エイドリアン・メルケルの場合 その2
幼い頃から性的虐待を受け、さらに結核を患った貧民に乱暴されるという苦境にあっても、イゾルデは気高く清廉で気丈だった。それはおそらく、兄を除けばまっとうな人達に囲まれていたからだろう。そして弟のエイドリアンもその一人だった。幸か不幸か彼が姉の苦しみを知ることはなかったが彼女の尊い魂を受け継ぎ、高潔な人格を有した立派な軍人となっていた。
だが時代は大きな戦乱へと突入していく。後に第一次世界大戦と呼ばれる世界を巻き込んだ大きな戦争であった。
若く士気の高い軍人であるエイドリアンも、この時、重要な戦線であった西部戦線へと赴くことが決まり、その出発の直前、祖国の為に立派に戦い抜くことを姉の墓標の前で誓った。
「では、行ってまいります…!」
そうして彼が派遣された先には、既に兄のアンゲルスが小隊長として赴任していた。兄の裏の顔を知らなかったエイドリアンは、優秀なアンゲルスに対抗心を燃やしつつもあくまで軍人としての責務を果たすことで自らの存在感を示そうとした。
しかしそんな弟を疎んだアンゲルスはあろうことか部隊の調理係を脅し、芽が出て青くなったジャガイモの芽や青い部分を取らずに調理させたものをエイドリアンに与えさせたのだった。その結果、エイドリアンはジャガイモの毒により中毒を起こし、床に伏した。
『祖国の危機だというのに、自分はなんと不甲斐無いことか…!。これでは姉上に顔向けできない……!』
兄による謀であることを知らず、中毒症状に苦しみながらも彼は自らを責めた。姉の姿が何度も脳裏をよぎり、その度に一刻も早く回復してこの汚名をそそがねばと自らを奮い立たせた。
なのに、この世の神とやらの何と無情なることか。中毒により免疫力が低下していた彼は黄色ブドウ球菌による感染症を併発。前線であるが故に十分な医薬品もなく治療も行えず急速に症状が進み、意識も混濁していった。
『戦え…、戦うんだ…。こんなところで寝てはいられない…。僕は、祖国の為に、姉上の為に戦わなければならない……。
神よ…、この哀れなる僕にどうか今一度立ち上がる力をお与えください……。
……。
……。
助けて…、姉さん……』
もう、頭を動かすことはおろか瞬きすることさえままならない状態で、彼は天井を見詰めたまま、無念のあまり涙を流した。
その彼が息を引き取ったのは、それから僅か数時間後のことであった。
エイドリアン・メルケル。享年、二二歳。死因、黄色ブドウ球菌感染症に伴う敗血症による多臓器不全。
使命に燃え、姉と家と祖国の為に己のすべてを懸けて戦い抜こうと志した高潔な若き軍人は、身内である筈の実の兄の謀によりその命を落としたのであった。
なお、妹を虐げ、弟すら謀殺したアンゲルスも、この後の戦闘で敵の砲撃の直撃を受け、遺体さえ回収できない程に爆散。長子の凶行を放置したことにより家を継ぐべき子を失ったメルケル家も、ほどなくして絶えてしまうこととなったのだった。
長男として家を背負っていくことを義務付けられたアンゲルスは、それを受け留めきるには心の弱い人間だった。外面を整えるだけで手一杯だったのだ。だから歪んでしまった。そういう点では、弟のエイドリアンの方が余程適性が高かっただろう。
そういうことを客観的に捉え、敢えて長男をその責務から外してやるという選択を行えたなら違う結果が出ていたのかもしれないが、社会的な背景としてもそれが容易ではなかったことが、彼らの不幸であったのかもしれない。




