿名のコメントでは何も感じ取れない。考えや思いは言葉の内容や文の中身ではなく、目や耳から受け止められる表情や声色にこそ現れると、未央は長い啓蒙活動の中でよぉく理解していた。

「お疲れぇ。未央ちゃん、今日も可愛かったよぉ。良かったよぉ」

 スタッフの五木がヘラヘラ顔で寄ってくる。悪い人ではない。昼間から酒を飲む習慣さえなければ。

「五木さん。シンガーソングライターに可愛いはセクハラ発言だって何回言えばわかるんですか。アイドルとは違うの。ねぇ、未央ちゃん」

「いえ、まぁ、私は気にしないです」

 女性スタッフにペットボトルの烏龍茶を渡され、未央は取り敢えず椅子に座る。今日も無事にイベントを終えた。会場は神奈川県横浜市の食堂。客は20人ほど入れるお店でライブイベントもできるように造られている。

 ワンマンのイベントが増えてくるまでは2マンや3マンのライブも多かった。おかげで同年代のミュージシャン仲間も増えた。その中で「どんなに音楽を頑張っても可愛いとしか言ってもらえない」という悩みは時々聞く。

 窓ガラスに横浜の街並みと自分の顔が同時に映っている。どちらも嫌いじゃない。9月の浜風は気持ちいいし、自分も少しは大人の顔立ちになった。

 奏太は今も目を覚まさない。ネットニュースのコメント欄には「さっさと死んじまえ」との書き込みもちらほら。はっきり言って社会悪だと思う。奏太がではなくそう言った無責任な書き込みが。

「あぁ、綾香。うん、今イベント終わったとこ。なに?」

 打ち上げは今日もパスして、外で1人になったところで大学の友人から電話がきた。別に用事はなかったらしい。ただ、奏太の一件以来、よく連絡をくれる。未央は長時間1人でじっとしていると嫌なこと、悪いことばかり考えてしまうということを、よく理解している。

 未央はこれから電車に乗って東京へ帰る。明日は日曜で仕事も学校もない。遥佳からランチに誘われている。今後のことでいろいろと相談したいらしい。

 三島遥佳、32歳。当然だが男性で、独身。恋人はいないそうだ。学生が本分の未央とは違い社会人であり、医師として身なりは悪くない。そういう男と2人きりで会うことになんの抵抗もない。回りも一切茶化せない空気がとっくの昔に出来上がっている。

 事件があった当初、全てが目まぐるしく動いて、何も考えられなかったという。少しずつ落ち着いていくにつれて、当然考える罪のこと、罰のこと。

 だいぶ減軽されたとはいえ法の裁きを受けた弟に比べて、遥佳は実刑は何も被っていない。だが、失ったものと、ついた傷と、社会的制裁は弟の比ではない。

 精神科医というのは、患者の命を救っているという実感は持ちにくい。それどころか、心の病に対して未だ懐疑的な人間から見れば、ただのペテン師だ。

ーメンヘラの傷舐めんのが仕事のヤブ医者の弟が気違いロック聴いて人殺しになったー

 1人がそんな声を挙げれば尻馬に乗る野次馬はわんさか出てくる。別に鋭い指摘でも上手い突っ込みでもなんでもない。未央は笑えなかった。

 天災後の不謹慎狩り、義援活動を売名、偽善と叩く者。そこに弱者を守りたい心はない。ただのストレス解消、難癖つけたいだけだ。未央の怒りは奏太から派生してそういう暇人にも向かうようになった。むしろ遥佳のことはいつからか同志のように感じるようになっていた。

 日曜、一人暮らしのアパートを出た未央は徒歩で遥佳指定の喫茶店へ向かう。遥佳の自宅は電車で数駅離れている。それでもあちらから出向いてくれる。一回りも歳上の男として当然かもしれないが、未央としては単純にありがたい。

 駅前、よく晴れた週末の午前。残暑が厳しいとはいえ、未央の気分は悪くなかった。

 精神を病んでいたという奏太。いくら考えても未央には想像の域を出ない。啓蒙イベントには、生きる希望を見失い、言い方は悪いが死んだ魚の目をした人も少なくない。そういうものなのだろうか。ただ気分が落ち込むことと精神病の境界線は?

 考えているうちに店まで着いていた。店内はひんやりと冷えていた。遥佳は既に来ていた。大きく手を振ってくれたのですぐに気づいた。

「こんにちは」

「どうも、今日も暑いですね」

 未央はお気に入りのハンカチで額を拭きながら席につく。遥佳はなんだかにやけていた。目で「なにか?」と問うとそのハンカチに描かれたキャラクターのイラストを指した。

「ドラえもん、可愛いですね」

「あ、まぁ、好きなんで」

 悪い意味ではないが、子どもっぽい趣味だ。未央は気恥ずかしさを感じながらポケットに乱暴に突っ込むようにしまった。

 時刻は正午を5分ほど過ぎたところ。席は7割程度埋まっていた。未央はメニューをチラリと見ただけで「あぁ、なんかなんでもいいや」と思い、一番安いパスタを頼んだ。

 遥佳はアイスコーヒーしか頼まなかった。未央の「えっ?」という視線に、遥佳は苦笑いを返すだけだった。以前から、かなり食が細いタイプで、1日2食になることが多いと聞いている。加えて、今は食欲も落ちているのだろう。

「ブログ、かなり荒れてます」

 未央は料理が運ばれる前に話を始めた。

 定期的な講演会に加えて、普段から頻繁にブログは更新している。別に芸能人気取りではないが、そこそこファンはいる。アンチはいないと思っていた。それほど、賛否両論巻き起こるような強烈な意見、考えは発信していない。

 だが、今、未央のブログはかつてないほどたくさんのコメントが殺到している。5年前が思い起こされる。あの時も悲喜交々の意見、声が溢れた。

 当然のこととは思うが、未央を糾弾するような人は少ない。多くは奏太を批難するか擁護するかのどちらかだ。そう、擁護する者もたくさんいる。

「あなたは今でも訝しんでいるでしょうけど、あれは、過失致死だったんですよね。奏太はたしかに強引に詰め寄ったけど、品子さんが頭を打って死んだのはあくまでも偶然ー」

 遥佳はアイスコーヒーに入れたミルクと砂糖を混ぜながらぽつりぽつりと語っていたが、そこで未央の睨むような目に気づいた。

「失礼」

「あなたの頼んだ弁護側が優秀だっただけでしょ? 私は今でも裁判に負けたとしか思ってない。法があいつを許したとも、思ってないよ。ーあぁ、あいつ早く目ぇ覚ませよ。聞きたいことが山ほどあんだよ」

 言葉づかいが悪くなる。自分の感情を的確に掴めない時が一番もどかしくてイライラする。

「なんで、なんで自殺なんて選んだんだよ」

 頭をかきむしる。遥佳は狼狽えるしかない。

 未央の持論だが、人は「もう死ぬしかない」と心が判断した時、自殺するものだと思ってる。その最期の一歩を踏み出してしまう前に、どれくらい粘れるかは、その人が歩んできた人生全てが試される。

 たくさんの味方、仲間、友を作れた者はそれだけ救いの手を差しのべてくれる希望があるし、強く、生きる意志を培ってきた者はそれだけ、なんとか、どこかに生きる道はないか限界まで探し続けるだろう。

 だが、遥佳と出会ったことで知った。もう一つ、自分の心一つではコントロールできない悪魔が存在すること。精神疾患という悪魔だ。

「精神病とドラッグは関係ないって何度も言ってるのに。ましてやサイケデリックロックなんて人を死に追いやる力まではない。うんざりしますよ。ねぇ、木坂さん」

 こちらも頭を抱える。二人して昼間っから何をやってるんだろうと、自嘲気味にもなる。

 遥佳の病院では、また5年前と同じようにどんよりした空気が立ち込めている。医師や従業員の間でも周囲の人間から嫌味を言われる者が多いらしい。

「奏太サンもそういう病気だったんすか?」

「そう聞いてますよ。あまり直接相談を受けることはなかったですがね」

「兄弟ってそんなもんすか? 私、一人っ子だから」

 だから、品子はお姉さんのようだった。

「関わりは、一般的な兄弟のそれより深かったと思います。ただ、僕は弟にとって兄である以上に保護者でしたから」

 事件後、弁護士やその他諸々の手筈は全て遥佳が請け負った。ただ、明確な敵意と怒りを持って自ら矢面に立った未央に比べて、自分は少し意気地がなかったと「優秀な兄」は思っている。

 5年の月日が流れ、今病院のベッドで半分死んだように眠る弟を見て、遥佳は回顧する。遠い日、まだ両親が笑っていた頃のこと。

「明るい話しようよ。私、今度、フルアルバム作る話が出てるんです」

「それは、おめでとうございます」

 今までにも4、5曲程度のミニアルバムはいくつか出してる。どれも200枚ずつ刷ってるがほどほどに売れて手元には若干量しか残っていない。

「三島奏太があんなことになって、世間の注目度が高い今がチャンスだって、回りのほうが上がってます。あんなことって何よ、なんのチャンスだよって思いますけど」

 未央はミュージシャンとして大成したいとは思ってない。大学では軽音関係のサークル等にも入ってない。時間がないし、あったとしても今の音楽活動をバンドスタイルでやるメリットは思いつかない。

 あまり人気者にもなりたくない。知名度が上がれば当然アンチも増える。これは「当然」と言い切っていい。芸能界の長い歴史の中でもう動かせない事実だ。

 よく「アンチがいるのは良いことだ」等と言うものもいるがニュアンスがおかしいと思う。たしかに、どんな分野でも「濃すぎる」ものというのは好き嫌いが分かれる。それは正しい認識だ。でも、今の時代、テレビ等に出まくって顔と名前を大安売りすれば嫌でも有名にはなれる。そうやって手当たり次第に「知ってる人」という分母を増やさなければ「ファン」という分子を増やせないのはどんな分野でも二流だと思う。本当に今の時代は、そんなに音楽が大好きというわけではない人からしたら名前も知らないようなバンドでも、アリーナクラスでライブができる人たちはたくさんいる。堅実な活動で徐々にだが確実に安定した人気と実力をつける。それが無駄に敵を増やさずに、かつ自分のやりたいこと、夢を実現させるために一番いい方法だ。

 と、ここまでが未央の考え方。結論、今アルバムを作ってブレイクを狙うのは未央としては気乗りしない。

「弾き語りのほうが好きなんです。でも、メジャーデビューして本格的に音楽でご飯食べてくとしたらそれだけじゃもたなくなる」

「木坂さんはいつかは音楽から離れるつもりでしょう?」

「しなちゃんほどの覚悟は出来てないから。大学はちゃんと卒業して。でも、人に自分の想いを伝えるっていうことはすごく楽しくてやりがいもあって、そういう仕事で生きていけたらいいなって、思ってます。かな?」

 そう、未央は語る。笑う。遥佳もうんうんと頷く。照れ笑いは悪いことではないが、ヘラヘラしてるとは絶対に思われたくない未央はすぐに真顔に戻る。

 二人はしばらく、遥佳の仕事について話した。精神科の仕事。未央の友人にも一人いる。通院してる女の子。メンヘラとかいう言葉で揶揄されてる子も数名いるが、それはまた別問題なのだろう。

 少し、自分が運営してる精神病患者への支援サイトを見せたいと思った遥佳はスマホを鞄から取り出そうとした。まさに同じタイミングだった。着信を知らせる振動音。

「すいません、ちょっと仕事の連絡っぽいです。出ますね」

 時刻は1時を回っていた。あまり人様の電話に興味津々で聞き耳立てるのも無礼だからと、未央はなるべく違うことに意識を移した。ここのパスタ、値段のわりにそこそこ美味しかったな。今度はタラコのやつ頼んでみようかな。そうだ、昨日の夜にちょっと良いギターフレーズを思いついたんだよな。あれを今度のイベントで披露できるように仕上げよう。歌詞はストックから引っ張ってきてもいいけど、奏太のことで自分にも変化あるからなぁ。というか次のイベントどこだっけ?たしか都内のー

「木坂さん」

「え、あ、はい。なんですか?」

 すっとぼけたように見えていただろう。遥佳に呼ばれて未央は慌てて意識を戻した。なにやら深刻な顔をしている。

「奏太が目を覚ましました」

「え、は?」

「意識もハッキリしていて会話もできるそうです。僕はこれから病院に向かおうと思いますが?」

 一緒に来るか?と聞いているのだろう。未央は馬鹿みたいにこくこくと頷いた。

「ただ、すいません、僕もまだ全容はわかりませんが、奏太のやつ、少し記憶がなくなっているようです」


   4


ーねぇ、遥佳。弟か妹だったらどっちが嬉しい?ー

ーうーん、どっちでも嬉しいけど、弟がいいかな。あのね、一緒にキャッチボールしたいんだー

ーねぇ、お父さん。もし男の子だったら、お兄ちゃんがハルカだからカナタ君っていうのはどうかしら?ー

ー遥か彼方か、はは!母さん、そりゃ、ダジャレじゃないかー

ーうふふー

ーあははー


 遥佳は目を閉じて冷たい窓に額を当てていた。目を開けると秋雨が降りしきる夜の街が広がっていた。

「今日は少し疲れたでしょう? 夕飯を食べたら早めに寝るといいよ」

「うん、そう、ですね」

 遥佳はベッドの縁に寄りかかった。勤務中ではないのだから、今の自分は「医者」ではない。今、目の前にいる青年が自分の「弟」ではないように。

「えっと、もう一度整理させてください。あなたは僕のお兄さんなんですよね。それで、さっきの女性は、一体誰なんですか?」

 もう何度目になるか、「三島奏太」は確認する。自分は自殺を計ったということは理解できているらしい。ただ、それ以前の記憶のほとんどを失っている。自分が何に苦しんでいたか。何が自分を追いつめたか。罪のことも、傷のことも、何もかも。

 木坂未央は病室に着くなり奏太に詰め寄った。自分でも我慢するつもりだっただろうことは彼女の人柄から遥佳にも察せる。だが、本人を目の前にすれば彼女の気性から、抑えられなくなることも察せる。

ーねぇ、私のことわかんないの!この人のことは?あんた自分のしたこと忘れたの!黙ってないで!ねぇ!ー

 いきなり肩を掴まれて問い詰められて、奏太は非常に不愉快だったらしい。そりゃそうだと遥佳も思う。すぐに退室させられて、看護師と、少し遅れて顔を出した広海にたっぷり叱られた。

 あんなにも憎んだ、人生を懸けて償わせると誓った男は、もうこの世にいない。未央は今、広海の家に一旦落ち着いて、部屋で一人、泣いている。

「あの人は、君の古い知り合いだよ。ちょっと昔いざこざあって、動転してたみたいだから、気にすることないよ」

 たどたどしく遥佳は答える。言葉遣いはこれで正解だろうか。年下の友達と接しているみたいだ。奏太が敬語だから、たぶん自分も丁寧に話したほうがいい。

 精神科医はさほど脳医学に長けてはいない。記憶喪失について大学で少し齧ったか、遥佳は、それこそ自分の記憶を必死で辿る。

「今は無理に思い出そうとしないほうがいい、と思う。薬の過剰摂取で神経が馬鹿になってるから、もう少し時間を置いてみても悪くない、と思う」

 自分でも何が言いたいのかわからない。医者として、正しくない態度だ。ただ今は、兄として、間違った態度は取りたくなかった。

 しばらくは雨の音だけが病室を包んでいた。時計は、長針が12を差す時にだけ、微かに鳴る。

「あの、なんか、こんなこと言うの変かもしれないですけど、煙草吸っちゃダメですか? なんかすごいムカムカして」

 遥佳は噎せた。緊張感で喉が詰まっていたのだろう。奏太の訴えに驚いて咳き込んだ。

「大丈夫ですか?」

「あ、うん。大丈夫だけど、あれ? 君、煙草なんて吸ってたかな」

 奏太ももう成人している。自分の知らないところで喫煙の習慣ができていても不思議はない。遥佳のほうは、酒は好きだが煙草はもう何年も吸ってない。

「申し訳ないけど、煙草は許可できないかな。これは医者としてではなく」

 病院勤務者として。

「そうですか。あの、先ほども伺いましたけど、精神科医さんなんですね」

 奏太はさほど気落ちした風もなく、会話を継続させようとする。そうしながら、動揺しがちな気持ちをコントロールしているようだ。遥佳もそんな弟の気持ちを察して、なんとか場を和ませようとする。それは自分が普段から患者さんに対してしていることで、仕事として得意なことのはずだった。

「もう少し砕けた言い方で、メンタルクリニックって感じかな。わかる? そういうの」

 人間の記憶能力というのは、まだ解明されていない部分が山ほどある。自分の名前は忘れても、日本語は覚えてる。箸も使える。自転車にも乗れる。

 自分が精神を病んでいたこと、覚えているか?

「メンタルクリニックっていうのはピンとこないですけど、精神科っていうのはあれですよね? 鬱とか躁とか」

「そうだね」

 躁病について話しているとどうしてもダジャレになる。真面目な話をしていても。遥佳はいつも気づかないでほしいと思うし、当然茶化さないでほしいと思う。

「君もそういう患者さんだった」

 でも今は違うのか、わからない。

「あなたの?」

「僕の担当だったかという意味? 違うよ」

 では、他に僕の担当医がいるのですね。というニュアンスが感じ取れた。その人と話したいだろうか、遥佳は判断に迷う。薬の過剰摂取、延いては自殺未遂に際して、回復に当たったのはまた違う医者だ。

「僕はそろそろ帰るよ。何度も言うけど、今日はゆっくり休むように」

「了解です」

 遥佳は軽く手でお暇を告げた。また来る、と目で伝えた。なんとなく届いてる気がした。たった二人だけの、血を分けた兄弟だもの。そう言い聞かせて。


   5


 それから数日、遥佳はいつも通りの勤務を続けていた。奏太の経過、詳細は周囲には知られていない。一部の医師には意識を取り戻したということだけ、それ以外にはそれすらも、当然記憶を失っていることなど誰にも伝えていない。

 患者たちは危惧していたほど気にしていない。メンタルクリニックは狭い世界だ。狭い個室で医師と一対一で向き合う。否が応にも信頼関係は深まる。そう簡単に崩れることではない。5年前は「そう簡単」なことではなかった。それだけのことだ。

 警察とも少し話すことになった。話さざるを得なかった。懲役を免れ、罰金も家族が払い、奏太はそれから特に問題行動は起こしていなかった。あくまでも法的、社会的な意味では。もう再犯を過度に恐れてはいなかった。彼等も、自分と同類、信念と正義を持って職務に当たる者。遥佳は神経が少し荒んでいたことを反省しなくてはと、頬を叩いた。

 未央のほうは、しばらくイベントや講演を行っていなかった。いくつか予定は入っていたのだが、キャンセルした。代替のミュージシャンは卒なく用意できて、それほど会場側に迷惑はかけなかった。

 今また、彼女は自室のベッドで一人泣いている。もう一週間以上ほとんど外出もしていない。遥佳との約束を、守らないといけないのに。

 記憶が遡る。未央の意識が乱れる。十月、神無月、なんかの講義で習った。神がいなくなる月というのは語源俗解らしい、らしい、らしい、らしい、らしい・・・

「・・・あいつの日記です。警察の方々が見つけてくれました。僕も目を通しましたが、あなたはどうします? 敢えて強制はしませんよ」

 例の喫茶店に呼び出された未央は息を飲んだ。ボロボロの大学ノートを差し出した遥佳の目が、少し怖かったからだ。「読まなくてもいい」と言いながら、その目は「とにかく読んでください」と突き詰めている。

 綺麗な日記帳ではなく、それこそ100円ショップで買ったのではと思うようなノートは、なんだかそれ自体が、呪符というか、悪の教典というか、或いは逆に、仏典か聖書のような、どこか浮世離れした、灯りを放って見えた。

「私は、奏太クンのことをそんなには知らない。自分のために目を背けて、奏太クンのために知ろうとはしてこなかった」

「それは僕も同じで、責めませんが、これを読めば少しは知れると思います」

 何も言わず、手を伸ばして、震える指で、未央は最初のページから一文字残らず、飲み込んでやろうとした。

 そこに書かれていたのはー

 あまりにも痛切で悲愴な嘆きの軌跡だった。

 最終学歴中卒の彼の学識の中に、どうしてこんな語彙と表現力があった。それはどんな名画にも雄篇にも描けない、地獄だった。

 孤独に抱え込んだ罪の意識と、誰にも理解できない胸の昂りと、後悔と、狂っていく自己への恐怖と、憎悪そのものへの憎悪。懺悔することも償うことも許せないほどに、ただ苦しむことだけを自分に課した。

 愛していた。品斗、長谷川品子という女性を。

 ただ、それだけ、それだけを、伝えたかっただけなのに。

 所々が、恐らくは涙で滲んだページに、震えの止まらない手で書き殴られた文面は、酷く読み辛かった。それが三島奏太という青年の、乱れ、荒れ切った、心の形だった。

 一冊の八割くらいまでは埋められている。全部読み通すには時間がかかるし、遥佳もこの場ですぐに読破しろとは思っていないだろう。

 未央は顔を上げて遥佳を見やる。鼻から口にかけて両の手で覆う彼の目は潤んでいた。さっき、彼の顔が怒っているように感じられたのは未央の勘違いではなかった。ただそれは他者への怒りではなく、弟への怒りではなく、彼自身への怒りでもなく、未央への怒りでもなかった。

「遥佳さん・・・」

「・・・木坂さん」

 意味もなく、互いの名を呼ぶ。

 馬鹿みたいだと、自分を嘆くように。

 未央はノートを一旦、遥佳の方へ押し戻した。あとで全部読むから、ちゃんと全部読むからと、自分に言い聞かせながら、今は逃げてもいいですかと、依りすがるように。

 何があったのよ、あんた、一体なんなのよ。

 未央の胸の中でぎゅうぎゅうに膨れ上がった憎しみによって、いつの間にやら隅に追いやられていた「疑問」という感情が今、再び沸き上がる。

「言ってくれなきゃわかんないよ。謝ってって何度も頼んだじゃん。こっちは涙流して頼んだじゃん!」

 テーブルを叩きながら、椅子の脚を蹴る。コーヒーカップが音を鳴らし、中の黒液が少し零れる。

 呼吸を落ち着けようとするが、無理だった。未央は鼻をすんと鳴らしてハンカチを取り出した。

「5年前、警察も検察さんも奏太から反省の言葉はないって言ってた。嘘だったの?」

「情報を伏せたり、偽ったりということはないと思います。彼らがないと言うなら、事実なかったのでしょう」

「半分黙秘してるって聞いてた。ぽつりぽつりとしか喋らないって」

 未央はあの頃、奏太と面会することはできなかった。強く訴えれば実現したかもしれないが、そんな気力はなかった。奏太の情報は、回りの大人たちから伝え聞くしかなかった。

 遥佳は逆に、何度も顔を合わせた。事件発覚から2日で奏太は逮捕され、その数日後、初めて面会した時、彼は不気味なほどに沈黙していた。

 数日、それが正確に何日間だったかは覚えていない。ただ、その数日の間、彼は奇声を上げ続けていたらしい。嵐が過ぎ去った後の静けさ、だったようだ。彼はもう、狂っているんだと思っていた。

「自分の知っている弟はもういないんだって、あの時から僕は諦めていたのかな」

「どんな人だったの? 奏太って」

 未央は今、改めて問う。これまでにも聞いたことはある。「遥か彼方兄弟」の生い立ち。ただそれはあくまでも「事実」だけだったから。

「僕も弟も北海道で生まれて、東京に出てきたのは父が死んだことがきっかけです。僕が大学受験を考え始めていた頃ですね」

 幼少期は一人っ子として育った。両親はずっと「そろそろ二人目も欲しいねぇ」と、わりと気楽に語り合っていた。遥佳もそれを、わりとのほほんと聞いていた。

 遥佳が9才の時に、お母さんのお腹に赤ちゃんができたと、父から告げられた。嬉しそうだった。遥佳はとりあえず受け入れた。ただ、単純に嬉しかったと言えば嘘になる。

 クラスメイトにはきょうだいがいる者もたくさんいた。それほど羨ましいとは思っていなかったし、楽しいこともあればうっとうしいこともあるんだろうなと感じていた。別に一人でも寂しくはなかったし、両親は好きだったし、学校に行けば友達もいたから「きょうだいが欲しい」とは思っていなかった。

 それでも、その新しい命は約7ヶ月後にやはりというかなんだか当たり前のように生まれてきて、我が家にやってきた。

 最初のうちは単純に可愛いと思ったし、喩えるなら動くぬいぐるみのようで、楽しいというか面白かった。自分がリトルリーグにいた頃のことだ。

 自分が中学生の頃には幼稚園に入った。

 自分が高校生の頃には小学生だった。

「邪魔だな」と思うようになったのは、高校2年生、17歳の夏、父が病気になった頃からだ。

「邪魔って・・・」

「言い方は悪いですが、当時の自分の本心でした」

 未央は一人っ子だ。品子とのふれ合いの中でなんとなく自分には姉がいるかのような感覚になっていたが。

「きょうだいがいる」ということは同級生と付き合う上でもなにかと話の種になるし、必ずしも好感を持たれるとまでは言わないが、どちらかと言えばプラスに働く場合のほうが多い。だが、遥佳青年にとって奏太の存在はデメリットでしかなかった。

 辛気臭いガキだった。高校1年の時に家に友達を連れてきたことがある。中学時代から野球部で仲の良かった友達だ。朗らかな兄とのギャップもあったのだろう。ろくに挨拶もしないで漫画ばかり読んでいた弟を酷く馬鹿にされ、遥佳は苦い気持ちになった。そもそも狭い家で、高校生にもなって兄弟と同室というのが酷く窮屈だった。思春期以降、性に目覚めてからは更に「不便」だった。

 加えて、病気の父がまた狭い家に居座ることで遥佳青年のストレスはますます積み重なる。もともと共働きで忙しかった母は確実に過労になった。二人は、相乗効果からストレスにスノーボールエフェクトがかからないようにお互いに気を遣い合った。人生に取り返しのつかないことがあるならば、三島家は既にそうなっていたんだ。

 父はあまり長くは持たずに死んだ。母はそれでも、なんとしても二人の息子を不幸にしたくなかった。

 昔から夫婦の仲は良好だったと思う。だからこそ死がそれを別つことになった時、慣れ親しんだ北の地に未練はもうなかった。東京に住む遠縁の親戚の誘いがきっかけになった。こちらに来れば仕事も提供できます。なにかとお手伝いもできるでしょう。遥佳君の学業にもプラスになるはずです。一家は上京を決めた。そこが自分たちの終焉の地になるとも知らずに。

「僕はその頃には野球からは離れていました。勉強に充実感を感じていたし、バイトと三足は流石に無理だったし、新しい高校で途中から部活に入るのも気乗りしなかった」

 遥佳が語り続ける間、未央はうるさいくらいに相槌を打っていた。身を乗り出すくらいに意識して集中しないと、ふと自分の頭に潜り込み別のことを考えてしまいそうになるからだ。

 品子が死んでからの癖だ。たとえ目の前に人がいて、時に楽しそうに、時に真剣な眼差しで何かを話していても、どこか、心が自分の身体よりずっと遠くにあるように感じて、意識が飛ぶ。それでいて思考はしっかりと脳の中にあって、いろいろ考えている。

「いろいろ」って変な言葉。程度の幅が広すぎる。

 大学に入ったばかりの頃、同じ授業で知り合った男に熱心にアタックされて付き合うことになったけど、3週間で別れた。

「未央って真面目だよなぁ。俺、別にそんなにいろいろ考えねぇよ。頭ん中、エロいことでいっぱいおっぱい!」と笑うそいつと、人生観が違い過ぎると思ったからだ。

「奏太が、裁鬼を聴き始めたのはいつごろ?」

「ちょっと話が飛ぶことになっちゃいますね。もう少し後ですよ」

 未央は時間軸の整理が追い付かなくなる。遥佳もその辺り気を遣った。

「そこまでで僕は高校3年生、奏太はまだ8才でしたよ」

 遥佳は医師を目指していた。父が病気だったことはあまり関係ない。自分が難病を持っていたとか特別な境遇を背負っていなくても、普通にお医者さんになりたい若者は別に珍しくない。それだけのことで、最初は外科医になるつもりだった。

 そこから精神科、心療内科などを志すようになったのにも特にきっかけはない。時代の変化からそういった医療にお世話になる人は増えた。それに自然に順応しただけだ。

「で、僕は都内の医大に現役合格しました」

「か、簡単に言いますね。バイトして、家事もして、弟の面倒も見ながらでしょう?」

「いえ、むしろ神がかってたのは母のほうですよ。僕らのために昼夜問わず働いて、睡眠時間なんてナポレオンといい勝負だったんじゃないかな」

 珍しく遥佳が笑いを狙った。内容よりもそのことが滑稽で、失礼ながら未央は鼻で笑った。

「母にとって僕はもはや息子ではなかった気がします。変な二人三脚ですよね。まだ生活力のない次男を育てるために、可愛くもない、大して大事だとも思えない弟のために」

 大変だったけど毎日は淡々と過ぎて、彼らの生活は次第に落ち着いてきた。母子の努力はそれなりに無駄にならなかったのだ。大学を卒業した遥佳は堅実に働き一般平均よりは随分高い収入を得られるようになっていた。母も以前ほど無理をする必要はなくなった。奏太も、相変わらず陰気な性格だったが、特に問題は起こさなかったし、どこにでもいる高校生になった。

「出会うべきではなかったんでしょうね」

「品子さんとですか?」

「いや、その時点では個人的な思い入れはなかったでしょう。裁鬼とっていう意味です」

「奏太は、ソロシンガーだった頃から品子さんを観ていたんですよ」

「え?」

 正確に言えば、品子は13才の時点で初めてライブハウスのステージに立っている。ミュージシャンとして早熟だったんだろうし、それ以上に見た目も性格もマセていたから、回りのおじさんたちの受けが良くて、インディーズの音楽界隈を品子は堂々と渡り歩いていた。

「ご存知なかったですか?」

「奏太はもともとハードロックが好きだったって、中学の頃から部屋に閉じ籠って洋楽のメタルとかそういうのばっか聴いてたって」

「もちろんそういう嗜好でした。でも、なぜかアマチュアの長谷川品子というシンガーだけは好んで聴いていました。当時はCDも手売りで、粗末な造りでしたけど、何度も繰り返し聴いていました。僕も不思議に思いましたよ。他のグロテスクなジャケットに混ざって綺麗な女の子のCDが棚に大事そうに飾られてるから」

 ライブハウスは内向的な奏太少年には敷居が高過ぎた。彼は小さな大冒険に旅立つような気持ちだっただろうか。兄にお金をせびって、と言ってもアマチュアミュージシャンのライブのチケットなどせいぜい二千円程度だったから、一度や二度ではなく繰り返し通うようになった。

「バイトでもして自分のお金で行けばいいのにって思ったけど、あいつには無理でしたね」

 学年は同じ。それだけで、奏太と品子に接点はないはずだった。なのに、奏太はしなちゃんに、恋をしたの?

「長谷川品子さんについてはあなたのほうがよく知っていますよね。楓馬さん、でしたっけ? 彼と出会ったことで彼女は変わって、奏太は何を思ったか」

「そもそも私、裁鬼の音楽ってそんなには聴いてないんです。なんか頭痛くなっちゃって。サイケデリックロックってこういうもんなのかな。そもそも私、音楽そんなに詳しいわけじゃないんです。理論とか、技術とか、歴史とか、ルーツとかには」

 啓蒙活動を始めた頃はトークがメインで、音楽はただお客さんに楽しんでほしい、それだけだった。受けのいいJポップのカバーだけで十分だった。

 それが、ずっと品子を見て生きていたぶん、欲が出てきた。詞は思いつくままに書いて、さほど難しいことと感じなかった。作曲も、実際にやってみればわかる。コード進行をなんとなく作って、それに合わせてメロディーを口ずさめばぼんやりと形になる。

 ただ、そこから先は未央では力不足だった。アレンジ、延いてはサウンドプロデュースを玄人に協力してもらう必要があった。あまり演奏技術や作編曲技術を研鑽する時間も、そもそもその意欲もない未央は音楽家としては、はっきり言って三流なのだ。

「やっぱりその辺りは、本人に聞かないとか」

「本人?」

 未央がおうむ返しに問うても、遥佳はしばらくテーブルの下で手を握っては開きを繰り返すだけだった。しかし、やがておもむろに鞄を開くと、一枚のメモを取り出した。

「楓馬さんの現住所です。苦労しました」

 吉田風馬、そう書かれた下に北海道のある農村の住所が記されていた。

「これ、どうしたの? あの人、いや、北海道で音楽続けてるってことまでは知ってたけど」

「僕の立場では・・・大切な仲間を殺した男の身内になど会いたくないと」

「いや、だからー」

 皆まで言えない。遥佳は、おそらくは未央以上に、弟の自殺未遂の真相を知りたいと願っている。

「調べたってことですね。あの人の現状・・・そっか、そうですね。私が適任だ」

 はっきり言って、未央はあの人には会いたくない。大好きな人の盟友で、あの頃からだいぶイカれた人だったけど、今でもきっと一本筋の通った、本物のアーティストだ。

 でも、人生をやり直すことができるなら、私はきっとしなちゃんがあの人に出会う前まで時計の針を戻すだろう。

 未央は、メモを握り潰すように掴み取った。もっと穏やかに丁寧に摘まむべきだった。ひさしぶりにあの人の顔を思い出して、少し気持ちは和んだ。それは確かだった。

 でも、目の前にいる遥佳の悲しそうな、悪く言えば情けない顔を見ると、その和気を容易く凌駕する怒気が、どこからか吹き荒ぶのだ。きっとこの人、私の知らないところで、あの人と何かあったんだ、と。

 未央は立ち上がると、伝票に手を伸ばす。遥佳が慌ててそれを止めようとすると二人の手が少し強くぶつかった。

「っ! 痛いな!」

 何に怒っているんだ。驚くほどデカイ声が出た。そんな些細なことに激怒した自分への怒りをまた、罪もないのに悪びれる遥佳にぶつける。最低な悪循環から来る八つ当たり。

「しばらく私からは連絡しないから! 奏太が、記憶を戻さないように気をつけてよね!」

 限界まで潤んだ目の、ダムが崩壊する前に、未央は乱暴にドアを開けて店を出た。十月の乾いた風が吹いている。神様なんて、どこにもいない。

 ダムが崩壊した。

 両手で顔を覆い、道行く人に「私を見るな」と内心で毒づきながら、未央の脚は既にある場所へと直行していた。駅ではない。勢いだけで未踏の地へ向かう度胸は自分にはない。

 ただ、自分の家へ、自分を責める者のいない場所へ帰りたかっただけだ。


   6


「やっぱり元気ないわね。未央ちゃん」

「まだ無理させないほうがよかったかな」

 埼玉県にあるショッピングモールの一角。未央はひさしぶりにマイクを手にしている。そして、お約束を忘れている。右手だけの片手持ちで左手は椅子を握り締めている。

 普段は放任主義の広海もこの日は友人を引き連れて見守りに来ている。当然と言えば当然だが、普通に一般客としてスマホから申し込み、今は特に観やすくもない場所に着席している。

「すいません、5箇所くらい歌詞間違えちゃいました」

 強がりで意地っ張りの未央は自分のミスは決して笑いのネタにしない。それが、珍しく歌い終わるなりすぐに舌を出しておどけた。

 ギターは絶対ミスっちゃうと思います、指がヤバいです、無理です、絶対無理です。

 広海に説得されて、観念して次こそはステージには立つと宣言した未央はそれでもギターだけはキツイと駄々を捏ねた。おかげでCD音源をバックに、未央は歌ってるだけだ。緻密にプログラミングされた音楽ならともかく、もともとアコギ1本なのにこれはかなり変だ。

 いつまでも閉じ籠っていたら心身ともに却って疲れる。そう思って広海は取り敢えず未央を家からは引っ張り出した。でもそのまま前のめりに、ライブにまで出ると豪語し出した彼女を、広海はセーブするべきだった。

 その時々の場当たり的な行動で未央はいつも回りをハラハラさせてきた。それでも芯だけはぶれずに2年以上も啓蒙活動を続けられたのはひとえに品子への敬慕の想いと、奏太への、執念だ。今、その両方が根底からぶれている。

 イベントは、常にショーマストゴーオン。それにしても司会者がなかなかやり手だ。少しでも気を抜けばいちいち暗い表情になる未央と、絶妙なキャッチボールでトークを続けている。

「では、閉会のお時間が近づいて参りました。木坂さん、最後に会場にお集まりの皆様に、今一度メッセージをお願いします」

「はい、えぇと、あの、なんか・・・」

 広海は頭を抱える。一番大事なんだから、締めの挨拶だけは「えぇと」とか絶対言わないでビシッとね、とスタッフ一同、指導している。音楽が本業のミュージシャンなら覚束ないMCも「ギャップ萌え」になるかもしれないが、未央はミュージシャンではなければ、アーティストでもエンターテイナーでもない。純一のメッセンジャーだ。

「あの、今日はお越しいただき本当にありがとうございました。これからも応援よろしくお願いします」

 未央は会釈程度に頭を下げて、完全に挙動不審になる。客席からは一応拍手が起きているので、司会者はこの日一番の困惑笑いで未央を早々にステージから捌けさせた。広海は居ても立ってもいられず、未央がとぼとぼと歩いて行った楽屋裏へ向かった。

「大原さん!」

 友人は、自分も一緒にとついていく気にはなれなかった。ここは「親子」で話し合ったほうがいい。

 回りの客たちはその他大勢のスタッフが危惧しているほど未央の駄演を気にしていなかった。所詮はまだまだアマチュアの学生で誰も過度の期待などしていない。チケット代も取っていない。一連の報道から興味本意で来ている者もいる。木坂未央の、熱狂的なファンなど、初めからいるはずもない。

「未央ちゃん・・・」

 今日の会場はただの地方のショッピングモール。しっかりした控え室はない。即席で「関係者室」とだけ札のかかった扉を開けるなり、広海の目に飛び込んできたのは、どこかから運んできた簡易ベッドに寝そべる未央の姿だった。

「どうしたの?」

「ちょっと、頭が頭痛で痛いの」

 広海は回りのスタッフに目配せしてから、未央の側へ近寄り、ベッドの脇に立て膝をついた。

「熱はないみたいね」

「赤ちゃんみたいなことしないで」

 自分と相手のおでこに手を当てるくらい大人同士でもするだろうと思いながら、広海は未央の不安定な精神状態を察する。

「私のところにも、三島さんがいらしたのよ。日記、読ませてもらったわ」

「あぁ、あの落書き」

 未央は広海のほうを見ない。ただ、天井を見ている。

「申し訳ありませんが、皆さん。この子と二人だけにしていただけませんか?」

 広海は、部屋に十数名は集まっている大人たちを見回しながら、言葉以上にその切羽詰まった眼差しで訴えた。

 関係者の中でも特に未央の内情に詳しい者が率先して「というかこの人、誰なんだろう?」と思っている者たちも含め全員を外に出した。部屋には二人と空気だけが残った。

「私は話したいことなんてないんだけど」

「嘘おっしゃい。気持ちをぶちまけたい、泣き叫びたいって顔に書いてあるわ」

「オカアの顔にも、これからどうしたらいいかちっともわからないって書いてあるよ」

 未央は首だけ曲げて広海の目を見た。血は繋がってなくても、お互いに腹のうちまで知り尽くしている。

「オカアがわかってなくてもあなー」

「なんで一人称がオカアになるの? お説教する時の癖だよね。普通に私って言ってよ」

 広海はまた頭を抱えた。

「この子は・・・ホントにもう・・・」

 広海は観念して立ち上がると、改めてベッドの下のほう、未央のふくらはぎ辺りに深く腰かけた。

「私がわかってなくてもあなたはわかってるはずでしょ」

 外から雨音がした。未央は、スマホのカレンダーアプリのざっくりした天気予報しか見ない。「午後降る」としか知らなかった。

「今何時?」

「何時でもいいでしょ。この部屋、時計もないからわかんないわ」

「なんで腕時計もしないの? スマホは? オーシャン畳んだらもう社会人じゃないの?」

「どんどん話を逸らすわね。私の話を聞きなさいよ」

 くだらない喧嘩になりそうだった。未央に対して今、広海は感情的になるべきじゃない。かと言って、子どもを宥めるように、教え諭すように話せば、それはそれで未央は臍を曲げる。

「気分転換してきなさい。北海道まで、旅費くらい出すわよ」

「私、華の女子大生で忙しいんだけど」

「ついこの前までずっと無断欠席してたのはどこのどなたよ。大学からうちに電話きたわよ」

 グッと、起き上がろうとする。腹筋が弱い。諦めて横向きになり起き上がる。未央の眼球はまた潤んできていた。イベント中は夢中だから平気だった。どんな時でも、こんな時でも、ちゃんと楽しんでいるんだ。

「楓馬君には私からも電話しといた。私も懐かしくなっちゃってさ。品子ちゃんが、本当にお世話になったから」

「あの人に会って、何がどうなるの?」

「楓馬君も懐かしがってた。会いたいって。彼も三島奏太のこと、いろいろ気にしてるから」

「あいつが会いたければ、私は会いに行かなきゃいけないの?」

「あー言えばこー言う子だね! ホントに! 三島さんが頼んでんだから四の五の言わずに行きなさいよ!」

 流石に大きな声が出た。広海は別に「しまった」とも思わない。昔から未央は、怒られたり、酷いこと言われたり、それでショボくれたりしない。ただ受け止め、自分が次にするべきことを考える。

「行ってくる。めんどくさいけど」

「いつ?」

「・・・今日、これから行く。お金ちょうだい」

「・・・今、そんなに持ってない。あんたが銀行行ってきな。後で出してあげるから」

 未央は一つ、深めの呼吸をした。ため息ではない。精神統一だ。

「頭の頭痛は治った?」

「完全に完治した」

 つまんないよ、と笑いながら言ったら、未央は広海の胸に寄りかかった。

「泣きたけりゃ泣きな」

「ぐすんぐすん。えーん、えんえん。言うわけないでしょ、バカ」

 未央はスタスタと部屋を出て、「皆さん、今日はお疲れでした! これからもよろしくです!」と声を張った。一同、きょとんとしながらも、それぞれに未央を労った。結局、彼女がいなければ何も動き出さない。

 この子は一生、恋なんてできないかもね。広海は内心でそう思いながらただ、亡き友の遺した忘れ形見の小さな背中を見つめていた。


 第二章 痛み


   1


 北へ向かう道中、未央はずっと目頭を押さえていた。単純に目が痛いのと、怒りを堪えるため。

 これまで未央自身のブログしかチェックしていなかったが、ネット全体を俯瞰すると、結構自分へのバッシングは多かった。

ー偽善者ー

ー自分のことしか考えてないー

ー下手くそー

ーブスー

ー勘違い女ー

ー気取り過ぎー

 身に覚えがないこともない。言われなくても、たぶんそう受け取る人はたくさんいるだろうなと予測はついていた。

 理解はできても共感はできない、ということはよくある。未央に対する誹謗は彼女にとってどれも、反省させられるどころか、反論したくなるものばかりだ。

ーあんたたち木坂さんの何を知ってんの?ー

 匿名で、自分でレスする。少なくとも、そんな芸能人は聞いたことがない。自分でも笑ってしまう。

 ネットでの悪口合戦はいつの世にも絶えないが、だいたいは一方通行で、真剣に意見をぶつけ合ったり、議論が良い意味で白熱することなどない。

 芸能人はもっと、買えばいいのに。アンチがこんだけ喧嘩売ってきてんだから。

 未央は後ろの席の人に断って、背もたれをもう一段階倒した。気分が昂って眠れそうになかったけど、ただアイマスクをして目を閉じるだけでもよかった。東京駅を発ってから4時間弱、前半はずっと考え事をしていて、途中からスマホを見始めて、後半はやっぱり考え事を再開せざるを得なくなった。

 あの人には東北に突入した辺りで一旦ラインで連絡を入れておいた。函館に着いたくらいでもうワンクッション入れるつもりだ。

 たぶんお迎えには来てくれない。最寄り駅まですら来ないだろう。そういう男だ。未央は自分で住所を頼りに彼ん家の玄関まで辿り着き、インターホンまで押す必要がある。いや、待てよ、それでも出てこない可能性あるぞと、未央は思い至り流石にプッと笑ってしまった。遅くとも夕方頃には着くと伝えてあるが、その時間は彼なら昼寝坊しているかもしれない。そういう男なんだ。そしたらガンガン、ドアをノックしよう。そこまで考えて未央はようやく、彼のことを近しい存在として思い出せるようになってきた。今の今まで、なんだか彼は伝説上の未確認生物のようだった。

 アー写やステージ写真が山ほど残っているのでルックスは覚えている。ライブの時の彼には鬼気迫るオーラがあったが、表情はいつも乏しかった。プライベートでは逆によく笑う人だったが、ニッコリ笑って写真を撮ったことなど一度もなく、勝ち誇ったようにニヤリと笑う顔を、せいぜい脳裏には浮かべられるだけだった。

 あれから5年。北海道で、ロックからは足を洗い、ヒーリングミュージックに傾倒しているらしい。一体どういう心境の変化か、テレビや雑誌に一度も顔を出さないので未央にはさっぱりわからない。もしかしたら、ファッションやヘアスタイルも別人のように変わっているのか。そもそも、変わらずにステージには立っているのか。彼の心情を推し測るなら、品斗を失って、一人のマッドアーティストに戻った彼なら、家に閉じ籠り音源作りに没頭してる姿も、十分想像できる。

 窓の外に、白い粉が見え始めていた。なんだか、すごく優しいはずなのに、あの頃、あなたが憎みながらも必死で描こうとした、ドラッグに見えてくるよ、ねぇ。この街にあなたは今、暮らしているんだねー未央は、感傷的になる。

 数十分後、函館駅に到着。ローカル線に乗り換えた時、予定通り彼にラインを送る。先程は、数秒で既読が付いたわりに無視された。今回はなかなか既読にならなかったが、彼の家の最寄り駅についた頃に可愛いスタンプが送られてきた。ドラえもんの、その中でもかなり可愛い部類に入るファンシーなスタンプだ。私でも使わないよ、なるほど、良い皮肉だ、と未央はまた吹き出す。

 防寒用に厚手のコートは持ってきた。雪は、傘を差さなくてもいい程度の小降りだったが、空気は、思わず襟を掻き合わせたくなるくらい冷たかった。意外だったのは、自転車で走る人たちがちらほら見受けられたことだ。いかにも転びそうと思った。

 今時、目的地の最寄り駅に降りて、出る方向を間違えなければ、後はスマホで調べればどんな場所にでも簡単に辿り着ける。いや、正確に言うと方向音痴な未央には「簡単」でない場合もあるのだが、要するに交番や通行人に聞くという作業は昔に比べてかなり少なくなった。

 だが、本州ー道民の感覚では内地というのかーまでしか活動の幅を広げていない未央にとって、北海道はほとんど異国の地だった。ましてや目的地は公共施設ではなく個人宅。遥佳に教えられた住所だけでは右も左もわからず、何度も行き交う村人に訪ねては、あの人のいる場所を目指した。

 ほとんど降ってすらいないと思ってたのに、いつの間にか靴は微かに積雪を踏み締める音を鳴らしていた。

「吉田さん家かい? そしたらあそこの角を曲がればすぐに見えるよ。草がボオボオですぐわかるさ」

「ありがとうございます。・・・あの、おばあちゃんはその、吉田さんとは会ったこととか、話したこととかー」

「ん? あぁ、何度もあるよ。あっちの方は挨拶する度に忘れてるんだけどね。嫌いじゃないんだけどね。どうやらあっちの方が私らを嫌いなのさ」

 あと少し、という所まで来ると却ってわからなくなることはよくある。往路の最終盤まで来た既の所でキョロキョロしていた未央にその老婆は話しかけてきたのだ。「迷子かい? お嬢ちゃん」と。

「あの人の知り合いかい? ひょっとして東京の子?」

「はい、まぁ」

「そうかい。あれまぁ」

 そろそろ寒さと疲労がピークだったので、あんな人の家とは言え、未央は屋内でゆっくりしたかった。しかし、喋りたがりの田舎ばあさんはなかなか話を切らなかった。

「3年くらい前になるねぇ。びじゅあるけーって言うのかい? 派手な髪した男がギターケース抱えてそこのボロ家に引っ越してきてねぇ。最初のうちはろくに近所付き合いもしなかったけど、半年くらいしてから公園なんかで一人で歌い始めるようになってね。初めは気味悪かったよ。煙草も吸ってたし、首の辺りかね。刺青、今時はタトゥーとか言うのかい? そんなカッコいいもんじゃなかったよ。でも、子どもたちはなんでか知らんけど、自分たちから寄ってったよ。子どもと動物に好かれる人は昔っから善人って相場が決まっとる。それに歌ってる歌がね。よく聴いてみると、なかなか、泣かせるんだよ」

 未央は、気づいたら正面向いて老婆の話を聞いていた。想像に難くない、それが吉田風馬という人間の現在の、有るがままの姿なのだろう。

「弾いてる楽器って、アコギーあのアコースティックギターでしたか?」

「アコ、あぁ、そうだね。最初はあんなカッコだったから、喧しいロックだのなんだのやってんだと思ったけどね。お嬢ちゃんくらいだと知らないかい? フォークソングとかニューミュージックとか、懐かしくなっちゃうよねぇ。ああいう感じだよ。私の年だとやっぱり好きなのは演歌とかになっちゃうけどねぇ。でもああいうのもー」

 未央が腕を擦り出すのも露知らず、おばあちゃんトークは続く。でも、一致する。この老婆には海外の古い音楽の詳しい知識などないだろう。未央の想像する、おそらくは吉田風馬が今取り組んでいる音楽とは少しずれるだろうという予測も考慮して、一致する。

「じゃあ、私はそろそろ」

「あら、ごめんなさいねぇ。引き留めちゃって。でも気をつけなさいよ。若い女の子が一人暮らしの男の家に出向くわけでしょ? なんの用か知らないけどさ。あ、というかもしかして、彼女さん?」

「違います! では!」

 きっぱり言い放って、未央は先を急いだ。だいたい予定した通りの時間だ。

 遥佳から聞いた話では、ちょうど空き家だったらしい。高校卒業後、数年の間は多種多様なシンガーのサポートギタリストを務めてきた。ようやくまとめ上げた本命バンドの不遇な解散後、その頃にできた人脈も使ってなるべく遠方に新居を探していたらしい。

「だからって北海道まで飛ぶあたり、やっぱりあいつ変人だわ」

 苦笑しながら、老婆に言われた通りボオボオに伸び放題の雑草を踏み倒しながら、玄関に辿り着いた未央は一つ呼吸を落ち着けてからインターホンを押した。

 ドタバタと下品な足音が聞こえる。頭をガシガシ掻きながら近づいてくる姿が浮かぶ。未央はその間、なぜか目を閉じていた。

 ガラッガラッガガガガガッ!

 まるで古い商店街のシャッターを開けるような扉の音と共にその男は現れた。未央はただ目を見開いて、背筋を伸ばした。あくまでも礼儀正しく挨拶しようとする。

「あ、あの、おひさしぶりです! 未ー」

 唐突に、未央は不意に唇を塞がれた。視界が狭まる。何が起きたのかわからなかった。

「ん、んぶっふ!」

 舌まで入れられるんじゃないかと思った。慌てて、乱暴にそいつの両肩を突き飛ばした。未央は仰け反り、そいつもカッコ悪く尻餅をつく。

「だっふ! ゲホッゲホッ!」

「痛ってぇな、くそ! ファック!」

 悪びれる様子もなく、そいつは平然と立てた中指を突きつける。一瞬だけ、キッと睨み付けてしまったが、未央はすぐにまたプッと吹き出した。

「・・・すっかり油断してたぜ、楓馬さん」

「・・・欧米じゃキスなんて挨拶だぜ、未央ちゃん」

 たぶん少し痩せた。長い髪は相変わらずだが、ロックミュージシャンというよりは、なんだか中世の吟遊詩人のようだ。

 木坂未央と、サイケデリックロックバンド裁鬼の元リーダー、コンポーザー、ギタリスト・楓馬さんの再会だった。


   2


 足の踏み場もない。未央も相当ズボラなほうだと思っていたが、そういう次元ではない。

「まぁ、適当に座ってくれ」

「この部屋のどこに座れってんですか? せいぜいアンプが椅子に見えなくもないわ」

 所狭しと並べられた楽器や機材の数々、おそらくはスコアか何かの資料と思われる紙、紙、紙。CDや円盤はラックに整理されている物もあるが、収まりきらない物は床に積まれそれが立ち並ぶ様はまるでプラスチックでできたビル群、ミニチュアの街のようだった。加えて、それとは関係なく本や漫画、雑誌の山。どう見てもエッチなやつばかりだ。女の子が来るんだから片付けときなさいよと、未央は呆れる。

「カホンに座ればいい。面白そうだから買ったけど、俺は使ってない」

 一応、使わせている人はいるような物言いだが、自分の物でなければ大事にしないらしい。気は咎めたが、未央は大人しくその決して安物ではないであろう打楽器に腰を下ろした。

「ギター一筋の人でしたよね。ベース、ドラムくらいは演ってんの見たことあるけど。バイオリンとかサックスとか、三線まであるじゃないですか。ちゃんと弾けるんですか?」

「集中して3週間くらい練習すれば誰でもだいたいの楽器は形になってくる。才能のせいにするやつは何やったって上手く行かねぇよ」

 入った瞬間から煙たい部屋だと思ったが、やはり楓馬は一言断りもせず煙草に火をつけた。

 頑張りました、なんて自分で言うような可愛いやつじゃないのは昔からだ。天賦の才を過信するほど愚かでもない。目指すものがあるならそれを達成するために必要なことをするだけ。誰よりもセンチメンタルでいて、それでいて誰よりも合理主義の彼の、昔からの持論だ。

「ヒーリングミュージックやってるそうですね。心境の変化ですか?」

「百聞は一見に如かずだろ。聴いてみりゃ、お前なら汲み取れるんじゃねぇか」

 未央ちゃんは人の気持ちのわかる優しい子だからな、とでも言いたげだった。薄笑いが消えて、徐々にだが、彼の表情が真摯な音楽家のそれになってくる。これだけ散らかった部屋でも彼自身はどこに何があるか把握できているようだ。迷う素振りもなく、1枚のCDを取り出した。

「本名名義で活動してるんですか? ヨシダさん、だったんですね。しかも木偏つかないんじゃん」

「ユーチューブでもやってるけど、その方が裁鬼だってバレない。都合が良いんだよ」

 風景写真。ジャケ写にはそれだけでタイトルもアーティスト名も書かれていない。それらは背表紙ーとCDの場合でも言うのだろうかーに書かれていた。

 氷雨 吉田風馬

「コンポって今でも製造してるんですかね?」

「知らん。それはMDがあった頃から使ってるやつだ」

 楓馬が指差したCDコンポに未央はその「氷雨」と題されたインストアルバムをセットする。再生ボタンを押す。そこだけは綺麗に片付けられたスピーカーから音が流れ出す。

「綺麗な音。好きだな」

 しばらくはアコギの音だけが続く。未央のとは全然違う。昔、品子から「自分より全然上手いってわかるのも下手じゃない証拠だよ」と言われたことがある。今、目の前で鼻くそをほじっている男を凄いなと思う自分を少し嬉しく思う。

 聴く人によっては絶対退屈すると思うくらいアコギオンリーのパートが続いた後、ケチャケチャいう音が入ってきた。民族音楽、たしかバリ島とか。

「これ、絶対万人受けしないでしょ」

「昔からそうだろ。黙って聴け」

 楓馬は手に持った灰皿で煙草を潰した。2本目に火を着けようとはしない。長い睫毛の目を閉じて、項垂れた。その後ずっと目を閉じていたのかはわからいない。

 トータル40分弱。黙って聴いた。長さで言えば聴きやすいが、どこでトラックが変わったのかもわからない、組曲のような構成。コード楽器にも随所にパーカッシブな奏法が盛り込まれているが、リズムは全編に渡って一定でない。「ゆらぎ」。声は全く入っていないが、呼吸音が明らかに意図して入れられている。しかし、主題を表現する「雨音」は入れられていない。プロの表現。未央だったら絶対入れてる。そして、数えてないが全部で20くらいの楽器は入っていたと思われる。だが、昔あれほど多用していたエフェクターの類いは一切使われていない。

「・・・言葉がない。良いと思う」

「どうも」

 お互い無愛想に言い合う。そして、真っ先に「言葉がない」と述べておきながら、未央はすぐに溢れ出すような感想を伝えた。大半は誉め言葉だったが、最後に一つ疑問符を口にした。

「でも、これってヒーリングミュージックなの?」

 楓馬もよく聞かれることだった。そもそも何に癒しを感じるかは人それぞれだから、文字通り「癒しの音楽」に定義を追及するのは間違っているかもしれない。でも、ググってみればウィキってみれば、ほぼ確実に出てくるワードは「アルファー波」だ。楓馬の音楽からそれは発せられているか。

「もともと俺はジャンルに拘りはない。昔、お前にサイケデリックロックを紹介したときなんて説明したか覚えてるか?」

ー薬やってんじゃねぇかってくらいやべぇロックさー

「俺も中学ん時、ダチにそうやってドアーズだのアニマルズだの渡された。どんなもんかと思ったけど正直こんなもんって思った」

「同感。もっとラリってんのかと思った。昔の洋楽っていくらハードロックとか言っても、これのどこがハードなんだろうって正直わかんなかったりする」

「日本のリスナーは良くも悪くも感性が若いんだな。ギター歪ませて、ボーカルが声を枯らして叫びまくればそれだけで激しく聴こえる」

 楓馬は「壊れれば壊れるほど人生は面白い」と考えるヤバい男だ。サポートミュージシャンとしてスタジオワーク中心に活動していた頃は、その野心をひた隠しにしてきた。経験を積み、技術を磨き、機が熟したと判断した時、この男の感情の箍が外れた。

 サイケデリックロックを独自の解釈でもっと猟奇的に、もっと扇情的に、もっと破壊的に。行き着いたのは、生音と慈愛の世界観を求めていた品子にも雷を落としたほどのクレイジー、マッド、サイコの極地だった。

「なんか勘違いしてる。サイケデリックってそういう問題じゃない。最初の頃はそう言われ続けた。他のボーカリスト探そうって話になったのも回りが、中和させろって五月蝿く言ってたからさ。でも品斗に出会って、ハハッ! 火に油だったな!」

「で、要するにヒーリングミュージックに関しても独自の解釈をしてるってことね」

 否定しないのが楓馬の肯定の返事だった。未央は呆れを通り越して感心してしまった。

 しばらく二人とも黙っていた。深々と降り続けていた雪が、いつの間にか雨に変わっていたらしい。音はしないが窓が濡れていく。

「で、何かあったか?」

「何かって、あったから来たんだよ。知ってるでしょう」

「その話じゃなくて、ここに来るまでの短い間に何かあったろ。わかるよ」

 未央は何故か顔を触ってしまう。表情に出ていただろうか。特に態度には現れていないと思っていた。この人には隠し事はできない。神仏の類いかと思ってしまう。

「新幹線の中でさ。ネット見てたの。私の悪口いっぱい書かれてた」

「エゴサーチか。お前、よくやれるな」

「うん、それだけなら別に腹も立たないんだけど。さっき遥佳さんからラインが着たの。私に余計な心配かけたくなかっただろうけど、なんか堪らなくなったって。今朝起きたら、お家の壁に、生卵いっぱいぶつけられてたって」

「・・・嫌がらせか。そういうの映画の世界だけかと思ってた」

 遥佳の名前を出したことで、楓馬自身に思うところがあったのか顔を曇らせたが、その話はせずにここでは未央に同調した。

「5年も経ってもう皆忘れてたはずなのに、奏太が余計なことするから、蒸し返しちゃったじゃん、バカ」

「バカだな。みんな」

「そういうことするやつってさ。絶対怒ってないよね。楽しんでるよね」

 楓馬は2本目の煙草に火を着けた。そして、怒り心頭の未央よりは幾分達観した顔で事も無げに言った。

「人間ってのは、そう簡単に悪いやつにはなれねぇ。必ず裁きを受けるから。だが、イヤなやつにならなれる。簡単になれる。そのほうが、生きやすい世界だからな」

 雨が少し強くなった。何も言えなくなる未央を嗤う。右のこめかみを叩く。楓馬は「入れ」と言った。

 未央は彼が顎で指したほうを見やった。カタンという音でドアが開くと、和服姿の女性が現れた。たぶん未央より若いが、「女の子」とも「少女」とも言い難かった。額から右頬へかけて彼女の顔の半分以上を真白い包帯が覆っていた。

 常識から考えて、楓馬の家はもう十分異常だった。だから、彼女の非現実世界を思わせる包帯と黒い和服が特に違和感もなく未央には受け入れられた。多分に、そんな装飾とは関係なく彼女自身から発せられるオーラのほうが未央の目には異様だったから、というのもある。

 その人のほうから、なかなか言葉は出てこない。居たたまれなくなって、未央は楓馬に問う。

「楓馬さん、この方は?」

「おい、挨拶」

「・・・スカです。よろしく」

 両手を揃えて頭を下げた。声は聞き取れなかった。だが、未央は気づいた。

 座り心地の悪いカホンからやっと立ち上がって、ナスカだかアスカだか聞こえたその人に近づき、非礼ながら顔を覗き込む。その人は煩そうに顔を背けた。未央は察して、あ、ごめんなさい、その包帯をじろじろ見ているわけじゃないのと、心の中で侘びる。

「飛鳥ちゃん、だよね?」

 目つきが変わった。よく見たらカラーコンタクトをしてる。たぶん暗いところでだけはっきり色が変わるタイプだ。未央は問いを重ねる。

「柊木飛鳥ちゃん、だよね? ジャンクスドールの」

「よくわかりましたね」

 気づいたらかなり至近距離にいたので今度は声もよく聞き取れた。

「柊木飛鳥、アイドルグループ、ジャンクスドールの人気メンバー」

 楓馬が急に喋ったので未央は驚く。ちなみに彼はこれまでずっと電子ドラムセットの椅子に座っていたが、いつの間にか立ち上がっている。

「グループ加入は3年前、当時14歳。ダンス技術もトーク力も乏しかったが抜群のルックスで人気を急上昇させる。ただ、歌唱力・表現力があまりにもアイドル離れしていたのでドルオタからはすぐに敬遠されるようになるが、一部のファンからは狂信的な支持を受ける。ちょうど品斗のように」

「・・・誰がプレゼンしてくれって言いました?」

 本当に急にこの和装美女の説明を始めたので未央も戸惑ったしまった。当の美女のほうは相変わらず落ち着き払っているが。

「事件が起きたのは1年と3ヶ月ほど前、定例のライブ中にステージに大瓶を携えた男が乱入。何かしらの劇薬と思われる液体をぶちまける」

 その時だけ美女も顔をしかめた。

「顔の半分と露出していた肩口にかけて大火傷を負った柊木飛鳥は即グループを脱退。世間の反応の多くはーまたか」

 芸能人の、特にアイドルに対する傷害事件は昔からある。ライブパフォーマンス中の襲撃は流石にガードも厳しく珍しい出来事だが、まだメジャーシーンに飛び出す前段階だったアイドルの悲劇は世間の話題、関心事からすぐに消えた。

「そんな飛鳥ちゃんがなんでこんなところにいるんですか? こんな格好で」

 なぜか器用にピラミッドのように積まれた空き缶を乱雑にゴミ袋に放り込むとできた更地に座布団を設置するとまた顎で示す。「座れよ」と。

 飛鳥はちょこんと正座した。楓馬に対して、ほんの僅かにだが口角が上がった。楓馬も妖しい手つきで飛鳥の頬に触れる。掴めない空気感だった。さっき未央にしたのとは全然違う意味で、今にも接吻の一つも交わしそうだ。

「最高だろ。この包帯。ビジュアル」

「・・・冗談のつもりなら、悪趣味過ぎますよ。女の子に対して。謝ってください」

「冗談なんかじゃないさ。俺の好みの世界観は知ってるだろ。どんなメイクよりも衣装よりもこいつに似合ってる」

 話の先が読めてきた。この男は企んでいる。裁鬼で果たせなかった野望。品斗とは望めなかった景色をこの男はー

「この子と組むつもりですか? もう芸能界から離れた子を。また日の目を見させるんですか? このカッコでー」

「てめぇ、未央。お前のほうが失礼だぞ。包帯巻いてたってこいつはこいつだろ」

「ッン、現実的に考えてください。顔に付いた傷だけじゃないんですよ。心にだって。それに世間からなんて言われるか。みんながみんな、あなたみたいに堂々とヒールを演じられるほど、強くないんですよ!」

 まだ、そんなにムキになる必要はなかったかもしれない。もう少し楓馬の話を続きまで聞いてからでもよかった。それでもこの時点で既に未央はかなりの剣幕でこのピカレスクに迫っていた。

「木坂さん、でしたっけ? 私も承諾、いえ、賛同しているので大丈夫です。楓馬さんを責めないで」

「飛鳥ちゃん・・・」

 徐々に本性を晒け出すように、飛鳥の声も大きくなってきた。人見知りするタイプかとも思われるが、伊達にアイドルやっていた人間じゃない。言葉と目と、声には力がある。アイドル界隈では待遇されなくとも、コアな批評家には百年に一人とも謳われた声。

「俺が品斗に懸けた夢の続きだ。お前も見届けてくれよ、未央ちゃん」

 そう言って顔を傾けた時、楓馬の長髪が流れ不気味に右顔を覆った。未央は鳥肌が立った。


   3


ー来てくれたところ悪いが、俺はこれから一人で集中したいことがある。飛鳥連れて散歩でもしてきてくれー

 楓馬に追い出された二人は小雨の中、それぞれ赤と青の傘を差して近所の川沿いを歩いていた。

「なぁにあいつ! 昔っからそう、性悪説人間なのよ。しなちゃんとは考え方そもそも正反対だったんだよね。今思うとあの二人なんで組んだんだろう。てか、肝心なことなんにも話してくれなかった! てめぇの話ばっかしやがって! 私、何しここまで来たんだっけ?」

 久しぶりに会えるので、嬉しいかはともかくノスタルジーは確かにあった。だが、そんな感傷は飛んだ。怒りというほど不快な感情ではないが、毒を持って毒を抜かれ、また違う毒に染められるような脅威を感じた。

「木坂さんは、あなたほど辛い気持ちをたくさん知っている人でも、人間が好きですか?」

 飛鳥は普段着に着替えてる。たぶん楓馬が買い与えたんだろう。可愛いと綺麗とカッコいいの良いとこ取りのようなファッション。もともと顔もそんな感じだ。アイドルとして売り出そうとしたジャンクスドールのプロデューサーの目は楓馬からしたら節穴だったんだろうが、もし未央が普通の女の子として彼女と友達になっていたら、たぶん可愛いメイクして三つ編みでもさせてみたかったと思う。

「酷い目に会ったのは私じゃない。しなちゃんだから。私は何があっても厭世だけはしないって決めてるの。だって、良い友達がいっぱいいるじゃん。支えてくれる優しい人たちがいるじゃん。人間の本性なんて関係ないんだよ」

「そういう考え方もありますね」

「そう。絶対そう。あ、それとさ未央でいいよ、飛鳥ちゃん。私たち、それほど年離れてないでしょ」

「・・・いえ、私、あなたのこと好きじゃないので下の名前では呼びません」

 はっきり言われた。未央は比喩でなく口をあんぐりと開けてしまう。そして、自戒する。

「あ、ごめん。さっきは失礼だったよね。あなたの気持ちなんてわからないのに善人ぶって。軽率だったわ」

「? いえ、ただ私、まだあなたと知り合ったばかりだし、最初から好きなはずないじゃないですか。だから、まだ、好きじゃないって言ったんです」

 飛鳥は「それが何か?」とでも言うように本心から目をきょとんとさせた。やっぱりこの子もどっかずれてる。楓馬さんに見込まれるだけのことはある。未央はそう思う。

「・・・ただ、一言だけ。私も、酷い目に合ってます。そのことは忘れないでくださいね」

「あ、うん、そうだよね。ごめん」

 ぷい、という意図が込もっていたかは察しかねるが、飛鳥は再び前を向いて、少し歩く速度を速めた。未央は慌てた。やっぱり怒ってるんじゃないか、と。

「私も楓馬さんに誘われた時は迷いました。驚いたし。でも今はここに来て良かったと思っています」

 未央は、楓馬の話が一通り終わった時、「てか! まさかここに一緒に住まわせてるわけじゃないですよね!」と詰め寄ったが、彼もそこまで非常識ではなかった。飛鳥はここから数駅先、もう少し開けた街のホテルに滞在しているらしい。もちろん楓馬の自腹で。

「楓馬さんはすごいんです。どの楽器もホントに上手で。歌詞も曲もあっという間に書けちゃうんです。それに、楓馬さんの部屋、すごい散らかってると思ったでしょう? でも、楓馬さんはちゃんと必要な物は必要な時に準備できるんです。機材の扱いとかもう専門家みたいで」

 テレビで観てた頃はダークな雰囲気だと思ってたし、その印象は今も変わっていない。でも楓馬について語る飛鳥の顔は年相応の少女のそれだった。

「でも、あいつ昔は完全にキレッキレだったよ。しなちゃんとだっていろいろ悪い噂もあって。飛鳥ちゃんもあいつの家に行く時はなるべく1人で行かないで。ちゃんと信頼できる大人、もちろん女性ね、間に入ってもらってー」

「楓馬さんはそんな人じゃないです。あの時のこともあるから、私が1人になることもあるし、わざわざ防犯カメラを付けてくれたんです。それに自分も万一、魔が差すことがあったらその時は証拠持って容赦なく警察に突きつけてくれって。私に防犯ブザーと護身用のナイフまで買い与えてくれて。それに私は楓馬さんになら・・・いえ、それと木坂さん、あんまり楓馬さんのこと、あいつとかてめぇとか言わないでください」

「あ、ご、ごめん。またー」

 謝ってばかりだ。しかも今回は明らかに、怒ってるのではなく切ないような表情だ。そして今の話はマジか。未央はまたしても種別不能な鳥肌を覚える。

「雨、止んできましたね」

「あ、うん。そうだね」

 二人は同時に傘を閉じた。もとから雲は厚くなかった。これから秋晴れになってくれるかもしれない。私たちの気持ちまで晴らしてくれればいいのにと、作詞する人間とは思えないほど幼稚な詩句が思い浮かぶ。

「その人の話は、私もニュースで見て知っています。楓馬さんからもよく聞かされてます」

 飛鳥は唐突に話を変えた。「その」という指示代名詞がどの人を指すのか一瞬わからなかったが、すぐにハッとする。そうだよ、そのために来たんだよ。

「彼はこの場所で生まれ育った人間です。楓馬さんが東京を離れたかった理由だけなら他にも察しやすいですが、敢えて北海道を選んだのは、そこが関係しているのかもしれませんね」

「楓馬さんは何か知ってるの?」

 未央の質問には答えず、飛鳥は遠くを指差した。腕は伸ばさず、右手人差し指だけで示したその方角には何がある?

「ついて来てください。私でよければお話します。三島奏太のこと」


   4


 秋風の心地よかった川沿いを離れて2、30分。「すいません、道がうろ覚えで」と言いながら辿り着いたのは2階建てで特に特徴の無い木造建築だった。

「フリースクール?」

「ここの2階です。三島奏太は母子3人で東京に越す前に半年くらいの間、ここに通っていたんです」

 社会貢献に人生を懸けたい未央は人並み以上に知っている。何かしらの、多いのはいじめ等の理由で学校へ通えなくなった児童生徒が通う、避難領域。未央の講演に来る親御さんから話を聞くこともある。子どもが長い間不登校だったけど、今はフリースクールに通うようになって、やっと笑顔を取り戻してくれたとか、わりと前向きなイメージのほうが強い。

「ここもそういう施設だっんですけど、当時かなりの問題児がいたようです」

 飛鳥は「ほとんどは又聞きですけど」と詫びてから、語り始めた。

「いわゆる不良です。当時中学3年くらい。でも、しょっちゅうサボって同じような不良仲間たちとぶらぶらしてる、よくいる田舎の不良でした。あぁ、立ち話もなんですから中入りましょうか?」

「え? 大丈夫なの?」

「一度、楓馬さんと入ったことがあります。1階は今はほとんど空きスペースなんで出入りは自由みたいです」

 そう言って飛鳥は堂々と建物の中へ入って行った。未央も後に従う。

 決して広くはない空間に椅子やテーブルがいくつか並べられていた。少し前までは何かしらに利用されていたのだろう。未央も気づいたが階段は外にあった。子どもたちはそちらから上がるのだろうが、今はこの空きスペースも休憩室代わりに使われているらしい。二人はそれほど汚くはないことを確認してから椅子に並んで腰掛けた。

「続きですけど、その人はいかにも頑固そうな父親に無理矢理連れてこられたんだって。でも明らかに場違いで、他の子どもたちも怖がっちゃって。結局1ヶ月くらいの間に2、3回来ただけで定着することはなかったそうです」

「なるほど。その不良と奏太とどんな関係だったの?」

「直接的な関係はありません。ただ、その不良たちが好んで聴いていた音楽がいわゆるHR/HM。三島奏太の趣味嗜好はここから影響を受けていたようですね」

 ハードロック・ヘビーメタル。今時、そこに悪者のイメージはだいぶ薄れているが、まだ小学校低学年の男子には聴いて悪い影響のほうが大きかったようだ。

 奏太はその頃、別に不登校だったわけではないという。ただ小学校ではあまり友達も作れず、このフリースクールがちょうどいい遊び場だったようだ。

「楓馬さんは奏太についてどれくらい知ってるの?」

「当時は、品斗さんが亡くなった頃は、警察も何も教えてくれなかったそうです。でも、事件のほとぼりが冷めた頃に本人からいろいろ聞いたそうです」

「本人? 奏太から?」

「ええ。三島奏太は去年の夏頃、ここ北海道を訪れてます」

 初耳だった。飛鳥が言うには、奏太は何度バイトの面接を受けても採用してもらえない時期が長い間続いたらしい。遥佳の必死の口利きもあってなんとか雇ってもらえた工場でも、人間関係で躓き半年で体調を崩した。医師の診断は鬱病。

「三島奏太はその頃、既に生きる気力を失っていました。彼が楓馬さんに見ようとした姿はきっと神や仏ではなく悪魔。自分に相応しい最期を与えてもらいたかったんでしょう」

 最初から感じていることだが、飛鳥の口調も言葉選びもおよそ17歳の娘のそれではない。未央も講話の経験は相当積んでいるが、語り口はいつもソフトタッチを心掛けているから、こんな風に苛辣で、胸に迫り来るような話し方はできない。

「奏太の日記を、警察が東京の自宅から見つけたの。あいつ、相当ヤバい状態だったみたい」

「日記を? そうですか。どんな内容でした?」

「あいつも、あいつなりに悔やんでたみたいなの。しなちゃんへの気持ちばっかり気持ち悪いくらい。本当に気持ち悪いの。サイケデリックって本当はああいう精神のことなんじゃないかなって」

 未央はこうなってしまった今でも奏太をフォローするような言い方はできない。飛鳥は腕を擦った。当然だが、彼女はヤバい男には人並み以上に恐怖心がある。

「それで、楓馬さんとあの男はどんな様子だったの?」

「楓馬さんが言うには、自分でも信じられないくらい、罵倒したらしいです」

 未央は息を飲んだ。全容が見えてきた。

 三島奏太が長谷川品子に出会ってから、ニュアンスとしては奏太が一方的に長谷川品子の音楽に魅入られてから、それと入れ違うように品子が楓馬と出会い、裁鬼の音楽によって閉塞的な性格だった奏太の中の狂気が目覚め、それが膨張し、奏太の想いとは逆走するようにサイコシンガーに成り変わった品斗を、襲った。その時、奏太の胸にあったのは、優しい品子に抱いていた仄かな愛情と、たとえ壊れてしまっても、それでも素晴らしいと、激しい音楽も好んだ奏太が美しいと思ってしまった品斗への強い譫妄。

 悲劇の発端はー

「楓馬さんはーあの、木坂さん?」

「え、あ、ごめん。何?」

 また自分の思考の檻に潜り込みかけていた未央を飛鳥が引き戻す。

「楓馬さんは品子さんを本当に大切に思っていたんです。だからー」

「品斗をでしょ?」

「え?」

「あ、ごめん。また腰折ったね。続けて」

「はい。楓馬さんはかなりフラストレーションが溜まっていたんですよ。無理もないです。あれだけ激しいライブをしていた人が、それができなくなったんです。だから、今更のように顔を出した三島奏太に気持ちを抑えられなかったんです」

 限界ギリギリだった奏太の精神にトドメを刺したのは、楓馬だ。

 外から子どもたちの声が聞こえてきた。今まではフリースクールの中にいたんだろう。もう帰る時間か。自分たちも、そろそろ出たほうがいいかもしれない。見つかっても怒られはしないだろうが、なんとなく面倒だ。未央はそう思う。

「・・・なんで、私のところに来なかったんだろう」

 なんで、奏太は私に一度でも会いに来てくれなかったんだろう。未央は、啓蒙活動に全霊を捧げると誓った日から、ずっと抱いていた疑問を口に出す。だが飛鳥は、性悪説論者の楓馬と誓いを結んだ少女は、事も無げにその疑問に答える。

 風が止んでいた。

「現実的に考えてください。みんながみんな、木坂さんのように優しい人間じゃないんですよ。三島奏太は木坂さんのように人間は優しいと信じている人間じゃないんですよ。ましてや、裁判の席であれほど自分に怒りをぶちまけた人に、一体どの面下げて会いに行けるんです?」

 雷が落ちた。未央の脳裏にあの日の情景が鮮明に浮かぶ。

ー手をついて謝れ!ー

 飛鳥は立ち上がった。2、3歩進んで振り返った、包帯を巻いた少女の顔は、怖かった。

「一体どんな罵詈雑言を浴びせられるか。あんたの顔なんか二度と見たくないと門前払いしてくれればまだマシでしょう。でもひょっとしたら、手当たり次第に物を投げつけられるかもしれない。大声で騒がれて警察に通報されて、また世間から白い目で見られるかもしれない。怒りに我を忘れたあなたに、殺されるかもしれない」

 あの日、自分が品子さんにしたようにー最後にそう付け加えた飛鳥はきっと未央を責めている。

「あなたがただ一言、許すと言っていれば三島奏太は救われました。安心してあなたに謝ることもできた。そしたらあなたはきっと笑って、わかってくれたならいいんですよ、これから一生懸命償ってくださいとでも、諭したでしょうね。あなたは優しい人だから」

 包帯に隠れていない左目。目は怒っているのに瞳の奥はそんなこともわからないのかと嗤っている。こんな目をした人間は初めてだ。

「あ、あのさ。さっき楓馬さん、集中したいことあるって言ってたよね。あれなんだったのかな?」

 不自然過ぎる話の逸らし方。飛鳥は憐れみを込めて乗ってあげた。望み通り話題を変えてやる。

「私たち、今度初めてライブやるんですよ。その準備です。小さなハコでお客は入れないんですけど、ユーチューブでも流すんで、木坂さんもぜひ観てくださいね」

 どんな感情なのか、初めてニッコリと笑った。この子、アイドルとしては結局破綻したけど、女優を目指してたら違う未来があったか。モデルだったら?タレントだったら?未央は考えても仕方ないことを考える。

「あ、あの、どちら様ですか?」

 突然入り口のほうから声がしたので二人は振り返る。おそらくは20代前半くらい、小柄で眼鏡をかけたいかにも真面目そうな女性が不安げな顔で立っていた。たぶんフリースクールの、なんて呼ぶのか、先生?職員?スタッフ?か何かだろう。

「もうここ閉めたいので、悪いですけど出てもらえますか?」

「あ、ごめんなさい。もう帰ります」

 二人は急いで建物から出ようとする。女性は極力、目を伏せていた。たぶん飛鳥の包帯を見ないようにしてくれてる。未央はすれ違い様、会釈の中にそのことに対する感謝を込めたが、ふと気づく。それが飛鳥に対して優しく接するということなんだとしたら、この子はこれから先も人と正面から見つめ合うこともできないのだということ。

 田舎の空気は澄んでいたけど、未央の気持ちは淀んでいた。また川に戻ってきていた。年季は入っているが一応は頑丈そうなこの橋の上から眺める景色が飛鳥のお気に入りらしい。未央からしたら、人通りも少なくないしホントに落ち着くのかしらといった印象だ。案の定、イヤなやつらは現れた。楓馬さんの言う通りかもしれないと未央は思い知らされる。

「おい、見ろ。あの姉ちゃんミイラみてぇ」

「ホントだ。すげぇ包帯グルグル」

「ちょっと男子最低。失礼だよ」

「そうだよ。無ければ美人じゃん」

 地元の小学生がひそひそ話ながら二人の後ろを通りすぎた。聞こえてる。小雨のように小さな声なのに心には嵐が吹き荒んでいた。未央は黒と赤の4つのランドセルを睨みつけた。

 できることなら、今すぐにでもガキどもを追いかけて、首根っこを掴んで引っ張ってきて、飛鳥に謝らせたかった。でもそんなことをしたらこの子をもっともっと傷つけてしまう。そんなこともわからなかったらそれこそ本当に偽善者と言われてしまう。

「飛鳥ちゃん、子どもの言うことだから・・・」

 顔と肩に比べたら目立たないので包帯はしていないが、微かに火傷の痕のある小さな手が橋の柵を握り締めている。その木目をぽつぽつと落ちる涙が濡らしていく。

「私の顔、こんなになっちゃったけど、でも楓馬さんは、飛鳥は綺麗だって、もう一度、俺がステージで輝かせてやるって。だから私、嬉しくて、ただそれだけで、私、私は・・・」

 飛鳥は泣いた。未央は「私の役目じゃない」とは重々承知の上で、胸を貸してやる。飛鳥は赤子のように泣き続けた。


   5


 ジャンクスドールの公式サイトはまだ閉鎖されてはいなかった。ファンクラブだってそうだ。一部の、それどころかたった一人の心無いファンの凶行のせいでだいぶ肩身が狭くなったというのに、ジャンクスドールのその他大多数のファンは少女たちの残した作品と思い出を変わらずに愛し続けていた。

 だがそこに、柊木飛鳥の名前は既になかった。運営側が芸能界の仕組みをよくご存知だった。華美な多幸感を重んじるアイドル業界で、たとえ被害者とは言え、いや、被害者だからこそ悲劇のヒロインなどマイナスイメージにしかならないのだ。襲撃にあって「可哀想」とは思われても、決して好感度が上がったりはしないのだ。

 実際、グループのファンの中でも飛鳥のアンチ、もとから彼女の存在を快く思っていなかった人間は、落ち度は何もないとはいえジャンクスドール解散のきっかけになった飛鳥の評価を更に下げていた。だいたい全体の4割くらいの人間の話だ。他の自分の推しメンバーに夢中で飛鳥を別に好きではなくてもわざわざ憎んでもいなかった人間が5割くらい。飛鳥のファンは残りの1割にも満たない人間だけだった。

 だが、そのごく少数の飛鳥狂いは再びスマホを握り締めていた拳を突き上げた。運営側が苦渋の決断でそのニュースをサイトに掲載したからだ。

 11.19 北海道某所「柊木飛鳥再始動ライブ(仮)」決定

 もちろん未央は楓馬本人からも聞いていたが、情報解禁までは誰にも言わなかった。楓馬が飛鳥を「匿っている」ことをジャンクスドール側はいつから知っていたのだろうか。どんなに正当化しても見捨てたことに変わりはない飛鳥を、畑違いとは言え同じ音楽業界で明らかに危険人物とされる人間が引き取った。

 何が起こるかわからない大博打になるが、事務所としては裁鬼の狂乱に匹敵する一大ムーブメントを巻き起こす千載一遇のチャンスかもしれない。社長とプロデューサーはまずは一度相談をと楓馬と連絡を取った。が、綺麗に話し合いをまとめられる相手じゃないと未央なら忠告できていただろう。

ー中継方法も番宣も一切はそちらに任せる。手間が省けてむしろそのほうがいい。ただ、ライブはショーマストゴーオン。何があっても途中で止めないでほしいー

 彼らに楓馬の注文の真意はわからなかった。だが、リハーサルやミーティング中に不振な動きなど何もなかった。会場は根城函館の小規模のライブハウス。主に楓馬はアコースティックギターで飛鳥はハンドマイク。椅子はハの字にセットして基本的には静かな音楽で。セットリストは当日まで練り込むらしいが、トータル1時間10曲以内には収めると約束した。

 そこまでの打ち合わせは、未央が楓馬宅を訪れた時には既に済んでいたらしい。演奏予定の曲はほとんどはオリジナルの新曲、あとは飛鳥のカホンと軽くジャムるコーナーも設けるらしい。あぁ、そのための練習用のカホンに私はどっこいしょと座っていたのかと、未央は苦笑した。

 そして違和感。おかしい。大人し過ぎる。平和過ぎる。5年経って丸くなったとは思えない。

 未央は、飛鳥をステージに立たせることにもまだ賛成できていない。釈然としないまま11月19日を迎える。楓馬は多くを語ってはくれなかった。「いい! イク! の日だ! おかしいだろ!」と高笑いしていた。後付けでしょと未央は思う。何でもない日にしか、会場取れなかったんでしょと。

 滞在中のホテルのテーブルの前に腰掛けて、タブレットを構える。その時を待つ。


 20時ちょうど、生配信が始まった。楓馬も飛鳥も公の場に出るのは久しぶりのことだ。まず自己紹介が必要なはずだった。この公演についていろいろ解説がなければ多くの視聴者は何が行われているのかわからないはずだった。

 だが、必要なかった。音が全てを語っている。声が全てを伝えている。考える必要はなかった。感じることができた。

 一言のMCもないままライブは続く。全ての視聴者が言葉を失っていた。スマホでタブレットでパソコンでテレビで、それぞれの場所で見守っている。いや、「守る」側ではない。「攻め」られている。音楽という武器で自分たちは刃を突きつけられている。楓馬という男に。飛鳥という女に。

 暴力じゃない。本当は、次元が違うほどに深い愛情だ。それは誰にも理解できない。

 未央は時の流れを忘れていた。それでも時計に目を逸らす気にはなれなかった。実際には50分が経過していた。そろそろ終幕だ。

 同時に惨劇の幕開けだ。

 飛鳥がおもむろに立ち上がった。画面の向こうには伝わっていないが、スタッフたちは怪訝に思った。段取りにない。

 あの日、未央が見た黒い和服に身を包んだ飛鳥は包帯を、破いた。スタッフは慌てる。が、楓馬が睨みつける。それだけで、いかんいかんショーマストゴーオンの約束を守らねば、などと律儀に思ったわけではない。ただ、金縛りにあったように、動けなくなっただけだ。

「皆さん、お久しぶりです。柊木飛鳥です。覚えててくれたなら嬉しいです。でも、やっと会えたのに残念。もう一度お別れです。今度こそ、永遠に・・・」

 ジャーン!

 楓馬が振り落とした右手でアコースティックギターの弦が全て切れた。その音で金縛りが解けたかのように大人たちは動き出す。何をする。飛鳥、お前は今度は何をする。

 隠し持っていた「それ」で飛鳥は喉を裂いた。鮮血が飛び散る。大人たちは駆け寄る。楓馬は微動だにしない。

 ザッという音を上げてナイフが床に突き刺さる。

 日本中のリスナーが目撃した。地獄を。

「飛鳥ちゃん!」

「救急車呼べ! 速く!」

「何やってんだ! お前ら! 正気か?」

「警察もだ! 警察も呼んどけ!」

 強引に取り押さえるべきなのか。楓馬に対して今、どんな対応が正しい。状況を適切に判断できる者など誰もいなかった。

 ナイフは捨てたのに、まだ握りしめて放さないマイクを飛鳥の手から奪い、楓馬は呟いた。

 横たわる飛鳥を見下ろし、囁かれたその声は、マイクを通していても、周囲の阿鼻叫喚にかき消され、誰の耳にも入らなかった。

「こいつを殺したのはお前らだ。俺じゃない」

 喧騒。誰も彼も、カメラを止めることを忘れていたから、その光景は垂れ流され続けた。

 時刻はそこで21時を迎えた。

 流れていく血と共に薄れていく意識の中で飛鳥は思う。

 あぁ、これが死か。生きてる時と大差ないや。


   6


 あの日から飛鳥にとって日常は地獄と化した。

 もともとそれほど恵まれた娘ではなかった。顔面は上等なものを授かったが、同時に生まれ持った性分は人が社会で生きていくのに非常に気苦労が多くなると予想できるものだった。

 柊木は出生時からの名前ではないし、今の飛鳥の戸籍上の本名でもない。本当の父親の名前は山本和弘。飛鳥が5歳の時に離婚して母親の旧姓である星野に。それから6年後、母が柊木伸一と再婚して飛鳥はその名字を名乗るようになった。

 義父のことはなかなか好きになれなかった。全然、飛鳥のことを可愛がってはくれないのに身体だけは舐めるように見てきたからだ。

 性的虐待にまでは至らなかったが、徐々にベタベタと身体を触ってくるようになったのは本当に嫌だった。男性に対して少しずつ恐怖感を抱くようになった。決して嫌悪感ではなかったと思う。学校で普通に接する男の子たちは別にそんなに嫌いじゃなかったから。

 中2の時、友達と街を歩いていたらアイドル事務所にスカウトされた。友達はもうただただ興奮して「飛鳥ちゃん、すごいよ!」と跳び跳ねたし、母も応援すると言ってくれた。義父はお金は渋々出してくれたけど、飛鳥が実家から出ようとするその日までずっと嫌みを言い続けた。お前みたいな陰気な女がアイドルなどやっていけるものか、と。

 たしかに、転校した東京の中学校には正直馴染めなかった。それでも、そんなことは全然気にならなかった。すぐに始まったダンスや歌のレッスンは楽しかったし、華やかな芸能の世界は、内気だった飛鳥には何もかも輝いて見えた。ジャンクスドールのメンバーはみんな自分より少し年上で、最初のうちは緊張しっぱなしだった。でも、みんな優しくて親切で、無口でポーカーフェイスだった飛鳥も決して仲間外れにしなかった。

 あの事件を起こしたのはジャンクスドールのエースメンバーだった「ふゆみん」こと櫛原冬優美のファンだった。仮にAとする。

 冬優美は飛鳥の加入後、センターを張る機会が少なくなっていた。プロデューサーも飛鳥の空気感を活かすための曲作りや演出を重視し出していたけど、冬優美自身はそのことを別に気にしていなかったし、飛鳥にも、気を使わせないようにと常に気を使っていた。アイドルだって、それくらい人間ができていないと決してスターにはなれないのだ。

 でも、ファンは違った。良心的な人ばかりではない。Aは飛鳥を憎んだ。再び「ふゆみん」をジャンクスドールの絶対的センターに返り咲かせる。そのためなら僕は悪にでもなると。

 事件の後、飛鳥は即「脱退」。Aの歪んだ想いとは裏腹に冬優美も責任を感じて「卒業」、月と太陽を続けて失ったジャンクスドールは表向きはしばらくの「活動休止」、そのまま世間一般には知られることもなく事実上「解散」した。悲劇は悲劇しか生み出させないままに静かにその幕を下ろした。

 失意の中で再び実家に帰った時、母も人生二度目の離婚協議で疲れ果てていた。金はあってもモラルはない男。真逆だった前の夫との間でも母はそれなりに苦労したと思う。でも今にしてみれば、それは乗り越えられる試練だったのかもしれない。

 飛鳥がアイドルとして稼いでくれることに母は別にしめしめとは思っていなかった。でも、世間体を気にして離婚を言い出したこの男から今はどうしてもたっぷり慰謝料を取る必要があった。現代の医学なら娘の火傷の痕を少しでも取り除けるかもしれない。そのためには莫大な治療費が要る。

 それから先の話はあまりにもドロドロで飛鳥は思い出したくもない。血の繋がりもない、ましてやもう家族でもなくなる。なぜ火傷の面倒まで見なけりゃいけない。俺は最後までアイドル業には反対していた。俺になんの責任がある。俺になんの落ち度がある。ぐうの音も出ないほど、正論だった。

 部屋に閉じ籠り、笑顔を失い、涙すら流さなくなった娘を抱き締めて、母は言った。

ーお母さんと一緒に死のうか?ー

 変な風貌の男が星野家を訪ねてきたのは桜が綺麗な季節のことだった。

 母は飛鳥への取材は全て断っていたし、怪しいスカウトだとしたら命に代えてでも娘を守る覚悟だった。

ー信用してくれなくても無理はありません。ただ、このCDだけ聴いてからお返事を考えてもらえますか?ー

 多くは語らず、その男は帰っていった。

 母は信用した。飛鳥も事件の後で初めてと思うくらい、明るい顔を見せてくれた。楓馬との出会いだった。

 翼を焼かれた鳥がもう一度空に憧れた。

 でも、現実は甘くなかった。二人の共同作業で新しい音楽が形になってくると楓馬はすぐにでも外に出てライブ活動を始めたいと願った。でも、飛鳥の顔を見て、飛鳥の過去を知ると、どのライブハウスも受け入れてはくれなかった。

 再び、死を想った。

 新しい、今度は本当に心から敬愛できる先導者の提案に飛鳥はもう迷わなかった。

ー楓馬さんのお役に立てるなら私は喜んで死にますー

 あの日、浴びせられた薬液は飛鳥の脳も肌もドロドロに焼いてしまったけど、初めての恋は彼女の凍りついた心を優しく溶かしてくれた。

 今際の際で飛鳥は強く想う。

 巡り会えてよかった、心から愛しています。


   7


「二人だけにしてくれ。あぁ、構わん構わん。こいつは悪い男じゃない」

 取調室で楓馬が向き合った刑事は田辺と名乗った。「覚えてるか?」と突然聞いてきたが、楓馬は正直に短く「いいえ」とだけ答えた。

「覚えてるわけねぇか。昔、裁鬼のライブによく通ってた。つってもまだ6年くらいしか経ってねぇのか。なんだよ、ご覧の通りジジイだよ。サイケデリックロックの名盤、ビートルズのリヴォルバーなんかを聴き込んで育った世代さ」

 楓馬は目の色を変えた。この男を思い出したわけではない。ただ一人のロックファンとして、目を輝かせただけだ。

「年甲斐もなく前列ではしゃいでたヤバいジジイとして覚えててくれるとも思ったけどな。サインももらったことあるんだぜ。田辺さんへって書いてくれって頼んでな」

「それだけのことで覚えてるはずがないでしょう。ファン10人くらいしかいないバンドならともかく」

 田辺というジジイは「そりゃそうだよな」と何がそんなに面白いのかゲラゲラ笑った。楓馬は不快じゃなかった。

「で、今回はまた派手にやらかしてくれたな。ワイドショーが大騒ぎしてるぞ。傷害事件で引退したアイドル柊木飛鳥がステージ上で自殺未遂ってな」

「そっちか。伝説のロックバンド裁鬼の元リーダー楓馬様の名前を出せよ。・・・未遂?」

 また楓馬の目つきが変わった。

「あの子が病院に運ばれて、お前さんは警察に連れられて、それから1時間くらいだな。一命を取り止めたよ。嬉しいか? 残念か?」

「悪い男じゃないって今言ってくれたのはあんたじゃないですか。もちろん嬉しいですよ。と言うよりかは安心したかな。俺より壊れた人間がいたって内心ショックだったから」

「どういうことだ?」

 楓馬は煙草が吸いたくてテーブルをトントン叩いて苛立ちをアピールした。田辺は対峙するこの男のヘビースモーカーっぷりをよく知っていたが、この場では無視した。

「飛鳥の傷が浅かったんでしょう? それで助かった」

「そうだ。医者からの傷の報告を聞いて、彼女のかなりの躊躇いが感じ取れたよ。会場のスタッフの迅速で適切な処置が奏功したってのもあるけどな」

 田辺の話を大人しく聞きながら、楓馬は自分の計画も正直に話した。最初は手首を切るだけのつもりだった。しかも本当は自分が切るつもりだったのだ。セックス・ピストルズよろしく、それでも十分過激ではあるが、いたってシンプルな自傷パフォーマンスだ。

「それが飛鳥のやつ、それだけじゃインパクトがないって。私は楓馬さんのためなら命だって惜しくないって。まさかあすこまでハズれた女だとは思ってなかった」

「そんだけお前さんに惚れてたってのもあるだろうが、あの子は一度目の前から硫酸ぶっかけられてるんだぞ。正常な人格を保てるほうが異常だ」

 冷静に考えたら、いくら楓馬でも芸術のためだけに女の子一人死なせるのは残りの人生寝覚めが悪すぎる。アーティストとしては確実に伝説になるが、一市民としては苦しすぎる余生になる。自分もやはり人の子だったと、気づかされた。所詮、まだ27の若人だ。

「何度も話し合いました。品斗と連日連夜大喧嘩してた頃を思い出しましたよ。でも最後のほうは、あいつがただ単に死にたい死にたいって泣くばっかになって。結局そこだけだったんじゃないかって思います。俺は折れました。間違ってますか?」

「そうだな。六法全書か道徳の教科書だったら確実にペケだな。でも、そんな物差しだけでお前たちの気持ちは計れないよな」

 田辺が気づかないくらい、楓馬は小さく頭を下げた。ただのジジイの言葉でも、少しは溜飲が下がる。

「ド派手に頸動脈掻っ切りますって勇んだ時は俺も言葉がなかった。よしわかった、俺も腹括るぜって強がってみせたけど、流石にそれならいざ本番になって躊躇してくれるかもしれないって思った。一縷の望みに懸けました。よかった」

「どんなに熾烈な運命を生き抜いてきたとは言え、やっぱりまだ十と七のか弱い女の子だったってことさ」

 田辺はぐいっと腕と背中を伸ばした。逆に楓馬は猫背になる。それがまたなんとも言えず、旅と人生に疲れ果てた吟遊詩人のようだった。

「それで、俺って一体どんな罪になります? 自殺幇助とか?」

「非常に悪質な、だな。まぁ、私見を述べていいなら、俺なら情状酌量できるがな」

 飛鳥の一件についての聞き取りなら、これくらいで十分だったろう。これから先は身の上話だ。

「お姉さんは元気か?」

「ご存知なんですか?」

「俺はお前さんの大ファンだぜ。なぁんでも知ってるよ」

「そうですか。相変わらずですよ。言葉もわからない。自分だけじゃ何もできない。端から見たら、生きてる意味あんのかって感じでしょうね」

 吉田風馬の実姉、吉田穂花はもう十年以上も前から施設で暮らしている。両親はとうに見放している。援助も、たまの面会も、全て楓馬一人だ。

 薬物乱用。法と社会は結局、彼女に裁きを与えた。その時まだ楓馬は大人から見れば子どもで、彼女に対して何もしてやれなかった。それでも楓馬は、今でも、姉は被害者だったと信じている。

「悲しくて涙も出ねぇよ。お前さんがドラッグの悲惨さをずっと奏で続けてたのは、全部お姉さんのためだろ?」

「・・・煙草吸いたい」

「俺は今、肺がよくないんだ。俺の前では我慢してくれ」

 楓馬は貧乏揺すりしながら、指でトントンとテーブルを叩く。天性のギタリストの細く繊細な指で。

「吉田風馬名義で出してるヒーリングミュージック、あれもしっかり聴いてるぜ。正直に言ってお前さん、こっちのほうが正解だったんじゃねぇか?」

「止してくださいよ。品斗との出会いが間違いだったことになるでしょう」

「いゃあ、裁鬼は大正解さ。世間がどんだけキチガイバンドと嘲笑ったって、俺たちは毎晩、心の底から感動してたんだぜ」

 楓馬は今日初めて笑った。

「最後に一つだけ。お前さんがこう、なんだ、昔っから社会に対して喧嘩腰なのは、当たり散らしたいだけか? それともお姉さんのためにも世の中へ復讐のつもりか?」

「どちらでもありませんよ。俺もあいつと同じでー」

「あいつ?」

「いえ。まぁ、復讐なんて正義でもなんでもないですよ。ただ、俺は警鐘を鳴らしたいんです。このまま行ったら世界は大変なことになる。そう遠くない未来で人類は博物館でしか見られないようになる。これまでの他のたくさんの動物や植物たちと同じように。妄想だと思いますか?」

「いや、わかるよ。こっちはお前さん以上に毎日悪人相手に仕事してるからな」

 いよいよ本気で煙草の禁断症状が出てきそうだったが、終わったら吸っていいから我慢してくれと言われた。

「あぁ、それからもう一つだけいいか?」

「アンコールですか? まぁ、応えましょう」

「木坂未央って娘さん、知ってるか?」

「・・・さぁ、知りませんね」

「知らん? いやね、昨日ここに押し掛けてきてね。あの人に会わせてくれって騒ぐんだ。納得行かないって。ちゃんと教えてくれって。まだ今は無理だって何度言っても聞かなくてね。規則がなんじゃいあの人だって犯罪者だろうがってわからんことを言う。会わせてくれるまで帰らないって2時間以上粘られたけどね。ヤバい、電車に遅れるって言って帰ってったよ。ありゃ、何者だい?」

 楓馬はもうエアで煙草の煙を吐く真似をした。酒も煙草も、突き詰めれば薬物の一種かもしれない。

「どっかおかしいんでしょう。ほっとけないですね」


 第三章 願い


   1


ー東京駅に着いたら連絡ください。迎えに行きますー

 新幹線に乗り込んだタイミングで見計らったように遥佳からラインが来た。今日帰るということは広海に連絡してあった。なんでオカアが来ないんだよと、未央は思う。あの人のこと信頼し過ぎだよ、私もしてるけど、と続けて思う。

 広海は楓馬と飛鳥の事件のことはもう知っていたが、電話では細かいことは話さなかった。未央が相当落ち込んでいるだろうと気遣ってくれたのかもしれない。

 東京駅に着いて、言われた通り遥佳に連絡した。駅構内で待ってもよかったけど、なんだか外の景色が見たくなった。それで一応、階段を昇って外に出たけど、なんてことのない夜の都会の片隅、薄汚れた路地裏が見えるだけだった。

ーちょっと道が混雑してるんであと30分くらいかかりそうです。時間潰しててください。申し訳ないー

 また、遥佳からのラインだった。仕方ない、と未央は少し夜風に当たることにした。この時、遥佳がすぐに迎えにきてくれていればあんなことにはならなかった。

 未央まで、加害者になることには。

 表通りではストリートミュージシャンがギターを弾き語っていた。今時珍しい、フォークだ。未央なりに、これまでいろんな歌い手さんを見てきたから一目でわかる。このお兄さんは「アイドル全盛のつまらない今の音楽シーンに風穴開けてやるぜ!」とか息巻いてるタイプではない。ただ純粋に音楽が好きで、楽しく歌ってる。プロには「なれたらいいな」くらいに思ってるタイプだ。そっちのほうが好きだ。

「リクエストしてもいい?」

「え、あ、はい。どうぞ」

 目の前に立ち止まって2、3曲聴いていた未央が話しかけた。別にそれほど可愛かないが一応は女の子に笑顔で見つめられて青年は嬉しそうだった。

「イマジンかレットイットビー、弾ける?」

「得意です。じゃあイマジンのほうで」

 上手くはない。それはわかる。でも、今の未央には染みる。

「ありがとう、どんな気持ちを込めたか聞いてもいい?」

「え? そう言われてもー」

 1曲歌い終えて更に質問されて、流石に青年にもありがた迷惑感が出てきた。

「ごめん、困るよね。忘れて」

 ちょうど30分くらいは経っただろう。またさっきの出入口に戻ることにした。背中越しに「あの、ありがとうございました!」とだけ言ってくれた。

 なんでいろんな人間がいるの?だから、争い合うんじゃないの?

 未央はもう何もしないで遥佳を待っていようと決めた。

 その時だった。

「よぉう、お姉ちゃん! こんな時間にどうしたの?」

「俺たちと遊ばなぁい?」

 びっくりするくらい古典的なナンパ男が現れた。絵に描いたようなチャラいファッション。一目で性格が悪いとわかるにやけ面のデカとチビ二人組。未央は本当にびっくりした。ここんとこずっと重厚で深刻な考え事ばかりだったから、こんな風に明らかに低俗で軽薄そのものの男たちが余りにもショッキングに映った。

「ーえて」

「ん、なんだって?」

 未央は壁のほうに後ずさってしまった。逃げにくくなった。それ以上に、嫌悪感と軽蔑感が強すぎてもはや恐怖すら感じて身体が思うように動かない。

「消えて!」

「あ? なんだよ、文句あんのかよ。ブス」

「てか、こいつ、どっかで見たことあんな。最近テレビで見た」

 未央の背中に戦慄が走った。関わらないほうがいい。私が私じゃなくなる。

 顔を背け、男たちから離れた。だが、遠くから、何かに気づいたようにそいつらは騒ぎ出した。

「あれじゃね? あの硫酸ぶっかけられた厨二女!」

「そっちじゃなくね? ストーカーにレイプされたキチガイ女のほうじゃね?」

「思い出した! そのキチガイの肩持ってる偽善者だ!」

 最後に、ゲラゲラと笑い出した。

 それがトドメだった。

 キレた。

 猛然と駆け出していた。男たちは身構えるが、もう誰も彼女を止めることはできない。

「グゲッ!」

 一閃。デカのほうに飛び蹴りが入った。なんでもよかった。自販機の近くにあったゴミ箱を掴む。

「てめぇ、クソアマ!」

 ガシガシと叩く。振り回す。

 ボロくなったゴミ箱からは錆びた棘が覗いている。

 皮が破れる音が聞こえる。血が吹き出る音が聞こえる。

 男の怒声が聞こえる。

 魂の檻も柵も崩壊された。

 封じ込めていた記憶が流れ出す。

 いつかの面影が網膜に甦る。

ーお父さん!お母さん!死なないで!死なないで!イヤだ!イヤだ!お父さん!お母さん!一人ぼっちにしないで!イヤだ!イヤだぁぁぁ!ー

 ガッ!

 もはや、正当防衛が成立する域に達していた。未央の攻撃を振り払うための拳が、左目を打った。血の涙となった。

 教えて。これは、このクズ男たちの血なの?私の血なの?誰の血なの?

 未央の狂気が軽薄男に伝染していた。こんなやつら、ろくに喧嘩もしたことないくせに。弱いものいじめなら喜んでするくせに。

「このブス! もう許さねぇ! ぶっ殺す!」

 デカのほうもその近くにあった箒を掴む。

 振りかぶっただけで先端部分が外れて飛んでしまった。東京の夜の虚空にボロボロの箒の先端が舞い上がる。害意と敵意と悪意の塊が。

 周囲には誰もいない。最初の一振りがチビのほうのこめかみにモロに入っていた。辺りに血とゴミが飛び散っている。

 記憶が錯綜する。

ー君、やめなさい!暴れるな!ー

ー謝れ!謝れ!土下座して詫びろ!ー

ー痛っ!こら!落ち着け!てめ、この、いい加減にしろ!クソガキ!ー

ー放せ!私に触るな!畜生!謝れ!手をついて、謝れよ!ー

 現実が暴走する。

 やっと意識が戻ったチビの脳天に、未央が再び鈍器を振り下ろす。

 目が、普通じゃなかった。

 フラフラのチビの頭から血が流れ出す。もう水に流せない。訴えられて、裁判になったら、もう慰謝料ではすまない。

「ケンジ! ヤベェ、マジかよ!」

 偶然、酔っ払ったサラリーマンらしき男が通りかかった。が、「ヒイッ!」と叫んだだけで逃げていった。

 いつになれば止まるのかもう誰にもわからなかった。どうしようもなかった。後で死ぬほど自己嫌悪することになるとその時の未央には想像する力がなかった。

「痛てっ! クソ! 止めろ! 誰か! 助けて! ママ! 痛いってば! 止めてよ! お願い! 許して! 悪かったから! 謝るからっ!!!!!!」

 絶叫。逆流した血が頭に上り詰め、未央はクラっとした。

 取り返しのつかないことに、もう少しで未央は本当に全てを失うことになっていたかもしれない。

「未央さん!」

 その声で朦朧としていた未央はカッと意識を地上に戻した。

「なんなんですか? あなたたち!」

「こっちの台詞だ! おい、ケンジ! 大丈夫か?」

「おあっつ、クソ! 痛てっ!」

 何が起こっているのか遥佳にはわからなかった。ただ、財布を取り出していた。

「これで! 何も言わずにこれで見逃して! ね!」

 異常なほど、切羽詰まった形相で、札を握らされ、男たちは呆然とした。

 永遠かとも思われる沈黙が落ちた。

「あ、あぁ。てか、マジ?」

 握らされた大量の現金で、男たちは全ての感情を霧散されていた。文字通り何も言わず、去って行った。

「・・・何があったんですか」

「わかんない。覚えてない」

 生まれたての羊のように未央はブルブルと震えている。地べたにペタリと座り込み、ふと左目から血が流れていることに気づく。指で擦る。赤い。痛い。

「ごめんなさい、私・・・」

 神経が正常に戻ったか、突然右足に激痛を感じた。さっき捻っていたようだ。

「痛っ! 痛い!」

「大丈夫ですか? 何やったんですか?」

「ドロップキック」

「無茶しないでください」

「ごめんなさい、本当にごめん・・・」

 遥佳は、ゴミを拾い始めた。こんな風に同じ場所にいても、それで「一人にしてやる」ことができている気がする。

 綺麗に片付くまでに5分ほどかかった。それで未央も少しは落ち着いた。

「さっきあの人たちに渡したぶんのお金、必ず返します」

「いいんですよ、そんなことは」

 情けなくて泣けてくる。お金のことなんてたぶん問題じゃない。そんなことよりも、また未央は自分のせいで遥佳にとんでもない迷惑をかけ、関わらなくてよかったはずの人間を傷つけた。

 遥佳はもう少し近づいた。そして「よいしょ」と言って未央を肩から抱き上げた。少し驚いたが、左足は負傷していなかったので、それで十分立ち上がれた。

 至近距離で、遥佳の顔を見つめる。鼓動が少し速くなる。

「車、近くに停めてあります。歩けますか?」

「うん、大丈夫そう」

 口ではそう言ったが、右足はかなり痛む。ほとんど引き摺られるようにして、未央はなんとか助手席に乗せられた。


   2


 走り出してから数分、二人は何も話さなかった。二人とも会話の糸口を探そうとしたが、見つからなかった。

 先に苦肉の策を繰り出したのは未央だった。席に着いた時点で気づいていたが、なんだか聞きたくない話を聞かされそうな予感がしたから、切り出せなかった。

「この女の人、誰?」

 ダッシュボードに置かれた、いや、倒れないようにしっかりセットされた写真立て。その中で、今よりほんの少しだけふっくらした遥佳と、20代半ばくらいに見える女性が、穏やかな笑顔を見せていた。

「婚約者、だった人です」

 声色一つ変えず遥佳は答えた。逆に動揺したのは未央のほうだ。何も言えないでいると遥佳は躊躇うこともなく続けた。

「大学時代から付き合ってたんです。お互い苦学生だったけど、一緒にいる時間は楽しかった。彼女の25回目の誕生日にプロポーズしたんです。今でも覚えてる。ちょっと背伸びしたお店でお互い固くなってて。僕、スプーンを落としたんです。そういう店では自分では拾わないって僕知らなくて。回りからクスクス笑われたけど、彼女は手を叩いてゲラゲラ笑い出して。そしたら彼女のほうも回りからクスクス笑われて。なんだか空気が和んで、ドキドキしたけど堂々と気持ちを伝えられた」

「それで、どうして?」

 聞かなくても、二人の愛の結末は未央にも想像できた。犯罪加害者家族が味わう不条理、小説や映画でよく描かれるこれも一つのあるある話だ。

 学校で苛められる、職場で不当な扱いを受ける、家の壁に落書きされ生卵を投げられる、遠くの町へ引っ越すことになる、婚約を破棄される。

「向こうの親御さんが優しい人だったから、僕に酷い言葉をぶつけたりはしなかった。だからこそ僕もこの人たちに迷惑はかけられないと思えた。今でも忘れることも吹っ切ることもできてないけど、諦めることはできた」

 未央は鼻を鳴らした。遥佳が泣いてないのに自分が泣くわけにはいかない。

「ねぇ、遥佳さー」

「北海道は寒かったでしょう。でも美味しいものも多いし、自然が豊かだし、僕は好きだったな。東京とは全然違う」

「遥ー」

「未央さんが向こうに行ってる間に奏太の容態はすっかり良くなりましたよ。まだ後遺症があるかもわかりませんし、記憶も戻りませんが。まぁ、いっそのことこのまま戻らないほうがー」

「遥佳さん!」

 叫んだ。上手く話せるか、伝えられるか、そんなこと考えるのはもっと大人になってからでいい。もう子どもでもないけど、未央は品子とも楓馬とも違う。

 天使でも悪魔でもない。割り切れるほどに器用でもないし、許せるほどに寛容でもない。

「私、もうイヤだよ。こんな世界滅んじゃえよ。楓馬さんだってそうでしょう。結局、しなちゃんのことも殺すつもりだったんだよ。音楽と芸術のために人間全部憎みながら心中するつもりだったんだよ。こんな世界最初っから終わってんだよ」

「誤解です。彼は本当はすごく真面目で、正義感の強過ぎる人です。悪の象徴である人間はいつか必ず神の裁きを受ける。それを食い止めるために何ができるか、必死で考え過ぎていたんです。だからこそ彼もあんな風に精神を病んでしまったんです」

「何を今更あなたまでそんな。クレイジーとかサイコとかそんなカッコいいもんじゃー」

「違います。本当に、医学的に、精神病ですーっあ!」

 キキー!

 突然、目の前を野良猫が通り過ぎた。遥佳は慌ててブレーキを踏んで、幸い猫にも、二人にも怪我はなかった。

「危ないなぁ、もう」

 車は再び走り出した。フロントガラスには二人の顔が薄く映っている。

 昔から、二人は同じことに驚き、心を悩ませ、それでもどこか違う、似てるけどやはり違う、景色を見ている。

「・・・遥佳さん、今の話、本当なの? いつから?」

「え、あぁ。僕も聞いたのは最近です。奏太が自殺を図ってから僕なりに考えて楓馬さんと連絡を取ってみたんです。逆にいろいろ尋ねられましたよ。俺はおかしいのか? ロックにヤられたんじゃなくて、単純に病気なのか? ダサいか?って」

 ダサくはない。カッコ悪くなんてない。でもー

 怖くなった。このまま行ったら、この星はどうなってしまう。きっと長くはもたない。

 この世界に鬱や精神病が蔓延し、頑張らないことと怠けることとの境界線はなくなった。

 頑張ることを強要されなくなった代償として推奨できる大人も減ってしまった社会で人は「一生懸命」の尊さを忘れる。自分の力で勝利や成功を掴む経験を積んでいない人間はやがて自己肯定感を失い、悪循環による正比例で更に向上心も低下。一人ひとりが自分を磨かないから当然魅力の乏しい人間は増える。必然的にお互いに好き合えなくなる。あらゆるシーンで人間関係は希薄化、それによって人々のモラルは徐々にだが確実に低下。

 感性、理性ともに低年齢化していく世界に発展はない。代替エネルギーを生み出す前に資源は枯渇。加えて山積みにされた環境問題に社会問題。そう遠くないうち人類は地球を捨てる。

 新しい星で、また同じことの繰り返し、それどころかもっと悪くなる。

 せめて自分が死ぬ日までもってくれればそれでいい。一瞬でもそう考えた自分はエゴイストですか?神様。

「ーさん、未央さん」

「え、あ、はい?」

「着きましたよ。ここで合ってますよね?」

 気づいたら、あっという間に家まで着いていた。もう少し話さなきゃいけないことはあったのに。

 なるべく重心は左足に、上手い具合に外に出た。未央はなぜか名残惜しく思う。今夜はもうお別れだ。

「そうだ。無いよりマシでしょう。使ってください」

 そう言って遥佳は後部座席の奥から1本の傘を引っ張り出した。

「?」

「松葉杖代わり。一応、常に車の中に1本置いてるんです。用途が違うけど、役に立ちそうでよかった」

 遥佳は笑顔をくれた。落ち込んだ時、くじけそうな時、負けてしまいそうな時、未央が一番欲しいものをくれた。

 もう自分の気持ちに嘘は吐けそうになかった。

 もう恥ずかしいなんてどうでもいい。今だけは許されなくたって構わない。未央は膝から崩れるように遥佳の胸に飛び込んだ。

「・・・未央さん?」

 なんて言えばいい。わからないから未央はただ声の出る限り泣いた。シンガーのくせに発声練習もろくにしてない。子どもの頃から運動嫌いで、体力も肺活量もない。だからすぐに呼吸が苦しくなる。

 私は、まだ中学生の頃から毎日毎日ライブハウスで弾き語り続けたしなちゃんに及ばない。

 私は、インディーズシーンで下積みを重ねて、類い稀な才能に溺れることのない努力で社会現象を巻き起こして、でも、その夢が破れ挫折を知った今でも、音楽の世界で戦い続けていた楓馬さんに敵わない。

 私は、幼い弟を抱え、バイトもして家計を助けながら、寝食も惜しんで勉強して医者になり、キチガイの兄と蔑まれても、心の病に苦しむ人たちを支え続けている遥佳さんに届かない。

「ねぇ、私が馬鹿だったのかな? 私が全部悪いのかな? あなたの弟も、しなちゃんも、楓馬さんも、飛鳥ちゃんも、あなたのことも、みんな私が不幸にしたのかな?」

 ただでさえ嗚咽に混じったグジャグジャな声なのに更に遥佳の胸にグイグイと顔を埋めて喋るのでくぐもって言葉が上手く聞き取れない。

「落ち着いて、大丈夫だから、未央さん!」

 遥佳も慌てている。未央も動転し切っている。百歩譲って、奏太のことはそう思っても無理はないけど、それ以外は未央に非はない。たぶん。

「ねぇ! 助けて! 遥佳さん、助けて! 私も壊れちゃうよ! ドラッグやらなくても、病気じゃなくても、このままじゃ私も壊れちゃうよ! 助けて! お医者さんでしょ? 助けて、助けて、助けて・・・」

 流星。二人は気づかなかったが、その時、空に一つの星が流れた。

 それは遥佳が自分の頭で考えたことだったのか、天啓だったのか。

 動物や植物たちは、初めから言葉を持たない。人だけがこの星の上に言葉を生み出した。

 それは時に人を傷つけ、人を癒した。どんな言葉で想いを伝えれば大切な人を大切にできるのかわからなくて、人は時にどんな言葉よりも、静寂を愛した。

 人が、言葉の無力さを知った時、この世界に音楽が生まれたのかもしれない。

 この世界にいくつもの音楽が生まれ、言葉ではどうしても伝え切れなかった想いが、いくつもの心を救った。

 そして今、壊れそうな未央を救えるのはきっと、どんな言葉よりもー

 一度、天を仰いでから、遥佳は両手を未央の背中に回し、ちっぽけな自分にでも捧げられる全ての優しさを懸けて、未央を抱き締めた。

 届け。伝われ。

 言葉よりも心臓の音よ。届け。命の音よ。伝われ。

 涙が遥佳の上着に染みて、やがて消えていく。

 悲しみも愛しさも包み込んだ雫が、見えなくなる。


   3


ーこれから1ヶ月くらいは講演活動をお休みしたいと思っています。でも、必ず元気になって皆さんにパワーアップした木坂未央をお見せしたいです。その日までどうか皆さんも、元気な時とそうでない時が半分くらい、できればたった1%でも前者が上回るように生きてください。私からのお願いですー

 晴天。こんな風に気持ちよく晴れた空は久しぶりに見る気がする。遥佳は仕事柄、日光の大切さはよく理解している。

「来週で里谷さんが退院するよ。うちに来た時はホントにやつれ果ててたけど、今はずいぶんふっくらして、ホントに安心したよ」

「・・・」

「千夏さんはもう急に泣き出したりはしなくなったって。まだ安定してるとは言いにくいけど、少しは先行きが見えてきたね」

「・・・」

「健太郎君も少しずつ起き上がれるようになってきたって。学校には無理に行くことないと思うけど。親御さんとしては子どもの可能性を狭めたくはないって。将来を考えればそのほうがいいのかなぁ」

「・・・あ、いけね!」

 奏太はボールを逸らした。遥佳としては取りやすいように投げてるつもりなんだが。

「そんなに固くなるなよぉ。人生、テイクイットイージー!」

 遥佳は照れ笑いしながらボールを取りに行く弟にエールを贈る。

 キャッチボール。身体的にはもうほぼ心配のない奏太を日曜の休日を利用して公園に連れ出した。

「患者さんの個人情報なんて絶対話しちゃいけないんだけどさ。君にだけはぜひ知っといてほしいんだよ。人生いろいろだって」

「僕にっていうか自分に言い聞かせてる部分もあるんじゃない?」

 以前に比べて、遥佳に対する悪い意味での遠慮が抜けてきた。兄弟で隠し事はできないらしい。ズバリ突いてくる。

「生意気だな。俺より10も年下のくせに」

「僕より10も年上だからこそ、いろいろ悩むんだろ? 気が済むまで悩めばいいじゃん」

 奏太は最近、妙に勉強家だ。遥佳の家に居候しているせいか難しい本を勝手に引っ張り出して夢中で読み漁ってる。昔より聡明そうな顔つきになってる気がする。

「こんなこと言われたくないかもしれないけど、君、昔より良いよ」

「良いってなにさ。でも僕、これからこのままの状態で人生生き直してみるっていうのもアリかな?」

「わからない。繊細な問題だから軽はずみなことは言えない。いつの日になるか、君も記憶を取り戻して、こんな風に穏やかにキャッチボールしたことなんて忘れる時が来るかもしれない。そうなったらたぶん君は苦しむことになるよ」

「どうして?」

「それは言えない。でも、これだけは覚えていてほしい。これから先に何があっても俺だけは絶対に君の味方。どうしてかって? 俺は君のたった一人の兄貴だから」

 奏太は、照れ臭そうにグローブの中でボールを捏ねた。

「お兄さんにはこれからも世話になりそうだから言っておく。僕だってお兄さんの力になれるかもしれないってこと。悩みがあるなら言ってよ」

「・・・」

「あの人のこと?」

「・・・」

「僕も最初はわけわかんなかった。でもあの人、僕に対して、なんて表現すればいいかわからないけど、SOSなのかなって」

「助けて、ってこと?」

「本当に、あの人のことなんて僕は何も知らないけど、あの人は僕のこと知ってるんでしょ? すごくやるせなくてもどかしい気持ちばかり伝わってくるんだけど、ただ、僕に何かしてほしい、何か言ってほしい、なんでもいいから、このままじゃダメだから、変えることができるとしたらそれができるのはあんたなんだって。そう訴えてるように感じる」

「・・・」

「だから何度もうちに来るんでしょ? 上手く話せなくても、ただ何度も会いに来るんでしょ?」

「・・・」

 遥佳は、弟の存在をありがたく思った。

 ほどよくかかってた雲すらも晴れて、暑い。

「今度あの人、すごいでっかい会場で講演するんだって。パソコンからでも観られるから、一緒に観ようぜ」

「あの人ってすっごい偉い人なんでしょ? 苦しんでる人とか悲しんでる人の力になりたくて、頑張ってるんでしょ? まるでお兄さんと一緒だね」

「あの人は自分が偉いなんてこれっぽっちも思ってないよ。でも、すごい人だよ。まだやっと成人したばかりって年齢であれほど自分の人生と真剣に向き合ってる人間なんてそうはいない。だから周囲の人間はあの人を尊敬してる。それをあの人は嬉しく思っている。だからあの人は感謝と思いやりを忘れず、謙虚でいられる」

「・・・好きなんだね、あの人が」

「バレてた?」

「当然だよ。弟だもん」


   4


 おニューの服、広海が買ってくれた。

 みんな馬子にも衣装と茶化してくる。

「五木さんだって、ちゃんと素面でスーツ着てネクタイ締めてれば、素敵なおじさんですよ」

「いや、まぁさ。今までで一番デカい会場だろ。俺もビシッとしなきゃさ」

 スタッフがほぼフルメンバーで未央の楽屋に集まっている。個人で楽屋を宛がってもらうなど初めてのことだったのに、こんだけ人が押し寄せてきてはゆっくり腹拵えもできない。せっかくお弁当も高級品なのに。

 東京都新宿区。東京都の都庁所在地であり、人によって様々なイメージがあるだろうが、未央にとってここは「裁鬼の結成地」だ。

 楓馬が品子をスカウトする前までは裁鬼の拠点は新宿にある「ジェリーフィッシュ」というライブハウスだった。当時は4人の固定メンバーだけで付き人もおらずフットワークは軽かったが、楓馬は自分たちがバンドとして一つの完成形を見い出だすまでは活動範囲は広げないと宣言していた。理想の高すぎる楓馬のせいでその時はなかなか訪れず、ジェリーフィッシュはほとんど実験室、観客はモニターであり被験者だった。もちろんその喩えで続きを言うなら楓馬は狂科学者だろうが。

 品子加入後、裁鬼は一回ライブをやっただけでジェリーフィッシュから追い払われた。初めての打ち上げの席で品子が酔っ払った店長にセクハラされて、酒よりもライブの残響に昂っていた楓馬が怒りの鉄拳をお見舞いしたからだ。後に後輩バンドマンたちが武勇伝にするほどそれは見事な鉄拳制裁だった。

 そんな新宿という街でこの日、未央は演説家として飛躍を遂げることになる。

「五木さんもいろいろ掛け合ってくれたんですよね。こんなデカいとこでやれるなんてみんなが結束しなきゃ叶わなかったですよ」

「いやまぁさ、柊木ちゃんのことには俺も流石に真面目に考えさせられたからさ。いろいろ注目されてるし、話はスムーズだったぜ。冷やかし目当ての客も少しはいるだろうけど、今日はみんなしっかり見届ける」

「五木さん、カッコいい」

「よせやい」

 時間が迫ってる。会場の役員が呼びに来る。

「未央ちゃんが頑張ってくれてるから俺も今日から酒やめる」

「・・・ホントに?」

「・・・3日に1回にする! これでいいだろ!」

「そんくらいのほうが説得力ありますよ。どいつもこいつも口先だけ一丁前に頑張りますって。誰が信じるかっての」

 目を閉じる。2秒。目を開ける。

「木坂未央、行きます」


 不思議と、迷いはなかった。自分史上最大の観衆を前にしても緊張もなかった。たぶん伝えたいことがはっきりと固まっていたから。

「突然ですが皆さんは推理小説はお好きですか? 私は好きです。ミステリアスな舞台、迫り来る恐怖と殺意、奇想天外なトリック、大切なものを失った切ない動機。何から何まで胸が高鳴ることばかりです。でも、一つだけ疑問があります。なぜ犯人は憎むべき外道たちを地獄に落としてやろうとばかり考えるのか。私は思うんです。いくら悪魔に魂を売り渡したとかカッコつけたってお前もいつか地獄に落ちるからな。覚悟しとけよと。それにお前が失った大切な人は天国にいるからお前は会えないからなと。もう一つ、お前が勝手に神仏気取りで復讐してやると誓った大切な人は天国で復讐してくれてありがとうなんて思ってないからな。勘違いするなよ、と」

 出だしから語り口がきつい。引かれてるかもしれない。でも今日は苦しい話もする。ジャブを入れておきたかった。

「もう一つ、そうやってあっさり殺してしまった外道たちはもう二度と永遠に反省することも償うこともできません。私もかつて大切な人を奪われました。でも復讐なんて考えなかったし、地獄に落ちろなんて決して思わなかった。むしろそれどころかそんな憎むべき相手でも、地獄どころか天国へ行けるように、神様と誰よりも品子姉さんが許してくれるまで、残りの人生を贖罪に捧げてほしかった」

 最初の拍手。未央は一つホッとする。自分が頭の中だけで練り上げた考えは本当に他者にも納得してもらえるのか、伝えてみなければわからない。

「私は人間が好きです。根拠がないわけじゃない。身の回りには大好きな仲間がたくさんいます。テレビやステージの向こうにも素晴らしい音楽やたくさんの芸術を生み出してきた人たちがいます。私はどちらも心から尊敬します。たしかに、悪人はいます。イヤなやつだってたくさんいるのは知ってます。でも、諦めたくはなかった。人は優しくて、この世界は綺麗で、人生は素晴らしいもので、それが真実だと決して諦めたくはなかった」

 二度目の拍手。うんうんと頷いてる人もいる。別に泣かせたいわけじゃない。感動させたいと欲するなら、この辺りで1曲歌っただろう。だが、未央の歌では中途半端な空気にするだけだ。

「でも、そんな向こう見ずな性善説信仰が時に取り返しのつかないほどに人を傷つけることにもなると、私は思い知りました。その人は今この会場にはいません。家で聴いてくれていると信じて、この場を借りて伝えます。ごめんなさい」

 未央は頭を下げる。沈黙。拍手は起きなかった。客層によって未央の内情をどこまで知っているかは様々だ。だが、最後尾にいる広海は音の出ないように、しかし心を込めて手を叩いた。

「私は大学で史学を学んでいます。人間というものが歩んできた道のりを、これから歩むべき道のりを、どうしても知りたくて。その中で科戸という言葉を知りました。風の吹き起こる場所という意味です。科学の科という字にドアの戸という字を書きます。そう、品子姉さんの芸名と同じ音ですね。楓馬さんー品子姉さんと私の旧友ですーあの人がダブルミーニングを込めたのか私は知りません。でも、私は思います。どんな時もこの世界にはただ風が吹いている。私たちは真っ直ぐに立って、ただそれを感じればいい。そしていつの日か私もこの世界での役目を終えて旅立つ時が来る。でも私はどこへも行きたくない。品子姉さんのいる天国へ昇っても、私はまだあの人に胸を張って語れるものを持ってない。だから、私はまだこの世界に留まって、風になりたい。罪も汚れも、悲しみも憎しみも、不条理も暴力も、絶望も後悔も、狂気も病魔も、鮮やかに吹き払ってしまう科戸の風になりたい!」

 未央はペットボトルの水をチビっと含み口を潤した。いや、と思い直し、天を仰ぎ豪快に流し込んだ。品子の真似だ。ステージの上では水を飲む姿すら威風堂々、利己を空しくし存在そのものを芸術にまで昇華させる。それがショーマンシップ。楓馬だってそう言うはずだ。

「私はこれからも壇上に立ちます。批判や文句があるならいつでもどうぞ。逃げも隠れもしません。ただしそっちもあっさり止めないでください。何マジになってんだよと大人ぶって一度出した手も足もあっさり引っ込めないでください。お互いボロボロになるまで、喧嘩しましょう」

 アドリブが入った。熱くなってきた。一呼吸、冷静に観衆を見回す。次は何を語る。固唾を呑んで見守ってくれているのを感じる。あぁ、生きている。

「私は今、幸せです。皆さんは幸せですか? 幸せな時もそうでない時もあるでしょう。泣きたい時もあるでしょう。でも泣けない時が一番辛い。なんとなくわかります」

 泣いている人、たぶん未央と同年代くらいの女性と目が合った。それだけで、この講演に価値はあったと思える。

「正解はないでしょう。近道なんかないでしょう。でもいつだって幸せになってやると叫びながら生きてください。私からのお願いです。心からのお願いです」

 演壇から降りてステージの前へ。深く頭を下げる。

 拍手が起きる。未央のファンはみんなシャイだから大歓声は上がらない。スタンディングオーベーションも起こらない。でも、未央が今までに感じたことのない盛大な拍手だった。

 今日は司会者はいない。未央は自分のタイミングでステージを去る。配信用のカメラと目が合った。横からも撮られるなんてこれも初めての体験だ。未央は親指を立てる。

 昔の自分なら、品子と出会う前、裁鬼と出会う前、人生にこれほどの悲しみがあるのかと教わる前、啓蒙活動を始める前、奏太の孤独に気づく前、飛鳥の壮絶な人生を知る前、楓馬の覚悟を突きつけられる前、遥佳に抱き締められる前の自分なら、きっと中指を立てていた。

 まだだ、まだ、木坂未央、まだ泣くな。


 泣いた。カーテンの奥に隠れた瞬間、涙が溢れ出た。

 お涙頂戴にしたくなかった。めそめそ泣いてるのは優しさじゃない。涙は女の最大の武器?今は男女平等の風が吹く新時代令和だろうが。

 たくさんのスタッフの声は頭に入らなかった。でも、笑顔は胸に焼きついた。

 何度も何度も頭を下げながら、それでも未央は一心不乱に自分の楽屋に戻る。

 鞄を開けてスマホを取り出す。

「遥佳さん! 私です! 未央です!」

 電話の向こうで遥佳はどんな顔をしているだろう。話したいことがたくさんある。明るい話がしたい。真面目な話も好きだけど、今はただ楽しい話がしたい。

「奏太と一緒に観てました! お疲れ様です! 感動しました! 奏太も、きっとそうです!」

「私も、もう夢中で、でも、拍手がここまで聞こえてくるんです。こんなの初めてなんです。いっつもカーテンコールは黙ってても来るってみんな何も言ってくれないんです。でもー」

「戻ってください。皆さん待ってます。僕もたくさん話したいけど、今は未央さんの場所に早く戻ってください」

 これだけは伝えたいと思ったけど、それは今じゃない。電話越しなんかじゃなくて、面と向かって飛びっきりの笑顔で伝えたい。私は、あなたのことがー

「でも一つだけ、一秒でも早くこれだけは言わせてください。奏太から伝言です。できれば僕からも一緒に、たった一言だけ・・・」


 ありがとう


 終章


 年が明け、春を迎え、夏が過ぎ、秋を越えて、あっという間に1年が経とうとしていた。

「さぁむい。オカア、ただいまぁぁぁ」

「だらしない! やり直し!」

 未央は玄関のドアを開けた途端に仁王立ちの広海に叱られた。

「はい! オカア様! ただいま戻りました! 何、どうしたの?」

 未央は靴を脱いで広海の自宅に上がり込む。今日はひさしぶりのお呼ばれなのにずいぶんな出迎えだ。

「あなた、私のことすっかりお婆ちゃん扱いでしょ。せっかくオーシャン再開するんだからシャキッとしようと思ってね」

「それでなんで私に厳しくするのよ」

 未央は手土産のみかんをドサッとテーブルに置くと自分は椅子に座った。先日、ファンから大量にもらったもののお裾分けだ。

「まぁ、美味しそう。ありがとね。というか、しばらく見てないうちにずいぶん髪伸ばしたのね。エクステ?」

「地毛だよ。ちょっとは大人っぽく見えるでしょ? それに、しなちゃんみたいに髪が風に舞う感じ、実は憧れてたんだ」

 未央はエレガント風に微笑みながら、マダム的にポーズを取った。広海はスルーする。

「もうクリスマスも近いわよねぇ。そう言えばあの子、飛鳥ちゃん、最近彼氏ができたんですって」

「マジで?」

 未央は前のめりになる。星野飛鳥は、北海道の病院から退院後、再び帰京した。広海、未央とは不思議な縁が生まれ、続いていた。

「またジャンクスのプロデューサーがあらためて1からお世話したいって話も出てたらしいけどね。断ったらしいわ。今はファミレスの奥の方でバイトしながらこれからのこと考えてるって。そこに新しく入ってきた年下の男の子らしいんだけどね。真面目ぇな顔してお皿洗ってる飛鳥ちゃんを見てこう言いました・・・ヤベエ! るろ剣の志々雄みてえ! カッケェ!」

 未央は吹いた。

「回りはヒヤヒヤして飛鳥ちゃんもリアクションに困ったみたいだけどね。ちゃんと人の中身を見れる男よ。もう、すぐに飛鳥ちゃんにぞっこん。猛アタックされてあの子も満更じゃなくなったようね」

「やるなぁ。てか、それいつ聞いたの?」

「この前またオーシャンに遊びに来たのよ。あの子、今度はアイドルじゃなくて本格的に音楽に挑戦してみたいらしいわ。あの時、あなたの講演を病院のベッドで食い入るように観ちゃって、心の底から感動したんですって。簡単には諦められないようにめちゃくちゃ高いギター買っちゃったって。見た目より芯の強そうな子ね。『未央さん』みたいな素敵なシンガーソングライターになって、恩人の楓馬さんがまた元気になれるような歌を作るんだって、笑ってたわ」

 そう言って顔を上げた広海はギョッとした。未央がぼろぼろ泣いていたからだ。未央は慌ててハンカチを取り出しメイクが崩れないように拭く。

「あんた大事なのはわかるけどさ。そのドラちゃんハンカチそんだけボロボロなら保管用にしなさいよ。人前で使わないの」

「お母さんの形見だもん。一生ファーストで使う」

 二人はニヘラニヘラ笑いながらしばらく見つめ合っていた。やがて二人同時にみかんに手を伸ばす。

「そう言えばお友達の綾香ちゃんから聞いたんだけどさ。あなた、大学院まで進むことにしたって本当?」

「うん、前から考えてはいたんだけどね。私はどうせ下手に就活とかするよりこのまま講演と音楽で生きていくほうが性に合ってるからさ。でもその前にもっと学びたくなったんだ。この世界のことと人間のこといっぱいいっぱい」

 みかんが美味しい。これと、できればこたつもあれば日本人はみんな幸せだ。そんなことを感じながら、先ほどからやけに時計を気にしていた広海が、見計らったようにテレビをつけた。数秒後、映し出されたテロップに未央は驚く。

 老舗ライブハウス、リニューアルオープン記念 店長大原広海さんインタビュー

「何これ? いつ撮ったの? 聞いてないよ」

「あらぁ、放送日今日だったかしら? なぁんて嘘。一緒に見たくて今日呼んだのよ」

 昼のワイドショーのそれほど数字の伸びない時間帯のワンコーナー。もうちょっと大きく扱われるように頑張りたいと広海は思う。

ー大原さん、はじめまして。今日は僕もお話が聞けるのを本当に楽しみにしてましたよ。ライブハウス「オーシャン」と言えば6年前に夭逝された伝説のシンガーソングライター長谷川品子さんを排出した伝説のライブハウスとして今でも伝説になってますよねー

ー馬鹿にしてるの?そこまで大袈裟なもんじゃないわー

 裁鬼が連日テレビを賑わしていた頃、オーシャンもたくさんの報道陣が詰めかけ、広海も騒動に巻き込まれるように時の人となった。その頃の思い出話から始まりやがて話題は1年前の飛鳥と楓馬の事件へ、そして広海の愛娘であり若手慈善家の木坂未央の活動へ。

ーなによ、これなんの取材なの?オーシャンの話、全然してないじゃないー

ー申し訳ない。世間的にそっちのほうが知りたがってるんでー

 聞いてて、未央は愉快だった。結局、私たちはいつだってこんな風に最高にハッピーでクレイジーでイカしたやつでいたいんだ。

 明日もし世界が壊れたとしても今そばにいる人の笑顔が消えてしまわぬように。

ー私はこれからもあの子を見守り続けるから。できれば、生きてる限りたくさんの夢を叶えてほしいとは思います。でも、結局何一つ成し遂げられない人生でも恥じることはない。回りがなんと言ったって、あの子はただ自分の意志で行動することに生き甲斐を感じて、そのプロセスをお腹いっぱい楽しんでいるからー

 真剣に聴きつつも、未央は呑気にみかんを食べながら言う。

「よくわかってるじゃん。その通りだよ」

 トークが10分ほど経過して今度は未央のほうが時計を気にする番だった。

「ごめん、オカア。私そろそろ行かないと。遥佳さんと待ち合わせしてるから」

「あら、『また』デート?」

「『今日は』違うよ。あの、菓子折持って謝りに行くの。私がどうしても心残りだからって言ったら遥佳さんがどうにか調べてくれて。あの人たちの怪我、結構酷かったらしいから病院で聞き込んだらなんとか辿り着けて。あの人たちもあの時はちょっとショックが大きすぎたみたいで一度会ってみりゃ笑い話として清算できるかもなって言ってくれてー」

「何? なんの話?」

「いいの! 忘れて! でもさ、遥佳さん、遅れるとうるさいの。怒るならこっちも安心して逆ギレするのにさ。心配するからさ。大丈夫? 何かあったの?って」

「三島さんらしいわ」

 そろそろ電車に遅れてしまう。未央は鞄を手に取った。そして、もう5分くらいで終わるのにぃと駄々を捏ねる広海を軽くあしらいながら未央は再びドアを開けて、12月の街へ歩き出した。

 残された広海は4つ目のみかんをハムハムする。もうすぐで50になる。まだ人生は半分くらいは残っている。

 しかし、次の瞬間、ピンポンピンポンと鳴り響くインターホン。広海はテーブルにガンと頭を打ちつける。「オーマイガー!」と叫びながら。

「なによ。いいところなのに。また変な業者かしら。私ゃ怪しい勧誘には乗らないわよ。詐欺にだって引っ掛からないわ。まだまだ未央ちゃんたちに負けてられないものね」

 心労がだいぶ癒えて、この1年の間に少し太った身体をドスドス言わせながら、広海は玄関に向かう。テレビの中では、まだインタビューが続いていた。


ー私はあの子の本当の母親じゃないからね。でも、本当の母親のことは昔からよぅく知ってる。優しい人だったわ。ドラえもんがすごく好きでね。ほら、あなた知ってる?人の幸せを願い人の不幸を悲しむことのできる人ってやつ。あの人はまだ小さな未央ちゃんに、ただそれだけを願っていたと思うわー

ーなるほど。素敵ですね。しかし、僕が見た限り未央さんは、人の幸せを願うどころか、それどころかまるでそれを、自分の幸せのように感じているのではないでしょうか?ー

ーあら、あなた上手いことを言うわね。その通りよ。でも私はあの子より幾らか人生の先輩ですからね。あの子よりももっともっと小さなことにも喜びを感じられるわー

ーほう、ではお時間も短くなってきたので最後にズバリお聞きしましょう。大原広海さん、あなたはどんなことに喜びを、幸せを感じますか?ー

ーそうね。数え切れないくらいあるけど例えば、ほら、窓の外の木々たちをご覧なさい。可愛い小さな葉っぱたちがそよそよと揺れているでしょう。それがなんだか、まるで木々たちが微笑っているように見えてこない? だから私はそうね。風が吹くだけで幸せだわー


              完

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ