篠崎香保理の場合 その1
篠崎香保理は、実の父親から性的虐待を受けて育った。最初はその意味が分からずにただ遊んでもらっているものと思っていたがそれを察してくると、彼女は心を閉ざすようになった。子供である自分が父親に逆らうなどできるはずもなかったからだ。親に見捨てられれば生きることもできない。
幼いながらも彼女はそれを理解していたのだろう。だからただ耐えることを選んだ。
そして十一歳になったその日、父親の行為が終わりシャワーを浴びて出たところに、ちょうど母親がパートから帰ってきた。
『ただいま』の一言もなく、鉢合わせた全裸の娘に対して母親の視線はまるで汚いものでも見るかのように嫌悪感をまるで隠そうとしない冷徹なものだった。
しかも……
「まったく……その歳でよくそこまでメスの顔ができるね……さすが血は争えないってことかしら……」
と、冷たく吐き捨てるようにそんな言葉まで幼い娘に浴びせた。
この時の母親は、自分の母親、つまり香保理にとっては祖母に当たる女性のことを思い浮かべていたようだ。
香保理の祖母は、<母親>にはなれない女性だった。男に依存し、男に必要とされてないと自我が保てないタイプの女性だった。だから香保理の母親は、母親にまともに育ててもらっていなかった。その所為もあって、母親としてどう子供に接すればいいのか分からなかったというのもあったのだろう。
男をとっかえひっかえしていた自分の母親を反面教師として、それなりに値打ち物と思った男を捉まえてその男で満足するようにしてはいたのだが、結局、男を見る目はなかったのだと思われた。
それでも、自分の母親と同じ轍は踏みたくないと我慢してきたものの、家庭という形を取り繕うだけで手一杯で、自分の子供の心まで気遣う余裕はなかったようだ。
実の父親に性の玩具として弄ばれ、実の母親からは十歳にも満たない子供のクセに男を誘惑する魔性と見下され、香保理の心は寄る辺を失っていった。
だから香保理は、十一歳の誕生日の夜、自分の小遣いで買ってきたカミソリで自らの手首を切った。
鋭い痛みと真っ赤な血が彼女の心を鷲掴みにした。何もかもが曖昧で歪んで見えていた彼女の視界と感覚に、強烈な覚醒をもたらしてくれた。世界が一気に拓けていくようにさえ思えた。それを最後の記憶として、彼女はゴミのような自分の人生を終わらせることを望んだのだ。
だが、湯船の中で再び目覚めた時、手首から滴っていた筈の血は止まり、香保理は自分が失敗したのだということを思い知らされたのだった。
この、どうしようもなく不様で無価値でゴミのような自分の存在を終わらせることができなかったことは、香保理にとっては痛恨の失敗ではあったが、同時に彼女は、とても素晴らしいものに気付くことができたのだった。
脳を焼くような鋭い痛みと、目に刺さるような鮮やかかつ深みのある赤い色。
それは彼女にとってどんなものよりも価値のあるものに感じられたのである。その痛みと赤い色は、無価値だった彼女に生の実感をもたらしてくれたのだ。
痛い、痛い、痛い。
赤い、赤い、赤い。
だから香保理は、自分が生きているのだという実感を得る為に、自分の手首に刃先を滑らすようになったのである。
痛いこと、苦しいこと、嫌なことがあるたびに彼女は自身を傷付けた。そうすると何もかもがどうでもよくなって、頭の中がすっきりする気がした。
実際、彼女は体を傷付けることで自ら脳内麻薬物質と呼ばれるものを分泌させ、ある種の覚醒状態を作り出す方法を身に付けてしまったのだと思われる。それが香保理の精神を安定させる役目も果たしていたようだった。
彼女は、ある意味、自分なりの幸せを見付けていたと言ってもいいのかも知れない。
しかし彼女のそんな日常は、ある日、何の前触れもなく終わりを告げた。
「篠崎! お父さんが…!」
高校での授業中、そう言いながら慌てて教室に入ってきた教師に連れられて訪れた病院で、無数の管のようなものに繋がれてガラスの向こうでベッドに横たわる父親の姿を見た。
交通事故だった。飲酒運転で意識が朦朧となった自動車が歩道に突っ込んできて、たまたま通りがかった父親が撥ねられたのである。
その後、父親は、実に呆気なくこの世を去った。もし機会があればあらん限りの罵詈雑言をぶつけて、可能であれば鉄パイプのようなもので滅多打ちにしてやりたいと思っていたのに、それを実行する暇もなく、このどうしようもないロクデナシの父親は五十年にも満たない生涯を閉じた。
『…何よこれ……なんでこいつ、こんなに楽に死んじゃってんのよ……私をこんなにしておいて、何を勝手に楽になっちゃってんのよ……!?』
香保理の頭を、様々な表現のし難い<何か>が出鱈目に駆け回り、暴れ、のたうち回っていた。
火葬の後、灰となり小さな箱に収まった父親を手にした彼女は、改めて命というものがどれほど無価値なのかというのを思い知らされていた。
また、残された娘と母親の関係はとおの昔に完全に壊れており、お互いにどうしようもなくただ同じ家に住んでいるだけの赤の他人よりも遠い存在になっていたのだった。




