暴走(2)
少女は心を乱していた。
コレは何だろうか。
少女は自問する。
だが自答ができない。
今まで感じたことがない心のざわめき。
その原因はどこにあるのだろうか。
いつもと何が違うのだろうか。
少女は、現在の状況と過去の状況との、相違点を列挙する。
いつもの服といつもの下着。
いつもの部屋に、いつものベッド。
異なるところはない。
部屋に一つだけある窓が開いている。
窓から見える景色。
それもいつもと同じだ。
その窓から、ひょっこりと少年が顔を出している。
少年は絶えず笑みを浮かべながら、ベッドに腰掛ける少女に、様々な話を聞かせている。
学校に遅刻したこと。
先生に怒られたこと。
勉強がつまらないこと。
友人と喧嘩したこと。
すぐに仲直りしたこと。
散歩が好きなこと。
近くに綺麗な公園があること。
本を読むのが好きなこと。
最近読んだ本に感動したこと。
門限を破ってしまったこと。
口煩い母親のこと。
とても恐い父親のこと。
毎日が充実していること。
少年の話は時系列がめちゃくちゃだった。
朝の出来事を話しているかと思えば、突然、夜の出来事を話し始める。
それを暫く聞いていると、いつの間にか、昨日の出来事を話していたりする。
思いついた話を、頭の中で構成し直すようなことはせず、ただ並べ立てているのだろう。
そんな少年の話も、いつも通りのことと言えた。
そしてそんな少年の話を、楽しみに聞いている自分もまた、いつも通りだ。
では、一体何が違うのだろうか。
何の違いによって、こんなにも胸の奥が、ざわつくのだろうか。
少女は記憶を探る。
常に霧掛かっているように、掴みどころのない自身の記憶。
それに目を凝らし、境界を見定め、区別された情報として取り出す。
そうしてようやく、少女は理解した。
何故こんなにも、心がざわつくのか。
少年の話を楽しみにしながらも、何故少年の話を聞く度に、心のざわつきが大きくなるのか。
少女は知っていた。
少女に笑顔を向け、嬉しそうに話し掛けてくれる少年。
その少年と会えるのが――
今日で最後だということを。
だからこんなにも、息苦しいのだ。
乾いた土団子のように、心がザラザラなのだ。
ほんの少し指で突くと、ボロボロと崩れてしまいそうなほどに、心が弱っている。
少女は自身の変化に戸惑う。
少年と会えなくなる。
ただそれだけのことで、自分はこんなにも、おかしくなる。
それが、不思議でならなかった。
「どうしたの?」
少女の――いつも以上に――沈んだその表情に気付き、少年が話を中断して、そう訊いてきた。
少女を心配してか、少年の浮かべていた笑顔に、暗い影が落ちる。
少女は悲しくなった。
少年と会えるのは今日が最後なのだ。
ならば、少年の笑顔を見て、別れたかった。
少年の暗い表情を見て、別れたくはなかった。
どうすればいいのだろうか。
その解決策もまた、少女は知っていた。
ひどく簡単なことだ。
あることを言えば、少年は喜んでくれる。
笑顔をみせてくれる。
なぜそうなのか。
その理由までは分からない。
だが初めてそれをした時は、少年は頬を真っ赤に染めて、喜んでくれた。
だから今、もう一度言おう。
眉根を寄せて、少女を見つめている少年。
少女は小さく口を開いて――
少年の名前を呼んだ。
粘度の高い液体。
まるで片栗粉を大量に溶かした風呂に、浸かっているようだ。
ドロドロと記憶にまとわりつく、強い睡魔。
それに何度、抗えず溺れたことだろうか。
数回、数十回では利くまい。
数百、或いは数千。
睡魔に溺れる度に、記憶が溶けて形を崩していく。
浴槽一杯にプールされた睡魔。
その何割かはすでに、崩れて溶け込んだ記憶であり、不純物だ。
このまま全ての記憶が溶かされれば、自分という存在は消滅する。
睡魔と一体化し、目覚めることのない眠りへと溺れることになる。
それはきっと、心地の良いものなのだろう。
機械兵を壊す必要もなく。
機械兵に壊される心配もなく。
仲間を殺す必要もなく。
仲間に殺される心配もなく。
友人を死なす必要もなく。
友人に死なれる心配もない。
あらゆる苦痛から解放される。
それは甘美な響きで、睡魔による記憶の消化を促進させた。
残った記憶は、もうほんの一欠片ほどのものだ。
あと数回、この強酸性の睡魔に溺れれば、こんな記憶の欠片など、跡形もなく溶けてなくなるだろう。
それで終わりだ。
だが、その記憶の欠片に写し出された光景に、意識が震えた。
ベッドに腰掛ける少女と、窓から顔を覗かせる少年。
(だめだ!)
意識の絶叫。
その声に、睡魔を満たした浴槽にヒビが入り砕ける。
ドロドロと浴槽からこぼれ出る睡魔と、そこに溶けていた不純物の記憶。
睡魔と記憶は、床に大きな液溜まりを作り、蠢きながら分離を始める。
溶かされた記憶が結び付き、再び形を成す。
それは――
女性の姿をしていた。
(まだ……終わりたくない!)
金色の髪を肩で切り揃えた女性。
彼女は一糸まとわぬ姿で、叫び続けた。
(私は……知りたいんだ)
少女と少年の想いを。
少年と少女の結末を。
少年と少女の続きを。
(それを見届けるまで……死にたくない)
彼女は目を覚ました。
27が目を覚ますと、まず視界に写ったのは、白く薄暗い天井だった。
コロニーの自室とは違う、見覚えのない天井。
弾力のある床に背中が沈んでいる。
どうやら、自分はベッドに寝ているようだ。
それをぼんやりと理解すると、27は視線だけを動かして周囲を確認する。
簡潔に言えば、そこは何もない部屋だった。
彼女の眠るベッド以外には、たった一つの扉と、たった一つの窓だけがある。
それだけの味気ない部屋。
だが、27の心は掻き乱されていた。
どこかで見たことがある。
とても遠い過去であり、だがつい最近、それこそ直前に見たことがあるような、奇妙な既視感。
27は無意識に、窓に視線を向ける。
窓には白いカーテンが引かれ、外の景色を見ることはできなかった。
当然、そこから部屋を覗き込む者もいない。
(誰の……ことだ?)
無意識に浮かんだ言葉に、27は疑問符を浮かべた。
疲れているのだろう。
27は詮索を中断し、再び目を閉じた。
どこかも分からない場所で眠るなど、言うまでもなく危険な行為だ。
だが27は、ここに自分を害するものはないと、何故か確信できた。
その時、物音が聞こえた。
27は再び目を開け、音の鳴った方角へ、視線を向ける。
視線の先には部屋に一つしかない扉がある。
その扉がいつの間にか開いていた。
27はさらに視線を動かす。
自分が眠るベッドの傍に、男性の姿が見えた。
(男……?)
27の心が揺れる。
コロニーに男性はいない。
コロニーの図書室には男性が描かれた書籍も多数存在する。
そのため見たことがないわけではないが、写真やイラスト以外で、実物の男性を見たのは初めてのことだった。
(いや……)
27は自身の考えを否定した。
写真やイラスト以外でも、男性を見たことがある。
男性と言っても、それはまだ幼い少年のことだが。
白い夢に現れる、少女と少年。
そこでふと、27は気が付いた。
ベッドの傍に立つ男性。
その男性からは、白い夢に現れる少年の面影が、感じられた。
「目が覚めたんだね……さて、困ったな。
初めまして、がいいのかな?
それとも、久しぶりだね、がいいのか……」
男性はそう言って、自身の短い黒髪を、指先でポリポリと掻いた。
眉尻を下げ、困ったように視線を彷徨わせている。
その表情まで、夢に現れる少年と重なった。
27の口が自然動く。
「クリフ……?」
それは、夢に現れる少年の名前だった。
27の声を聞き、男性が驚いたように、目を丸くした。
だがすぐに顔をほころばせると、嬉しそうに男性が言う。
「じゃあ、久しぶりだね、でいいかな。
また会えて本当に嬉しいよ、27」
男性は、夢に現れる少年と同じように、ニッコリと笑った。
一度目を覚ました27だが、クリフと言葉を二つ三つ交わした後、再び眠りに落ちてしまった。
それから三日間。
その九割を彼女は夢の中で過ごした。
75の捜索で五日間も森の中を彷徨い歩き、さらに謎の発作で体力を大幅に削られた。
肉体的にも精神的にも大きく疲労していた27には、その程度の休息が必要だったのだ。
目が覚めている間は、クリフと話をすることが多かった。
彼女が目を覚ましてから暫くすると、彼はこの部屋にひょっこりと姿を現すのだ。
彼女はそれが不思議でならなかった。
もしかしたら自分が眠っている間も、彼は頻繁にこの部屋を訪れているかも知れない。
そう考えると、27は胸の奥がこそばゆいような、妙な気分になった。
クリフに訊きたいことは山ほどある。
だが何よりも先に、27が知りたかったことは、白い夢の真相についてだった。
白い夢に出てくる少年。
その少年は立派な大人――彼は二十歳になったと言っていたが――に成長し、今はこうして27の看病をしてくれている。
そして白い夢に出てくる少女。
あの少女は一体何者なのか。
あの夢が27の創作ではなく、現実にあった出来事であるならば、その答えは自ずと導かれる。
少女の正体は27だ。
その事実については、驚きこそすれ、意外というほどのことではなかった。
白い夢が現実の出来事だろうと創作の産物だろうと、あの少女が自身を投影した存在なのではないかと、考えたことぐらいは27にもあった。
そうでもなければ、これほど彼女が白い夢に執着することもなかっただろう。
27が抱く疑問は、コロニーで生まれ育った自分が、どうやってクリフと出会うことができたのかだ。
27は十二歳より以前の記憶がない。
養護施設を機械兵に襲われたショックで、記憶が失われてしまったのだ。
しかしだからといって、27がコロニーにいたという記録まで失われたわけではない。
06や83などの先輩や友人の証言によって、27が幼少期よりコロニーにいたことは、証明されている。
白い夢に出てきた少女の年齢は定かではない。
だが何にせよ、27が一時期でも養護施設から姿を消せば、それにコロニーが気付かないはずはない。
そして気付いているのであれば、その話は必ず27自身の耳にも届いているはずだ。
単純に考えれば、27とクリフが出会う機会はないように思える。
その疑問を、27はそのままクリフに尋ねた。
するとクリフは困ったように頭を掻いて、こう言った。
「ごめん。
そのことは、僕個人の判断で、君に教えることはできないんだ」
クリフは個人の判断と言った。
つまりそれは、彼が何かしらの組織に属しており、その組織の意向によって、27とクリフが出会ったことを意味していた。
その組織についても、27はクリフに尋ねた。
彼は組織の名前や役割、自身の立ち位置など簡潔に話をした。
だが、27はその話の内容を殆ど理解できなかった。
まだ体力は完全に回復していない。
27の身体に重く伸し掛かる疲労と睡魔は、クリフとの円滑な意思疎通を困難なものにしていた。
情報収集は適当に切り上げ、今は体力の回復に専念すべきだろう。
27はそう思うも、どうしても白い夢以外に、クリフから事前に訊いておきたいことが、一つだけあった。
疲労と睡魔で朦朧とする意識の中、27はクリフに尋ねた。
「私を助けてくれたのは、75なのか?」
クリフが表情をほころばせる。
「ああ。
彼女が意識を失っている27を、ここまで運んでくれたんだよ」
(やはり……そうか)
75が27に投与した薬物の効果だろう。
27の身体を蝕んでいた痛みは、嘘のように消えていた。
その後、意識を失ってしまった――疲労によるものか薬物による副作用なのかは分からないが――27だが、どうやらその彼女を抱えて、75がクリフの下まで運んでくれたらしい。
27が投与された薬物は何なのか。
どうしてクリフのことを知っていたのか。
75にも訊きたいことは多い。
だが、まずは――
(きちんと、お礼が言いたいな)
27が知る限り、75がこの部屋に姿を現したことはない。
それを薄情だとは当然思わないが、彼女にお礼を伝えたい27にとっては、少し残念にも思う。
(身体が動くようになったら、私の方から彼女に会いに行こう)
27はそう心に誓った。
そして再び眠りにつこうと、瞼を閉じる。
するとふと一つの疑問が、27の心に浮かんできた。
27は瞼を閉じたまま、聞こえるかも分からない小さな声で、その疑問を口にする。
「ここは……どこだ」
答えはすぐに返された。
「シティだ」