市野正一の場合 その2
しかし<人並み>の平凡な人生を送っていたことは、必ずしも市野正一にとっては良いことばかりではなかったかもしれない。日常に流され、仕事に追われ、ウマの合わない上司の厭味に辟易しながらも無難に毎日を送ることに躍起になっていた彼はいつしか、崩歩の鍛錬すら怠るようになっていた。
師と仰いだ男性と共に功夫を磨いた毎日はただの思い出となり、今でも型こそは覚えていたがその志は完全に失われていた。もし、あの男性が今も彼の傍にいてくれたなら、こうはならなかったかも知れないが……
自分の気持ちを具体的に形にすることなくそれを変質させずに思い続けるということは、並大抵のことではないということなのだろう。平穏に生きる努力をすることと、日々にただ流されることの違いを、彼は理解していなかったのかもしれない。本当に平穏に生きたいなら、せめて崩歩の鍛錬を怠るべきではなかったのかもしれない。
彼が何物にも惑わされずに一つの志を貫けるほどの人間であれば別の結果になっていた可能性もあったのだろうか。そういう意味でも彼は<普通>だった。高すぎる志を持ち続けるには普通すぎたのだ。だからブルース・リーやジャッキー・チェンのようにはなれなかったのだと思われる。
その日、彼は、上司からネチネチと仕事に関する嫌味を言われて腐っていた。そもそも上司の指示に誤りがあったのが一番の原因で上手くいかなかったのだというのに、その責任をすべてこちらに押し付けてきて説教されたのではたまらない。そんな上司では、信頼も尊敬も出来る筈ないではないか。
『まったく、やってらんねぇ……』
どうにもむしゃくしゃが収まらなかった彼は、その憂さを晴らすべく、同僚と共に飲みに出掛けた。だが同僚は『明日も仕事があるから』と早々に帰ってしまい、一人で飲み明かすことになってしまった。これがまたマズかったのだろう。苛々していたこともあり自制が効かずに、いつしか彼はどうしようもないただの泥酔者となって夜の町を歩いていたのだった。崩歩の鍛錬を続けていたなら、こんな酔い方はしなかったかもしれないが。
そしてその時、女性をナンパしようとしている若い男性の集団を見付けてしまった。その男性らも女性に対してしつこくして決して褒められたものではなかったことが、彼の中に残されていた<何か>に火を点けてしまったのかもしれなかった。
彼の崩歩の師であった男性が、酔っぱらいの女性を助けようとしたということを思い出してしまったというのもあるのかもしれない。そして、『自分ならもっと上手くやれる』と思ってしまったのだろうか……
「こらぁ、お前ら。その女性が困ってるだろうがぁ…!」
どこからどう見てもただの酔っ払いが絡んできているようにしか見えなかった。彼がどれほど大真面目であったとしてもだ。
彼に掴みかかられた若い男性がその手を振りほどいたはずみで彼は転倒。歩道と車道を区切るコンクリートブロックに頭をぶつけ、そのまま帰らぬ人となってしまったのだった。
市野正一。享年、三四歳。死因、脳挫傷。
ヒーローになり損ねた男の哀れな末路であった。




