第5話 / イレギュラーした人生を最大限に活かすために。
読者のみなさまへ。
大変、お待たせしました。第5話をお届します。
なお、本作品は、連載開始当初に予定していたストーリを大場に変更しました。
著者としても、不本意ながらまだまだ拙い文章構成であると知りながらも、一度、ここでアップしてから加筆・訂正、再構成したいと思い、ここで更新することとしましので、どうぞご一読ください。
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一枚の絵が、和都の手元にある。濃い目の鉛筆でラフに描かれた上に、薄く水彩絵の具が塗られている。丸で、あの日の出来事がフラッシュバックしたように、鮮明に眼の前の画用紙に描写されていた。
裁判官の表情も、被告人の表情もだ。
あれは、判決宣告の日だった。制服に身を包んだ何人かの女子高生たちが、傍聴席に座っていたことは、靄で包まれた記憶の片隅に残されている。
普通は、傍聴席に座っている傍聴人のことなんて、法廷の独特の緊張感に包み込まれてしまっている被告人からすれば、親族とかの関係者を除けば、一々と覚えてないものだ。
だが、あの時は、傍聴している女子高生らの後ろに、国満が座っていた。その前の席で、スケッチブックらしき用紙に、鉛筆を走らせていた女性が女子高生と並んで、もう1人いた。服装は地味な普段着だったはずだ。
判決公判を全て終えて、刑務官に手錠をされながら、オヤジさんに向かって、ありがと言う、精一杯の深い礼をした。その際に、ほんの一瞬だけ、その女性のした一瞥の眼差しとぶつかった。
あの時の女性こそが、今の夏帆だったとは。和都は、何か運命の悪戯を感じざる得ない。悪戯、この言葉を選ぶのは違うな。何かに対する兆しだ。
そうだ。もう、自分自身が社会で役立たない不要な粗大ゴミにならないための、兆しを感じ取っていたんだ。
あの時の夏帆の眼は、犯罪者を見ていたんじゃない。人として社会で生きるべき人間として、偏見の混じらない純粋な眼で、温かく見られていたんだ。
こんな考えは、世間から後ろ指を指されることをした罪に対する、綺麗ごとだろうか。
それでも良い。これからの人生を変えてみせる。躓いたって、何度転んだって、這いつくばってでも、もう、この絵の中には二度と戻らない。絶対に約束する。
まばらな観衆の中で、最後となったリングに立っていた、あの日の時の事だって、そうだ。
1ラウンド2ラウンドと、相手のペースに飲まれて劣勢に立たされていた。つづく、3ランドに起死回生とも言える左ストレートが、カウンター気味に相手のこめかみにヒットした。
相手はよろめき足が棒立ちだった。明らかに効いていると確信した。
今、攻めなければ勝利のチャンスはない。ここから、心血を注ぐ猛然のラッシュに転じ、勢いに乗り掛かった。
刹那、目に霞が掛かった。ぼやける目で放った右フックを交わされ、態勢を崩したところで突如、顔面や腹部の全身に強烈な衝撃が走り、リング上に倒されていた。意識が朦朧とする中で、試合終了を告げるゴングを聞いた。
この時に味わったのは、敗北感よりも何かを失った様な、喪失感だった。
丸でその後からは バーンアウトシンドロームに憑りつかれたような日々を過ごしていた。
あれから、無理やりと胃の中に酒を注ぐように煽った。仕事にも行かなくなった。そんな荒れた生活を送っていると、一早く金が尽きて来た。
もうどうにでもなれと、人生さえも投げ捨てていた。
コンビニに入り、酒や食べ物を懐に隠して店から逃げる。挙句には、他人に難癖を付けて金品を強請取ろうとしたところをパトロール中の警察官らに現認され、恐喝未遂で現行犯逮捕されたのだった。
起訴され裁判所から下された判決は、懲役1年6月に3年間の執行猶予だった。
自分の人生が大きくイレギュラーしてしまっていたとに、この時はまだ気付かされていなかった。そんな重大なことにさえ、自ら進んで気付こうとさえしなかったのだから。
苦しい練習の中で培ったボクシングを凶器に変えて、人を脅すことを繰り返した情けなさ。そして、万引きによる再犯を繰り返した挙句の果てが、今度は実刑判決だった。
そんな、屈折した砌な時がようやくと過ぎ去って、今、改にこの時間から始まるはずだった。
―――まさか、嘘だろうそんな事って。
―――そんな話なんて、絶対に信じたくない。
でも、行って事実を確かめるしかない。夏帆にラインを送っても、既読にならない日が続いた3日目の夜のことだった。
オヤジさんからの電話が鳴った。時刻はもう、午前1時を回っている真夜中だった。
その電話は、深い眠りに落ちていて、夢であって欲しいと祈る気持ちに反して、眼を覚まさせた。和都はただ、呆然としてるだけで、そのまま朝まで眠ることはできなかった。
何度も自分が取調を受けた警察署に、皮肉にもこんな形で再び足を運ぶことになるとは、人の運命なんて複雑に絡み合って解けなくなった糸のように、何が何だか分からない。
「おお、我爪、久しぶりだな。こっちだ」
警察署内で聞き覚えのある声と、手招きされた男の方へ和都は深く頭を下げた。その人物は、過っての和都の事件を担当した、捜査三課盗犯係の刑事、古川だ。
「ご無沙汰してます……」
「元気そうで何よりだ。お前の名前を訊いた時には、正直驚いたけどな。でもなっ、頑張ってお前が働いてくれていると知って、ホットしてたんだがな、そしたらこんな事件が舞い込んで来てな……」
古川の日焼けした顔に、幾つもの皺が刻まれ刑事としての年輪を浮き彫りにさせていた。刑事としては小柄で、身長も和都と然程変わらず、170cmに届かない和都よりも低いくらいだ。
階級は係長と言われる警部補だが、そろそろ警部に昇進して現職を去る頃だなっと、和都は出所してから、古川のことを何度か思い返したことがある。
「どうして、どうして夏帆がそんなことに……」
「まあ、お前には気の毒なことだか、事件の詳細については、今はまだ捜査中なんでな」
「犯人は、犯人は捕まっているんですよね」
「ああ、捕まってる。俺もな盗犯からの応援で、この事件に出張っているだけだから」
古川は、どこか決まりが悪そうに、顔の皺を擦っていた。和都は、両手の拳を強く握りしめたまま、呆然と立ち尽くしかなかった。
「おおっ、中谷こっちだ、こっち」
古川が呼んだ方へ和都が振り向くと、丸い膨らみのある顔に銀縁眼鏡をはめ込み、頭は一枚刈りにして、無駄な髪は捜査の邪魔だとでも言うように、のっしりとした体躯の刑事が歩み寄って来た。
「君が我爪さんですか。この度はどうも……」
「こっちが、捜査一課の中谷刑事。ちょっとした事件で、我爪とは知り合いでね」
古川が和都を、中谷に紹介する形になった。和都は深く中谷に向って頭を下げた。捜査一課は、殺人や強盗などの凶悪事件を捜査する部署だ。同じ刑事部でも、捜査三課は自動車盗や空き巣とか万引き事件といつた窃盗事件を主に扱って捜査している。
「夏帆に会えるんですか。いや、合わせてください!」
和都は、中谷と古川を交互に見比べるように言った。
「まあまあっ、被害者のご両親も今ことらに向っているらしいので、その前に少し君と話をしたくってねっ」
被害者を「ガイシャ」と言った中谷の服装は、セーターの上に寄れたジャケットに袖を通して、皺の目立つデーバードパンツと言った、完全な刑事現場のスタイルだ。
現実の刑事なんてこんなものだ。テレビドラマでの刑事は、皺が1つも目立たない程のスーツを着こなしているのと比較すると、こっちの刑事の方が本物ってことだ。
和都は、これはドラマであって欲しいと言う思いで、中谷の前で膝を床に落とした。同時に涙が零れた。
「中谷、部屋代えるか。ここじゃあ、ちょっと、なあ、悪いが嫌いな取調べ室で中谷に話せることがあったら捜査の参考までに、少し話しをしてやってくれないか。いや、何でも良いんだ。どんな小さなことでもな」
古川が和都の右腕をゆっくりと引いて、床から立ち上がらせた。足が震えて上手く立ち上がれない。
まるで、リングの上で倒されたボクサーの意思に反して、無理矢理にレフリーが試合を続行させるために立たせている。そんな風に、周りの目には映っているだろうと、和都に感じさせていた。
中谷が訊いてくることに、ただ和都は答えるしかなかった。
「なるほど、我爪さんと夏帆さんは、我爪さんの仕事である弁当の配達先の会社と、裁判所の傍聴を通じた出会いから始まったってことですか」
和都は虚ろな表情で、机を睨み付けるしかなかった。机が歪んで見える。まるでリング上でボディーを強打され、嘔吐をこらえながら気を失って行くような感覚だ。
「夏帆はどうなるのでしようか?」
少し首を捻って、中谷が考えあぐねる表情を浮かべって言った。
「今が、治療の正念場ってところでしょうか」
中谷は刑事として、被害者やその関係者に慮るようにいった。和都は、大切な宝物を壊されたように、悔しさに顔を歪ませって呟いた。
「なんで夏帆がそんなことにっ……」
「詳しくは捜査の関係で言えないのですが、どうやら被疑者は偶然に夏帆さんを見かけて、一方的な恨みを募らせていた報復心からか、突発的に犯行に及んだようです」
「恨みって、どういうことですか?突発的にって何ですか、それって?」
「その被疑者ってのが、前に起こした詐欺事件の被告人でして、どうやらその時の裁判で傍聴席に夏帆さんがいたらしくって、そいつの話では、スケッチをする夏帆さんから嘲笑っていると思ったらしく、それで一方的に恨みを募らせていたようでして」
「そんなことって、だって、裁判の傍聴なんて誰も自由じゃあないですか」
中谷は、頷きながらいった。
「そうなんです。メモを取ることだって禁止されていません。スケッチすることもです」
「それは、レペッタ裁判のことですね」
レペッタ裁判とは、法廷メモ訴訟ともいわれ、米国人のローレン・レペッタ氏が、法廷でメモを取ることの許可を裁判所に求めたにもかかわらず、7回に渡って拒否されたことに対して国家賠償請求を求めた判例とし、最も著名な事件名だ。
この裁判後の今日においては、傍聴席でメモを取ることもスケッチすることも、傍聴人の自由と最高裁判所が、平成8年3月8日に判断しを示した事件だ。
「ほう、良く知ってますね。まあ、皮肉な話ですか、犯人はそういう傍聴の自由てことを非常に嫌っていたようです。法廷にいる自分が見世物のように映っていると思っていたんでしょう」
知っているんじゃあない。夏帆にそう教わっただけだと和都は、喉元まで出かけた声を飲み込んだ。
レペッタ裁判て知ってます――――。
あの時の、気さくに語る夏帆の声が、和都の脳裏に蘇って来る。
「裁判は公開が原則なのに、それを逆恨みしていて、夏帆が犯人の標的にされたってことですか」
何ともいえない憤りが、幾度も腹の底から込み上げて来ては、鎮静剤を打つように和都は自分の唇を噛んだ。
「それでですね、あなたとしては犯人にどんな感情、つまり、どんな処罰を望みますか」
和都は、中谷がいっていることの意味が上手く呑み込めなかった。どんな処罰、そう訊かれた時に、自分が罪を犯して法廷の中にい時のことが脳裏の全体に駆け巡ったからだ。
被害者感情というのは、その犯罪被害者の立場からしたら、犯人が憎くってしかたがないはすだ。
憎んでも憎んでも埋められない溝が、胸の中に形成されてしまうのだから、それを埋めることができるのは、時間の経過だけだというをこ、和都は知っている。
そんな、感情を辛抱する時が過ぎ去ったとしても、傷つけられた溝は決して完全には埋まらない。何かで、その溝を誤魔化しながら暮らしているだけだ。
自分の被害者たちも、きっとそうだったのだろうと後悔に苛まれて、苦しんだあの刑務所での日々を忘れることはない。
「今の、この気持ちを上手く人に伝えることは、直ぐにはできません……」
中谷は、和都の気持ちを察したようにいった。
「今でなくて良いんです。それを伝えるのは私たちにではなくって、裁判官にです。我々は、あなたのような参考人から話を聞いて調書にするだけですから。そして、検察側の証人になっていただき、裁判官の前で証言してもらうことになると思います」
和都は、どこに今の、この苦しい胸中の憤りをぶつけていいのか、真っ暗な闇の中を彷徨っていた。犯罪を犯すことは、人生の糧の中での1つのイレギュラーだと考えていた。その考えは誤った認識だったと、自分自身を悔いている。
犯罪被害者は、大切なものを失う。それを人生のイレギュラーと例えることは、身勝手な話だ。
裁判官に対して、犯人に何が言いたい。そして訴えたい。あの法廷の中で。
それも、過って自分が立ったあの法廷の中でだ。
犯人はこれから、警察での取調べを受け、そして、検察庁に送検されて検察官検事からも取調べを受け、やがて、裁判所に起訴される。
裁判所に起訴されると、被疑者から被告人へと立場は変わる。しかし、裁判所が有罪と認めるまでは、無罪のままだ。
裁判所が被告人を有罪と認定するまでは、法律上から、推定無罪の原則を受けるからだ。
つまり、今の状態では、犯罪を犯したとする黒とも白ともいえないってことだ。
生きて欲しい。夏帆には。その身代わりなら俺がなる。それを、ただただ、ひたすらと、和都は願うしかなっった。
イレギュラーした自分の人生を、夏帆が変えてくれたのだから。少なくとも、夏帆は犯罪を犯した者に対して、そんな偏見を抱くような心の狭い持ち主ではない。
しかし、今の俺は犯人が憎い。憎くって憎くって、気が変になりそうだ。
一層のこと、俺を殺してくれたらよかったのに。その方が、リングの上で惨めなKO負けをするより楽だからだ。
俺は何を法廷て証言すれば、夏帆の敵を打てるのか。絶対に犯人を許さないし、許せない。
しかし、それは、俺自身が今まで被ってきた贖罪と同じだ。
俺が犯した罪の贖罪。それが、夏帆にも向けられたのは、これまで以上に俺が背負うべき重責なのか。それが、宿命なのか。
俺が過去に犯した過ちは、未だに償いきれていないのか。そんなのはどこか理不尽だ。
理不尽?
じゃあ、俺の犯した犯罪被害者らはどうだ。大切な大切な財産の一部を理不尽にも奪われたのだから。
俺には、俺には犯人を責める資格などないに等しい人間かも知れない。
和都は、自分自身と葛藤していた。
自分の部屋の床に落として来た、画用紙の中にいる自分の顔の絵さえも、恨ましく覚えた。
この、何処かでイレギュラーしてしまた自分の人生の軌道修正は、何も実らないのか。
いや、これからも何も活かされないままで、自分に係わる他人さえも不幸にしてしまうのか。
和都は、狭い取調べ室の中にいる自分が、まるで重罪人のような取調べを受けているような苦痛を味わっていた。
それから、どれくらいの時が流れたのかさえ、和都はうろ覚えのままで夏帆が座る車椅子を、病室に向かって押している。
夏帆の命は、幸い救われた。しかし、あの事件いらい歩くことができない。
仕事の帰り路で、突然に突進して来た自動車に追突されて跳ね飛ばされた身体は、複数個所を粉砕骨折していた。
両足は後遺障害として残り、今もリハビリに長期間要するとされていた。
精神面も不安定になった夏帆は、心的外傷後トレス障害、つまり、PTSD障害の罹患を併発させており、他人からの攻撃から身を守るように、今も、怯えながらの辛い日々を過ごしている。
人生には、色んなイレギュラーが付き纏っている。思いもよらなかった難関が、突然に訪れて、あっちこっちに弾け飛ぶように人を苦しめる。
いや、その人の人生全てさえも時には狂わせる。
あの時、夏帆はこういっていたね。
被告人って言う人は、私たちの代弁者かも知れないと。
それは、言うなれば、罪を犯した人を教え諭して救えるのは、誰でもない私たち人間なんだということだ。
そう、俺自身ががキミに救われたように、一度犯罪を犯してしまうと社会の目は冷たくなる。
そんな境遇の中をどう生き抜いて行くのか、その人たちは。
憎まれるべきは罪であり、その人を憎んでいては「更生」の意味を持たなくなる。
罪を償い終えて、何時かは社会復帰を果たすために、社会内で生きて行こうとしても「犯罪者」という烙印を社会から押されてしまったままでは、「更生」という曖昧な単語の表現力では意味がなく、何も補えていないのが現実た。。
それは、和都自身が今もなお、甘受し続けている事柄だからだ。
夏帆の膝の上に、和都はそっと、スケッチブックと1本の鉛筆を置いた。
そこに、何を描くでもない。
ただ、スケッチブックと鉛筆に触れていることが、今の夏帆に安らぎを与えるようだ。
幼い女児が、お気に入りのぬいぐるみを何時も手放さないように、スケッチブックと鉛筆は夏帆の身体に沁みついているのだろう。
行って来るね。裁判所に。
今日は、検察側証人として、いや、違う。キミの代弁者としてだ。
夏帆、キミなら法廷でどんな証言をしたい。
犯人にどんな刑罰を望みたい。
今の俺には、何も解からない――――。
ただ、1ついえることは、大切な人を守りぬくために、イレギュラーした人生からレギュラー復帰を果たした人生を目指すことが今の最大限の課題だと、和都は我の過ちを振り返るような感慨に浸りながら、裁判所へと向かった。
引き続き、最終話となる予定の第6話につきましては、今月中に(R3年9月)にはアップを目指し、邁進努力している所存です。
本作品の連載当初は、このようなストーリ設定はなく、長期間、著者自身の精神的・身体的な治療に取組む中で、症状が安定している時に読んだ参考文献を読み進める中で、もっと、この作品中に、こんな事を社会に訴えたいとかの思想が沸いては消えました。
そして、生きることと人生の意味について、大きく変化が起きたのがストーリ変更の一要因にありますが、それほど、大袈裟な考えではなく、長期間連載を中断してしまった結果、新たに取り入れたアイデアを採用した次第です。
どうぞ、もう少し読者諸氏にお付き合いいただけたなら、著者としましてもこの上ない幸いです。