第1話/判決と説諭
プロローグー
自分から、ケンカを吹っかけた訳じゃない。どこか、ヤンキー風の奴らがニヤケた顔で向こうから連なって歩いて来たのを、行き交おうとするところを避けようとした。先に奴らが、腕がぶつかったから気を付けろと、難癖を付けて来たので奴らの目を睨み返してやった。
自分からケンカを仕掛けたりは決してしないが、売られたケンカからは逃げない。息を切らして、ボコボコに殴られて蹴られた身体で、路上で倒れているところを、警察官に保護された。
母親を亡くしてから、児童養護施設に引き取られた我爪和都は、中学卒業と同時に寮のある新聞店に転がり込んだ。しかし、何か心にポッカリと空いている隙間みたいな、もやもや感が埋められなかった。理不尽な社会に反抗するかの様に、ケンカを繰り返した。その度に、養護施設の職員が、警察署に和都の身柄を引き取りに来た。
実の親権者である母親を亡くしている和都の現在の親権者は、家庭裁判所が選任した児童養護施設の所長と、定められていたからだ。
腹減っているだろう?飯、食って行くか。厄介な役を与えられた職員が、その時は珍しく、優しい言葉を掛けてくれた。和都は頷くでもなく黙ったまま、その職員の入った店の暖簾を潜った。
豚バラ肉の焼肉定食に、脇付けされた小鉢に盛られている厚揚げの煮物が、どこか懐かしく感じた。煮物を口に頬張ると、この味はっと和都は不思議な眼で前に座っている職員を、見つめ返した。どこか顔を崩している職員は何も言わずに、どうだ美味いだろうとでも言わんばかりの眼で、和都を見ていた。
ここで、働いてみないか。母親は、料理が得意だったそうじゃないか。何かで自分を変えないと、亡くなった母親だって何時までも浮かばれずに、和都君を心配したままだぞ。今は未成年で許されることでも、成人したらそうもいかないもんだ。来年は成人になるんだから、本気で社会に挑戦していかないと何時までも人生の敗北者のままだぞ。
人の好さそうな、ふっくらとし顔の店主が厨房内から、淀みない眼差しで和都を見ていた。刹那、過去の記憶が和都の脳裏を霞めた。
おふくろの葬式に列席していた顔が、そこにあったからだ。この厚揚げの煮物の味は、おふくろの味だと確信した瞬間だった。焼肉定食に厚揚げの煮物が付いていることに、どこかアンバランスを感じながらも、和都の心は動揺していた。
壁に掛けられたテレビでは、プロボクシングの世界タイトルマッチが流され、何人かの客が歓声をテレビに向かって沸かせていた。
あんな煌やかな世界もあるのかと和都は、ただぼんやりとテレビを眺めていた。本気で何かに挑戦しないと、社会の隅っこで人からこっそりと隠れて生きていても、誰にも発見されないまゝ、何時かはひっそりと息が途絶えてしまう。
そんな将来が、絶望的な事が幾重もの線と絡まってしまいそうな迷いが、和都の思案の種となっていた。
店主は、和都の過去には何も触れないで、自分の店で雇ってやれないものかと、憂色な顔付で厨房から顔を覗かせて言った。
「手伝って欲しいのは、早朝からの仕出し弁当の仕事なんじゃけど」
声のする方へ、和都は一瞥をくれた。厨房から料理を受取るカウンターには、バンダナキャップを被った店主の奥さんらしき中年女性が目を細くして、にこやかな眼差しを和都に向けながら立っていた。
おおーっ!こりゃーあ、チャンピョンはもう立てん立てん、と店内に歓声がひと際と上がった。和都は、テレビの方へと振り返った。
かろうじて立ち上がったチャンピョンが、猛打を浴び続けレフリーが割って入った。新チャンピョン誕生の瞬間だった。テレビ観戦していた数人の客が、拍手で新チャンピョンを称えていた。リングの上で喜びを一杯にしている、新チャンピョンの顔がアップで映された。
まだ、和都と然程の歳の差を感じさせない、今で言うイケメン風の顔に激闘の後が残されているが、沢山さんの人たちに囲まれて、喝采を浴びている。
今日の相手は三人だったからな。リングの中での1対1なら負けないはずだ。人に感動を与えるとは、こう言うことなのかもなと、どこか不透明な思いを抱きながらも、和都はこれから自分が進むべき方向性に迷わされていた。
本気になって、何かをやってみるかと――――。
本気にならないと、何も救われない、そして、何も変わらないのだからと――――。
( 1 )
「では、あなたに対する窃盗被疑事件についての、判決を言渡します」
裁判官が被告人に氏名を確認する質問をしてから、事務的な口調で言った。
「主文‐被告人を懲役1年に処する。但し、本判決確定の日より、3年間本刑の執行を猶予する」
被告人は俯いたまま、裁判官の判決言渡しを聞いている。その細い身体全身に僅かに震えているように映るのは、被告人としても抑えようとしても押さえられない震えなのだ。それは、法廷と言う檻の中で生じる独特の緊張感と、実刑判決から逃れられたという望みが適えられた安堵感とが、被告人の頭の中で自然と交錯して、必然的に身体に生じて起こりうる現象だ。
傍聴席に座り、柵の向こうの被告人席に立つ後ろ姿を見つめながら、我爪和都は自分の体験を回顧していた。過去の自分もあそこに、立っていたんだと。
裁判官は淡々と、裁判所で認定した事実と量刑に至った経緯を述べている。裁判官から見て右席にいる検事も左席にいる弁護人も、裁判官の声のする方へ耳を傍立てて聞き入りながら、ペンを走らせメモを取っている。
「……以上が当裁判所で認定した事実であり、これに相当法条を適用し、主文の通りの判決となりました」
裁判官は、被告人の方に向かって言った。和都の座る傍聴席からも、ハンカチで目頭を何度も拭っているのを、被告人の後ろ姿からも見て取れる。
自分の犯した罪は、悔いても悔いても悔やみ切れないと、和都も身を持って体験している。あの被告人も判決の言渡しに伴って、執行猶予というチャンスを与えられたことで、力みが抜けて内心でほっとすると同時に、悔悟の涙が自然に溢れ出てしまっているからだろう。
「えーっ、あなたは――――」
厳しい口調で判決文を全て読み終えた裁判官が、一転して被告人を諭すような優しい口調を交えて、語り始めた。傍聴席に座っている和都が、裁判所に傍聴に来るのも、このシーンに大きな期待を込めているからだ。
「決して、この世の中で1人寂しく生きている訳ではないと、自分でも分かっていますよね。あなたのために、会社を休んで情状証人として来てくれている娘さん。そして、あなたを支えるために今までどおり会社で雇用して、しっかりと更生させたいとの思いで、減刑を求める「嘆願書」を提出してくれた勤め先の上司の人たち。たくさんの人たちに支えられていることを忘れないでください。ご主人を事故でなくされた寂しさという葛藤が、あなたの心の中にあることは、裁判所としても理解できます。ですが、あたなが万引きした商品もたくさんの人たちの手で作り出されて、この社会に流通しているものです。わかりますね」
コクリっと頷いて、ハンカチを鼻に当てがってすすり泣く、被告人のその後ろ姿は憐憫に包まれているように、和都の目には映った。
「執行猶予の意味は理解していると思いますが、裁判所の方から念のため説明すると、直ちにあなたを刑務所に収容しないで、3年間の間は刑の執行を猶予して刑務所には収容しないでおきます。但し、この間に再び同じ犯罪を繰り返してしまうと、次回は刑務所に入ってもらうことになります。その時は、今回の分の刑と合わせた長期間刑務所に、収容されることになります。あなたの有利・不利、全て検討した上でこの判決となりました」
執行猶予期間中に、再び罰金以上の罪を犯してしまうと、執行猶予は取消されてしまうこともあると、裁判官は言っているのだ。和都も執行猶予中に同じ罪を犯してしまい、刑務所に2年間も収監されていたことがある。懲役刑というのは、人の自由を奪って刑務所で、労働に従事させて拘禁することだ。
懲役刑や禁固刑が自由刑と言われるのは、人の自由を国家権力で剥奪してしまい、国の機関である刑務所に入所させて、判決で決められた期間の間は犯した罪を償わせ、真っ当な社会人として更生させることを目的としているのだ。
「これは、前科となりますから例え、執行猶予期間を無事に経過したとしても、やはり同じような犯罪をまた犯してしまうと、今度は刑務所に入ってもらうことになるかも知れません。ですから、決して自分はそんな場所に行かないんだ。行ってはいけないんだと言う、強い気持ちを持って気を抜かない生活を送ってください。よろしいですね」
被告人は何度も何度も、裁判官の方へ頷き返した。
「今日も、娘さんが来られているようですが、もう一度、母娘であることの意味を考えて見てください。あなたを大切に想っているからこそ、来てくれているんだと言う事を。そして、あなたが生んだ娘さんを、二度とこのような場で悲しませる事、そして今回のチャンスが、今後も、あなたにとってアンラッキーに変わらないことを期待しております」
裁判官の顔が、どことなく和やかに変化したの和都は、見逃さなかった。裁判官は、被告人に対する説論の中で、あなたが憎いんではない。罪が憎いんだと、法壇より一段低い場所の眼の前にいる、被告人に向かって問い掛けているのだ。
「この判決は有罪判決ですから、この判決に対して不服がある場合は、本日から15日以内に控訴状を、当裁判所に提出したてください。ではこれで閉廷します」
裁判官が立ち上がって、軽い礼をすると同時に検察官も弁護人も、そして傍聴席人たちもみんな立ち上がって、裁判官の方へ、お決まりの儀式のように礼を返した。
開廷した法廷から出て行く傍聴者の人々の中で、1人だけ立ったまま、礼の姿勢を続けている若い女性がいた。情状証人として来ていた被告人の娘さんだ。
恐らく、自分の母親が執行猶予というチャンスを、裁判官からもらったことの、感謝を捧げているのだろう。
前回が20万円の罰金刑で、今回は再犯者として、懲役1年執行猶予3年の判決。この判決が法律的に見て妥当な判決がどうかは、和都には解らない。裁判所の判決は過去の類似事件を参考に、判決をすることが原則的になっている。
つまり,これが被告人が償うべき刑罰としての最終的な量刑だと、裁判所は言っているのだ。この第一審の判決に不服な被告人は、第二審へ控訴ができる。そして、控訴審の判決に不服なら終審としての、第三審である最高裁判所へ上告もできる。
裁判だって、所詮は人間のやることだ。決して誤りがないとは言えない。そのために、三審制と言べき、裁判制度が設けられている。
しかし、自らで行った犯罪を有罪だと被告人が自白している以上、刑事裁判での争点となるのは執行猶予判決と懲役刑や禁固刑に対しての量刑のみとなるのが、慣例的な裁判だ。被告人に最も有利な情状証人となるのが、家族などの親族が今後はしっかりと被告人を監督し、更生の手助けをして行くことを証言してくれることだ。
あの被告人も控訴することなく、母娘と言う絆でこれから明日からの未来に向かって、しっかりと歩いて行くことだろう。
何処かで躓いて、逃したチャンスを掴むための、リベンジマッチとしてもだ。
法廷を出た和都は法廷前の廊下でノートに、裁判官が説諭していたことを覚えている限り、書き込んだ。傍聴席でもメモを取ることは許されているが、全てを書き込むのは速記技術でも持ってい事には到底に無理だ。法廷内では録音・録画は禁止事項だからだ。
和都は裁判傍聴をし始めてから、新聞記者などがメモを素早く書き留めていることに不思議に思っていた。始めは速記をしているのかとさえ、思っていた。
でも、速記というのは速記技能検定などの難関を突破する必要があるらしい。民間資格とは言え、速記技能は初心者の6級から速記士とか速記者と言われるプロとして活躍の場を広げることもできる、1級までと速記レベルに応じてランク別けされている。
でもある新聞に、新米新聞記者としての奮闘記が特集された記事を見て、独自にメモ作りをして、その後に文章として纏めているとコメントされていた。慣れるまでかなり試行錯誤を繰り返して、自分なりのメモ作りの手法を身に付ける。これが一番、新聞記者としてのスピーディーさが要求される作業だと知った。それから、和都も独自のメモ作りをしている。ノートを閉じて次の裁判を傍聴するために、目的の傷害事件の判決言渡しのある法廷へと、和都は向かった。
開廷ランプが点灯するのを待ってから、傍聴席へ入った。まだ被告人が立っていない証言席を見つめながら、過去のあの日の自分を顧みた。
あの時、和都はテレビで放送されていた世界タイトルマッチという檜舞台で、勝利者インタビューを受けていた新チャンピョンに刺激され、ケンカ三昧の日々に見切りを付けてボクシングを始めた。アマチュアの経験さえも全くない和都は、1年近く掛けてようやくと4回戦で戦う資格である、C級ライセンスを取得した。
仕事は寝床である寮が確保できる、新聞配達だった。あの時の職員の言葉に頷いて、あの食堂で働くことも選択肢としてはあった。しかし、あのまま職員のアドバイスに従うには、何処か児童養護施設の延長線上に自分を置いている蟠りみたいなのが、払拭できなかった。
夜の練習を終えて、寮へと帰宅に向かっている際に、何処かで見覚えのあるオヤジ顔が困惑気味の表情で、看板の明かりや街頭の明かりが射す下で何人かと、いざこざとしていた。酔っ払い同士のケンカだろうと通りすがろうとするところを、見覚えのある顔に拳が放たれた。相手はツッパリ風の、まだ和都と然程に変わらない歳ほどの2人組だった。拳を放った方の男の腕には、タトゥーが見えた。
このままじゃあ、あのオヤジはこっぴどくやられてしまうなと危険を察して、そのまま和都が間に割って入った。オヤジさんの方を庇って、2人の前に立ちはだかると、容赦ない拳や蹴りが飛んできた。
パンチや蹴りはケンカ慣れした程度の、威力しか感じなかった。プロの放つ、拳の威力や受けた時に走る衝撃の痛みと比較すると、歴然と違うなと鼻で相手2人をあざ笑っていた。
怒鳴り散らしながら攻撃して来る2人は、和都が微かに見せるプロ仕込みのディフェンスワークに、少したじろぎながらも、捨て台詞を吐いて去っていた。
あんた大丈夫かいと言う、オヤジさんの顔を見ながら和都は、してやったりとも言いたげに、少し腫れ気味の顔を向けて、口から血の混じった唾を地面に吐き捨てた。
あれが、おやじさんとの2度目の顔合わせだった。久し振りに、あの厚揚げの煮物が食べたくなったと、破顔一笑の顔を国満のオヤジさんに向けてから、これが本当の意味で、禍を転じて福となすと呟いたのを、和都は今でも忘れることなく覚えている。
何かの縁を大切にしながら、人間関係をスキルアップさせて新たな事にチャレンジしながら、どこか弱い自分の精神面を鍛錬するのも良いかも知れない。
和都の人生を変える起算点は、あの日にあの食堂の暖簾を初めて括った時から、始まっていたのだった。
傍聴席も満席状態になり、開廷のカウントダウンが始まるように、被告人に続いて裁判官が入廷して来ると、法廷廷吏から起立の号令が掛けられた。
では、本日は判決言渡しですので、被告人は証言席の前まで来てください―――。
始めに、読者諸氏に著者からのお詫びに変えて。
「男女恋愛法」の執筆を終えてから、最新作の作品のアップが当初の予定より大幅に遅れてしまったことをお詫びいたします。そして、当初は短編の一回限りの読み切り作品をアップする予定だしたが、その読み切り作品にもっと大幅に加筆を加えて、全編・後編という形の短めの連載作品へと変更しました。
この後、第2話を続けてアップして、来週中には作品の完結へと繋げる予定です。現在進行形で、加筆・訂正・編集作業へと追われてます。
何はともあれ、とにかく、作品に対する読者諸氏の反応を知りたいので、急いでアップしますのでご一読の方を宜しくお願い致します。