第2話/罪と償い。
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主文ー被告人を懲役1年2月に処す。本刑に未決勾留日数90日を算入する。
身体全身に何とも言えない震えが走った。今にも吐き出しそうになる嘔吐を呑み込み、震える足を必死に支える様にして、立っているのが精一杯だった。
裁判官が認定した事実と量刑について淡々と、判決文を読み上げている。今、ここで何が起こっているのか、悪い夢でも見ているのか、そうだ。そうに決まっている。
和都は、現実を打ち消すように必死に、どこかへの逃げ場所を探していた。しかし、法廷には逃げる場所なんてない。右と背後には刑務官がいるからだ。
前には裁判官、左手には検事がいる。そして左には被告人の弁護人がいる。傍聴人たちがいる。まるで、四方八方を塞がれたリングの中で、逃げ場所を失った咬ませ犬のボクサーのようだ。左右前後、どこに逃げても、強烈なパンチを浴びせられてしまう。
もう、立っていることが不可思議だ。倒れようとしても、相手のパンチが飛んできて倒れることすら許されない。
「……以上が、裁判所で認定した事実に相当法条を適用して、主文の通りの判決となりました」
静まり返った法廷で、裁判官の声だけが木霊するように、響いている。
「えーっ、。あなたみたいな人は刑務所に行くべきです。罪人なんですから……」
え!何だろう?何を言っているのだろうか、この裁判官は。突然に耳が聞こえなくなった見たいに両耳を塞いで、ただただ、項垂れながら床に顔を落としている。もう、倒れてこの場所に座り込みたい。聞きたくない。何も、もう聞きたくない。
嗤っている。裁判官も検事も、弁護人さえも。そして、背後にいる傍聴人たちも―――
ふっと、目が覚めた和都は、身体を起こして頭を小さく左右に振った。また、嫌な夢を見たようだ。薄っすらと灯された常夜灯の薄暗い闇に包まれた下で、他の受刑者たちの寝息を窺うように、四方をぼんやりと眺めた。
ここにいることが、犯した罪に対する償いなのか。それとも、この償いは一生続くのか。神様から許されるまで。何を肯定し、何を否定しなければならないのか。
あの時の裁判官は、こう言っていた。
「書家の相田みつおさんは、こういってます。「つまづいたっていいじゃないか、人間だもの」と。この意味をどうあなたが捉えるのか。ボクサーがリングの上でKOされって、完全な敗者となってもリベンジマッチという、チャンスが巡ってくるかも知れませんよね。腐って自分を悲観するばかりでは、何も人生は変えられない。起き上がって前に歩いていかないと、ずっと躓いたままで終わってしまいます。そして、どんなことにでも厳粛なルールがある以上は、そのルール違反があればペナルティーを背負います。手を抜いた練習をして試合をまぐれで勝っても、次の試合には勝てない。そんなには世の中は甘いものではないはずです。日々の積み重ねが何よりも大切です。苦しい場所から目を背けて、そこから逃げていてはいけません。償いとは何かを考えてみてください。新たな人生を切り開くための更生には何が必要なのかを、しっかりと考えてみてください―――」
この言葉に、何か心が動かされた。何をやっているんだ。今まで、何をやっていたんだ。
あの時の事を忘れていた。いや、忘れたかった。医師から網膜剥離と宣告されてから。そして、ジムから引退勧告を受けた日から。将来を有望視された選手なら、ジムや後援会からの支援も受けられるかも知れない。
後援会というスポンサーさえ将来に期待できない、ただの咬ませ犬程度の4回戦選手なんて、吐いて捨てるほどいる。都会の片隅に埋もれて生きるホームレスの様に。要は、社会のゴミ屑の様にだ。
しかし、ホームレスの人たちだって、必死に生きている。何故、ホームレスになったのか、その理由は人様々だろう。だからと言って、彼らが社会のお荷物なのかと言うと、そうではない。それに気付かされたのは、判決後の裁判官による説諭だった。
「人は、犯罪を犯さない生き物とは、決して言えません。死ぬまでがルールの上で生きているからです。その時まで、罪を犯さない人だとは、誰にも解らないことになります。あなたの場合は、生きている途中で罪を犯しましたが、これから犯さないことができます。この裁判が、これかのあなたの運命を変える分岐点となるかを、顧みてください」
あの日、実刑判決を受けて刑務官に手錠と腰縄をされて、法廷裏の出入り口から勾留されている被告人が収監される裁判所内の仮鑑と言われる、待機室に戻る時だった。あの裁判官は、確かにこう言ったのだ。
私も、もう一度リングに上がってみたい――――――。
和都は、何故、裁判官がもう一度リングに上がってみたいなどと、誰にともなく呟くように言ったのか、その、真意が計り知れなかった。一審判決の控訴期間が満了し刑が自然確定したことによって、未決囚から既決囚の部屋へと移るために、僅かばかりの荷物を纏めていると、「起訴状」と「公判期日呼出状」に目間が止まった。何れも裁判所から警察の留置場で勾留されている時に、送られて来たものだ。「公判期日呼出し状」とは、起訴された事件の裁判の日と開廷時刻が記載された書類だ。そこには、事件を審理する、担当裁判官の名前も書かれている。
裁判官ー嶋中辰嘉――――――
何処がで聞き覚えのある名前だが、同姓同名だろう。まさかな。過去に、世界戦目前といわれながら、網膜剥離で引退を余儀なくされ、惜しまれながらも引退して行ったプロボクサーがいた。確か、WBC世界スーパーフェザー級6位にランキングされ、日本タイトルに挑むことが決定していた。その試合は実質、世界王座挑戦者決定選と称されて、当時の嶋中選手のために用意された舞台だった
当時、21歳で現役の大学生プロ選手として話題を集め、「トライアル・ソルジャー」との、異名を誇っていた。
トライアルとは、裁判のことだ。つまり、リングの上で、相手に判決を下す様な多彩なるパンチを放ちながら闘う姿勢が共感されて、現役学徒のボクサーに付けられたニックネームが、リングの上で「裁判をする戦士」の意味を含めた愛称を、サイドネーム的に冠して呼ばれていたのだ。
この事実を和都が知ったのは、今の刑務所に入所してからだった。
雑居房の室内に、起床を告げるメロディーが流れた。和都は、あの裁判官のことに思い耽っている間に、再び寝入っていたらしい。
室内の受刑者たちが一斉に、バタバタと布団を片付け始めた。何時もの見慣れた光景が1日の始まりとして、毎日何も変わることはない。
刑務官の点呼を終えて、麦の混じったご飯に粗末なおかずと味っ気のない味噌汁で、急いで朝食を済ますと、作業場の工場へと出役する。
イッチーニィー、イッチニィーと、受刑者たちは工場まで声を張り上げながら、刑務官の引率に従って、行進しながら工場に向かう。
1、2、1、2と和都は復唱しながらも、これは人生のリターンマッチのための練習をしているのだと、自分に言い聞かせていた。
決して苦しみを諦めてはいけない。どうしても諦めなければならない苦しみは、自分の夢や希望が何かによって絶たれた時に、必ずやって来ます。それは人生の転機だと、ポジテブに考える事によって辛い苦しみとは、本質が異なっている。今は、自分の犯した罪に対する辛い苦しみだ。
ここから逃げないで、与えられた罪を償って、社会復帰して行く上での更生の場所に来ている。あの裁判官が、与えてくれた練習課題を成し遂げるために。
少しづつ、焦らないで一歩一歩これからの人生を歩んで行って下さい。辛いことの後には、きっと、目的を成し遂げた喜びがあり、人が成長するための全ての糧となって行くはずです。これからの、あなたの人生に期待しております――――――
この言葉を、最後に掛けられた時から、自分の犯した罪を償って、もう一度KO負けした自分の人生から立ち上がって、リターンマッチのための社会復帰を目指す意思を固めた。
「368番、我爪―ぇ、作業を止めて担当まで」
突然に刑務官に呼ばれた和都は、工場担当刑務官の監視台まで、小走りで駆け付けた。
「これから面接だ。連行する刑務官の指示に従え」
何時も厳しい顔付で、受刑者を監視している刑務官の顔も、どことなく綻んでいる。
ついに来た。仮釈放のために更生保護委員会による、面接が行われるのだ。この面接によって、仮釈放の可否が決定される。
和都は、今回の事件で受けた判決より前に受けている確定判決によって、執行猶予が取消されている。ここまでの道のりは、長っかった。でも、これからの社会での道のりの方が、もっと長いはずだ。出所してもまだまだ、色々な困難や苦境に立たされることだろう。その与えられた境遇に逆行する様に、苦しいことからはもう逃げないと、改めて誓った。
1、2、1、2と、連行する刑務官の号令を復唱しながら、嬉しい喜びを強調するように1、2、1、2と歓声を込めて、和都は面接室へと向かって行進した。