エピローグ
(さて……どう落とし前を付けてあげようかしら)
カーラは、複合ビルの壁に寄り掛かりながら、ぼんやりと通りを眺めていた。
シティのメインストリートの一つでもあるこの通りは、休日の昼前ともなると、大勢の人でごった返す。
はしゃぐ少年を連れた仲の良さそうな若い男性と女性。
休日だというのに仕事があるのか、手帳に何かを書き込んでいるスーツ姿の中年男性。
映画のパンフレットを手に持ち、談笑して歩いている同年と思しき三人の少女。
暫くの間、カーラは行き通う人々を何の気なしに観察していた。
だがすぐに飽きてしまい、小さく息を吐く。
碧い瞳を瞼の奥にしまい、腰まで伸びた金髪を、丁寧に指で梳く。
早起きしたカーラにまず与えられた仕事は、この金髪に蔓延った頑固な寝癖を、綺麗に整えることだった。
初めは櫛を使って寝癖を駆逐しようと奮闘したのだが、どうにも難しく、結局シャワーを浴びることにした。
濡れた髪をドライヤーで乾かして櫛で梳かすと、ようやく寝癖は、彼女の頭から絶滅した。
次は朝食の用意だった。
カーラが暮らす孤児院では、十八歳の彼女は施設内では年嵩の人間にあたり、朝食の用意はもっぱら彼女の役割となっていた。
寝ぼけ眼で起きてくる子供達に顔を洗わせて、ありあわせで適当に作った朝食を、子供達に配ってやる。
メニューは目玉焼きとベーコン。
黄身が潰れていることに愚痴をこぼす子供もいたが、すぐに――鉄拳制裁すると――大人しく食べ始めた。
大量の食器を洗い終えると、遊んでくれとせがむ子供達を振り切って、カーラは素早く自室に戻る。
洋服ダンスから赤のワンピースを取り出すと、それに手早く着替え、すぐさま鏡台の前に座り、化粧を始める。
約束の時間まで、あと僅かしかない。
化粧もそこそこに切り上げると、いつも身に付けているネックレスを首に掛け、カーラは孤児院を飛び出した。
道を全力疾走し、バスに滑り込むように乗り込む。
噴き出した汗で化粧は崩れ、一張羅のワンピースは皺だらけになってしまう。
だがそれら尊い犠牲のおかげで、カーラは約束の時間に間に合った。
だが――
その待ち合わせの相手が、遅刻しやがった。
(まずは鳩尾に爪先をねじ込む。
そして下がった顎を拳で跳ね上げて、足を払う。
無様に倒れ込んだところを馬乗りになって、鼻面を何度も殴りつけて――)
遅刻した相手の歓迎方法を、綿密にシミュレーションしながら、カーラは相手の到着を黙して待った。
五分後。
カーラの前にあるバス停に、一台のバスが停まった。
バスから数人の乗客が降りてくる。
そしてその乗客の一人が、カーラの下に駆け寄ってきた。
黒髪短髪の細身の男性だ。
全体的にひょろ長く、頼りない印象を受ける。
柔和な笑みを浮かべたその男性は、カーラの手前で立ち止まると、朗らかに彼女に挨拶をした。
「おはようカーラ。
じゃあ、早速だけど行こうか?」
カーラはその男性を鋭く睨むと、腹の底から怨念を絞り出すように、おどろおどろしい低い声音で喋りだす。
「遅刻しておいて、謝罪の言葉もないのかしら?
ジャック」
カーラの言葉に、男性――ジャックはきょとんと目を丸くした。
彼は自身の右腕に付けた腕時計をさっと確認すると、首を傾げて怪訝な表情を浮かべる。
「遅刻?
約束の時間五分前だけど」
今度は、カーラがきょとんと目を丸くした。
すぐに自分の腕時計を確認する。
間違いなく、約束の時間から五分が経過している。
ジャックに反論しようと口を開き掛けたカーラだが、ふとあることを思い出した。
「……そう言えば施設の時計って、原則十分前行動とかそんな理由で、全ての時計を十分ずらして設定してたんだった。
その時に、自分の腕時計も……」
つまり、ジャックは遅刻などしておらず、全て自分の勘違いだったわけだ。
がっくりと肩を落とすカーラ。
そんな彼女に、ジャックがカラカラと笑う。
「またかい?
ほんと、カーラはしっかりしているようで、どこか抜けているよね」
「ぐっ……」
羞恥に顔を赤くするカーラ。
言い返してやりたいところだが、明らかに自身に否があるため、彼女は悔しさを堪えて口をつぐむ。
カーラは大きく深呼吸して顔のほてりを取ると、「あーあ……」と口を尖らせる。
「こんなことなら、必死になって走らなきゃ良かった。
疲れただけ損したわ」
そのカーラの言葉に、ジャックがぎょっと目を剥いた。
彼は慌てた様子でカーラの肩を掴むと、彼女に顔を近づけて言う。
「走っただって?
本当なの?
カーラ!」
カーラは「あ……」と口元を手で覆い隠し、余計なことを口走ってしまったと後悔した。
真剣な眼差しでカーラを見つめるジャック。
彼のその視線から逃れるように顔を逸し、カーラは歯切れ悪く、言い訳を展開する。
「えっと……少しね。
でも大丈夫よ。
転ぶようなヘマはしないし……ほら、私って運動神経いいでしょ?
こんなこと、何でもないんだから」
「そういう問題じゃないだろ。
君は今、大事な身体なんだ。
もしものことがあったら、どうするつもりなんだよ」
「大袈裟よ……予定だってまだ半年以上も先なのに……それに、遅刻すると思ったんだもの。
仕方ないでしょ?」
「遅刻ぐらいで僕は怒ったりしないよ。
むしろ君にもしものことがあったら、それこそ僕は後悔してもしきれないし、だいたい……」
カーラは――ジャックに気付かれないよう――小さく溜息を吐いた。
ジャックがカーラの身体を、本気で心配して言ってくれているのは、分かっている。
だが少々面倒臭い。
カーラは、ブチブチ小言を続けるジャックを無視して、何か彼の気を反らせるものがないかと、周囲を見回した。
そんな彼女の視界に、小さな女の子を抱えた男性が写った。
カーラは手を上げて――と同時に、肩を掴むジャックの手を振り払う――、その女の子を抱えた男性に向かって、声を上げた。
「ロメインさん!」
男性――ロメインが声に反応して振り向いた。
手を振るカーラに、ロメインが笑顔を浮かべて近づいてくる。
何か言いたげな表情で、ジャックがカーラを見つめる。
だが結局、彼は何も言わずにカーラから一歩離れると、近づいてくるロメインに向き直り、小さく会釈をした。
ロメインが、ジャックの会釈に手を上げて応え、二人の前で立ち止まる。
「こんなところで偶然だね。
ジャックにカーラさん。
今日はデートかな?」
「はい。
ロメインさんはお嬢さんと買い物ですか?」
ジャックがにこやかに応える。
ロメインは、ジャックが勤める会社の先輩だ。
物腰の柔らかい知的な青年で、まだ二十歳後半の若さでありながら、仕事で幾つも大きな成果を上げている、優秀な人物である。
ロメインは「まあ、そんなところかな」と笑いながら、抱えた女の子を少し揺らした。
女の子が大きな目を瞬かせると、ロメインは優しい声音で、女の子に話し掛ける。
「ほらベル。
カーラお姉さんだよ。
ちゃんと挨拶をしなさい」
女の子――ベルの愛らしい瞳が、カーラに向けられた。
カーラは身体の前で両手を左右に振り、ロメインの言葉を訂正する。
「ロメインさん。
何度も言いますが、私はクララの実妹という訳じゃないんですよ。
同じ施設で姉妹のように育ったと言うだけでして、血の繋がりはありません」
「良いじゃないか、細かいことは。
クララは君を本当の妹だと思っていた。
なら、クララの夫である私にとっても、君は大切な妹に違いはないよ」
そう言うと、ロメインはベルの手を掴んで、カーラの前に差し出した。
カーラは多少躊躇しつつ、そのベルの小さな手を握る。
ベルは、二年前にロメインとクララとの間にできた子供だ。
クララはカーラと同じ施設で育った三歳上の女性であり、カーラにとっては姉のような存在であった。
そのため、クララの子供であるベルのことを、カーラは本当の姪っ子のように愛おしく思っていた。
もっとも、まだ二歳のベルにはカーラが何者であるか分からないらしい。
ベルはぽかんとした表情で、カーラをじっと見つめていた。
その何とも言えない可愛らしい表情に、カーラの頬が思わず緩む。
と――
ここでロメインの首に掛けられているネックレスに、カーラの目が止まった。
「このネックレスは……」
「ん……ああ、これね」
ロメインがカーラの視線に気付き、自身の首に掛けられたネックレスを、指先で摘む。
暫くそれを愛おしそうに眺めてから、彼がニッコリと微笑む。
「そう、クララのネックレスだよ。
彼女の形見さ。
本当は娘にって渡されたんだけど、ベルはまだ小さいからね。
飲み込んでしまうかも知れないから、私が付けているんだ。
ベルが大きくなったら、渡すつもりだ」
するとロメインが「あっ」と呟き、頭を掻いて苦い笑みを浮かべた。
「これは……失敬。
折角のデートだと言うのに、邪魔してしまったね。
私はここで失礼させてもらうよ。
それとジャック。
さっきも言ったが、カーラさんは私の妹なんだ。
彼女を悲しませるようなことだけはするなよ」
「は……はい。
もちろんです」
背筋を伸ばして、ジャックが応える。
ロメインは満足したように頷くと、「それじゃあ、また」と、二人に背を向けて歩きだした。
ロメインの姿が人混みに消えると、ジャックは「ふう」と小さく息を吐く。
そんな彼を見て、カーラが意地の悪い笑みを浮かべる。
「なに?
そんなにロメインさんが恐いの?
あんな優しい人が?」
その言葉を、ジャックは慌てて否定した。
「バカを言うな!
僕はロメインさんを尊敬しているだけだ!
常に余裕のある物腰に、卓越した頭脳。
さらに他者への気配りと、あんな素晴らしい人は二人としていないぞ」
興奮するジャックに、カーラは内心でほくそ笑む。
どうやら彼は、彼女に説教していたことを、すっかり忘れてしまったらしい。
(本当に単純なんだから)
もっとも、カーラはそんな純朴なジャックに惹かれたのだ。
必死になって言い訳をするジャックに、カーラは微笑みを浮かべる。
そしてふと、彼女は思い付いた。
「そうだ。
私も忘れないうちに言っておこうかしら」
ジャックが眉を曲げ、「何を?」と不思議そうにカーラに訊き返す。
カーラは首に掛けたネックレスを指で摘むと、それをジャックに掲げてみせた。
そして――少し意識的に――平然とした口調で、ジャックに伝える。
「私が死んだら、このネックレスを子供に渡してあげて。
私の形見だって言ってね」
ジャックの表情が硬直する。
その彼の反応は、カーラにとって予想通りのモノだった。
カーラは困ったように眉を曲げ、「そんな顔しないで」と苦笑する。
「仕方ないことなのよ。
ジャックも知っているでしょ?
だって私は――」
カーラは淀みなく言った。
「二十歳までしか生きられないんだから」
それは、施設で暮らす一部の女性にだけ見られる、奇妙な病だった。
一年前に亡くなったクララを含め、今まで多くの施設の女性が、この病により二十歳で命を落としている。
この病の原因は、遺伝子の突然変異だと聞いている。
だが正直、カーラにはよく分からなかった。
興味がないわけではないが、どちらにせよ、自分が二十歳で死んでしまうことに変わりはないのだから、今はもう深く考えないようにしていた。
だが――
「昔はそれを不公平だって怒ったこともあったわ。
どうして私がこんな目にって、恨んだこともあった。
もう私は幸せになることなんてないんだって、諦めていた。
でもね――」
カーラはジャックに微笑んだ。
「あなたはそんな私でも、好きって言ってくれたわ。
そんな私でも、ちゃんと愛してくれた。
それが、私はとても嬉しかった。
そして、何よりもあなたは、私を――」
カーラは、そっと自分の下腹に手を当てた。
愛おしそうにお腹を撫でて、小さく呟く。
「母親にしてくれた」
お腹に眠る新しい生命。
例えカーラが二十歳で命を落とそうと、その彼女の命を繋いでくれる存在が、今ここに宿っている。
それがカーラにとって、一番の救いだった。
悲しげに表情を沈ませるジャック。
カーラはそんな彼の胸を、拳で小突いてやる。
はっと目を張るジャックに、カーラは悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「情けない顔しないで。
あなたはこの子の父親になるのよ。
そんなヘタレ顔見せられたら、安心してあなたに、子供を預けられないでしょ?
そしたら私、化けて出るかもよ?」
カーラの冗談めかした言葉に、ジャックはきょとんと目を瞬いた。
そして暫くしてから、ふっと微笑み、自分の胸に当てられたカーラの拳を、包み込むようにして両手で握る。
「それは……怖いな。
僕が幽霊苦手なの知っているだろ?
大丈夫。
君と僕の子供は、何があっても僕が守ってみせる。
守れるほど強くなるよ」
「頼むわね。
お父さん」
ニッコリと笑うカーラ。
ジャックも「まかせてよ」と、彼女に強く笑い返した。
ジャックは、握っていたカーラの手を離すと、ふと気付いたようにこう言った。
「でも、形見は兎も角として、カーラはそのネックレスをいつも身に付けているよね」
「ん?
ええ、そうよ」
カーラは指で摘んだネックレスを、くるくる回しながら応える。
「私が赤ん坊の頃に貰ったものでね。
何かの記念品らしいんだけど、実は言うとよくは知らないの。
ただ、クララは大事に取っておきなさいって」
「ネックレスの先にペンダントが付いているよね?
何か彫ってあるみたいだけど」
「ああ、これね」
カーラはネックレスを持ち上げて、ジャックにペンダントをよく見せる。
「私のラッキーナンバー……らしいわ?」
「この二桁の数字が?
普通そういうのって一桁じゃないかな?」
「そんなの知らないわ。
そうクララが言っていたから、そういうものかなって」
「クララさんの持っていたネックレスにも、同じペンダントが付いていたかな?」
「あるわよ。
さっきロメインさんが付けていたでしょ?」
「じゃあ、クララさんの数字は、カーラのものとは違うんだ」
「ええ。
彼女は確か――」
記憶を探る。
忘れていたわけではない。
念のため、先程ロメインが首から掛けていたネックレスと記憶との照合を行ったのだ。
照合を終えたカーラが、頷いて言う。
「『83』よ」
「へえ」
自分で聞いておいて、興味なさげに相槌を打つジャック。
もっとも、彼はこの二桁の数字に何の思い入れもないのだから、当然だろう。
ここでカーラは自身の腕時計を見やり、「あっ」と声を上げた。
「立ち話が過ぎたわ。
もう映画始まっちゃうじゃない。
ほらジャック、もう行こ」
カーラは、ジャックの腕に両腕を絡ませて、身体を寄せた。
途端にジャックの顔が赤く染まる。
何ともウブな彼の反応に、カーラはくすりと笑う。
ジャックの腕を引いて、カーラは映画館へ向かって歩きだした。
人混みに入り込むと、カーラは行き通う人々の表情を、こっそりと覗き見る。
休日ということもあるのだろうが、誰もが穏やかな表情で、道を歩いていた。
シティは平和だ。
そんな街で、自分の大切な子供が育っていく。
そのことが、カーラは堪らなく嬉しかった。
暫く歩いていると、頬を赤く染めたジャックが、カーラに尋ねる。
「君はさっき、自分の幸せを諦めたって言っていたね。
今はどうなの?」
答えが分かりきっている質問。
それでもジャックは確認しておきたかったのだろう。
まるで子供のようだ。
カーラは、ジャックの腕を更に強く抱きしめ、彼に笑い掛ける。
「幸せよ。
誰よりも」
カーラの首に掛けられたネックレス。
その先に付けられたペンダント。
そこに彫られた二桁の数字。
それは――
『27』