白小夏の場合 その3
結婚して二十年が経って初めて夫が指輪をプレゼントしてくれた翌年、息子の一人が日本に渡って二十歳の若さでレストランを任されることになった。その店に招待されて、息子が父親から受け継いだ炒飯を振舞ってもらった彼女は幸せを噛み締めて涙した。よもや自分がこんな時を迎えられるなど思ってもみなかった。自分が命を奪ってきた者達にももしかしたらこういう未来があったかもしれないのにそれを奪ってしまったことを悔やんだ。
命令されたことを実行してきただけだから自分にはどうしようもなかったことは分かってる。悔やんでも仕方のないことだというのも分かる。自分がやらなくても結局は他の誰かがそれを行っていただけだ。そういう時代だったのだ。
それでも、彼女はそれを肯定はできなかった。今、自分がこうして幸せに生きていられているが故に。
誰にもその過去を打ち明けることはなかったが、彼女は自分が殺めてきた者達のことを心の中で悼むようになっていた。
だが、そんな彼女にもついに<順番>が来てしまったということなのだろうか。息子を祝う為に訪れた日本を離れて帰国し、空港から家に帰る為にバス停に向かう途中にトイレに寄ろうと家族の下を離れた彼女の後を、一人の若い男がつけていた。
トイレで用を足し戻る為に出入り口に立ったその時、誰かがドスンとぶつかる。
彼女がハッと思った時にはもう遅かった。現役の暗殺者だった頃ならこんな油断はしなかった筈だが、それももう二十数年も昔の話。引退してからの時間の方が既に長くなったことにより、すっかり普通の主婦になってしまっていたのだろう。
『まさか…、今頃……』
焼けるような痛みを胸に感じそれを手で押さえながら、彼女はその場に倒れ伏した。ものすごい勢いで自分の命が流れ出していくのが分かる。視線の先にはぬめりを持った真っ赤な液体が広がっていくのも見えた。何度も見た光景だった。ただしかつて見たそれは、自分以外の誰かのものであったが。
『随分と待たされたけど、やっぱり私の番も巡ってくるってことなんだね……』
これまでの記憶が頭の中を走り抜けていくのを見ながら、ぼんやりとそんなことも考えた。家族に別れを告げられないのは残念だったが、自分が手を掛けた者達もそうだったのだからこれも当然の報いだと、彼女は受け入れたのだった。
白小夏。強盗に心臓をナイフで刺され死亡。享年、四五歳。死因、出血性ショックによる多臓器不全。
時代の闇を生き抜いた一人の女は、こうして秘密のすべてを自らの命と共に真の闇へと葬り去ったのだった。




